昔日の松戸松戸のお宝

松戸の商店のお寸志

大田原製麺 松戸のお宝
大田原製麺 昭和
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松戸の商店のお寸志

松戸の商店の主に根本を中心としたお店でいただいたものを公開します。あまり多くはありませんが・・・また、いただいておいてお寸志というのは一般的には失礼なのですが、手ぬぐいにこの場で”御厚志”と書くのもまた気になるので、ここでは敢えて”お寸志”と書かせて頂きます。また、これは昭和の松戸を歩くの補助的な情報でもあります。

商店のロケーション

地図の全体を見たい場合はフルスクリーン表示をクリックしてください。根本、小根本、本町に場所が転々としています。あしからず!

松北堂書店 松戸市根本261

松北堂カレンダー

松北堂カレンダー
昭和58年分

日本地図と1983(昭和58)年のカレンダーが一緒になっていたものです。この頃、私は仕事の関係で浜松に常駐していた頃でした。

松北堂書店

松北堂書店
昭和40年頃撮影、かつて竹ヶ花にお住まいだったO様より寄贈

トラックで隠れて見えませんが、看板はよく見えます。松北堂は昭和の松戸を歩くでも説明していますが、私が子供の頃は松戸の本屋の中でももっとも通った本屋さんです。頑固な感じの親父さんと優しそうな女将さんがいましたね!私はプロレス雑誌のゴングはここで買っていました。松北堂書店については下記のページでも投稿しています。

松戸市竹ヶ花&根本の商店街(竹ケ花踏切以西、金山神社参道まで)を歩く
旧水戸街道を松戸駅方面から、竹ケ花方面に向かうと途中に国鉄常磐線の踏切があった。これは一般には竹ケ花の踏切と言っていたが、正式な名称としては陸前浜街道第二踏切と言ったそうだ。この陸前浜街道第二踏切の西側にあった松戸市根本、竹ケ花商店街を記録

大田原製麺所 松戸市根本262

大田原製麺

大田原製麺
昭和

ohtawara-kome

ohtawara-kome
2001年10月撮影

太田原さんといえば根本の米屋さんです。わが家は竹ヶ花なので、お米は石井米店さんで買っていたのですが、やきそば用の業務用の麺は大田原さんから仕入れていました。我が母がお店を営んでいた当時の話です。今は作っているのか、無いのかは不明です。太田原さんの現在のご主人は確か私よりも一つか二つ年上で、細身で背が高い美男子系の人。確か同じ根本保育園に通っていたと思いますが、記憶はあいまいです。

魚力さん(魚屋さん)

魚力

魚力てぬぐい
1980年頃

魚力さんは、根本の商店の中でももっとも活気があって、かなり頑張っていたお店です。また、魚力さんの魚は魚としてのレベルも高く、自慢できるものでした。ただ、大型店の台頭でかなり商売が難しくなってしまった様です。2002-3年頃だったか、「御節料理を作ります」という内容のチラシがわが家の郵便箱に入っていた事がありました。

ただその時は残念ながら、御節料理はすでに注文済みでした。あのチラシを最後に閉店されてしまったという印象があります。でも、とてもいい店だっただけに、我々住民が根本の商店街のあの魚力さんを何故支えられなかったのか、残念でなりません。

松戸ベスト100のミスターTさんと同い年の娘さんがいたとの事。しかしながら同じクラスにはなったことがなかったとミスターTはコメントされていました。

魚力商店

魚力さん、
金山神社にある清水講に加入していた方の寄進手すり柱(多分昭和31年前後)

金山神社に魚力さんの手すり柱があった事から、魚力さんも根本の商店街の一人として、金山神社の清水講に積極的に参加していた事が分かる。昭和31年前後なので、多分年代的には先代の頃に手すり柱が寄進されたのだと思う。私の知る、魚力さんのご主人は利夫さんだった。皆からは”としちゃん”、”としおさん”と呼ばれていた。

先代は利吉さん。多分先代の利吉(りきち)さんの”りき”からとって力、魚力となったのではないか?と見ている。いずれ”としおさん”にお会いする事があったら聞いてみたい。魚力さんの外観写真やその他の投稿は下記でも見られます。

昭和の頃の松戸根本商店街(金山神社参道から根本交差点まで)を歩く
昭和40年代に松戸の商店街は激変した。そこで今回は昭和37年以降の旧水戸街道沿い、金山神社参道付近から根本の交差点付近までの、たくさん軒を並べていた時代根本の商店街を、調べ調査してみた。まだ、調べたり無い部分もあり、それは今後調査していく。

野田屋さん(荒物屋)松戸市根本268

野田屋

野田屋

店名住所が上下反転してしまっている。野田屋さんは所謂荒物屋さんで、鍋とか金物系を中心に日用品雑貨を売っていた。二葉屋さんの先で森栄堂の手前にあった。

1962(昭和37)年 商店街マップ

1962(昭和37)年
商店街マップ

島村俊商店 松戸市松戸2000番地

茄子のよいち漬本舗 島村俊商店トップページ
茄子のよいち漬本舗 合資会社島村俊商店です。千葉県松戸市にて、茄子のよいち漬(小茄子のこうじ漬)、矢切の渡し漬(花きゅうりのこうじ漬)、あじさいの寺(スライスしょうがのこうじ漬)他のこうじ漬を製造しております。
島村俊商店

島村俊商店

松戸市松戸2000とは坂川を挟んで、満留賀そばの前付近の元島村商店の工場があったところ。茄子のよいち漬けで有名。元々は根本に工場があったと思う。根本の区画整理の頃、現在の位置に移った。

写真左が島村商店工場の建物。

写真左が島村商店工場の建物。Shinさん寄贈です。ありがとうございます。

この当時は道路がぬかるみだらけでしたね・・・車の右側は坂川です。島村俊商店さんについては下記のページも書いています。ご参考まで!

松戸の名産品「茄子のよいち漬け」を作る。小茄子のへた取りと島村俊商店さん
松戸の名産品に茄子のよいち漬けがある。松の木橋を渡った先には島村俊商店の工場があった。昭和三十年代にこの工場で季節労働をされた経験のある女性(工場近くに住んでいた方です)に在りし日茄子のよいち漬け工場の作業状況や雰囲気をはなしていただいた。

銀寿し:小根本

銀寿司

銀寿司

銀寿司さんは小根本の元栄久そば屋さんの手前、クラブレイの隣付近にあり、以前は寿司の出前は必ずここでお願いしていた。銀寿司がなくなってからは、根本のよし寿司から出前を頼むようになったが、よし寿司もなくなってしまった。今は岩瀬の金太楼ですね。

shushi

shushi

三菱銀行(松戸公産ビルとなる前は三菱銀行だった)

三菱銀行

三菱銀行

三菱銀行2

三菱銀行2

私が子供の頃、本町の現在の松戸公産は三菱銀行だった。三菱銀行はその後、現在の松戸市民劇場→松戸ビルヂングに移った。現在は、合併統合を繰り返し、三菱UFJ銀行になっていますね。この建物の歴史は古く、下記でまとめていますのでご興味ありましたら、御覧ください。

旧川崎銀行と松戸公産建物研究
すでに取り壊され新しいビルに変ったが、松戸市の旧水戸街道沿いにあった歴史的建造物であった松戸公産ビル(旧川崎銀行、旧三菱銀行ビル)の各歴史的書物における記述を見直し、歴史的価値の再認識、他明治時代の銀行のファサードと共に記録として残したい。

北部小学校50周年記年

北部小学校創立50周年記念1977

北部小学校創立50周年記念1977

商店ではありませんが、掲載します。我が母校です。50周年とは1977(昭和52)年です。私が在校中に火事になり色々と大変でした。北部小学校の関連投稿は下記です。

昭和時代の松戸市立北部小学校あれこれ
昭和の頃の松戸市立北部小学校やその周辺について、思いだす限り書いています。中には父から聞いた話も書きました。私が小学生だった頃と現在の北部小学校及びその周辺は激変しています。新坂川は水辺に降りられる川でしたが、治水の為に護岸工事されてしまった
戦後の竹ヶ花根本南花島一帯とヤマザキパン工場
昭和30年代とはすっかり変わってしまったヤマザキパン工場周辺、竹ケ花、南花島、根本を中心にして、昭和22年の国土地理院の空中写真を使用しつつ、私が子供の頃(昭和30年代ではあるが)を思い出し、果たしてどんな風に変わったのか、記録として残したい
竹の根商店会の現在(2006年8月16日現在の記録)-根本編
竹の根商店街は昭和44年以降に出来上がった商店会で、主に北部小北側と西側に接している道路に出来上がった商店街で、主に根本地区及び竹ヶ花西町地区で構成される。このページでは主に昭和から平成前半にあった根本地区の商店街について説明したい。
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最後に

このページは2017年頃に表の家に掲載したものを、表の家のプラットフォームをWordpressに変えたことで、全体的にアップデートし、内容を充実させ再発表するものです。根本の商店は昭和の頃はそれはそれは活気のあるものでした。これらは昭和の松戸を歩くシリーズで色々と述べていますので、詳しくご覧になりたい方はどうぞ!

昭和の松戸を歩く
昭和の頃の松戸を思い出し歩く

コメント

  1. ミスターT より:

    訂正あります 魚力 同じ歳の息子ではなく同じ歳の娘です

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