私版”私の履歴書”
建築設計をしてきた半生(学生の頃)
四十三年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。働き始めた頃、例外なく私も尖っていたが、自分の考えが、いかに井の中の蛙レベルであったかろうか?思い起こせば少々恥ずかしい。先輩方には随分生意気な事を言ってきたと思う。改めて反省したい。そこで自戒も含め、この一文を書いてみる事にした。
浜松に常駐し、スリランカ→台湾→イスタンブル→香港と常駐し、1990年代からは、中国関係の仕事を多くこなした。2000年に一旦帰国し、熊谷や沖縄などの国内の仕事についたが、徐々に中国の仕事が忙しくなると、再び海外プロジェクトをこなしていった。その後シンガポールに常駐を経て、退職する事になった。
現在は、造園関連の会社でお世話になっている。今までの設計事務所で行っていた業務とはかなり内容が異なるが、現在の職場の方々はみな人柄の良い人ばかりで、有意義な毎日を送ることが出てきている。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私もこの表の家の記事の中で自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。
どなたか共感できる人がいたらありがたい。
報酬は要りません。勉強させて下さい
建築学科に学んでいた学生の頃、夏休みのアルバイトといえば、父のビジネスである輸入高級果物関係の職場に行き売り子をやっていた。つまりデパートの果物売り場での売り子だ。デパートというのは色々な会社がひしめきあっている所で、お互い関連無さそうだが、案外助け合いがあったり、男女の出会いがあったり、人間関係が面白く、それはそれで楽しかった。
建築関係はどうかというと、親戚の伯父が屋根の防水工事をしていたので、トレースを頼まれた事もあった。また、同級生に誘われて有名なT事務所やK事務所に行ったこともあった。T事務所やK事務所は大きい事務所だったが、所謂アトリエ事務所的要素が強く給料も安い、どちらかというと手弁当で行き「給料はともかく勉強させて下さい」と言える人が通っていたイメージが強い。
私たちへのバイトの手配をしていた人もそんな人だった。バイト代も出るには出たが、知り合いの女の子がバイトをしていたマクドナルドよりもかなり低かった印象がある。
しかしながら、手弁当でアルバイトをする・・・そういう謙虚な気持ちで勉強する時期もやはり必要なんじゃないか?とも思う。建築の設計は不思議なイメージがあって、血液型で言えばAB型で、芸術家の要素とエンジニアの要素の二つが一体になっているのではないかと思う。その為か、学生の時も芸術色の強い人とエンジニア色の強い人が入り交じっていた。
四谷の事務所で勉強してみないか?
さて、どうしようかな?と思っていた矢先、父の勤務先のビルを設計した副島建築設計事務所があり「副島先生の所で夏休みの間、勉強してみないか?」という話が舞い込んできた。私はありがたい話と思い、先ずは事務所にお伺いする事にした。四谷舟町の西迎寺付近でとても静かで閑静な場所だった。
早速事務所に伺い、副島先生にお会いするとかなりのご高齢の方だったが、人柄のとても良い優しい方だった。私は「報酬は不要ですので、是非勉強させて下さい」と申し上げ「それでは明日からでもいらっしゃい」と言われた。交わした言葉はその程度だったと思う。先生の二番目の方が面倒を見てくださる事になった。
透視図を毎日描き続けた
翌日からそこで何をしたかと言うと、某医院の手書きの二点透視図を書くことだった。二つの点とラインが書かれただけの台紙があり、その上にトレペ(トレーシングペーパー)を敷いて、平面図を見ながら、透視図を描いていく。これを毎日毎日、延々と描いた。これを続けると、段々台紙が無くても描けるようになってくる。不思議なものだ。
ただ、この作業は実際に客先に見せたのかどうかはなんとも言えない。どちらかというと私が勉強させていただいた・・・という事実だけが残ったのではないか?スタッフの皆さんも優しい人たちばかりだった。昼ご飯を食べに近くの洋食屋に行ってミックスフライ定食(タルタルソースがかかっていた)を食べたっけ・・・あれは何処だったのかな?
夏休みも終わる頃、ここでの仕事(いや、勉強)も終わり、最終日に先生に御礼を申し上げた。これで終わりだと思ったが、何故か、先生が封筒を私に手渡し「少ないけれど、ありがとう。勉強になりましたか?」と言われた。その封筒にはお札が入っていたのだ。私は恐縮した。副島先生、あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。
副島先生の事務所には、あらためて、ご挨拶に伺いたいと思っている。2023年現在、四谷舟町の西迎寺付近で副島先生の事務所の有無を調べてみたが、残念ながら見つからなかった。ご子息の方がどこかで開業されているかもしれない。
ポール・ルドルフ
学生の頃憧れていた建築家は-ポール・ルドルフだった。当初、神田神保町近くの南洋堂でa+uのポール・ルドルフ特集(1977年7月臨時増刊号)を見てほしくなり(プレミアがついて少々高かったが)購入。
ポール・ルドルフ建築パース図集も購入。
毎日このパース集のパースを見ていた。後にシンガポールオフィスに常駐していた際にフィリピン人スタッフが「このパース集を毎晩抱きかかえながら寝ていたんだ」と語っていたが、私も同じだっただけに話しが盛り上がった事は言うまでもない。
なぜそんなに見ていたかというと、建築的に好きだったからという事もあったが、学生時代の講師に納賀雄嗣先生がいた事も大きい。納賀先生はエール大学を卒業後、ポールルドルフ事務所に10年近く勤務していた。その頃のエピソードとして、あのパース集の点景を納賀先生も書いていたと言う。点景の中に一生懸命”のうが、のうが”と書いていたと面白おかしく話していたっけ。
アルファベットで書いたのか、日本語で書いたのか聞かなかったが、毎日のようにパースの点景を見ていた訳だ。ポール・ルドルフの日本作品としては愛知県の大栄ビルヂングがあった。これはポールルドルフのスケッチで、山下司氏と納賀雄嗣氏が実施設計をしたらしい。
現在は大栄ビルジングではなく、アーク栄東海ビルである。中々見に行けないので残念だ。Street Viewで見ても古臭く見えない。
神田神保町付近の建築専門書の店は南洋堂書店と明倫館書店でどちらも良く通ったが、南洋堂書店の目のクリっとした女店員の笑顔に誘われて良く通った。あの人は店主の奥様だという噂があったが真実はよくわからない。現在明倫堂書店の目録を見ると建築以外に多くの分野の本を扱っている様で、対象を変えたのかな?
我々が学生時代の南洋堂書店は確か木造二階建ての小さな書店だった記憶があるが、途中で工事をして、最終的には打ち放しコンクリートのモダンな書店になった。
建築の専門書は高くて、中々買えない本が多かった。インターネットの普及している現在と違い、あの当時新しい建築を知るには本に頼るか、或いは建築マップで歩いて回るしかなかった。
レモン画翠といずみや画材店
私が通った駿河台付近の画材屋さんはレモン画翠といずみや画材店(現在の”トゥールズ お茶の水店”)だった。いずみや画材店は御茶ノ水駅の御茶ノ水橋方面から西に少し歩いた所、レモン画翠は御茶ノ水橋と聖橋の中間あたりだった。どちらも神田川に近い。いずみや画材店の渋谷のお店は大正八年からと歴史が古く、我々が愛用していたデザインマーカーのコピックを開発した会社でもある。
レモン画翠は私が学生時代は確か木造二階建てで真っ黒の外装だったと思う。あの場所で異彩を放っていた建物だった。お店には私より三、四歳上と思われる女性がキビキビと働いていたのを憶えている。必要なケント紙などを頼むとガラガラと引き出し、手際よく丸め渡してくれる。喫茶コーナーもあり、人との待ち合わせにも使ったことがあった。
このレモンに加えて、マロニエ通り方面にもカフェ・レモンがあった。確か中庭に面したお店で小洒落たお店だった。当時同級生と行き、東孝光設計だと思っていたが、どうやらレモンの歴史をみると境沢孝氏が本店と共に関わっていた様なので、私の勘違いがあったのかもしれない。
駿河台で通った喫茶店
ただ、レモン画翠の喫茶コーナーは洒落ていたが、私のような庶民には寛げないというか、何となく落ち着かなかったのを覚えている。この為、御茶ノ水でもっとも良く通った喫茶店はニコライ堂前のMAX,レモン前のサンロイヤルや名曲喫茶ウイーンだった。それにしても学生時代は頻繁に喫茶店に通っていた。時間が余るとパチンコ、麻雀、喫茶店だったように思う。
Maxは素敵な店で、ファサード正面が全面ガラスで客席に座ると窓ガラスの先にニコライ堂のツタの絡まった擁壁が全面的に見えていたので、額縁の絵の様に感じたものだ。サンロイヤルはお城のような外観で、入口に立っている店員の「はい、いらっしゃいませー」がいかにも、飲み屋のそれの様な感じがして、正直な話、品が無かった。
ただ中に入ると比較的空いていたので、安価で長い時間居られ重宝した。階段が楕円形のらせん階段だったと思う。
名曲喫茶ウイーンは、ステップフロアーの造りになっていて、階段とホールが一体になった変わった設計になっていて、階段を少し上るごとに椅子テーブルがあるような造りだった。この点がサンロイヤルと違う所だった。ただ、その階段が建築法規に順法しているとは思えない感じで、避難の事を考えた時に、これ、火災になったらどうなるんだろうか?という心配があった。
思い出すために、数年前ネットでサンロイヤルと名曲喫茶ウイーンについて調べたことがあった。ところが、ネットによるとサンロイヤルとウイーンがごっちゃになっている書き込みが多く、困った。あれらは別々の喫茶店だったのだ。1978年頃の住宅地図を調べると向かって左側にウイーンがあり、右側にサンロイヤルがあり並んでいた。
ちなみに現在も左がウイーンビルであり、右側がサンロイヤルビルである。仕方なく、千代田区図書館のレファレンスに聞いて、せめてウイーンの外観になるような写真がないか聞いてみたのだが、分からなかった。テルマエロマエの作者山崎マリさんがウイーンで働いていた事があったというエピソードがあったが、何故か建物の写真はサンロイヤルだった。
多分、働いていたのはサンロイヤルだったんじゃないのかな?確かに隣同士だったので、どちらがどちらなのか分かりにくいというのはあの当時も同じだった。だれか正確な情報を憶えている方が居たらご意見をお願いしたいです。
月光荘の薄点スケッチブックと黒沢隆先生
学生一年目、好きだったはずの建築設計がどうも違うんじゃないか?と思うようになった。これは自分自身の怠慢と勉強不足であるが故の事ではあったのだが、自尊心でそうは思いたくなかったのかもしれない。二年生になり駿河台に通うようになると黒沢隆先生が建築設計の授業が好きになった。
黒沢先生は理屈が多かった。ただ、自分の理論である個室群住居の事になると目を細め嬉しそうに話していた。気さくな一面だった。個室群住居については描き始めると長くなるので下記のページをご参照いただきたい。
黒沢隆先生は、住宅の設計をする際は月光荘のスケッチブック(ウス点)を使えと勧めた。
これは紙の表面に1cm方眼に薄い点が打ってあるスケッチブックで、1/100の平面図の設計をする際はこの点と点を結ぶと1mという事になる。現在の月光荘は銀座8丁目にあるようだが、私の学生時代月光荘は銀座5丁目の泰明小学校の付近にあった。月光荘はピアニスト中村紘子の母親である中村曜子の経営する画廊であり画材屋であった。
レモン画翠やいずみやと違い、ここの月光荘の画材売り場は混みあっていないので、美大系の可愛い女店員と楽しく話をしながらウキウキ買い物が出来た。それが月光荘に行く楽しみだった・・・
ただ、月光荘はその後、大きな事件の渦中のお店となる。詳しくはここでは述べないが、下記のページで詳しく書いている人が居るので、そちらをお読みください。
レトラセット:スクリーントーンとインスタントレタリング
良い図面かどうかは色々な要素があって、線に勢いが無いと弱弱しく見えるという部分はあったが、やはり文字が下手であると、図面全体の出来も悪く見え、様にならなかった。必ずしも習字の先生の様な字である必要は無かったが、パッと見てはっきりと分かって、主張する様な字が良いと思った。所謂ネズミののたくるような字ではダメだった。私も大学生時代は図面の文字に関しては、自信が無かった。
レモンで買ったケント紙を使い、図面をバリっと見せる為、所謂ショードローイングとして作製する為には、レトラセット社のインスタントレタリングを使いたくなった。同時に同社のスクリーントーンも役立った。
ただ、インスタントレタリングは文字が途中でなくなったりするし、高価で、そんなに何枚も買えなかった。設計製図の課題にあのレトラセットを貼る事が許されていたのか、思い出せない。またレトラセットの製品を多用すると図面としてバリっとはするんだが、それが即ち設計の成績にはつながらなかったという記憶がある。
外構の芝の表現で細かい線が必要だった為、日光の丸ペンを使って描いていた。あの丸ペンはマンガ家でも使うペンでしっかりとした腕のある人が使えば、それなりに描けるペンなのだが、夜中眠い目を擦りながら描いていた事もあって、ある瞬間インクがボタッと図面の目立つ場所に落ちてしまった。ケント紙なので、砂ケシで消そうが何しようが綺麗に修復出来ず、仕方なく翌日提出したら、講師に「やってしまったね」と言われたっけ・・・
後にロットリングで描いている人の話を聞いて、私もロットリングに替えたっけ・・・
電算の授業
電算についても授業があった。正直に申し上げて、退屈な授業だった。分からないから授業にも身が入らない。そして身が入らないから、授業も分からない。これは悪循環で、落ちこぼれていく第一歩だったと思う。分かりやすい参考書は無いかと本屋に探しに行った事もあったが、専門的過ぎたからか、適当な本も見つからなかった。
教科書はFACOM FORTRAN入門と書いてあった。電算機は業界によって使う言語が分かれているらしく、建築の構造計算にはFORTRAN言語が適していたのかもしれない。
FORTRANとは1954年にIBMによって開発された数値計算に適したプログラミンで、Formula Translationを略してFor-Tran というらしい。FORTRANはその後のプログラム言語に影響を与えたらしい。記憶があいまいなので、もし間違いがあったらご教授願いたい。確か、FORTRANは後に言うBASICに似たプログラム言語だけれど、書いたプログラムを機械語に一度コンパイルしてから計算する。
一行7文字だったから制限がある中でプログラミングをしパンチカードを穿孔する。プログラミング文章の一行がパンチカード一枚になる。50行あれば50枚のパンチカードになる。この穿孔されたパンチカードを電算室にあった大きなコンピュータであるFACOMに読み込ませて、計算させる。
パンチカードが間違えてない限り計算結果は出るが、間違いがあるとエラーが出る。こうなるとカードの見直し、プログラム自体の間違いのチェックをし直すことになる。
実習で勉強した内容は多分、現代であれば手計算でできる内容なんだけど、コンピュータにやらせるという前提がある為にたくさんの大回りの手順を勉強した。この為、多くの時間を費やす事になる。この頃はちっとも効率的な事をしている印象が無かった。あまりこの授業は好きじゃなかったなあ!
結局は構造計算をするんだろ?と高をくくっていた。このプログラミングの授業というものが、実際どの様に意匠設計に関係してくるのか、まだイメージが出来ないでいた。当時は設計、図面と言えばホルダーに研芯器、製図版にT定規、トレペにドラフティングテープという感じだったので、
現在のようなCADで図面を全部描いていくという考えには及ばなかった。
ただ、現在は2DCADは過去の産物で、3Dベースで物を考えるようになっている。この為、BIMをどうやって業務に生かしていくのか?という事が焦点となり、どうやってBIMを使っていくのかという事がトレンドになっている。私も前職の頃、BIMに関する展示会や講義を受けていたが、恥ずかしながら実際私は付いていけなかった。結局私は学生時代と変わらないと言えるのかもしれない。
石打セミナー
あれは三年生の頃だったか、大学の課外授業として石打セミナーが開かれた。一週間ほどのセミナーで何人かの講師が入れ代わり立ち代わり講義をする。色々な先生が居た中で、故宮脇壇先生が居た。宮脇先生は芸大卒業+東大修士を出た方で、吉田五十八先生や吉村順三先生に師事していた。
学生時代の帝人メンズショップの設計で得た収入で日本を回り、集落の美しさに触れ、後のデザインサーベイに繋がっていった人。第一印象はかっこよくて、芸術家というタイプで一度会ったら忘れないタイプ。異彩を放っていたね。
当時石打へは、上野から各駅停車で行った。座席はクロスシートで四人席の車両だった。途中、埼玉の高校生の女の子たちが乗車してきて楽しかったのを覚えている。多分、途中から上越線になったのだと思う。どう乗り換えて石打に到着したのかは覚えていない。石打というとスキーを思い出すが、我々が石打に向かったのは夏真っ盛りの時だった。季節外れで、宿泊代も安かったのかもしれない。
石打セミナーの会場となった民宿の近くには綺麗な川が流れていた。魚野川である。河原に立つと丸石がゴロゴロしていて、深さはそれほどでもないが、流れが速い。みんなでこの川で遊んだっけ・・・ただ、水中の玉石にはコケが生えていて、どうかすると滑ってこけそうになる。こけるとあの流れの速さで流されそうになり危ないのである。
夜になると魚野川の周辺に天から舞い降りてきた天の川が見えた。それはホタルの大群だったのだが、幻想的だった。
食事をした場所
食事をした場所で一番多かったのは多分学食だったと思うが、それが果たして何号館にあったのか、記憶が無い。ただ、同じ駿河台に学んでいたK.Aさんの校舎が移転になってしまう前に、K.Aさんの学校の学食に入った事があった。安くて、コロッケ定食が200円程度だった記憶がある。
その他外食で行ったのは、駿河台の丸善横の道を靖国通り方面に降りていくと、途中で太田姫稲荷というお稲荷様がある。その付近に居酒屋福八があり、そこのショウガ焼肉定食はよく食べた。威勢のいいオジサンが注文を仕切っていて、ショウガ焼肉を頼むとガラ声で「ショーガヤキニク一丁!」という一言が良くて面白かった。
綺麗な形のロース肉を使った洋食屋のショウガ焼肉ではない、バラの切り落としの寄せ集めの様な安そうな脂がしっかりのった肉を使った”居酒屋のショウガ焼肉”がうまかった。
洋食で思い出したが、御茶ノ水駅聖橋口並びに間口の小さな店が並んでいるが、その中の一つレストランカロリーも何度か行った事があった。カロリーは添え物のスパゲティが、一度焼き直してあり、パリパリした感じに仕上がっているのが好きだった。
キッチンジローは神保町方面だったかな?当時は思ったほど行かなかった・・・ただ、神保町の人生劇場というパチンコ屋さんの裏辺りに安いラーメン屋さんがあって行った。シナチクと鳴門巻きなどが載っているしょうゆ味の東京ラーメンという感じで300円前後でえらく安かった。神保町は私の曾祖父が書店をしていた頃、希少本を探しに行っていたと聞いた。あの神保町の街並みは街並み遺産というものがあれば、是非登録したいと思う。
書店を訪れると独特の匂いがしていい。各書店ごとに専門分野が異なり、たとえ希少本を持っていたとしても、店を間違えると安い値段付けをされてしまう。昔の商店主の威厳みたいなのが残っていて、実に面白いのだ。中国関係だったら、内山書店だった。そうそう、私がまだ卒業する前は内山書店に行くと(内山書店だけではなかったが)毛沢東語録の赤本が山と積まれていた。
田村書店はフランスやドイツ文学の店だけど、和本も結構あって、黄色いしおりが貼ってあるのは大抵高い本で、雪月花とか宮武骸骨の本などがあって面白い店だった。ちなみに美文韻文の雪月花は5000円くらいしたが、買ってしまった。また、少し離れるが鳥海書店は植物図鑑や生物図鑑などが豊富で、沖縄の植物を調べるときはあの店で物色したものだ。
少々サブカルな話
あれは高校の頃だったか、書泉グランデと小宮山書店の間の道を入っていくと怪しい大人向けのお店があったのを思い出すが、ストリートビューを見ても見つからない。もう無くなったのかもしれない。駿河台下の靖国通り沿いにビクトリアというスキー用品店があった。そのビルの二階だったか忘れたが、雀球屋さんがあってK.Aさんと行った事があった。
雀球屋さんは神保町から水道橋に向かう途中の左側にも木造二階建てのお店が一軒あった。あの当時はアナログでメダルを出すシステムだったので、従業員にしっかり申告しなければいけなかった。一番間違えやすいのは、天和で、見た目は単なる平和でも、役満なのだが、しっかり話さないと見分けがつかない。お墓の水道栓の様なキーで盤面の右上に差し込み右に回しひねる。一回ひねれば一枚、二回ひねれば二枚という感じ。
店に入ると大三元〇枚、国士無双〇枚とか張り紙がいっぱいあったのを覚えている。
ここ二十年以上あの手のゲームをしていないが、雀球が無いという噂を聞いて、そりゃそうだろうなあ・・・と思いつつ、調べてみたら、どうやら法律的に古い機種が使えなくなったポイントがあったらしく、それが2007年のパチンコ・パチスロみなし機問題だったらしい。4号機から5号機に仕様が大幅に変わったポイントで、それまでの機械は設置許可が下りなくなったらしい。
あの道沿いをもう少し水道橋によった場所に研数学館という予備校があった。古い建物で雰囲気があった。高校生の夏期講習の時に英語と数学を習ったと記憶している。英語はおじいちゃん先生で名前は忘れたが、受動態の説明が独特で面白くて、授業に引き込まれた。
また、駿河台界隈に国際というビリヤード場があった。あれは明大通りを靖国通りに降りきる少し手前の左側だったと思う。ビリヤードと喫茶店が同名で営業していた。同じ系列なんだと思う。喫茶店の女店員が妙に蓮っ葉で、我々が行くと子ども扱いしてからかわれた。
我々のビリヤードはローテーションばかりで音のする派手なゲームばかりを好んだ。好んだというより、それしか出来なかったと言った方が良い。四つ玉、三つ玉のテーブルもあったが、これは上級者向けで、静かにカツッ、カツッというすこしぶつかる音が聞こえるだけ。下は神田川沿いの淡路亭というビリヤード場だが、営業しているのかどうか?
淡路亭は本当に上級者が来るような場所で、我々の立ち寄る遊び場では無かった。”マッセは○○点以下の方は禁止”みたいなことが書かれていた。どうやら初心者がマッセをするとラシャが破れるかららしい。店主の女将さんみたいな人がいたっけ・・・
学生運動と駿河台
1970年代前半までは学生運動を肯定化して考える市民も少なくなかった。運動家本人たちも世の中の為に良い事をしているという意識の高かった人も多くいたと思う。ところが、安田講堂事件、あさま山荘事件、内ゲバやその他の内紛で(詳しくは書かないが)非人道的な行動をする人たちの行動が明るみに出始めると、世間の彼らに対する見方は徐々に否定的に変わってきたと思う。
学生運動は高校にも飛び火していたのか、1971年我が六中の講堂で高校説明会が行われた時、「我が校は学生運動がありません」が売り文句になっていた記憶がある。
それから4年目の1974年私は大学生になった。その当時は学生運動がかなり沈静化していたものの、明治大学の前では、例の独特の文字で「我々は・・・」、「無限スト続行中」と書かれた立て看板がいくつも見られ、明大の前や御茶ノ水橋付近でシュプレヒコールを上げている学生がいた事を覚えている。
当時の明治大学はそんな状態であったが、また中央大学はそもそも日本のカルチェラタンを目指すような場所だったので、ここも意気盛んな学生運動が盛んで、我々が教室にいると中央大学の運動員がドカドカと入ってきて、自分たちの主張を書いたちらしを配っていた。当時私はノンポリで、学生運動とは無縁の生活だった。中央大学が駿河台にあった頃のビデオなので、ご紹介したい。
その後、中央大学は八王子に移転した。同級生も八王子に行き寂しい思いをしたが、あの移転は前々から計画されていただろうが、激化した学生運動と無縁だったとは言えないと思う。移転先の八王子キャンパスは久米設計に設計され、新建築にも掲載された。一度同級生を訪ね遊びに行った事があった。
http://www.nikkenren.com/kenchiku/pdf/257/0257.pdf
明治大学昭和35年の記録
中央大学がかつての姿が分かる良いビデオがあったので、明治大学はないものかと探したらこういうのがありました。
空から見た御茶ノ水、駿河台周辺:1971年
貴重なフィルムだと思います。ご参考まで。
懐かしい動画
昔の動画を探していたら色々とあったのでご紹介します。
4:08 御茶ノ水橋を渡る
4:17 御茶ノ水駅の御茶ノ水橋前口正面にあったパチンコロイヤル
5:07 靖国通り出るところ、右側には書泉ブックマート
駿河台の建築
駿河台にはメトロな建築が多かったが、現在はかなり刷新されている。色々ある中で、私が比較的好きな建築を二点だけご紹介したい。
アテネフランセ:吉阪隆正設計 昭和37年。マロニエ通りを真っすぐ歩き線路に突き当たる手前にある。
山の上ホテル:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計。市川市にもヴォーリズ設計による教会があり、中を見学したことがあった。
とりあえず、学生編はおわり
学生時代だけで長くなってしまっているので、就職後と分ける事にしました。学生時代の話はまだ、終わっていなくて、思い出したら書きますので、よろしくお願いいたします。履歴書と言っておきながら、話が四方八方に飛んでしまいとりとめもなくなりましたが、どうかお許しを!この後は、就職後の履歴書ですが、時々更新しますのでよろしくお願いいたします。
関連記事
おまけ
神保町の本屋さんを列記してみました。下記ご参照お願いします。
コメント
私の方が時代が下りますが、全く同じエリアで、同じ建築を学んでいたので、南洋堂、明倫館、レモン画翠などなど、とても懐かしいです。生協では無色のトレペしか売っていなかったですが、レモンに行くと黄色のトレペがあって、憧れました。
今の学生は手書きの図面など書かないのでしょうか?入学とともに何も分からずにT定規と製図板を買わされましたが、後から平行定規を買うべきだったと後悔しました。
今な無き青焼き、ジアゾ液が有害で調達不能になるまでA1図面は青焼きを使用していました。青焼きと共に死語となったもの、第二原図、字消し板、ドラフティングテープ、ホルダー、ロットリング、テンプレート、電消し・・・。職場に大量にあったこれらの備品を処分したときに、時代が変わったことを痛感しました。
うしとらさん、
コメントありがとうございます。途中で知りましたが、色々とコメントを書いてくださっていたうしとらさんがやはり建築業界にいる方だというのは私にとって新鮮です。私の前職の職場では、ドラフティングテープ、巻きトレーシングペーパーは残っています。やはり悩んだ時は図面の上にトレペを当てて、スケッチしていくという作業は捨てられませんでした。私に近い年代の人たちはそうやって描いてました。ただ、時間と共に製図板、平行定規が消え、パソコンデスクとパソコンだけの設計室になっていくと隔世の感を感じます。現職では、フリーデスクですので、製図板はありませんが、時々トレペで説明用のパースを書くことはありますね。
建築学生時代の思い出、私も同じ様な思い出があり、色々と思い出されます。
設計エスキスでのご指導で、己のセンスの無さを思い知り、憧れていた意匠の道は諦めて、技術系に転進し、現在に至ります。
社会人になってから仕事関係で「山の上ホテル」を使用していた時期があり、あそこの喫茶室に居ると、よく有名人を見かけました。その頃は別館もあったのですが、いまは明治大学の取り込まれてしまったようです。たしか、数年前に火事になってニュースになっていましたよね。
ロットリングで図面を書いたことがない人は、定規が階段状に逃がしてある意味が分からないでしょうね。昔はペンプロッターが今の3Dプリンターの様に見えましたが、インクジェットが登場して一瞬にして消えてしましたね。
私は登山もやっていたので、登山で世話になったお店が思い出されます。以前はスキーや登山の老舗が大小多かったのですが、随分と閉店してしまいました。ネットで購入できる様になったことが大きいと思いますが、専用品などは店員さんに相談して購入した方が納得がいく買い物ができることが多いです。明大通りのお茶の水スクエアのすぐ下に「内外地図」という地図専門店があり、国土地理院の2万5000分の1の地形図などはこちらで購入していました。
私の学校の校舎の一部は、昔は中央大学の校舎だったそうです。
隣には三和銀行(今は三菱東京UFJ)があり、学校内にも三和銀行のATMがあったことを覚えています。
うしとら様、
こめんとありがとうございます。
設計エスキスに関しては、今思えば私も自慢できるようなものではありませんでした。ただ、愚直なくらい自分が自分自身を評価していたあの当時が、小恥ずかしい限りです。
> ロットリングで図面を書いたことがない人は、定規が階段状に逃がしてある意味
溝引きの事ですか?そういえば、絵具でパースを書く際には、カラス口と 溝引き棒の二つを持って、描いたのを思い出します。スキーは御茶ノ水では買いませんでしたね!もって帰るのが大変そうだったので、昔松戸駅西口にビバスポーツというのがあって、そこで板、ビンディングのセット、ストックなどを買いました。ただ、安いのを買ったので、単に木製だったのを知らず、草津温泉の振り子坂で激しくスッテンコロリンと転んだ時に、板の先端が折れてしまいました。今でもあの時の折れた板の写真があります。安物はダメですね。
内外地図は私も行った記憶があります。卒業設計で、飯田橋駅付近の神田川の再開発を計画したので、地形図を買いましたね。懐かしいです。
うしとらさんとは色々と共通点があって、興味深いです。