地域の隙間史検証昔日の松戸

秋本勝造翁 『松戸名代”久寿餅”始末記』を読んで

秋本勝造翁 地域の隙間史検証
秋本勝造翁 『ふるさと松戸を語る』例会卓話全集 より
スポンサーリンク
スポンサーリンク

秋本勝造翁 『ふるさと松戸を語る』例会卓話全集

我が表の家に色々な意見、資料を下さるうしとらさんから、こんな本がありますよと紹介されたのが、秋本勝造翁 『ふるさと松戸を語る』例会卓話全集だった。なぜこんなに素晴らしい本を今まで見ていなかったのか、反省に尽きる。生前に秋本先生にお会いして、是非とも色々なお話を伺いたかった。

さて、この本の中から非常に興味をもった一文があった。それが、『松戸名代”久寿餅”始末記』である。これを熟読する中で考えたこと、思いついた事などを書いてみたい。

地域史の検証について

松戸の地域史を研究するには、やはり先人達の調査結果や歴史書を読むことや聴き取りから始まる。話し言葉や言い伝えを聞いたり書物を読んでいると楽しいし、知識としてどんどん入ってくる。ただ、手書きよりもそれが活字になっている事で、どうしても書かれている事がそのまま真実である・・・と思い込んでしまいがちになる。

実は、歴史は書物に書かれた通りに、余計なことを考えずに、そのまま信じてしまう方が、楽だと思う。そのためか、歴史好きな人と話していると、”〇〇は歴史上、こういう人物だった”という説を「××という作家の本に書いてあったから、それが真実」と字面通りに主張される事がある。ただ、私は本当にそうだったの?その根拠は?と考え始めてしまう。

言ってみれば隙間史みたいなもので、身近で、狭いエリアの地域史について興味があるものだから、その場所が現在のどこにあたるのか、どういう人物なのか、背景などが気になってしまう。つまり映像として、そのシーンをイメージしたい。それでどうしても、調べ始めてしまう。

この隙間を見つけてしまうと居ても立っても居られない。それがどんなに大先生の説であっても、地域史隙間検証を始めることになる。そして、史実なのかどうか、矛盾はないか、時代は正確か、場所はどこ?など一つ一つ検証を始めてしまう。ただ、検証作業は、時間もかかるし、大変な作業で、現地を見に行ったり、図書館に何度も通ったり羽目に陥る。

それを一人で始めると、とことんまで、家具の棚を支えるダボ一つだけを相手に”良いだの、悪いだの”と調べるようなことになりかねない。多分、多くの人はそこまで検証作業なんてしない、したがらないのではないだろうか。こんな私に、南花島のうしとらさんは付き合ってくださって、同調し、的確なご協力をしてくださるので、助かっている。ありがとうございます。

今回、私は秋本勝造先生の残した記述を読み、時代はかなり遡るものの、あまりに自分の身近な場所での出来事で、心の琴線に触れたため、その中の一文を検証してみようと思う。私は僭越ながら秋本先生の文章をああだ、こうだと書いてしまった。ただ、それは地方の訛りもあるし、絶対的に断定できる部分は少ないかもしれない。

それは私の間違いですよ!という点がありましたら、是非ご意見くださいね。

スポンサーリンク

『松戸名代”久寿餅”始末記』

さて、始末記を引用する形で、気づいた点、初めて知った点、疑問に感じた点などを挙げていきたい

屋敷替え

明治の御世も終ろうとしていた四十五年、江戸川の改修工事によって、古ヶ崎で十代続いた「川端」の屋号を持つ鈴木家が移転を余儀なくされた。おそらく屋号からみても——中略——鈴木家の隣りにあった真言宗豊山派の円勝寺は、ほんのわずか移転しただけで、建物、墓地とも現在でも古ヶ崎の地にある。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

明治45年の江戸川改修工事が原因で、鈴木家は引っ越しを余儀なくされた様だ。

この1912(明治45)年の江戸川の改修工事というのは、1910(明治43)年の荒川の大出水に端を発しているらしい。これに関する記述を検索してみた。

それまでの計画では,分派点上流での計画対象流量3,750m3/sのうち約26%の970m3/sが江戸川に分流され,河道工事を行う計画はなかった。だが,1910年の大出水後,分派点上流の計画流量は5,570m3/sに増大されたが,そのうち約40%の2,230m3/sが江戸川へ分流されることとなった。水利科学研究所発行の松浦 茂樹氏著”1911(明治44)年からの改修計画事業を中心に”より引用

AgriKnowledgeシステム

とある。つまりこの明治43年の荒川大出水によって江戸川の河道の拡張が行われる事になった訳だ。この影響を受けたのが、今回の始末記の鈴木家だった事になる。

屋号いわしや

いわしやの屋号が使われるようになったの祖父八十八の代からである。—–中略—–この八十八は大変な商売人で、たぶん二十代で古ヶ崎へ北のだろうが、彼は百姓よりは商人のほうに異常なほど関心を示していた。古ヶ崎へ来る早々、彼は庶民の貴重な蛋白源であった、いわしを船橋の知り合いの漁師から仕入れ、近在の農家へ売ることを思いついた。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

それも自家の店売りをせずに、農閑期の農家の親父連中を使って、ポテ売りをさせたのである。ポテ売りとは、天秤棒の両端に坂根を入れた桶をかつぎ歩く商売である。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

このポテ売りというのは、違和感があった。多分ボテフリ、つまり棒手振(ぼてふり)、棒手売り の聞き間違いではなかろうか?言葉は必ず訛りが伴うので、このように変化してしまうこともあるかもしれないけれど・・・

振売 - Wikipedia

 

小根本への移転

菊太郎は百姓よりは商人の方が将来性があり、性分としても商人向きと考えていたようだ。それには、陣かの多い松戸方面へと目を向けたが、当時の小根本(森谷米穀店付近)は松戸新田、金ヶ作への往還であったにせよ人家が少なく、商いの地としては不向きであったと思える。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

鈴木家には「川端」の外に「いわしや」という屋号を持っていた。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

この小根本の地は、松戸商工名鑑:1956(昭和31)年によるといわしや 鈴木菊太郎 小根本13となっていた。現在のパークホームズ松戸・マークレジデンスの建設されている辺りの様だ。

代がわり

八十八が亡くなり、定吉の代になったが、定吉は父親に似ず、詳細が無く、—–中略—–米造り、畑造りに精を出した。—–中略—–定吉の長男菊太郎は八十八の再来かと思われるほど、八十八に似て再起煥発、研究心旺盛で、商人にあこがれていた。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

古ヶ崎から小根本に移ると直ぐに酒、みそ醤油を始め、さまざまな雑貨品を扱ったが、当時の小根本は、山林と田畑ばかりで人気が少なく、希望にもえて開店したものの、とても商売にになるような環境ではなかった。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

菊太郎の決断は早く、大正四年には根本の水戸街道沿い店を出した。菊太郎が選んだ場所は現在出光石油のガソリンスタンドになっている所である。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

鈴木くず餅

鈴木くず餅
渡邊幸三郎先生著「昭和の松戸誌」より、ロン書房出版

上図は渡邊幸三郎先生による昭和12年の家並み図(ロン書房刊、昭和の松戸誌)である。この絵の、林足袋屋と銅銀ブリキ屋の間に鈴木とある家がそれにあたる。説明では「鈴木はくずもち屋をやった。今はない」とある。ちなみに銅銀ブリキ屋と右隣の空地辺りにガソリンスタンドが昭和の頃あった。この鈴木と書かれた家の住所は根本325にあたる。

出光広告

出光広告
広報まつど広告より

ガソリンスタンドである東葛石油株式会社は根本325であり、いわしやと同じ住所だった。

 

くず餅の製造へ

くず餅

フリー素材.comより
https://free-materials.com/

さて、ここからがこの始末記のもっとも興味深い章だと思う。久寿餅をどうやって作ったのかが、これで凡そ理解できる。本文を引用しながら、説明をしていきたい。

根本の大通りへ出てからまもなく菊太郎は、くず餅の製法を独力で学ぶことになる。併せてところ天の製法をも勉強する。「くず餅」の原料は生麩である。生麩は焼麩、竹輪麩、サラダ麩を造る時に副産物として出来る。当時、ウドン粉の最高級品に「ボタン印」というのがあった。このボタン印ウドン粉(一袋六貫匁、ニニ・五kg)六袋に水を混ぜて練る。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

ここで言う根本の大通りとは、どこの場所かというと、それは後述するが、根本325である。現在の場所で言うと、根本郵便局の柏寄りに林屋洋品店が以前あったが、さらにその先に現在ペット病院になっている場所がある。その辺りだ。

ウドン粉の最高級品に「ボタン印」というのがあった。
とあるが、日本製粉(ニップン)の紫牡丹であろうか?

 

食材詳細 | 業務用食材検索サイト 食材プロ
業務用食材検索サイト「食材プロ」では、数ある業務用食品・冷凍食品・酒類・厨房備品を様々な切り口から検索することができます。またメーカーカタログや新商品、相場情報や業界情報などお役立ちする情報もたくさん掲載しています。

水を混ぜて練ると書かれているので、小麦粉に水を混ぜて、うどんを作るような工程をしていた事が分かる。

量が多いので素手では出来ない。飴を伸ばすような腕状の機械を使って練る。こね上げてモチの状態になったものを水洗いする。
白い濁った水が出るが、この水が澄み切るまで何回も洗うと綺麗なモチが出来る。しかもこのモチは、その儘にしておくと盤石(にかわ)になる。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

うどんを作ったら、それを水洗いすると、グルテン(タンパク質)と流れ出たデンプンに分かれる。ここでいうモチとは即ち、グルテン(たんぱく質)の塊を指している。

随分前だが、”美味しんぼ”という漫画で、「代用ガム」という一話があったのを覚えていらっしゃる方がいるだろうか?この中で、山岡士郎の上司の富井副部長が貧しかった子供の頃の事として、父親が兄弟二人の為に、小麦粉を使って、子供の富井兄弟に作ってあげる話が出てくる。父親が作ってくれた代用ガムは、要するにグルテンを代用ガムとして作ってあげた話だった。

これについて書いているブログを見つけたので、参考としてリンクを貼ります。興味のある方は読んで思い出してください。

”このモチは、その儘にしておくと盤石(にかわ)になる” とある。

盤石糊(ばんじゃくのり)が出来るという事を説明したかったんだと思う。盤石糊はあくまで植物性のタンパク質が主原料なので、動物性たんぱく質のにかわ(膠)と一緒にすると混乱する。

三十六貫匁(一三五kg)の垢から綺麗なモチが出来るのは五貫匁(一八・五kg)位である。あとは水に流れるわけだが、この白い濁った水はただ捨てるわけではなく、一坪半位の大きさの竹枠に晒布を張った上に流すように出来ている。この白布の上に粉の洗い水を流すと、水はぽたぽた落ちるが、白布の上には平らに伸ばしたようになって糊状のものがたまる。これが生麩である。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

”これが生麩である”と書いてある。この様に書くとお麩からくず餅を作ったのかと勘違いしてしまう。生麩という文字は使わず、”これがしょうふである”と書いて方が、読み手による勘違いは少ないと思う。

この生麩を集めて樽に入れるこの樽は「寒を二度越す」の秘伝があるように外に置いて外気にふれさせて、一年半以上はその儘の状態にしておく必要がある。従ってその間、時々見廻って上についたゴミ落葉などを除き、常に表面を清潔にしておかなければならない。このようにして手間と暇をかけて「くず餅」の原料の生麩が出来上がる。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

秋本先生は盛んに生麩と書いているが、この書き方であると”なまふ”と読めてしまう。生麩(なまふ)の主原料はグルテン(タンパク質)である。このグルテン(たんぱく質)からくず餅が出来る訳ではない。くず餅の主原料はデンプンである。

しょうふは、小麦粉からグルテン(タンパク質)を除いた、デンプンそのものだと思う。お麩の原料はこのグルテン(たんぱく質)なのに、生麩と書くと、読み手に勘違いを催す事になる。生麩(なまふ)は主原料がグルテン(たんぱく質)で、しょうふはデンプンが主原料なので、これをどちらにもとれる記述にすると読み手は本当に混乱する。

そのため、ここでは、混乱を避けるために、言葉を置き換えて説明する。

「寒を越した生麩を先ず樽に入れ、これに熱湯を加えながら素早く大しゃもじで捏ねていく」と書かれているが、これを言い換えると下記の様になる。

時間をかけて発酵させたデンプンを熱湯を加えながら、素早く大しゃもじで捏ね、糊化(こか)していく

という事になる。つまり、これはどういうことかというと、中華餡、麻婆豆腐などを作る時に、水溶き片栗粉を熱い料理に入れて熱を通すと、とろみが出る。たくさん片栗粉を入れると糊の様になってしまう。つまり、これが糊化(こか)で、要するに水溶きデンプンが熱によって糊の様に変化する作用だ。片栗粉はでんぷんだが、片栗粉に水を入れただけでは、糊化しない。沈殿するだけだ。

水溶きにした片栗粉に熱を加える事で、そこで初めて、とろみが出る。こういう原理を応用してくず餅を作るわけだ。

その後、つまり「葛」にすると書かれているが、小麦粉から作ったデンプンが葛(くず)になるわけではない。両方とも主成分はデンプンで、デンプンという意味では同じという見方もあるが、葛はあくまで葛の根から作ったデンプンで、小麦粉から出来たでんぷんとは出生が異なる。

くず餅(久寿餅)の語源は確かに葛餅から来ていると思うが、出来たものは似て非なるものだと思う。

この生麩の中に銀生麩といわれるピカピカに輝く生麩が出来る。この銀生麩は洗濯屋へワイシャツの襟につける糊の原料として高く売れた。ただし、この銀生麩をあまり取り過ぎると「くず餅」に腰がなくなって、柔らか過ぎてしまう。三十六貫匁(一三五kg)に大して、生麩は十貫匁(三七・五kg)から十五貫匁(五五・二五kg)程とれる。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

銀生麩は”ぎんしょうふ”と呼ぶ、つまり”しょうふ糊”の原料の事で、日本画の画材屋さんに行くと”しょうふ”として売っている。

先に造った五貫匁(一八・五kg)のモチに対して、新たにウドン粉を加え(五分五分、またはウドン粉四分の六の割合)包丁で切るようにして混ぜる。耳たぶのかたさくらいが適当だといわれている。これを棒状にして、焼いたのが焼麩であり、竹のラオを芯にして、スダレで巻き付けて茹で上げたのが竹輪麩である。木枠に入れ平らにして茹で上げたのをサラダ麩といった。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

ここからはお麩の作り方を説明している。ここで言っているモチとはグルテン(タンパク質)の事で、そこに小麦粉を加えて焼いたのが焼麩という事になる。ここの説明から、いわしやでは、くず餅だけでなく、

「くず餅」の製法は、寒を越した生麩を先ず樽に入れ、これに熱湯を加えながら素早く大しゃもじで捏ねていく、つまり「葛」にするわけである。「くず餅」の語源はこの「葛」にある。
この「葛」を半練の状態にして、せいろの木枠流し込む。このせいろを積み上げて蒸すと「くず餅」の誕生である。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

”「くず餅」の語源はこの「葛」にある” とある。しかし、この辺りは、多分勘違いもあると思う。葛粉で作った関西の葛餅も小麦粉で作った関東の久寿餅も主原料としては、デンプンで共通している。しかしながら、葛粉と小麦粉では主原料が異なる。小麦粉を主原料として作られた久寿餅は葛餅ではないと書きたい。

しかし、焼麩、竹輪麩、サラダ麩は結構商いになった。「くず餅」が売れるようになったのは、試作から三年ほど経った大正八年のことである。菊太郎の女房はるは逆井の大百姓の出だが、この頃はもう根っからの商人の女房になっていて、製品の売り込みを一人でやっていた。長女のサダは、幼い弟や妹の面倒を見ながら毎日工場に入り、菊太郎の片腕となって働いた。工場の中はいつも大釜に湯が沸き、燃料の薪や石炭が山のように積まれてあった『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

この文章をいわしやさんは、麩を作り、副産物としての久寿餅を作っていた事が分かる。両方売っていた訳だ。薪などの燃料については、何軒か行った所に花沢商店さんがあるので、燃料の手配はスムーズだったのではなかろうか?

松戸名代”久寿餅”

くず餅の製造が軌道にのると、次第に販路もひらけ、生産量が多くなると原料の生麩は自家製造だけではとても間に合わなくなってきた。そこで生麩を外から仕入れるようになった。
茨城県竜ケ崎の焼麩屋飯島商店、佐原の焼麩屋飯島商店から連日のように松戸駅に生麩の樽が着く。『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

毎日のように届く生麩樽の置場や工場が、手狭になったことがあって、最初に店を構えた小根本の地に戻ることになった。関東大震災の大正十三年六月のことである『松戸名代”久寿餅”始末記』より抜粋引用

この流れを読んでいくと、当初、いわしやさんはお麩と久寿餅の両方とも製造販売していたが、ある時点から、麩の製造はやめて、久寿餅に集中させたように読み取れる。

関東大震災の大正十三年六月のことである”と書かれているが、関東大震災があったのはその年ではなく、前年の1923(大正十二)年9月1日の事である。年代を間違えると結局どちらなのか分からなくなるので、実際に小根本に戻ったのがどちらなのかは分からない事になる。

スポンサーリンク

補足説明

明治時代にあった”いわしや”さんと寺社の移転

この始末記に登場する“いわしや”さんは,明治45年頃移転をしたと書かれている。また、隣の円勝寺”ほんのわずか移転しただけ”と書かれている。

ただ、明治13-19年に作成された迅速測図とその後の地形図を比べると、実は円勝寺も同じ古ヶ崎内ではあるもののそれなりに移動している事が分かる。同時に、付近にある鵜森神社は記録では明治41年に立ち退き実際は点々として昭和に入ってから、現在地に来ているらしい。

明治時代にいわしやが実際にあった場所は不明なので、川沿いの住宅群を帯状に示したのが下図である。

nお

フルスクリーン表示

この情報を現在の地形図に合わせてみると下記の様になる。いわしやさんのあった場所はほぼ完全に江戸川の水中の位置で、元々あった円勝寺や鵜森神社は現在の河川敷にある事がわかると思う。

フルスクリーン表示

鵜森神社は明治41年に移転となっている不思議

上の移転マップを作っていて気が付いたのが、鵜森神社の移転であり、同じ古ヶ崎内でありながら、かなり動いて現在の位置にある。ただ、松戸市観光協会の説明は下記である。

稲荷神社(鵜森) | 松戸市観光協会
松戸市観光協会の観光名所ページです。

創建年代等は不明ですが元禄16年(1703)の庚申塔が残されています。当時は江戸川中洲の森に鎮座し数千羽の鵜が棲息していたので「鵜森稲荷」と呼ばれたそうです。明治41年(1908)の江戸川改修により移転、度々の河川や道路の工事を経て昭和33年(1958)現在の境内地の提供を受けて遷座しました。松戸市観光協会の説明より引用

つまり、明治43年の荒川大出水によって江戸川の河道の拡張が行われる事になったというのが江戸川の歴史で、この鵜森神社に関しては、明治43年の荒川大出水が起こる2年前の明治41年に移転があった事になる。情報が多くないので、なんとも言えないが、私はこういう矛盾に違和感を感じてしまうという悪い癖がある。とはいえ、この点はさらに調査が必要かもしれない。

久寿餅と葛餅は原材料が異なる

そこで調べてみたら、どうやら関西では葛粉を原料にした葛餅が一般的だが、実は関東地方では小麦粉(うどん粉)から作り出す久寿餅が一般的なのだと知った。亀戸の船橋屋が有名で、松戸の駅ビルの特設コーナーで売っていることがある。勤務先の安全祈願で亀戸天神に行った際、船橋屋がすぐ近くなので立ち寄り、くず餅をいただいた。

実は船橋屋のくず餅も関東式のくず餅(久寿餅)で、葛粉ではなく小麦粉(うどん粉)を使うというのは調べてみて初めて知った。関西の葛餅は葛粉から作っていくが、関東の久寿餅は小麦粉に水と塩を含ませうどんをこねるようにしてつくり、その後これを水で流しながら、流れだしたデンプンを乳酸発酵させて、約460日後に出来るのだそうだ。この点が、関西の葛餅と異なる。

船橋屋というと立教大学卒で三和銀行に勤めた後、八代目当主となった若社長の古い体質だった船橋屋を改革していった話が有名で、すごいなあ・・・と思っていたのだが、2022年頃ある事故がきっかけで、創業家ではない社長になってしまっている。

出陣餅、信玄餅、桔梗信玄餅、わらび餅

さて、きな粉をかけて、黒みつで食べるという意味で共通点のある出陣餅、信玄餅、桔梗信玄餅、わらび餅と葛餅、久寿餅の違いはなんなんだろうか?我妻が上越市出身なので、実家からかなざわ総本舗の”出陣餅”を送っていただくことがある。楽しみの一つだ。

本来のわらび餅はわらび粉を使う。冬の厳寒期にわらびの根を掘り起こし、冷水で何度も洗い叩いてほぐしてデンプンを取り出し乾燥させたわらび粉を使用する。本わらび粉は10kgのワラビの根からわずか70gしか取れない貴重品で、実は近年流通するわらび餅の大半はわらび粉以外のデンプンが多く使われるらしい。

餅という文字は中国では小麦粉で作られたものを指す

月餅

Cedric YongによるPixabayからの画像

日本語で餅とは所謂モチ米を蒸して突いたものを指し、原材料は米(もち米)という事になるが、中国に行って、餅というと、それはケーキやクッキーであり、要するに小麦粉で作ったものを指す。例えば、月餅がそれだ。
ちなみに中国語で日本のもち米は糯米(すーまい)と書く。

現行千葉県令集(昭和16年)より

名代久寿餅

現行千葉県令集(昭和16年)より、鈴木啓真さん、

これは、うしとらさんが探してくださった資料。小根本、名代久寿餅製造 鈴木啓眞と書かれている。秋本先生の始末記には出てこない名前である。小根本となっているので、多分いわしやさんだとは思うが、なんとも言えない。あるとすると飯島保次郎とサダの子供という事だろうか?姓が鈴木なので、彼らの子ではないのかもしれない。

この人は、もしかすると鈴木コンニャク屋が小根本に出した店の責任者なのだろうか?謎である。

 

1969(昭和44)年住宅地図にいわしやがあった

住宅地図 小根本

いわしや 1969(昭和44)年住宅地図より

1969(昭和44)年小根本の住宅地図、小根本13付近にいわしや商店があった。ここは現在マンションになっている場所だ。この昭和44年の頃どんな商品を売っていたのか、調べてみたくなった、この近所の知り合いに今度聞いてみようと思う。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました