つれづれなお話昔日の松戸松戸行脚

社会科見学の今昔

工場 昔日の松戸
Photo by Laurel and Michael Evans on Unsplash
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社会科見学は大好き

娘の社会科見学

一昨年、我が娘が松戸市内の企業やお店などの見学に行くという。父兄も付き添いでついていくが、必ずしも自分の子供とは一致しないらしい。娘は根本の某歯医者さんだった。我妻は娘と離れ離れで根本のそば屋さんだったらしい。妻の話を聞くと見学後にミニそばをサービスされて食べたんだとか・・・羨ましい。

そば屋

Johnnys_picによるPixabayからの画像

娘には食べた話は出来なかった様だが、遅かれ早かれ、同級生から伝わったのだろうと思う。そして歯医者さんじゃ、何ももらえないし、やっぱり飲食のほうが良いよね・・・なんて思っていた。これ以外に社会科見学として多分野田の醤油工場も行くのだと思う。

働く大人を見る機会が減っている

私が小学生の頃(昭和30-40年代)には働く大人を見る機会はいくらでもあった。また、見るだけではなく、それらの人との交流もあったし、声もかけてくれた。今は難しい時代で、余程知っている子供でないと声をかけにくい雰囲気がある。商店街が崩壊してしまって、近所にコンビニはあるが、子供がいわゆる個人商店らしい個人商店にいく機会が極端に減っているのかもしれない。

この為か狭い町内なのに、袖触れ合う人達が、99%赤の他人という空々しい人間関係が当たり前になってしまったような印象がある。皆さんはどう思われるか?

私が小学生の頃の近所の人達

実家の半径100mくらいの場所にはこんな人達がいました。

  • 米穀倉庫の管理人のおじさん、
  • サンドラックの店主、
  • 竹の湯の番台、
  • 東葛土木事務所のお兄さんたち、
  • 鳥や魚の手入れをしている浅間鳥獣店のおじさん、
  • みどりのおじさんだった山口タイヤのおじさん、
  • 関口下駄屋のおばさん、
  • 藤巻モータース(自動車修理場)のおじさん、
  • 三笠屋靴屋のおばさん、
  • 理容ヒデの店主と奥様、
  • 横尾商店のおばさん
  • 明治屋のおばさん、
  • 通学する途中の常磐線の踏切小屋で遮断器の上げ下げの為大きなドラムを回していた鉄道員
  • 北部小正門近くの堀江食堂で今川焼きを焼いていたおばさん、そのおばさんは新坂川の堤防で野菜や花を植えて手入れしていた
  • 吉岡文房具店のおばさん、
  • 吉岡文房具店の隣の靴修理の小暮のおじさん
  • 北部堂のおばさん。
叱る

いらすとやさんのイラスト

数え上げ始めたら、きりが無い。この人達は、ただ働いているというだけじゃなくて、実は私がどこの子供であるかも熟知していた。したがって、悪い遊びをしていると面と向かって怒られた。つまり私はいつのまにか地域の人達と交流し、地域と一体となって成長した事になる。この為、還暦をとっくに過ぎた今現在でも路上で私の下の名前で「◯◯◯ちゃん、お母さんは元気?」と突然声をかけられる事も少なくない。

とはいえ、そういった声をかけてくれるおじさん、おばさんは次から次へと鬼籍に入っていくので、寂しい。

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社会科見学今昔

話が社会科見学よりも近所とのコミュニティにズレ始めたので、軌道修正する。小学校の時の社会科見学は楽しみが多い、先ず教室で学ぶ事から離れ、工場、機関、店舗など外出していく所が良い。私は大好きだった。私が小学生の時、二回行った。小2の時に松戸郵便局本局、小3か小4で野田のキッコーマン工場見学(これは遠足だったかな)。

松戸郵便局本局の社会見学(昭和39年)

住宅地図

松戸郵便局本局の位置
昭和44年の住宅地図を参照しました

 

松戸郵便局:この当時は松戸の本局が現在の割烹富吉の前ではなく、もう少し春雨橋に近い場所にあった時代だ(上の住宅地図参照)。郵便局に入ると、何となくホコリ臭いというかカビたような匂いと共に、たくさんの郵便物が目に入ったのは覚えている。その他、印象的だったのは仕分け作業だったろうか?

格子状の仕分け棚(枡棚というらしい)に向かって、郵便局員が次から次へと投げ込む様(宛先への仕分け)を見た。

枡棚

Frank MagdelynsによるPixabayからの画像

それは素早くて、どうやってやるんだろうと、郵便局員に憧れに近いものを感じた。それが郵便局における社会科見学で一番印象に残る事だった。郵便番号制度が普及してからは機械的にそういう作業をするので、手作業の仕分はないのだろうなあ・・・と思ったら、さにあらず、誤字脱字などで機械的に仕分けできなかった郵便物を郵便局員は今でも手作業で仕分けする事があるようだ。

年賀状の仕分け大詰め 和歌山中央郵便局 750人が作業
年の瀬の29日、和歌山市の和歌山中央郵便局では元日に年賀状を配達するため仕分け作業に追われていた。同郵便局によると、回収のピークは26日ごろだったが、依然多…

野田キッコーマン工場 昭和40-41年

野田のキッコーマン工場は社会科見学というよりも遠足だったかもしれない。小3の時だったとは思うのだが、小4だったかも分からない。工場に到着して色々な説明を聞いた後、実際の工場に入ると、天井高く思いっきり広い場所に瓶がくるくる回って、どんどん製品化されていくところだったと思う。醸造過程の見学をしたのかどうかは覚えていない。

ただ、醤油が発酵している臭いは強烈で、鼻をつく臭いだったのを覚えている。工場の見学を終えると醤油の小瓶のセットをお土産にくれたっけ・・・

(最近の事)野田キッコーマン工場見学 2018年9月1日

野田醤油工場

野田キッコーマン工場
2018年9月1日撮影

2018年9月1日に家族でキッコーマン工場見学をしようという事になった。私は小学校の頃の思い出を頭に浮かべながら工場見学に向かったのだが、野田のキッコーマン工場見学は明らかに昭和40年の頃とは違っていた。最初の説明は同じなのだが、先ず生産している工場内のラインには入れなかった。その為か、鼻をつくあの醤油の醸造の臭いも無かった。

あの刺激的な臭いが無くなったのはある意味子供には受けが良いのかも知れない。また、瓶詰めの工程も近くで見られず、その他殆どの工程は透明スクリーンから中を覗くだけだった。衛生的!ただ、難を言えば研究室の見学をしているようで、見学をしている実感は湧かないのが寂しい。最後にお土産に醤油をいただいたのは昔も今も同じ。家計の助けになるよね!ありがとうございます。

また、キッコーマン工場行きますよ!

実現しなかった牛乳工場見学

松戸市立北部小学校の近くには雪印乳業の工場があった。新坂川沿いで北松戸寄りのところにあった。ある日、学年は違うが雪印乳業の工場見学に行ったクラスがあったという一報が入った。どうやら、行くと牛乳のお土産もあったと聞く。それは羨ましい。私のクラスもいつかは・・・と期待していたが、その日は来なかった。残念である。

今現在、その雪印乳業の工場は移転してすでになく、同敷地はアクティ松戸という住宅公団の建物が建設され久しい。あのアクティを見るたびに、「ああ~行きたかった」と今でも悔やむ。

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大人の社会科見学

すでにおとなになってから行った野田キッコーマン醤油工場については書いたが、その他こんな場所に行った。やっぱり工場見学は楽しい。

佐野市第一酒造

第一酒造

第一酒造外観 
2009年2月1日撮影

2009年に松戸のひぐらし商店さんのお誘いで栃木県佐野市の第一酒造さんの工場見学に行った。有名な商品が開華である。酒蔵見学というのは面白い、なぜ面白いかというと自分の趣味にあっているからで、でもどうしてかは言えない。第一酒造においてもやはり最初杜氏の方から色々な説明があって、勉強になった。発酵中の樽も見せてもらった。もしここに落ちたら先ず生きて帰れないんだそうで・・・おおお!

もろみ

第一酒造
2009年2月1日撮影

ここは発酵している芳香が体全体を包む感じで、これこそ大人の社会科見学という感じがする。行ってよかったと思った。

第一酒造 開華
「開華」創業延宝元年(1673年)と約330年余りもの歴史を持つ、栃木県内最古の蔵元。

ハイム化粧品工場見学松戸市上本郷

ハイム

ハイム化粧品工場内
2013年2月12日撮影

2013年2月12日、松戸市観光協会の催しで新坂川沿いの北松戸よりにあるハイム化粧品工場に見学にいった。私は化粧品については全く門外漢でなんにも分からなかったが、えらく清潔に作られている工場で、家の近くにこんなにすごい工場があったのかと驚いた。帰り際、販売もあったので、白い石けんという商品を子供用に買ったっけ・・・

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最後に

まだまだ、行ってみたい工場はたくさんある。ただ、このコロナ騒ぎで中々自由に出かけられないのが困る。早くコロナ明けして、色々な工場の見学をしたいね・・・

コメント

  1. うしとら より:

    わたしも北部小学校出身です。
    わたしの社会科見学は、根本のモリヤパン、北松戸工業団地のヤマザキパン、雪印牛乳でした。根本のモリヤパンに行くときに、高津工務店の隣にあった中華屋のバロンという犬が食事中に撫でてやろうとして手をガブリと噛まれたことを覚えています。こんな小さなモリヤパンで給食のパンの全てを毎日作っていたことに驚いたことを覚えています。
    雪印牛乳は見学路と生産現場がガラスで仕切られていたのですが、現場のおじさんが子供に向かってチョけて、ピースピースのサービスプレイをしてくれたのですが、6年生だったので冷ややかな視線を浴びさせてしまったことを悔いています。子供は残酷です。
    ヤマザキパンは良く覚えていませんが、六中に通うようになってから、毎日ヤマザキパンの社長の家の前を通っていました。ヤマザキパンの社長は山崎さんではないことを知りました。

  2. うしとら様、
    コメントありがとうございます。
    確かにモリヤパンで北部小のパンを全部作っていたとしたら大変ですね。特に我々の年代は児童数も多い頃で、同じ学年で6クラス(一クラス45人は居た)だったので、単純計算で言うと、生徒だけで一日に1620個、先生の分も入れると1650個でしょうか?あんなに小さい工場で全部作っていたとしたら驚きです。そういえば、モリヤパンのご主人を最後に見たのは2007年頃だったか・・・ご主人のお姉さんは、北部小の北側の平林産婦人科の並びに住んでいましたが、今年住宅が解体されて、売りに出されていたっけ・・・
    松戸駅東口のホテルゲーツインの並びがモリヤビルで、お姉さんの持ち物件だと思ったけど、今はどうなったのか・・・
    それにしても雪印の工場は行きたかった。私の同級生のお父さんが雪印乳業のおえらいさんで、工場の端にあった住宅に住んでいましたっけ・・・
    ところでヤマザキパンの社長さんって、松戸に住んでいらっしゃったの?それは知りませんでした!

    • うしとら より:

      山崎パンは市川あたりが操業の地だったと聞いて居ります。
      山崎パンの社長さんの家は、
      千葉県松戸市上本郷3130
      でした。数年前にマンションに建て替えられてしましました。
      当時は豪邸でしたよ。
      そのすぐ裏の豪邸は初代水戸黄門の格さんの横内正さんのお宅でした。
      こちらは子供ころよくワイドショーが来ていました。
      そのすぐ近くで王さんの木製バットを作っていた工場があり、
      私が六中に通っていた時分は、
      まだバットの残骸がキャンプファイヤーの様に積み上げられていました。
      あと、そこの近くにあるカミーユ上本郷というマンションのテナントに青空きゅうじさんの経営する喫茶店「きゅうじ」がありました。

      • うしとら様、
        ありがとうございます。
        確かに、風早神社から明治神社に行く途中に大きなお屋敷がありましたっけ・・・あそこがそうだったんだ・・・
        格さんがあの界隈に住んでいたのは知りませんでした。
        平野レミの実家も明治神社近くにあったと思うし、有名人が多かったんだなあ・・・
        そういえば、昭和50年前後だったか、地下鉄漫才の春日三球・照代さんが栄町だったか、上本郷側だったかに住んでいて、同僚が北松戸駅で見たという人が居たっけ・・・
        あの当時は、漫才仲間がこぞって住んだという話を聞いたことがあったっけ・・・

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