昔日の松戸

子供の頃の馬橋の原風景について

osoba 昔日の松戸
浩之 梶によるPixabayからの画像
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子供の頃の馬橋の原風景について

国土地理院の空中写真 1961-1969版 馬橋付近

国土地理院の空中写真
1961-1969版
馬橋付近

北部小の同級生から馬橋にそばを食べに来ないか?と誘われた

先日、松戸市立北部小学校の同級生からメールがあり「馬橋にある蕎麦屋に来ないか?」という。彼はマッチャン。塾運営している実業家だ。マッチャンとは日暮商店の会で再開した。小学校の頃はてっきり同じクラスだとばかり思っていた。良く話をしてみると、マッチャンとはクラスが違っていたらしい。ところがお互いによく知っている。

集合場所は馬橋駅西口側、西馬橋蔵元町だという。

馬橋駅西口界隈を歩いた

馬橋駅前通り

馬橋駅前通り 2021年5月25日撮影

目的の時間に早かったので、馬橋駅西口から西馬橋蔵元町までの道、その周辺を30分程歩いてみた。蔵元町というのは古くからあるのかなあ……と思いつつ、中道公園、ユリノキの並木道を歩き……ここでハタと考えた。あれ?こんな町あったか……?馬橋駅付近というのは子供の頃何度も訪れている。

ただし、東口の古い商店街の方である。鳩の餌を買いに配合飼料屋さんに同級生のHA君たちと何度も来た。馬橋と言えば東口に行くことを意味した。そもそも西口なんてあったのかどうかさえ良く覚えていない。写真は馬橋駅前通り(西口)の現在の風景である。私が小さい頃はこんなに立派な建物はたってなくて、水田が延々と続いていた場所である。

子供の頃馬橋駅西口街区一帯は田畑だった

又、栄町や古ヶ崎の住宅街で見かける、住宅の軒と軒の間に流れる狭い不思議な排水路を何本か見つけた。子供の頃、ここには町なんてなくて、単なる田畑だった場所じゃないか?不思議な排水路は畦に流れていた用水路跡じゃないか?だから西口のこの風景を覚えていないんじゃないか?と思いつつ、国土地理院の空中写真(1961-69年代)を見てみる。

下記はその空中写真に昭和四十五年~昭和五十二年に区画整理された松戸都市計画事業馬橋駅西口土地区画整理事業(松戸市施行)のエリアを赤いドットラインで囲んでみたのが下図である。

思った通りだった。写真でもお分かりになると思うが、私が小学校の頃は農家らしき家はいくつか見えるが、殆どが田畑(休耕田含む)だった。当時は、横六間(よころっけん)川でよく遊んだ。この横六間川は現在の地図を基準とすると馬橋駅南の陸橋を西方向、つまり江戸川方面に向かった先にある。この横六間川の周辺は以前、伝兵衛新田という地名だった。

同級生のタケス君も住んでいた。私の場合は横六間を境いに南側で良く遊んだ。横六間から流山街道を少し北上し主水池(現「まこも池」)でも遊んだが、そこからわざわざ馬橋駅西方面に行くという事は先ず無かった。馬橋駅西界隈は自分たちの遊びの範囲では無かったし、そもそも不慣れな場所で魚採りのポイントを知らなかった。

まこも池緑地 | 松戸市観光協会
松戸市観光協会の観光名所ページです。

小学生の頃自転車で新坂川を北上したこともあった

新坂川富士見橋近辺

新坂川富士見橋近辺 2021年5月25日撮影

昭和四十一~四十二年頃同級生のHA君から「自転車で新坂川を北上して行けるところまで行ってみないか?」と誘われ小金城趾駅先の鰭ヶ崎付近まで行った事がある。あの時はTKさんやAKさんも一緒だったかもしれない。当時は北松戸や馬橋に掛かる辺りまで工場地帯は出来ていた頃で、無味乾燥な工場地帯を走り、北松戸駅を過ぎた辺りから工場が無くなり、今度は延々と田園風景が続く。

鰭ヶ崎の新坂川と坂川放水路の接続点

鰭ヶ崎の新坂川と坂川放水路の接続点 2004年8月7日撮影

馬橋駅西側も同じで、さらに幸谷(現在の新松戸駅付近)に行ってやっと集落が見え、それを過ぎると再び田園地帯を走る事になる。とにかく新坂川上流というのは目に映るのは工場或いは田畑であり`何にも無い`という印象で、馬橋駅西側付近をそんなに印象深く覚えている筈がなかった。西馬橋蔵元町の中を縦横に走っている排水路は一段低い高さ。

写真は現在の新坂川の馬橋駅から新松戸駅方面に少し歩いた富士見橋付近から見ている。子供の頃は写真両辺の建築は無く、ただ、新坂川の緑いっぱいの風景はその当時を思い起こさせる。

海抜:新坂川と坂川の間の街区は海抜3-4m, 坂川から旭町に入ると海抜2.6m

調べてみると区画整理に当たり、この一帯の土地が一メートル強盛土され区画されている記録がある。田畑は水の流れと高さを合わせ作る筈なので、それだけ低い土地だったのだろう。

国土地理院地図で大凡の海抜を測ってみた、馬橋駅西口駅前が海抜3.8-3.9m,松戸市立馬橋小学校校庭が海抜3.3m, 駅前通りとゆりのき通りの交差点付近が海抜3.0m,中道公園が海抜3.0m, 相川公園内は海抜4mだが、公園周辺道路は海抜2.7-3.0mで公園内が1mほど高いのが分かる。いちょう通りが坂川と交差する所は海抜3.1m、橋を渡って旭町に入ると2.6m。

「そばきり うめ吉」は良いおそば屋さん

さて、集合場所である西馬橋蔵元町の「そばきり うめ吉」マッチャンによれば、ここは元伝説のラーメン屋「ラーメンひがし」の店舗跡に入ったそば屋さんなんだそうだ。実際この「そばきり うめ吉」は良いおそば屋さんだった。

住所:千葉県松戸市西馬橋蔵元町147

何故なら、立ち食いそば屋の価格で十割そばを出そうとしていたからだ。驚きだね。また、経費削減の為、食券機もあったんだ。

先日、馬橋在住、知人のO氏と馬橋のそば屋について語る機会があった。私は「そばきり うめ吉」の話をおそるおそる出してみたらO氏もよく知っていた。そばも美味しいし人柄も良いし何も言うことないけれど、場所や商売の仕方をかえればもっと良い店になるという事まで一致した。一般の人はあの店の良さに中々気がつかないと思う。

ただし、2021年現在「そばきり うめ吉」はその場所にありませんでした。残念です。

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最後に

この記事は2004年頃に投稿したものです。現状に合わせて作り直しました。下記、馬橋に関する関連の書き込みがあります。よろしければどうぞ

古絵葉書:国宝 馬橋万満寺繪端書
1256(建長8)年に下総国守護千葉頼胤が万満寺の前身となる真言宗大日寺を創建する。室町時代 千葉満胤が臨済宗の寺院として再興、足利氏満の満にあやかり万満寺と命名。1537(天文6)年高城胤吉よりこの地を寄進された・・という訳でとても古い寺
古絵葉書:國寶万満寺大修理記念 下総国馬橋駅(駅より二丁)
国宝大修理記念 下総国馬橋駅(駅より二丁) 法王山万満寺 推定年代は1918(大正七)年~1933(昭和八)年 法王山万満寺の仁王様が修理された記念の様だ。年代がよくわからないが、 推定年代は1918(大正七)年~1933(昭和八)年ではな...
伝書鳩の流行
昭和39年東京オリンピック後、全国的な伝書鳩の流行があり、松戸でも同様に伝書鳩の流行があった。同級生の多くが鳩を飼うために知恵を絞り奔走していた。鳩小屋造りは、子供なのでお金もなく家電の梱包材で作った。そしてレース鳩アラシ0777のブレーク

 

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