つれづれなお話

私版”私の履歴書” 建築設計(就職後)

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私版”私の履歴書”(就職後)

建築設計をしてきた半生(就職後)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。働き始めた頃、例外なく私も尖っていたが、自分の考えが、いかに井の中の蛙レベルであったかろうか、思い起こせば少々恥ずかしい。先輩方には随分生意気な事を言ってきたと思う。改めて反省したいと考えこの一文を書いてみる事にした。

前回は、学生時代までであったが、今回は就職後のお話である。当初は一緒に書こうと思っていたが、思いのほか長くなってしまったので、二つに分けることにした。

どなたか共感できる人がいたらありがたい。

就職

プラタナス

zerlinaによるPixabayからの画像

学校では夢の様な事ばかり考えていたが、いつしか就職する事になる。何社か試験を受けに行ったが、中々合格しなかった。あれは、プラタナス並木の葉落としをしていた季節だったと思った。教授推薦枠の会社があったので、自分の作品のブックレットを持って、その会社に面接に行った。ところが恥ずかしい事に、財布を忘れた。持っていたのは通学用の定期券だけだった。

慌てて、駅事務所で事情を説明し、お金をお借りし、会社についた時はすでに10分ほど遅刻となってしまった。受付の女性が笑っていた。これはダメかな?と思った。筆記試験は無く、面接だけだった。自分のブックレットを見せて説明した。一人から質問が出た。K氏だった。「白黒の作品ばかりだが、カラーの作品はないのかね?」

咄嗟に「カラー作品は御見苦しいのでお持ちしませんでした」と言った。笑われた。これは落ちたな!ダメかなと思った。ところが、何故か後日合格通知が来た。

青図

Blue print

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大学で学んでいた頃、殆どがケント紙に描いたので、青図はほぼ作らず就職してからだった。毎日、ステッドラーのホルダーを削りながら、描いていく。会社に入って間もない頃は、展開図ばかり描いていた。あの当時描いていたのは、愛媛県の松山に出来るホテルや伊良湖のホテルの改修図面だった。

図面はほぼ全てトレーシングペーパーで、平行定規で書いた。青焼きの機械で、プリントする。描いたトレーシングペーパーと感光紙を合わせて、機械に通す。これで、青図が出てくるのだが、時々どうかすると紙が絡まって、詰まってしまう。詰まってしまうのが感光紙だけだったら良いのだが、トレーシングペーパーが絡まると大変な事になる。私も何度かやった事があった。

芸術的なスケッチから図面を起こす

スケッチ

Bianca Van DijkによるPixabayからの画像

芸術家のような上司K氏から図面の指示を受けた。受け取るのは全くのフリーハンドで書かれたイメージ図で「こんな感じで、描いてみなさい」と言われる。これが訳の分からない図で、訳の分からない用語が出てきて、途方に暮れる事も少なくなかった。

そういえば、先日、岸和田の三姉妹の一人、コシノジュンコさんとマツコの番組だったと思うが、コシノジュンコ先生がマツコの服をデザインしてあげると言って、ササっとファッション画を書き上げ、御付きの人に「こんな感じで作ってみなさい」と指示していた。あんな感じである。会社に入った頃、インテリアのK氏から「こんな感じで描いてみなさい」と指示を受ける。

これが本当に訳が分からないスケッチなのだ。でもそれだけ、私の引き出しも無かったし、実力も無かったし、デザイン力も皆無だったのだから仕方ない。それでも、分からないなんて言えないので、一生懸命描いて「描けました」と言いつつ、持っていく。そうすると「こうじゃない、こうだ」と言われ、赤で直される。これを繰り返す。

ある時、ラタンガラスと書かれた言葉が良く分からなかった。実は何のことはない。ラタンとガラスの組み合わせで・・・という意味だったのだが、知識の引き出しが貧弱だった当時の私は、分からず、勤務先ビルの隣にあったガラス屋さんに聞き入ったが、分からなかった。そんな毎日だったが、この時期のこういう作業が、自分でなんとか解決しようとしていた心が、後に役に立つんだな・・・と思う様になった。

四畳半に住んでいるだけではスイートルームの設計は出来ない

suite room

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勤務先はホテルの建築設計、内装設計が多く、スイートルームの設計やある時は石油王の邸宅などの設計をする事もあった。ただ、当時芸術家の上司氏から言われたことがあった。それは「四畳半に住んでいるだけでは、スイートルームの設計など出来ない。自らホテルに出向き、宿泊し、レストランで食事をし考えるのだ。そして客室の実測をして図面化しなさい」であった。

確かにおっしゃる通りだった。自分のimaginationをベースにした空間と実際の事例との間には想像を超える開きがあった。空間サイズから始まって、印象、使用する材料、組み合わせ、色、サービスとの関連、実例をみないと分からない事が多い。本物を見に行き五感を総動員して、空間を感じる事が大切で、それは建築に限らず、どの分野の設計をするにしても避けて通れない過程だと思う。

いずれ既成のイメージを打破していく提案をする事に繋がるが、それは次の段階だと思う。

初めてホテルオークラに宿泊した日

バレンシアオレンジ

S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像

入社して半年目くらいの頃、同期の連中と数年先輩達とホテルオークラに宿泊し実測しようという事になった。食事はフレンチレストランのベル・エポックだった。当時の自分の給料ではとても食事のできるような客単価でなかった事もあり、恥ずかしながら私はスープしか注文できなかった。先輩がマリアミルヒというワインを注文していたのを覚えている。

食後、ホールの方が、かわいそうに思ったのか、注文していないバレンシアオレンジを持ってきて、ご馳走してくれるという。ありがたいと思った。我々の目の前でナイフとフォークを器用に使い皮をむいていった。我々はそれを食し、感動した。

そしていつになるか分からないが、今度はしっかり注文して食事をしようと思った。

かつての愛宕、虎ノ門の街並み・お店-その1

オフィスは港区愛宕にあった。NHK放送センターの下である。私が就職した頃、あの界隈はまだ昼間人口が多く、人の生活の香りがあちこちに漂っていた。つまり住民も多く居たし、学校もあった。近くの桜川町会では神輿も出して、お祭りもしていた。

勤務先前の道はプラタナス並木で、季節になるとアメリカシオヒトリ対策の為、枝葉を落としていた。この道には生活に必要なお店が軒を並んでいて、乾物、文房具、食料品、その他たくさんの店があった。また、楽器の琵琶の職人のいる店、日本刀のお店、寿司屋は吾妻寿司と蛇の目寿司の二軒はあったかな?愛宕の交差点の所には木造モルタル二階建ての仁華という中華料理屋があって、シイタケそばが有名だった。

osoba

浩之 梶によるPixabayからの画像

オフィスのすぐ近くに松美家というそば屋があり、良く通った。夕飯が多かったが、リーゼントの出前のお兄ちゃんがいて、近所のパン屋さんの息子さん(5歳前後?)が、リーゼントのお兄ちゃん目当てによく遊びに来ていた。

パン屋さんの店名はたしかハトヤさんだったと思う。パン屋と言っても調理パンが多かったと思う。息子さんは楳図かずおの漫画に出てくる(グワッシ!の)ハジメちゃんそっくりで、以降名前も分からずハジメちゃんと呼んでいたっけ!可愛い子で我々も相手をしていたものだった。

あのハトヤさん(パン屋)にはおばあちゃんがいた。おばあちゃんもお店に出ていて、家族総出で頑張っていた。良く行った店だったので我々の生活の中に溶け込んでいたと言っていい。あのおばあちゃんには私の結婚が遅々として進まない事を自分の身内の事の様に心配していただいた。情のある人だったなあ・・・今もお元気なんだろうか?

愛宕の交差点を渡り対面には、肉屋さんがあった。屋号は忘れたが(小松屋だったかな?)、あの女将さんはやり手で、我々がこの肉屋さんでトンカツを安く買い、会社近くのホカベンで暖かい白米を買って経済的に昼食を済ませているのを知ると、ある日突然の様に弁当屋さんを始め、メインのメニューとしてトンカツ弁当を売り出した。

微妙な値段設定で、今までの様な購入の仕方が出来なくなった。後にこのお店は、モダンなそば屋(港屋だったか?)に変わった。今どうなっているのかは分からない。また、その小松屋の先に小さなビルがあって、その二階の花開亭のポークシチュー定食が好きで良く通った。この店に夜行くと、メニューががらっと変わって、カフェバーにかわる。

シチューのように暖かい雰囲気 ~花開亭(ノブヒロ@上野)-花開亭
シチューのように暖かい雰囲気 ~花開亭

ワインを一杯やりあがら、オードブルをいただくという寸法になる。ただ、シチューなどの洋食を食べたい人には材料がある限り出す店ではあった。店主は吉村さんで、夜の常連とはみなお友達。特にアップルのエバンジェリストだったSさんとは今でも連絡が出来る状態である。

その花開亭の先には沖縄料理の”たろう”があった。あの店も良く行った。元気のよい女店員が二人いて「私たち立正佼成会なんです」と言っていたのを思い出す。私がチャンプルとかラフテーを憶えたのはあの店だったね。

17森ビルの下に飲食店街が当時あって、そこの若夫婦が営業している定食屋に良く通った。ご主人は植田まさしの四コマ漫画が面白いと良く行っていた。その他あの地下街には、排骨麺のお店があって、あれも美味しかった。服屋さんやコバックという写真のプリント屋さんもあった。

かつての愛宕、虎ノ門の街並み・お店-その2

 

創業78年の「カレーの店 スマトラ」(新橋)で豚脂の旨み光る「カレーライスとキャベツサラダ」 : ◆毎日カレー◆と★タイ料理★ by エスニカン
レイトランチの時間帯にJR新橋駅前のカウンターカレーの店「スマトラ」へ。カレー粉風味の「昭和期の日本式カレーライス」の味が食べたくなり出かけてきた。注文は「カレーだけ大盛り、ごはん少なめ、キャベツサラダ添え」(税込み700円)で、待つこと1...

かつての愛宕、虎ノ門のお店を思い出していたら止まらなくなってしまった。そこでその2として続きを書きたい。松美家の細道を入ったところにスマトラカレーがあり、良く行った。この店は内幸町が本店らしく、愛宕下通りの外堀通りとの交差点よりも少し手前に一軒、元第17森ビルの裏手(現在の虎ノ門ヒルズのあたり)にもう一軒と全部で三軒あった。

我々が良く行ったのは元第17森ビルの裏手であり、松美家の付近の店であった。このスマトラカレー屋さんは、入ると店主から「いらっしゃいまし」と言われる。この末尾の”し”が何となくカレーを食べる気持ちにさせられる。並みと大盛りがあるが、並みを頼む時の注文の仕方は何故か「普通」という不思議な店だった。

昼時はたくさんのお客さんが店の中の食べているカウンターの後ろに立たれるので、何となく落ち着かない。とはいえ、延々と「いらっしゃいまし」「普通」が繰り返される。ここは副菜でキャベツサラダがある。キャベツに御酢と砂糖が少々とサラダオイル+秘密の調味料でもみ込んである。これは自分の家でも再現して食べたことがある。

その他ラッキョや生卵もあった。簡単な漬物はカウンターの上にあり、自由にかけられる。昼時、何も考えないで外に出ると何故かスマトラの扉を開けているという事が良くあった。

職場近くにはビオットとベイという二つの喫茶店があった。ビオットは若い人が営業していて、テニスサークルの誘いの張り紙があった。ベイは大人の行く喫茶店という感じで、二人の年配の女性が切り盛りしていた。一人はヘアスタイルが決まりすぎていて、何となく櫻井よしこさんを彷彿とさせる人で、多分お店の顔だったと思う。

もう少し虎ノ門交差点に近づいた所にビックラーメンという店があり、ボリュームのあるラーメンが特徴で良く行った。ラーメン男性専科というのと女性専科というのがあって、男性専科は乗っている具が半端なかったと思う。その他よく食べたのはフーフー粥だったかな・・・懐かしい。

いわし

Elle KatieによるPixabayからの画像

このビックラーメンの隣に鰯料理の店が出来て、ここも良く行った。最初の頃は鰯のつみれ汁が美味しくて良く通ったが、徐々につみれの小麦粉の量が増えて行って、触感が悪くなり何となく足が運ばなくなった。上述した喫茶店ベイに居た櫻井よしこではない方の女性がこのいわし屋で働いていた事があったっけ・・・

プロレスに夢中になった昭和40年代
昭和40年代に何故か夢中になってしまったプロレス、あんまり夢中になっていたので、友達のプロレス同人誌も一緒に書いたり、蔵前国技館にミル・マスカラスの試合があって、父に連れて行ってもらったことを思い出す。でも、小学生の頃はあまり好きではなかった

このビックラーメンから比較的近い所でアメリカンテーラーという力道山の背広を作っていたお店があった。これは上のプロレスに関する記事”プロレスに夢中になった昭和40年”で述べたので、興味ある人は読んでほしいが、その並びに夫婦二人で営業しているカレーライス屋さんがあった。

ここのご夫妻は考古学が好きだったらしく、当時世間を騒がせた考古学のゴッドハンド事件の話題で大いに盛り上がった事があった。あのお店の野菜カレーは野菜がゴロゴロと入っていて、健康志向だった私はよく通った。


1990年代だったと思うが、残業が多く遅い時間に升本付近を駅に向かって歩いていると屋台のラーメン屋が出ていた。何となく出川哲郎に似た人で声も似ていた。Youtubeで見ると現在御年79歳の屋台ラーメンのおじいさんが、升本付近で営業している動画があるが、多分あの人に間違いないと思う。

他の動画をチェックすると虎ノ門と銀座の両方に出没するらしいので、1990年代当時本人から聞いた話と合致する。30年前はあの店主、49歳だったんだなあ・・・

この付近のお店に関してはあとから追加していきます。

夕飯はいつも一緒

どうしてあの当時あんなに仕事があったのかよく分からないが、毎日毎日遅くまで仕事をしていた。夕飯は会社の同僚や先輩達と付近で食事をするのが当たり前という生活が延々と続いた。当時新橋亭の支店が西新橋にあって、先輩のYさんが好んだし、沖縄料理のたろうは先輩のTさんが好んだ。

又、西久保巴町の交差点付近にムーランという中華料理屋、ベイの近くの南龍、仁華、排骨麺のお店など、枚挙にいとまがない。夕食後に再び仕事を開始し、早ければ午後9時、遅い時は午後11時くらいから、さて飲みに行こうか・・・という感じになる。

ギター

FirmbeeによるPixabayからの画像

飲みに行ったお店は会社近くのつくねが多く、新橋方面に行くと和作が多かった。和作は厳しい先輩のKさんのお好みの店で、いけば必ず飲みながら説教だったので、私としては決して良い方向ではなかったと思う。和作は芸能界崩れの店主がギターを持って伴奏する店で、ギターに合わせて我々は歌った。

何故か我が先輩の中にもギターが得意、歌が得意な人が居て、先輩の伴奏で歌う事もあった。あの当時はカラオケと言っても、カセットテープで歌う程度で、現在のカラオケの様なきらびやかな感じではなかったので、和作の様な存在は珍しかった。そして、飲み終わるのは終電間際だが、終電に間に合わず、やむを得ずタクシーで私にもっとも厳しかった先輩Kさんの家に同行する事になる。

午前2時くらいに到着すると奥様が辛そうにお迎えする。あれは今でも申し訳ないと思っている。用意が出来ると一杯始まり、説教も始まる。そしていつしか寝る。よくもまあ、あんな生活が続いたものだったと思う。タクシーで自宅まで帰る手もあったが、それをやると月給が10日ともたなくなる。仕方なく、映画館で寝たり、サウナで寝たりする事もあった。ある意味、地獄だったね・・・

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製図の事

ホルダーで描いた線

 

不思議なのだが、同じ様な線を引いてもひく人によって表情が違う。例えば、私が尊敬する先輩のR.Sさんの図面は美しく(私に言わせると)殿上人か神様の描いた図面である。線と文字の織り成す全体的な表現力が何とも言えないし、私などとは全く別格の印象を持っている。文字も独特である。若い頃はこういった先輩方の図面に憧れた。

私に最も厳しかったH.Kさんもしぶくて良い図面を描いていた。R.Sさんの図面は畏れ多かったし、文字も安易に真似しずらいが、H.Kさんの図面(特に文字について)は何度も見て、真似していた事があった。この為か、ある時、先輩から「H.Kさんの図面みたいだなあ・・」と言われたことがあった。実は少し誇らしかった。H.Kさんはすでに他界した。R.Sさんは時々この表の家を見てくれているそうだ。

ホルダーの芯

ホルダーの芯の濃さは人それぞれだったが、図面の上手な人は少し柔らかめの芯だった。後にバブル景気の頃に入社した青年が、シャープペンシルで2Hの芯で描いていたのを見たが、信じられなかった。話しを戻すが、ホルダーで線を書くと製図板の左から始まり右までいっぱいいっぱいに線を引くと、どうしても均一な線になりにくい。

これは物理的に仕方ない事で、鉛筆が削れていくからだと思う。この減り方をなるべく均一にするためにホルダーを持つ手に少しひねりを入れて、若干だが回転させるようにして描いた。

図面の汚れを避ける為に

ホルダーを持って平行定規で線を描くと、どうしても小指の手元の小指球の部分が図面に近くなり、触れればどうしても図面の汚れの原因になる。同時に小指球も汚れる。人間の手にはどうしても脂が生じているので、紙の上についた汚れがこびりつく原因になってしまうので、これを避けないといけない。この為、腕を少し浮かせて線を引くことになる。

また、少し長めの線を引くときは、肘から先の振りを利用して描くことになる。細かい線を連続して描くときは右腕の肘と左腕の肘は平行定規に乗っている状態になる。これらの事を言葉にして書くのは難しいが、忘れない様に書いておこうと思った。

勢いのある線、勢いのない線

 

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勢いのある線は生きている線に見える。逆に勢いのないなぞる様な線は死んだ線として映る。これは描きなれてくると、見分けることが出来るようになる。不思議なもので丁寧にジリジリジリと描くとどうしても死んだ線になりがちで、それよりもむしろ勢いのあるキュ、キュと描いた線の方が生き生きしてくるものだ。

日本経済新聞に山崎努さんの私の履歴書が掲載されていた。第29話にこんな事が書かれていた。

「役を与えられた俳優は、日々手がかり足がかりを探し、それを頼りに前へ進もうとする。つい、それまでの成果をなぞってしまう。これがいけない。例えばお習字はなぞった瞬間、命を失ってしまう。新しく一気に行かなければダメ。演技も同様。代読の若者は拙いながらもまっさらの白紙に何かを書きつけた。勇気を持って投げ出すこと。守ってはいけない」

その通りである。新しく一気にいかなければダメ。演技だけでなく設計製図にも通じる話である。

山﨑努さんと松戸、日経新聞"私の履歴書"
日経新聞"私の履歴書"で令和四年八月一日から松戸市出身の俳優、山﨑努さんの連載が始まった。私の大好きな松戸の風景が描かれていて、非常に懐かしくなった。古い地図を引っ張り出し、ああだ、こうだ始め、豆腐屋さんの付近を歩いたりしてみた。

プリント屋さんが一時間おきに御用聞き

あの頃は忙しくて、皆さん次から次に図面を描いていた。青焼きの機械は会社にあったのだが、枚数が多くなると外注する事も日常茶飯事だった。虎ノ門に立業社という富山が本社の東京支店があった。そこの若い担当者が、一時間毎のペースで御用聞きに来ていた。考えてみればすごい時代だったと思う。

後年、あまり利用しない時代となっていったが、まだ虎ノ門に立業社さんがあった頃、個人的にA1サイズの古地図のPDF化を頼みに行った事があったなあ・・・綺麗にデータ化してくれたっけ・・・流石立業社さんでした。実費で3000円きっちり支払った。虎ノ門ヒルズが出来た後は浜松町方面にあるようだ。

株式会社立業社(りつぎょうしゃ)
富山でデジタル印刷・スキャン(電子化)・ポスタープリントならおまかせください!

処女作と現場への憧れ

銀座の大井工場へようこそ

当時、自分が成長する為、そして現在の辛い生活から抜け出す為、早く現場に行きたいと思った。現場とは建設現場で,設計監理の為に常駐する事を意味する。ただ、その現場常駐するまでには、もう何ステップかプロジェクトをこなすことになった。常駐ではないが一番最初の建設現場の仕事はオフィスビルの車庫を事務所化する改装の仕事だった。

内幸町に近い小さなオフィスビルだった。小さな改装だったが、勉強する事は多かった。先ず、シャッターで出入りしていた車庫なので、そこにサッシを付けた。私は雁行形のサッシを考えていたが、ビルの壁が微妙に斜めになっていて、それが前面道路との関係で、おさまりが難しいという事が分かった。

そこで、困ってしまった私はよく会社に来ていた大井工場の専務に同行してもらいアドバイスをもらった。実は大井工場は銀座にあった金物の職人がいる鍛冶屋で、イサムノグチ、アントニン・レーモンドなどの仕事をしていた工場。今思うとよくそんなすごい鍛冶屋の専務が相談に乗ってくれたと不思議なのだ。

現場に着くと、専務は開口一番「先生、この場所でこんなサッシ駄目だよ。斜めなんだから出来るわけがない。ここは真っすぐにして、こうやりなよ」と言われた。歯に衣着せぬ口調だった。私は言われた通りにした。その他、車庫だったので床が勾配がついていて、それが稼働間仕切りの設置に問題がある事、その他色々な問題を知ったのもあの現場だった。専務ありがとう。

無題ドキュメント

塀の設計

詳しくは書かないが東京都の白〇台にある非常に広い庭のある場所。ここの塀(擁壁の一部)が改善の必要があると区から連絡があり、それでは設計しましょうというプロジェクトがあった。塀を設計し、構造設計と打合せを行い、その区の建築指導課に相談に行った。私は12条三項の届け出程度で済ませたかった。

説得

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

ところが指導課の担当官は赤本を出し、建築基準法第一章第二条(用語の定義)の一に建築物とあり「土地に定着する工作物のうち、(中略)、これに附属する門若しくは塀、(後略)」とある。そこを指さして「塀は建築ですね。となると確認申請が必要」という答えだった。うむ、参った。確かにそうなんだけど、何とかならないかな?と思った。

改善命令を出している課に相談し、おっしゃる通り危ないので早く工事をしたいのですが、どうしたらいいかと相談したら、「それでは指導課に相談します」という話しになった。その結果何故か12条三項の届け出でOKだという事になった。ところが、その後、施主が腰を上げなかったので結局延び延びになってしまい、私が東京にいた時には実現しなかった。今思えば、お役所も浪花節の通じた時代だったと思う。

日影図を毎日書いていた頃

これは、実は”コンピュータとの出会い” の”チャート図で描いていた日影図はコンピューターに”という一文で書いていますので御興味ありましたら、読んでみてください。

コンピューターとの出会い
コンピュータは素晴らしい進化を遂げてきた。とても追いつけるものとは思わないが、気がつくとドンドン変化、進化している。子供の頃はコンピュータとは電子計算機だと思っていたが、用途が広がり、色々な分野で使われる。スマホ、自動車、家電、その他・・・

1980年代前半は、測量で真北の方向を明確にしたら、それに基づいてチャート図を使い、手書きで日影図等時間日影図を手書きで書いていた時代です。単純な真四角な建物であれば、簡単なのですが、建物が何棟も複雑に絡まってくると非常に難しいのです。今やれと言われても、とてもその気になりませんが、出来ない事はありません。ただ、ああいう仕事はコンピュータ向きの作業だと思います。

続く

会社ではRさん、Nさんを始め図面の上手な先輩が多くいた。又、浜松常駐時はRさんにはどれだけお世話になったか、数えきれない。そんなこんな、その他も含めいずれあらためて、続きを書きたいと思います。

コメント

  1. うしとら より:

    誰でもルーキー時代がありますが、ルーキー時代の思い出が最も強烈な様な気がします。毎日深夜まで残業し、先輩や同輩が居れば、晩飯代わりに一杯引っかけて帰るという生活でした。会社の近くの居酒屋は会社の上役とかち合うことがあるので、最終的にはラーメン屋で飲むのが一番安上がりだということになり、毎晩ラーメン屋に行って、餃子とビールの生活だったような気がします。ただ、ラーメン屋は深夜に長居をすると露骨に嫌な顔をされるので、時間差で注文を入れる波状攻撃でマスターの留飲を下げるというバカげたことをしていました。その後、富山に常駐することになり、そんな自堕落な生活から抜け出すことができました。富山では、仕事帰りに夏は海で釣り、冬はナイタースキーという充実した生活を送りました。

    • うしとらさん、
      ルーキー時代の事を思い出していくと、色々な事がありました。辛かったことをどこまで書けばいいのかよく分かりませんが、不思議なもので描いていると思い出すという事があるんですね。うしとらさんにとって、富山という存在があって、良かったですね!もっと短くて簡潔な私の履歴書にしようと思っていたんですが、段々長くなってきちゃった。

  2. うしとら より:

    ルーキー時代はエピソードの宝庫ですね。
    我々の業界は手も足も出る世界で、パワハラ当たり前の時代でした。
    超過労働の先輩が「血尿が出たので病院行きます。」と電話して来たとおもったら、そこの上司が「血尿出たくらいで病院行ってたらキリねぇよ!」って大声でキレていて、それが通っていた時代でした。今ではありえないことが沢山ありましたね。
    徹夜で図面を書いていたら、丑三つ時にお客さんから「俺も仕事してるから、お前も頑張れ!」って監視&激励のお電話を貰ったこともあります。

    • そのパワハラ感覚、痛いほど分かります。「そもそも具合が悪くなるのはたるんでいるからだ・・・」という意識がありました。私もそれに染まっていたところもあります。そういう状況は決して褒められた状況ではないし、正さないといけない部分ではありますが、あの時代い鍛えられたから、少々の苦しみは乗り越えられる、精神的な強さが身についたとも言えます。いまでも少々の荒波は怖くないという感じがあります。でもそれを若い人に押し付けるわけにもいかないし、一方そういう経験が出来ない彼らが可哀そうだとも思います。複雑な気持ちです。

  3. うしとら より:

    かつては私も「風邪、インフルの類は気の緩み!」と言われたもんです。
    会社の飲み会に呼ばれた新卒社員が「残業代出ますか?」と言い放つと、「来たな新人類!」と応戦するベテラン社員。
    良くも悪くも理不尽なことをやらされている時代でしたが、今思うと皆無心で働いていた様に思います。
    労基法も建基法もコンプライアンスが強化され過ぎて余白の部分が無くなってしまい、人間も建築も優等生しか生き残れない時代になってしまいました。

    • > 「来たな新人類!」
      この言葉もすでに昔の言葉という印象がありますね!
      確かに、法律に縛られすぎて、何も自由が無くなった気がします。
      十数年前ですが、松戸市の環境ゼミナールという催しに参加して、自由な遊び場を江戸川に作ろうという話になったんですが、
      やれ子供が遊ぶ時は管理者が必要だとか、身障者の為に大きなスロープを作ろうとか、そこまでやらないと駄目な訳?って感じがして、私は引いてしまいました。子供は危険な所が好きなんだと思うんですが(私はそうでした)、どうもそういう事さえ許されない世の中になっているようです。

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