つれづれなお話建築デザイン

私版”私の履歴書” 建築設計(いざ浜松へ)

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私版”私の履歴書”(いざ浜松へ)

建築設計をしてきた半生(いざ浜松へ)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。働き始めた頃、例外なく私も尖っていたが、自分の考えが、いかに井の中の蛙レベルであったかろうか、思い起こせば少々恥ずかしい。先輩方には随分生意気な事を言ってきたと思う。改めて反省したいと考えこの一文を書いてみる事にした。

前回は、就職後数年の話であったが、今回は浜松常駐の頃のお話である。当初は就職後として一緒に書こうと思っていたが、文章が長くなりそうなので、浜松編として独立させることにした。

どなたか共感できる人がいたらありがたい。

浜松のプロジェクトに関わった頃

design

Lorenzo CafaroによるPixabayからの画像

私が担当していた浜松のプロジェクトは尊敬するR.Sさんが率いていたプロジェクトだった。R.Sさんは施主からの信頼も厚かった。R.Sさんの次に控えるのはM先輩だった。M先輩は、これまた優秀な先輩で、海外の経験もあり、手描きで建築外観パースを描くことが出来る。しかも短時間で・・・

私は生意気で、未経験で、実力も無く、しかも末席で出番が無かった。そんなある日、池袋の某ホテルプロジェクトが始まり、これをM先輩が担当する事になり、浜松プロジェクトを抜けた。この結果、私が(実力も無いのに)R.Sさん直下の担当者になった。R.Sさんは多分心細かったに違いない。

浜松のプロジェクトは市内の住居地域の中に既存建物として建っている料亭+ホテルに寄り添うようにして増築ホテル棟が計画された。客室棟に大きな吹き抜け空間が内包されている為、上から見ると客室棟は正方形に見える。つまり東西南北に一定の幅があった事になる。このプロジェクトは、住民からの反対もあった。この為、日影図の作製をしつつ、住民説明を丁寧に行っていたプロジェクトだった。

先代の社長について

このプロジェクトの施主だった先代社長が夢にあふれた、素敵で魅力ある人だった。しかも好奇心旺盛で,世界にある多くの建築・ホテルを見て、歩いて、廻っていた人だった。先輩のR.Sさんによれば、特別にこのホテルの様にしたいという要望は無かったが、大きなアトリウム空間を作る方向で一致した。

我々が参考としたのはジョン・ポーツマン設計のアトランタやサンフランシスコのハイアットリージェンシーホテル他であった。

 

Hyatt Regency San Francisco

Hyatt Regency Atlanta

現状のアトランタのハイアットリージェンシーを見るとリノベーションが行われている様に見える。

「どうだ?いいだろ?」磐田の某ホテルにて

 

Marine equipment

AgnieszkaMonkによるPixabayからの画像

先代社長が磐田市に新しい姉妹ホテルをオープンしたという事で招待され試泊しにいった事があった。我が勤務先ではR.Sさんと私の二人が出席した。見学が終わり、舟をテーマにしたコーヒーショップで一息ついていると突然、先代社長が我々の目の前に現れ「どうだ?いいだろ?」と語った。嬉しそうだった。

あのホテルも先代社長の夢がちりばめられたホテルだった。設計は確か浜松のO事務所だったと思う。このホテルは少し遠くに東名高速、直近に国道一号線の袋井バイパスが走っており、車を運転する人にとっては多分、便利な郊外型のホテルだったと思う。ただ、バイパスだけに車がビュンビュン飛ばす道路が近くにある事で、ホテルの防音対策も取られていた。

その一つが窓サッシで、記憶ではエルミンサッシが使われていたと思う。また、客室内ではコンプレッサー音のしないエレクトロラックス社の冷蔵庫を採用していた。外からの騒音も聞こえない、冷蔵庫も静かなので、ヨシヨシと思いきや、実は天井内のファンコイルユニットの音が気になったのを覚えている。

普段はファンコイルユニットの送風音は気にもならない音なのだが、皮肉にも高性能窓サッシと無音冷蔵庫で静かになりすぎてしまっていた為にそんな僅かな空調の音が目立ってしまったのを覚えている。暗騒音という言葉を覚えたのもこの頃だった。

あれから、40年経ってしまったが、このホテルにも、その後いろいろとあったらしく、人手にわたってしまったらしい。ただ、後に我が友人の洋ちゃんが社長になった。すごい出世だなあ・・・と思ったが、この洋ちゃんは悲しいかな他界されてしまった。社長だった時に会いに行かなかったことを後悔している。あらためてご冥福をお祈りいたします。

今現在、このホテルは建て替え工事中だったかな・・・

 

日影図の苦労

日影

mbllによるPixabayからの画像

浜松の担当プロジェクトは丁寧に住民説明を進めていたが、一部反対もあり着工が遅れた。近隣住民からの意見が入る度に建築形状に調整が入った。客室階の階高を2950mmに縮めたり、タワートップの一部を削ったり。その度に日影図、等時間日影図を書き直した。そして丁寧に何度もご説明し、近隣の方々にご納得いただいた上で、着工、竣工し無事オープンした。

あれから40年以上経った。利害関係もある筈なので、あの場所独自のという視点ではなく、一般的な中高層建設工事における近隣に与える日影の影響について、又、毎日、等時間日影図を繰り返して書いてきたものとして、客観的な感想を書いてみたい。

一般的考察:日影・日照の影響

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あの当時は手書きで日影図を書いていたが、毎日日影図を書いてみて、分かった事があった。それはタワーの階高を低くして、建物を合計で2-3m程度、低くしたり、タワーの上部をいくら削っても日照を得るという根本的な目的の上では(実は)劇的な改善はない。

しかしながら、大事なのは縦の高さではなく横の広がりだったりする。既存建物の低層部が横に連なっていると、朝の8時~9時半まで低層部の陰になり、昼の11時から12時が高層棟の陰になり、再び午後3時~4時の間が影になり、合計3時間半が影になる。こういう場合、タワーを若干削っても、日影になる時間の合計が3.5時間から3.4時間になるかもしれないが、効果としてはそれほどでもない。

ところが、住民説明を行うと、どうしてもタワーがやり玉にあがる事が多い。住民側から「タワーを低くして横に広がる建物にしたらどうか」という意見があったとしても、それは、日照を得るという根本的な目的を考えた時、あまり良い考えとも思わない。むしろ悪化する事もある。

日影図は冬至日の太陽の位置による日影の線を表す。しかも平均GLから1.5m或いは4m. 冬至は夏至に比べて圧倒的に太陽高度が低いので、群れを成している既存や新築の低層部の屋根が案外焦点になるからだ。

コンピューターとの出会い
コンピュータは素晴らしい進化を遂げてきた。とても追いつけるものとは思わないが、気がつくとドンドン変化、進化している。子供の頃はコンピュータとは電子計算機だと思っていたが、用途が広がり、色々な分野で使われる。スマホ、自動車、家電、その他・・・

これについては、ケースバイケースで、どこでも同じ考え方かと問われてもそうとは言えないので、この話はこのくらいにさせていただく。

現場にいって揉まれてこい!

roof garden

1981年7月19日撮影

まだ浜松の現場が着工する前年の1981(昭和56)年7月19日、R.Sさんが担当プロジェクトの既存施設に連れて行ってくれた。まだ、私が25歳の頃だ。嬉しかったし、ありがたかった。施主との打ち合わせを済ませたが、施主側の担当者は一様に良い人たちばかりで、親切で優しかった。あの当時、私のような知識も経験も薄い若造をみんなRespectした接し方をしてくれた。

決して若造だからと馬鹿にする人は殆どいなかった。それが、自分自身への叱咤激励に繋がり、これはうかつな仕事はできないという意識に変わりつつあった。こう書くのは実は近年、設計事務所の新人スタッフに対しては、”転ばぬ先の杖”の教育で、外に行ってもRespectされない傾向が強く、風当たりも強く、プライドも何もない状態にさせられる事も少なくなくて、責任ある仕事を任せてもらえない風潮が顕著になったからだが・・・

実は我々の頃は、本人が知識があろうとなかろうと”現場に行って揉まれて来い”的な扱いだったので、ああいう空気の中で仕事をするといやでも、仕事を覚えざるを得なかったという感じがあった。ある意味乱暴なやり方だったが、建設会社も、施主もそんな私を受け入れてくれる奥の深さがあったし、比較的暖かい目で見ていてくれた。そして、教育して育ててくれたと思う。

改めて、皆様に御礼を申し上げます。ありがとうございます。

さて、ホテルの館内を回り、夕方になってから既存建物の屋上で開催されていたビアガーデンにR.Sさんから「行かまいか?」と誘われ、喜んで御同行した。ここが浜松か・・・と非常に感慨深く感じたものだ。

サマーフェスティバルへ

大宴会場

1981年7月撮影

翌日だったか、ホテルの中でも一番大きい秋〇台と言われた既存増築棟の中にあった大宴会場で、サマーフェスティバルが催されているからと、施主からご招待いただいた。ショーの内容は忘れたが、ブラジル人によるリオのカーニバル並みの踊りだったように思う。私は浜松という場所にのめりこみ始めた。

 

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浜松での生活

単身寮+従業員食堂

単身寮

単身寮 2007年9月21日撮影

道路を挟んでホテルの東側にホテル従業員の為の単身寮+従業員食堂がある。入野町(西伊場付近)に家族用の寮もあり、R.Sさん家族はそちらに住んでいた。私は独り身だったので、単身寮に住んでいた。内装設計のS君が常駐を始めた際に、入野町の社宅に行こうと誘われ、二週間ほど住んでいた事もあったが、利便性からホテル横の単身寮に戻ってしまった。

結局、私は常駐した二年間の殆どを単身寮で過ごした事になる。一階は従業員食堂で、とても格安で三食を食べることが出来た。ありがたかったな・・・単身寮の寮長は須川さんだったか・・・基本的には厳しい人だった。私は殆ど怒られたことは無かったが、ただ、単身寮に住み始めた頃、あの狭い部屋に現場事務所の人達を数人呼んで、宴の如く始めたら、えらく怒られたっけ・・・

あの寮の二階に私は住んでいたが、何人かお友達も出来た。3階にいた芝崎君だったか?ローレルを乗っていて、フリスコからサムデイに移った若手で、彼は面白い人だったが、確か東京に行くと言って、ホテルをやめていった。今頃どうしているかな?そういえば、私の隣の部屋にいた中華レストランの料理人もどうしているかな?

現場に常駐したけれども・・・

挫折

www_slon_picsによるPixabayからの画像

当時、現場に行けば自分は成長できると固く信じていたが、そんなに世の中甘いものじゃなかった。ラジオ人生相談を聞く事がある。加藤諦三先生が担当している日の質問で「アメリカに留学して英語を覚えたい」という人が現れると、加藤先生は頭ごなしに怒り始める事がある。ストレートに「アメリカに行ったからって英語が出来るようになる訳じゃない」という。

加藤諦三先生というと私が高校生の頃は、ラジオ”百万人の英語”の先生でよく聞いたものだ。そういう先生だったので、英語に対する思い入れも一入なのだろうとほくそ笑んでしまうのだ。妻は、加藤先生のそういう時代を知らないので、話してあげると喜んだ。再び話がそれてしまった。

百万人の英語 - Wikipedia

浜松の現場に常駐した当初から、現場定例会議に出席した。ただ恥ずかしい話、分からない用語がいくつも出てきた。私は学校で何を学んできたのだろうか?恥ずかしくなった。今はどうなのかは分からないが、当時は、設計事務所が現場に行くと、曲がりなりにも先生扱いされる。

嘲笑

TumisuによるPixabayからの画像

誤解の無い様に書いておくが、彼らは私が先生だなんてこれっぽっちも思ってはいないと思う。自分たちの現場をうまく進める為に、体よく社交辞令としてそう云っているだけに過ぎない。そういう状況にいい気になると後で痛い目にあう。

だから、ゼネコンや設備下請けが来て、我々に質問されたとして、もし分からなくても、「〇〇先生」と呼んでやってくるゼネコンにストレートに「それ、どういう意味ですか?」とは聞けない訳だ。分からないときは、せいぜい「今手がいっぱいだから、後でお答えします」としか云えない。

ただ、現実問題として、私の方から何語らずとも、ゼネコンや設備の下請けの方々が、私の知識が乏しい事に気が付くのに時間はかからなかったと思う。分からない事はR.Sさんには素直に聞いたが、何でもかんでも聞いていたらキリがない。これ以上ご迷惑をおかけする訳にもいかないので、本屋に行くことになる。

今だったらネットでいくらでも調べられる事でも、当時は本で調べるしかなかった。しかし、本屋に行ったからと言って、すぐに答えが分かるような本が見つかるとは限らない。仮にあっても、直ぐ分かるというものでも無かった。 結局、恥ずかしながら、多忙なR.Sさんに聞いたり、ゼネコンの先輩方に素直に聞くしかなかった。

それが現実だった。

スカイラウンジ”サムデイ”

サムデイでは大抵水割りだった。何度も通う内に、バーテンのM君やKマネージャーと意気投合し、仲良くなった。ビリージョエルの”ピアノマン”という歌がある。あの歌の中で”Now John at the bar is a friend of mine.He gets me my drinks for free.”というフレーズがあるが、まさにあんな感じだったな・・・具体的にはかけないけれど・・・ガッチャ、M君ありがとう。

夜中にお店がはねると、みんなと良く外食に行ったものだった。まだ20代だった。若かったなあ・・・そういえば、スタッフの芝〇君は同じ単身寮だった。芝〇君は当時日産ローレルに乗っていて、ハンドルさばきも上手だったなあ・・・彼も寮長からにらまれていたけどね・・・(笑)

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“インぺリ”でのスポットライト操作の経験

インペリ

インペリ1984年撮影

既存棟低層部に「インペリ」というシアターレストラン的な素敵な宴会場があった。六角形の中央ホールと少し小上がりになった周りの客席と高い天井。ホームページで確認すると現在はこの宴会場は見当たらない。 確か立席150人くらいの規模で結婚式に良く使われ、又、ディナーショーやコンサートにも使われていた。

坂田明のコンサートや松坂慶子のディナーショーも催された事があった。「愛の水中歌」が流行っていた頃でまだ松坂慶子が三十歳そこそこだったと思う。とても綺麗な人だった。坂田明はサックス奏者だが、あの当時ピアノも弾いていた記憶があって、ハチャメチャなのにすごい演奏という感じ・・・どう表現したらいいのか分からない。

インペリの調光室は舞台の対面の二階部分にあった。調光室にはハロゲン(いやクセノンピンかな?)のスポットライトが二台あり調光室から真正面の舞台にスポットライトを当てる。ところがメインの入口付近は調光室の直下なのでスポットが当てられない。これはちょっと困る訳で、例えば新郎新婦が出入りするメインのドアにスポットを当てる為には同じフロアーにいなければならない。

新郎新婦が退場する際は調光室の二台で舞台上の新郎新婦に先ずスポットを当てる。新郎新婦は調光室の直下にある扉まで歩いていき、直下の扉ギリギリまで調光室の二台であて、途中でスポットが切れるような形になる。当然ながらこの二台のスポットを新郎新婦に当てるのは二人のスタッフで行うわけ。

二人で徐々に光りを移動させていく作業はやってみると案外難しくて、自分のスポットがどちらなのか分からなくなってしまう。自分のライトが動いているのかと思うと何故か置いてきぼりになってしまって慌てる事もある。

現場事務所と周辺

玄葉事務所にて、筆者

玄葉事務所にて、筆者
1984年頃撮影

単身寮の隣に三階建の古い鉄筋コンクリートの建物があり、その一棟が現場事務所になった。当初はゼネコンさんの図面部隊が、東の高台の住宅の中にあった。話しによると栗原勝市長の旧邸を使っていたらしい。さて、鉄筋コンクリートの現場事務所の話に戻る。構成としては一階が設備工事の事務所、二階がゼネコン、そして三階が施主の開発準備室と我々の設計監理室、会議室があった。

設計監理室の私の席は南側の窓際で、明るい席だった。窓外を眺めると洋裁の高校があり、休み時間にその生徒たちが外で休憩している姿が見えた。現場事務所へのアプローチは少し不便で、北側にある階段から登って入った記憶がある。

FM8と格闘

さて、我々と同じ階の開発準備室にはトップのNさん、企画のYさん、総務のIさんがいた。皆さん、とても優しい人たちで、良く開発準備室に立ち寄り雑談をした。総務のIさんは当時マイコンに夢中になっていて、富士通のFM8を会社に持ってきて、新ホテルのPOSやコンピュータ関連について研究していた。


私も時々FM8に触らせてもらった。これが私の卓上型コンピュータとの出会いだった。マイコンとはマイクロコンピュータの略で、マイコンピュータではない事を後に知った。IさんはこのFM8でゲームもできる事も教えてくれた。この話しは長くなるので、別の章で述べたいと思う。

この事務所で業務をしていた頃、監理日報をしっかりつけるべきだった。当時の私はそれを怠っていた。その為、いつ誰が来たのかが今となってはさっぱり分からない。常駐した年は憶えているが、自分が何月何日に来たのかも分からなくなっている有様で恥ずかしい。先輩のR.Sさんは付けていたと思う。

既存改修工事の頃

スケッチ

聞き取りスケッチ
まだ私の26-7の頃に聞き取り結果を描いたスケッチ。まだまだ、下手だね。

ハードディスクを調べていたら、浜松常駐していた頃のスケッチが出てきた。既存改修部分の聞き取りの記録、そしてそれを改築部分にどう反映するのか表現されていた。とても懐かしかった。今見てみると未熟なスケッチだけれど、当時の一生懸命さが伝わってきたような気にさせられた。既存改修エリアは時間が無く、ゼネコンと建築設計は新築工事エリアとは違うメンバーが担当した。定例会議は毎日夕方から開催された。

ゼネコン側の建築担当の佐々木さん?が、リーダーとなり、あるルールを決めた。

  1. 問題は持ち帰らない。その場で結論を出す。
  2. 間違えても人を責めない。
  3. 設計であろうと下請けであろうと、立場に関わらず、みんなで一丸となって問題を解決する。

という内容だった。結果的に言うとこれは自分にとっては非常に良かった。
当初はRSさんと私の二人だったが、R.Sさんは途中から私に任せてくれた。それは重責だったが、とても嬉しかった。ただ、いつも心配の種を持ち続けることになるので、それはそれで結構つらい。

毎日自分で決めた事は、全てR.Sさんに報告した。ダメな箇所があったら、翌日既存改修定例で頭を下げて、訂正する。とにかく時間勝負だったので、悠長に図面を描いている暇はない。建築や内装に関わる部分は、その場でスケッチを描く。そのスケッチを元に定例に参加しているみんなで頭を突き合わせながら、問題点を解決していく。この定例は夕方から始まる。

こじれた問題がなければ、1時間半くらいで終わるが、場合によっては、2-3時間かかる事もあった。
この時の仕事への対応の仕方、スケッチをどんどん描いていく姿勢はその後の私の糧となり、そのスタイルが自分のスタイルになっていった。

あとがき

この記事を書いた際はあまりに浜松への思いがこみ上げてきて、たくさん書きすぎてしまったので、内容を省きなるべく現場付近の話に揃える事にしました。そして、省いた内容は、内容を改めて、表の家別邸で蘇るように致します。

 

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コメント

  1. うしとら より:

    アクトシティは私が大学時代に竣工していて、
    日本設計の設計チーフの方が学校に講義に来られたこともあり、
    浜松と言えばアクトシティという感じがします。
    特に、今では普通になった免震構造の先端を行っていた物件で、
    船舶用の制震装置が搭載されたことが話題になっていたのが印象的でした。
    たしか、制震装置の振り子が数十トンあり、
    そんなデカ物を建物の高層階にどうやって吊り込むのか?
    ということを仲間と話し合ったことを思い出します。
    東名自動車道を走っていても、かなり遠方からでも分かりますよね。
    アクトシティも新しい建物と思っていましたが、
    30年近く経ってしまったことに驚きます。

  2. うしとら様コメントありがとうございます。
    アクトシティ浜松の区画は貨物ターミナル移動の頃から数えるとかなり前からと言うことが出来ますが、建設としては1991年着工、1994年竣工でバブル崩壊後の難しい時期に良く着工したものだなあと思います。同時に建設業界は1995年くらいまでは、かなりの数のプロジェクトの竣工が控えていたので、私にとっての、この頃のボーナスが一番額が良かった。あのタワーはいまだに古さを感じないですね!オークラが入っているものの、前職場では、何故か設計が絡んでいなかった。学生の頃、アクトシティの講義を聴いたという事は、うしとらさんが就職された頃は建設業界が縮小し始めた頃で色々と大変だったのでは?

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