昔日の松戸

松戸の新坂川って何?どんな川なの?

sakagawa昔日の松戸
sakagawa 2021年5月撮影
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松戸市と河川

松戸市を歩くと非常に多くの水路があるのを感じます。松戸を考える時、水路を中心に考えると非常に面白い事が分かってきます。

松戸市の河川を国土地理院の地理院地図にまとめてみました

上は国土地理院の地理院地図vectorの白地図に松戸市の行政区分と主要な川を描いたものです。松戸市は歴史的な成り立ちから見ても、そもそも農地が非常に多かった。従って、利水、治水とも色々な問題を乗り越えて現在がある。従って、元々農業用の用水路も含めた水路を全部挙げていくと驚くくらいある。それはいずれ分析するとして、先ずは現在の松戸市の行政区分のエリアに主要な河川を書き込んでみた。主要な河川は下記の通り(坂川放水路は坂川として色を塗った)。

  1. 江戸川
  2. 坂川
  3. 新坂川
  4. 富士川
  5. 国分川(春木川)
  6. 樋古根川
  7. 六間川
  8. 横六間川

平賀川なども含めまだいくつも川があるが、それは今後充実させていきたい。これらの内、新坂川を濃い紫色、坂川を薄い紫色に塗ってみた。国分川分水路の様な長い暗渠も塗ってある。あの暗渠が、治水のために作られたのか、それとも土地区画整理の為に暗渠にされたのかは今後調べてみたいと思う。地図を作ってみて感じたのは、やはり多くの川は江戸川周辺に集中している事を再確認した。富士川の経路を調べていくと途中で川が切れてしまうのだが、

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松戸の川の風景

新坂川と坂川の合流地点、根本橋から松戸市立北部小学校方面を見る

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坂川と新坂川の合流地点 2021年4月撮影

写真は根本橋から北方向を撮影した。正面の橋はさかね橋,新坂川が流れてくる方向であり、左は坂川が流れ込んでくる。現在の根本橋から見ても、北部小学校は見えないが、私が小学生だった頃は見えた記憶がある。当時はそれほど高い建物が無かったためだ。

新坂川にかかる登校橋

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登校橋を横から撮影2021年5月3日撮影

松戸市立北部小学校の付近には新坂川が流れている。私にとっては、この新坂川がもっとも馴染み深い川。この新坂川と坂川は昭和30年代から生活排水と工場排水で汚れはじめ、昭和45年には日本で最も汚れた川、BOD136を記録した。ただ同年昭和45年「水質汚濁防止法」が制定され、徐々に汚れが解消されていった。

当時は、川の近くを歩くだけでたまらなかった。とはいえ、其の後法的な解決や積極的な市民運動のおかげで、随分ときれいになったものだ。

 赤圦樋門付近

松戸の重鎮、故稲葉八朗さんは「春雨橋から赤圦樋門、赤圦橋付近の坂川は古き坂川の雰囲気を残す場所」と語っていた。私も実際にそう感じたものだ。かつて輝竜会館へ映画を見に行く際は表通り(旧水戸街道)は通らず、坂川沿いを歩いたものだ。途中文華幼稚園で子どもたちが楽しそうに遊んでいた。

そして、羽つきの羽の重りの(玉の部分)の材料に使うムクロジの樹木の下を通りながら、春雨橋方面に向かい、輝竜会館に入る。そんなコースを歩いたものだが、今でもこの界隈を歩くとその当時の事を思い出す。

River nearby Akairi-bashi

赤圦橋から坂川を眺めた 2021年5月8日撮影

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赤圦樋門 2021年5月8日撮影

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堂の口橋から 赤圦橋方向を見た 2021年5月8日撮影

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菰橋から坂川上流を眺めた 2021年5月8日撮影

菰橋は小さい頃、キツネ橋と呼んでいた。しかし名称を調べてみると草冠があり、菰(こも)であり、狐(キツネ)ではない。となると”こもばし”になってしまうが、謎である。

六間川の風景(古ケ崎五差路近く)

River from Sanyo-bashi

六間川の三養橋付近 2021年5月8日撮影

この六間川界隈も昔の雰囲気が少し残っているゾーン。子供の頃はもっと鬱蒼としていたが、今は写真の様に明るい。

view from rokken bashi

六間橋から北側をみた六間川 2021年5月8日撮影

South view from Rokken bridge

六間橋から南側をみた六間川

六間川の六間橋付近からは暫く江戸川とほぼ平行に流れる川。

横六間川と坂川の交差する箇所:長津道橋(昔の一本橋付近)

view from nagatsudo-bridge

長津道橋から横六間川を見る 2021年5月8日撮影

江戸時代までは一本橋と言われたエリアで、水害が多かったそうだ。其のために、堀つぎ(堀増して、新たな流路を作る事)をして坂川をさらに下流まで流すようにした、その起点になった場所。それまでは、坂川はここから江戸川に向かって流れていたそうだ。

馬橋駅近くの新坂川の風景

river view at Mabashi

馬橋駅付近の新坂川の風景2020年8月撮影

根本、南花島、北松戸付近までは無味乾燥な護岸が続くが、馬橋に入ると新坂川が突然変わる。

旧坂川の風景(天保七年の風景)

Old Sakagawa

旧坂川の風景 2020年8月撮影

正面の建物が柳原排水機場と水閘門、この界隈は昔の坂川の風景を感じる事の出来る非常に貴重なエリア。すぐ背後には里見公園があり、市川市。

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新坂川の歴史を考える

新坂川が作られた時代、沿革

Sign board Sakura street

新坂川桜並木周辺案内図 2020年8月撮影

新坂川を遡り、馬橋駅と新松戸駅の中間辺りに桜並木があり、橋の近くに上の写真の新坂川桜並木周辺案内図が掲げられいる。そこの最初の方に「松戸市の市街地を流れる新坂川は、水田地帯の洪水被害の軽減と昭和大恐慌の失業対策、農民救済を目的として昭和8年から昭和12年頃に掘られた川です。—–以下略」と書かれている。

つまり時代背景を考えてみる。

1929年(昭和4年)ニューヨークに端を発した世界大恐慌が起き、アメリカではルーズベルト大統領によりニューディール政策が行われた。この恐慌は長く続き、その波及により日本では1930~1931(昭和5~6)年に昭和恐慌が始まった。アメリカ同様公共投資を拡大しデフレから脱却するケインズ的財政政策が日本でも行われたようだ。我々の新坂川開削もそのケインズ理論の一環だったらしく、案内図にも書かれたように「水田地帯の洪水被害軽減と失業対策、農民救済を目的」としたようだ。そして新坂川はほぼ1933~1936(昭和8~12)年に作られた。

地形図による検証

昭和初期の地形図(国土地理院の地形図より)

この昭和初期の地形図(国土地理院)には新坂川が描かれていない。

1950年頃の地形図(国土地理院の地形図より)

この1950年の地形図(国土地理院)には新坂川が描かれている。

両地形図から読み取れる事:
現北松戸工業団地付近、上図にはただ田が広がっているだけだが、下図にははっきりとした道或いは畦道(或いは区画整理のライン)が出来ている。上図に比べ下図には、小学校の南西部の根本地区の区画が整理されている。

どんな目的で作られたのか?

洪水対策としての効果

坂川に比べ新坂川の流れる位置に注目する。この新坂川は下総台地の端付近に沿ってほぼ200メートルくらいの位置に流れている。地形図全体を眺めると実は根本橋付近から大谷口新田までは下総台地に沿って流れている。
この下総台地端部は場所にもよるが、下谷地区に比べ僅かに地盤面の高い自然堤防もしくはそれに近いところだと考えられる。仮にこの川が洪水対策だったとして、こんなに高めの位置に洪水被害対策の川を作る事は果たして有効だったのだろうか?

用水路としての機能

次に用水路の役目が大きかったと見た場合、あまりに下総台地側に寄りすぎてはいないだろうか?都市計画的に効率的な用水路を設計する場合、むしろ坂川と下総台地の中間付近に計画する筈だ。
上の地形図で言えば現栄町と現北松戸工業団地の間に見える水路付近が新坂川開削にはもっとも適当な場所だったのではないか?(現在栄町のバス路線になっている場所)当時、この場所にはすでに水路があったわけで、その水路を伸ばした方が経済的、効率的でしかも洪水被害対策にも有効だったのではないか?と思う。

水利としても洪水対策としても効果が上がらず、公共事業として良く練り込まれたプランだったのか疑問

上述した新坂川桜並木周辺案内図にはこんな事も書かれていた。「—–前半省略—–川底の落差が大きくとれなかったため思いどおりに水は流れてくれず、当時の人々にとってはあまり評判がよくありませんでした」とある。

水利としても洪水対策としても効果が上がらず、果たして当時の公共事業として良く練り込まれたプランだったのか疑問の残る所です。実は、昭和27年地形図の全体を見ると新坂川という名前がなく「用排水路」と書かれていた。その後の新坂川上流の宅地化による生活排水、工業団地排水による水質汚染等、結局この新坂川は排水路としての末路を見たのかもしれない。

一本橋の件で近所の大先輩のN氏のお話を伺うと「一本橋と登校橋の間に下総台地側から新坂川に流れ込む水路があり、そこに堰のようなものがあった」との事で根本橋付近からヤマザキパン工場先一帯まで新坂川沿いを歩いてみたところ……下総台地側から流れ込む水路の排水口などが大小いくつもあった。それに比べ反対側つまり江戸川サイドは殆ど排水口などは少ない。これは何故か?

竹ヶ花の我が家は新坂川よりもう少し高台で拾石台坂道の途中にある。台風やスコールの日、外を眺めると小さな排水溝で流れきらない雨水排水が、道路上をまるで川の流れの如く流れてくる。本来この雨水排水は新坂川に流れ込むべく地下暗渠があるが、その暗渠のサイズが小さすぎるらしく、旧水戸街道に水が溜まってしまい泥池のようになった。

考察

(考察1):下総台地から流れ込んでくる大量の雨水の受け入れに必要だったのか?

新坂川の役目の一つとしてこの下総台地から流れ込んでくる大量の雨水排水を新坂川を作ることによって一度トラップする事が考えられる。とすれば国鉄の線路付近に作る方が便利であったろう。新坂川完成以前、台風など大雨の際、下総台地から流れ込む雨水排水が怒濤のごとく坂川一帯まで延々と流れ、結果水難に見舞われることが多かったのではないだろうか?

(考察2):上流下流で氾濫した時はどう対処したのか?

水難は必ずしも下総台地ばかりではなく、坂川の上流や利根川・江戸川の氾濫も少なくなかったと思われる。従って、馬橋付近新坂川堤防桜並木に書かれている「……前略……川底の落差が大きくとれなかったため思いどおりに水は流れてくれず、当時の人々にとってはあまり評判がよくありませんでした」となったのではないか?洪水時、江戸川の水位は坂川、新坂川の水位を凌駕する。堤防が切れれば陸地側に流れ込む。坂川、新坂川に逆流してくる。逆流しないためには堰を閉じなければならない。

(考察3):利水と治水は両立しない?

用水路兼水難対策の川は機能としては相反する(注1参照)。
新坂川が用水路として使用していたとして、水が流れ出てしまわない為、水を必要とする時期は堰を閉める。然し、洪水などで江戸川から洪水で逆流しそうになったときは樋古根川の排水口や赤入水門は閉めた。仮に赤入水門で閉めて江戸川からの逆流を阻止したとしても、同時に新坂川や坂川上流からおびただしいまでの量の水流が襲ってきたとしたら、江戸川に流すしかない。ところがその際江戸川の水位が高くなってしまう事がある。となると水門は閉じたまま江戸川に流さなければならないので、排水機を設置ざるを得ない。

(考察4):新坂川の西側から利水が行われたのか?

観察によって新坂川堤防の江戸川側には案外、水門、排水口などが少なかった。という事は新坂川の江戸川側からの水利用は少なかったという事か?台地側に比べ江戸川側の方が田畑の面積は遙かに広い。それなのに広い側からの利水が少ないというのはどういう事なのか?農業の用水路としての役目はそれほど大きくなかったのだろうか?「いやいや宅地化、工業団地化が早くから進んだから水路をつぶしたから現在見られないじゃないか?」という御意見もあるかもしれない。

ところがそんなに簡単に水路はつぶせない。土地の開発行為を行う際、新しい水路は造れても、水路を中止するのは簡単ではないのだ。中止は難しくても造り付け替えはあり得る。
水路を簡単につぶせないとしたら、古い水路は基本的にそのまま残すか、暗渠にして区画整理という事に相成る。古ヶ崎や栄町の住宅街で軒と軒との間など、妙な場所で水路を見つける事が出来る。それは水田当時の用水路跡であろう。

とここまで、考察1から4までいくつかの可能性を書いたが、果たしてどれが理由なのかは分からない。

注1:堰(せき)と水門、樋門の定義
堰は主に用水路の目的で作られる。通常は閉め、洪水など水位が増えすぎたときは開ける。水門・樋門はおもに堤防の役目として作られる。通常は開き、洪水などで逆流しそうになった場合閉じる。水門・樋門は同じ機能だが水門は上部が開放され、樋門は暗渠になっている違い。つまり状況に応じて堰が開く時は水門は閉じて、水門が開く時は堰は閉じる事になるわけだ。

 

こぼれ話

新登校橋の事

現在の新登校橋の両端での海抜

  • 旧水戸街道側は海抜4.5~4.8M
  • 北部小学校側は海抜3.4

つまり北部小側の方が海抜が1Mほど低いことになる。

view from Hokubu school

北部小側から見た登校橋
2021年5月3日撮影

写真では分かりにくいかもしれませんが、橋に向かって上りスロープができています。旧登校橋の頃はこの一Mの高低差をなんとか吸収しつつバランスが取れていた。川幅が広がった為に勾配のすり付けを無理したようにも見える。この為、新登校橋完成以降勾配がきつく、自動車優先の危ない状態になってしまった。

堀江食堂跡地を見ると角のテイクアウト窓、北部小側の入り口があった辺りは極端に段差が付いてしまい、かつての堀江食堂への入りやすさ想像出来なくなっている。

旧登校橋の構造

Bridge Image

在りし日の旧登校橋のイメージ図 2021年6月5日作図

さて、旧登校橋の頃の構造を示しておきます。橋の両岸に親柱が建ち、その間に橋桁がかかり、床版が作られ、高欄と呼ばれる手すり及び手すり子、そして親柱の両方には橋名と竣工日の銘板がある。

登校橋・一本橋界隈のお話

高欄

高欄 2008年6月7日撮影

登校橋の親柱

現在の登校橋近くにさりげなくおかれた昔の登校橋の一部です。それの字の部分を撮影したのが下の写真です。

堀江食堂付近から根本橋にかけて、登校橋、一本橋、さかね橋、平根橋とあった。このうち登校橋、一本橋が子供の頃最も馴染みの深い橋だった。登校橋も一本橋も川幅拡張工事、護岸コンクリート化工事の際、作り替えられ位置も形も変わり昔の面影はない。旧登校橋はその名の通り北部小学校の旧正門(堀江食堂、吉岡文具の側)へ通ずる橋で幅が狭かった。

車で古ヶ崎や竹ヶ花西町方面から市役所側に出るには旧登校橋が近道で、他のルートとしては平根橋まで下るか、若しくは延々と北松戸の方面に向かわないといけない。となるとこの旧登校橋に車が集中する。旧登校橋は「危ない橋」だった。その為か北部小学校の正門は南側に移動し堀江食堂側の門は旧正門になった。

現在、一本橋、さかね橋を渡る小学生の姿が多く見られるが、そちらが実質的な登校橋になっているらしい。現在の登校橋は歩道も設置され歩行者も通りやすくなっている。旧登校橋欄干には「とうかうはし」と書かれていた。

堀江商店

僕の近代建築コレクション様より 登校橋1989(平成1)年4月1日撮影

上の写真は、僕の近代建築コレクション様より、使用許可をいただいた 登校橋、吉岡文具店/松戸市根本  の記事中の、登校橋の写真である。ありがとうございます。

2021年現在、松戸市立北部小学校旧正門付近、「一休」隣に現在駐車場になっている場所がある。ここはかつて堀江食堂があった場所だ。旧正門側(左側)及び新坂川側(右側)の両方から入れたと思う。木造二階建て、外壁は羽目板貼りでピンク色の塗装(後に白色に塗り直し)だった。お店の中央角には今川焼きなどを売る窓があった。今風に言えばテイクアウトカウンターだ。

お店は所謂軽食堂で夏にはかき氷も出していたと思う。表の家の掲示板に度々書き込みをしてくださるミスターTさんの松戸ベスト100によれば「堀江食堂は通称「おでん屋」と呼ばれていた。メニューはおでん、やきそば、それぐらいしか覚えていない。北部小学校の運動会の時、お弁当を持ってこない家族はよくここで食べていた。今川焼きも販売していて、会社帰りのサラリーマンもよく買っていた」ミスターTさん、引用させていただきありがとう。

人と人との触れ合い、付き合いがあった時代

堀江のおばさんは気さくな人でいたずらっ子だった私にも温かく接してくれた。新坂川の土手、お店の正面付近で花や野菜を植えていた。当時の坂川は護岸が土で水辺まで簡単に降りられた。堀江食堂のおばさんには二人の可愛いお嬢さん(私にとってはお姉さん達だが)が居た。マーちゃんとカッちゃん。

昭和三十年代の松戸はまだまだ古き良き時代で人と人との触れ合い、おつきあいを大事にしていた。当然ながら堀江食堂との交流も頻繁にあったらしい……母によれば堀江さんの姉妹にムームー風の洋服を作ってあげた事があるらしい。次女のカッちゃんはお隣の吉岡文房具店の次女と仲が良かった。

竹ヶ花の私の母が営業していた軽食堂`やきそば○○`(昭和三十八年~四十二年まで営業していた)に二人で来て下さった事もあった。そんな事もあったからだろうか、吉岡さん、堀江さんは近所の気さくなお姉さんというイメージだった。

50年ぶりにカッチャンに会った

2006年頃の事だが、こんなことがあった。根本の「しぐれ」で食事をしていると夫婦連れの来客があった。奥様の顔に見覚えがある。何となくカッちゃんに似ている。少なくとも35年近くはお会いしてない。思い切って声を掛けてみたら間髪を入れず私に「○ちゃんでしょ?」私の実名を覚えていた。驚いたね~やはり堀江食堂のカッちゃんだった。

長女のマーちゃんにも時々お会いした。現在松戸市根本にある最もお堅い所に勤務されていた。出勤時松戸駅付近で度々お見かけした。一度、マーちゃんとばったり遭遇し、会釈したら私の事をしっかりと覚えていて下さった。

堀江食堂で飼っていた九官鳥

堀江食堂は後年九官鳥を飼っていた。名前は「マリちゃん」低い女性の声で「マァリ~ちゃん、マァ~リ~ちゃん!!」と鳴くのが印象的で、堀江のおばさんの声そのものだった。先日カッちゃんのご子息の方から温かいメールを頂いた。メールどうもありがとう。写真は堀江食堂跡地、現在は居酒屋「一休」の駐車場になっている。写真右の建物が一休さん。

堤防の利用

Gogan kouji

新坂川の護岸工事 根本在住のYさんより頂いた護岸工事中の写真

旧登校橋の頃は川幅が狭く、現在のように切り立ったコンクリート護岸もなく、なだらかな土の堤防だったので畑代わりに利用している家があった。堀江食堂のおばさんもその一人で旧登校橋の付近に野菜や花を植えていた。堀江食堂付近の堤防に露天商が`魔法の屏風`などのおもちゃを売っていることもあった。

(正式名称は知らないが)`魔法の屏風`とは「拡げると30センチ幅程度の綺麗な絵柄の屏風!その絵柄の中に十円玉を一枚置いて一旦閉じる。さあ、再び開くとあら不思議!先程のコインが無くなっている」という子供だましのおもちゃだ。

登校橋付近には紙芝居が来ていた事もある。確か南花島に住んでいた方だったらしい。近所の大先輩のN氏によれば「登校橋から少し先の川に直角に当たる道(沢田さんの家の横の道)の中頃に空き地のような場所があって、紙芝居のおじさんよく来ていたよ」情報ありがとうございます。
上写真は根本在住のYさんより頂いた護岸工事中の写真。一本橋の袂の様子が分かりやすいと思う。Yさん写真をどうもありがとうございます。

旧一本橋

ipponbashi image by Mr. N

一本橋

(近所の大先輩N氏が昔を思い浮かべイメージ図として書いて頂いた)

steps of ipponbashi

一本橋(写真は根本在住のYさんより頂いた一本橋の袂の写真)

(写真は根本在住のYさんより頂いた一本橋の袂の写真)
現在、一本橋と言えば森栄堂工場跡廃墟付近に架かっているが旧一本橋はもう少し登校橋よりにあった。旧一本橋と言っても橋ではなく取水堰(つまり水が流れるのをおさえ、川の水位を保ちながら、農業・工業用水を取るために使われた)だった。そもそも取水堰なので欄干・手摺が無く怖い。幅が60センチメートル程度しかないので子供達は度胸試しで渡る。

旧一本橋はコンクリート製だったが半世紀に亘る経年変化の結果、表面が砂利の洗い出しのようにごつごつした表面になっていた。図のように橋のエンドはコンクリートで「コ」の字のような形になり、型屋のおじさんが商売をしていた。

旧一本橋のイメージや材質感を知りたい方は、根本橋の付近に

water gate

根本橋近く 2005年9月23日撮影

この旧一本橋のイメージや材質感を知りたい方は、根本橋の付近に坂川と新坂川の接点に行くと良い(ホテル「LaSee」の裏側)。この橋は歩道付きで旧登校橋より幅広で車一台が通れる。構造的には堰であり旧一本橋と同じような造りになっている。

この「新坂川登校橋」は松戸行脚2005で作成し、2008年9月リメーク、さらに2021年2月及び7月に大幅なレイアウト見直しを行った。

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