昭和11年発行古ちらし:伸び行く松戸(概要編)
1936(昭和11)年12月5日松戸町役場によって発行された”伸び行く松戸”という栞は鳥瞰図が描かれていて当時の状況が詳しく書かれている。
松戸町鳥瞰図
この当時は常磐線の鉄橋と葛飾橋が一本でした。松戸・三郷橋もありません。
松戸町概観
地勢及交通
地域及び交通
松戸町は千葉縣東葛飾郡の西部に位し東西四キロ南北六キロ稍々狭長なる地形にして東に一連の丘陵を背へ八柱村、高木村に接し西は江戸川を隔て、埼玉縣及東京市葛飾区に対し南は釿興市川市に北は馬橋村に隣す、町の中央を縦断せる國道第六號線(陸前濱街道)は常磐線と共に遠く宮城、福島、茨城方面より帝都に入る自然の関門を形成す。
鐵道開通前に在りては是等諸方面及び縣内北部地方より帝都に入る産物及帝都より供給せらるる物資は 悉く江戸川の舟運によりしを以て此の中継港として所謂松戸川岸なるもの繁栄を指したるものなり。最近に於ては舟運は衰微せるも其の反面交通機関の発達により都会より溢れたる人口は殆ど当地に集中し來る傾向あり。
殊に常磐線の電化は帝都との距離を一層短縮し東京駅~松戸間は僅々三十分前後を以て達すべく。
従つて帝都及其の近郊よりの移住者夥しく現在は人口一万九千なるも文化施設の完備と共に一層増加率を高むべく故に町当局は目下 住宅地の建設に忙殺せられつある現況なり。
沿革及地名
沿革及び地名は突っ込みどころがありそうなので、解説していきたい。
延喜式に馬津駅とあるは即ち今の松戸なるを以て其の起りの遠きを推して知るべし。共の地名は更科日記に松里の津,鴻之台軍記に松戸の堤、義経記に松戸の庄市川抔記されあることは世人の周知せるところにして、一説に景行天皇の御宇皇子日本武尊が東夷御征定の砌、此の地に御駐屯部將の来着を御待あらせられたるにより「待人」と称しマツドと転訛せしといふ口碑を存し、又当地は陸前浜街道の首要駅ならしを以て常に駅馬伝馬の群集せし故、馬集ふ駅と称し、故にマッド駅と呼馴したり等、
真否は暫く措くもこれ等諸設を総合し考ふるに、本町は實に千二百年以上の歴史を有すること明なり、而して鎌倉時代には千葉氏の管下に属し江戸時代には直領(或る部落は天領) なりき、廃藩置県後は小菅県、印旛県の所管を経て明治六年千葉県の所属となり、町村制施行後松戸駅、小山村、 下矢切村、栗山村等の戸長役場を廃合し松戸町と改称し更に昭和八年四月明村と合併し大松戸町を建設し、今や帝都郊外に於ける商業竝に住宅都市として県下屈指の大市街を現出せしものなり。
延喜式の馬津駅というのは海部郡 (愛知県)の馬津駅ではないのかと思うがいかがだろうか?何故、千葉県松戸と関連つけたロジックが理解できないでいる。どなたかこうだよ!と教えてくださる方はいらっしゃらないだろうか?海部郡 (愛知県)の馬津駅については下記:
又、延喜式は下記から紐解けるが、大変なので取り敢えずリンクだけ張っておきます。
更科日記の”まつさと”が松戸であるという説があるが、更級日記自体の曖昧さもあって、私には疑問を感じる。何故なら、”まつさと”が更級日記にどのように描かれているかというとこんな感じである。
(原文)
しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとの わたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす
(漢字を当てると)
下総(しもつさ)の国と武蔵との境にてある太日川(ふとゐがは)といふが上の瀬、松里の渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す。
太日川は現在の江戸川というのが定説だが、実は、当時は下総国と武蔵国の国境は太日川ではなく、どうやら古隅田川(請地古川)が国境らしく、江戸時代以降に国境左岸が徐々に武蔵国に編入されたらしい。つまり、作者の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)さんが13歳の頃の経験なので、何か間違えて覚えてしまったのではないだろうか?
また、現在の上総は東京湾アクアブリッジで川崎側と繋がっており、多分楽しい場所かもしれないが、菅原孝標女が生きていた当時は上総の国での生活は退屈だったらしく、早く都に行って源氏物語に浸りたいと思っていた謂わばオタク女子の様な人だった様なので、下総の地名(まつさと、太日川など)については、あまり当てにならないように思う。
また、まつさととは松戸でなくて市川ではないか?と主張する人もいる。下記のリンクである。実に面白い推理だ。
ただ、更級日記では同時にこの国境付近に居た乳母に会いにいった事が書かれているので、この乳母が何処に住んでいたのか?という事が気になる。
めのと(乳母)なる人はをとこなどもなくなして、境にて子生みたりしかば、はなれてべちに上るいと恋しければ、行かまほしく思ふに、せうとなる人いだきて率て行きたり
義経記 七 頼朝謀反の事
—–前略—–治承四年九月十一日、武蔵と下野の境なる松戸の庄市河と云ふ所に著き給ふ。御勢は八萬九千とぞ聞えける—–後略—–
根本台城址・松龍寺台城址及將軍手植松
根本台城址
松戸駅東北方丘陵上に在り丘の中腹鬱蒼たる森林に囲まれたるは同所の鎮守金山御社にして、其の東に連なる高地は即ち城址なり。文献によれば正平十五年新田義徳の築きしものと伝ふ、此の高地は西方に對して、視野が広く、相模湾と相対し当時事実上重要なる地点なりしものの如し。
解説(根本台城址について):2022年現在は新京成電鉄が切通の中を走っているが、開通した昭和30年以前はあの切通はなく、金山神社と市役所の台地は一体の台地でした。正平十五年とは西暦では1360年で室町時代であり、足利尊氏が腫物で死去し二年後の頃。
松龍寺台城址及將軍手植松
町の中央,字宮前町松龍寺東方丘上にあり同寺記録松龍寺記に「後帯城山、前臨利川」 とあり、又當寺の現住職大不忠成師の調査せられし処によれば、此の城は享徳年間の創立にして天正十八年頃迄存置せる事実確実なりと、又舊小金領(今の小金町)大谷口城主高木氏の一族が居住せる事實ありと云ふ。当寺方丈奥庭に将軍家慶手植の松あり、葢し(けだし)、当時鹿狩りの為め下総牧場に出張の途次、当寺に休憩の砌住職の歓待に 満足せし家慶は乞はるる儘に手植せしもの手紙せしもの如し樹下に碑あり、文に日く「嘉永元歳次戌申夏五月代将軍家慶公被命休館当寺当時有此榮」
解説(松龍寺台について):松龍寺台とは即ち現在の戸定ヶ丘の事です。
続く
この”伸び行く松戸”の裏面はまだ、色々な事が書かれていて一度で掲載するというのは大変だ!続編もその内出しますのでよろしくお願いします。又、鴻之台軍記については改めてよく読んでみたい。
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