つれづれなお話楽しみ

プロレスに夢中になった昭和40年代

プロレスつれづれなお話
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昭和30年代の頃:力道山の頃

力道山の頃と書いたが、私自身が小1の頃力道山は他界していて、生前テレビで観ていたわけではない。録画されていたフィルムを何度も観ていたに過ぎない。しかしながら、力道山は有名で、小学生の私でも良く知る人物だったのは間違いない。多分少年マガジンや少年サンデーなどに特集があったからではないか?

子供の頃家にテレビが無かった

テレビ

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小学生の頃、我が家にはテレビが無かった。ただ、テレビが家にないという状況は当時はどの家でもよくあった事で、特別の状況ではなく、特に困ることも無かった。当時の私は、川で魚捕り遊びに夢中になっていた頃で、それ自体楽しいことで、全く問題はありませんでした。ただ、友人の何人かはテレビが家にありました。

親戚の家にお邪魔して、そろそろ帰りましょうか・・・と言った時間で”てなもんや三度笠”が始まると私は「帰りたくない。テレビ観たい」と言って両親を困らせました。我が家でテレビを買ったのはいつくらいだったか・・・小4か小5の頃だと思うのですが、はっきり覚えていません。ただ、ひょっこりひょうたん島やポパイは夢中になって見ていましたね。

三菱ダイアモンドアワーのプロレス放送の週はきらいだった

当時、金曜日の午後8時から日本テレビでディズニーランド制作の放送があり、それを夢中になって見ていました。ただ、これは三菱ダイアモンドアワーという時間帯で、隔週でプロレスとディズニーが交代で放送されていたもので、プロレスの週はなんとつまらないと思ってがっかりしていました。その当時の私はプロレス中継は観ませんでした。

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昭和40年代以降:馬場・猪木の時代

プロレス大好き少年のY・T君との出会い

プロレス

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それから二年後くらいでしょうか?1970年頃だったと思いますが、中学の同級生でY・T君というプロレス大好き少年と友達になりました。それ以降、私の価値観ががらっと変わってしまいました。Y・T君は事ある毎に私にプロレスの面白さを説き、プロレス雑誌月刊”ゴング”を見せてくれました。

カール・ゴッチの事、ルーテーズの事、豊登の事・・・そしてY・T君は雑誌だけに留まらず、全くの手書きですが同人誌の様なものを自分で作っていたんです。そんなY・T君と付き合うようになって間もなく私はプロレスに興味を持ち始めてしまった。そうなってくると金曜日の三菱ダイアモンドアワーのディズニー番組はどうでも良くなってくる。そしてプロレス中継を見るようになっていった。

技を試してみたくなった私達

レスラー

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プロレスファンの多かったクラスだったのか、世の中がプロレス流行へ向いていたのか分かりませんが、同級生同士で技を掛け合ったりして楽しんでいました。ただ、中学生の頃の我々は体が柔らかかったせいか、コブラツイストや卍固めをかけてもちっとも痛くありません。ドロップキックだってそれほど痛いわけでもありませんでした。

むしろドロップキックはかけられる方よりもかけた方が地面に叩きつけられて痛かった記憶があります。ただ、この技痛いな・・・と思ったのはザ・デストロイヤーの極め技だった足4の字固めでした。これは非常に痛かった。

バックドロップ

いらすとやさんのイラスト

そういえば、体育の時間で相撲をみんなをしたのですが、古ヶ崎にあるお寺のご子息Uさんを何故かバックドロップして勝ってしまった。今思うと危ないよね。

プロレス好きだった親戚のおばさん

おばさん

いらすとやさんのイラストです

昭和40年代は我々の親世代はまだ若く、その子供であるいとこもみな若かった為か、お正月やお盆というと親戚が集まり食事をして帰ったものだ。それは楽しかった。その中で山形県出身のおばさんが、何故かプロレスが好きだった。食事中、プロレスが始まると、そのおばさんは立ち上がって、体を前後に揺らしながら、戦っているレスラーの応援をした。

その所作が面白くて、ああ、おばさんもプロレス好きなんだなあ・・・と納得したものだ。今でもプロレス好きなんだろうか?聞いてみたいけど中々ねえ・・・

♪白いマットの~ジャングルに~


♪白いマットのジャングルに
♪今日もあらしがふき荒れる
♪ルール無用の悪党に正義のパンチをぶちかませ
♪ゆけゆけタイガー、タイガーマスク

漫画誌に掲載されていたタイガーマスクがアニメ化してテレビ放送されたのも当時の流行の一端を表しているのかもしれない。まだ、2-3歳だった妹が口ずさんでいたっけ・・・この曲聞くとワクワクしちゃうんだよね!

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各メディアにおけるプロレス報道

過去のプロレス試合の映像

(上のリンクは力道山と木村政彦の対決ビデオです。youtubeからリンクさせていただいてます)

当時は東京12チャンネルだったと思うのですが、10年以上前のアメリカでの試合様子(例えば鉄人ルーテーズなど)の試合映像を流していました。その他昭和39年に他界した力道山の古い時代の試合映像を放送していた事がありました。要するにこれに参っちゃったわけです。

日本プロレスと国際プロレス


当時はまだ馬場と猪木が同じ団体に所属していた頃で、日本プロレスだった。この当時に1971年3月2日蔵前国技館で開催された猪木+馬場VSアリオン+ミル・マスカラスのタッグ戦を父に連れられて見に行った。座った席は枡席で、殆どリングサイドに近い位置で、テレビカメラの正面だったので、父と私の観戦姿がテレビで放映された初めての出来事だった。

翌日クラスの同級生に「試合中の正面に座っていたのは君じゃないか?」と言われクラスの全員が知るところとなってしまった。当時は女の子も結構観ていたんだね・・・

当時の日本プロレスにはジャイアント馬場アントニオ猪木を始め、”火の玉”や”根性の男”と言われた吉村道明、頭突きの大木金太郎山本小鉄星野勘太郎高千穂明久坂口征二らが活躍していたっけ・・・レフリーは沖識名、服をよく破られたユセフ・トルコ・・・という感じだろうか?そういえばまだ、高千穂明久は若くて前座試合に出ているイメージが強かったが、1980年代にザ・グレート・カブキとして活躍したっけ・・・

テレビで放映されていたのは日本プロレスだけではなくて、国際プロレスも放送していた。ストロング小林グレート草津サンダー杉山豊登ミスター珍などが活躍していたっけ・・・国際プロレスはもう一つ迫力がなかったが、人間風車の異名を持つビル・ロビンソン国際プロレスの興業に出ていたので、見逃すわけにはいかなかった。

ザ・デストロイヤーは悪役


ザデストロイヤーは初めて観た頃は仮面の下に凶器を入れて頭突きするなど悪役で、太々しい印象だったが、後に全日本に長い間レギュラーとして戦っていたり、和田アキ子のMCのゴッド姉ちゃんにレギュラー出演したり、随分日本びいきになってしまったっけ・・・

女子プロレスは小畑千代の時代


また、女子プロレスもテレビで放映している事があった。あの放送が、女子プロレスだけの放映だったのか、それとも国際プロレスの前座的なコーナーだったのかは私もよく覚えていない。ただ、小畑千代という女子レスラーの名前だけは覚えている。見世物興業的な扱いを受けていた女子プロレスを普通の格闘競技として市民権を得てテレビで普通に放映していたのは、やはり小畑千代の存在が大きかったのではないか?

大げさかもしれないが、あの小畑千代なくして、後のスター誕生から何故かプロレス界に入ったマッハ文朱ビューティーペアの登場・活躍・人気は無かったのではないか?そう思っている。

それと女子プロレスで異色だったのはミミ萩原だろうか?プレイガールの出演者のイメージが強かった。芸能界から一転プロレスラーになった頃は(弱くて)観ていられない試合ばかりだった。ところが、後にタイトルを取ったミミの活躍ぶりを聞くと不思議な感じがしたものだ。


雑誌はゴング、新聞は東京スポーツ

本屋さんに行くと、ゴングプロレス&ボクシングがあったが、プロレスの記事ではなんと言ってもゴングだった。後に、ゴングの編集長はプロレス&ボクシングの竹内宏介さんをヘッドハンティングされたのだと知った。家の近所に松北堂書店があったので、必ずそこで書い、夢中になってくるとバックナンバーを松北堂書店でお願いした。鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの特集等・・・

日曜日に、父に言われ横尾商店に新聞を買いに行くと、プロレスの記事が掲載されている新聞が目立った。父が帰宅の時には大抵東京スポーツを買ってきていたので、大事に取っておいたものだ。東京スポーツのプロレス記事は少し扇情的な雰囲気があったが、それがまた面白かったし、プロレス技の分解写真なども切り取って良く持っていた。

その他、日刊スポーツやデイリースポーツも読んだが、東京スポーツには叶わなかったと思う。そういえば、週刊ファイトという新聞もあった。ファイトはカラー写真を使った記事なので、良かったが週刊だけに少し高めな新聞だった記憶がある。


力道山の事

力道山物語 怒涛の人

テレビで「力道山物語 怒涛の人」という映画を放映したのを見たことがあります。実はそれがアマゾンプライムで見られるようだったので、久しぶりに見ました。映画の半分以上は子供時代+相撲時代で飯田蝶子がお母さん役、プロレス界は後半でした。ただ、遠藤幸吉、沖識名、東富士、力道山の妻役に南寿美子さん、それに美空ひばりも出ていました。

初めて、プロレスのジムに行った時に会った人は ハロルド坂田でしょうか?プロレスの実況でシャープ兄弟、オルテガなども出てきました。中々すごい映画でしたね。
この映画と異なる映画なのか、力道山が子供達と話す場面があったような記憶があったのですが、それは別の映画でしょうか?


アメリカン・テーラーと力道山

すでに無くなってしまったが、虎ノ門に一軒の洋服屋があった。その名はアメリカン・テーラー(American Tailor)で、2003-4年頃だったか、この店でダブルのスーツを作ったことがあった。店主は女性だったが「ここで力道山がスーツを作ったんです」がセールストークだった。
すでにホームページは無いが、当時ホームページにはこんな事が書かれていた。

創業1951年 フィットオーダー FAME
本当にいいものだけをお買得値でご提供!

アメリカン・テーラーの歩み
昭和23年:米軍PX(現 銀座松屋)で創業。
連合国、民間人、軍人仕官のテーラード(礼服、スーツ、各種軍服)のお仕立て、プレース、修理、インテリアを営む。
主な顧客-マッカーサー夫人、チャーチル元首相長男マァーカート少将(経済企画庁長官)他多数
昭和27年:現在地(虎ノ門)にて高級紳士注文服店を開業。
西武百貨店、東急百貨店外商部の指定工場として製造、縫製を営む。
主な顧客-Dr.ブレクニー、二階堂元副総裁、力道山、東富士、他スポーツ、財界人多数
昭和59年: 新しい時代の価値ある紳士服「フィット・オーダー」部門を併設。
永年の豊富な知識と経験を活かしたより高感覚・高品質。お値打感は大きなご支援をいただいております。

American Tailorが虎ノ門に移ってから、顧客に力道山・東富士とある。東富士は横綱まで上り詰めた力士で、引退後、年寄・錦戸を襲名したが、高砂部屋内の派閥争いの末に1954(昭和29)年12月に廃業し、力道山の元に行きプロレスラーになった人。その後1958(昭和33)年11月に引退するまで、わずか4年間の活躍だった事になる。

東富士は「力道山物語 怒涛の人 (1955(昭和30)年)」に出演しているので、多分American Tailorで服を作ったのはこの頃じゃないかな?

♪リーキーホールモ♪とよく唄った


力道山がプロレスラーとして活躍していた当時は、ビジネスにも熱心でリキパレス、リキアパート、クラブ・リキ、リキマンション、リキ・レストランなど、リキの名前を関した固有名詞を持つ施設や薬などがあった。

又、奥村チヨが小野薬品工業の強壮剤「リキホルモ」のCMを唄っていました。これが、えらく子供の耳につくCMで、♪リーキーホールモ♪と良く口ずさんだものです。このリキホルモが力道山に関係するのかどうなのか、力道山のウィキペディアを見ても出てこないので、関係なかったのかもしれません。

ただ、我が家にも何故かこの奥村チヨのレコードがありました。B面が「いつまでも」、A面が「ああ、結婚」です。CMでは♪リーキーホールモ♪でしたが、レコードではその部分が♪いつまーでも♪となっていました。このCM知っている人いるかしら?

松戸市根本にあるリキハイムは関係有るのかしら?まさかね!

ところで、松戸市根本の金山神社の横にリキハイム、リキハイム2というアパートがあるが、あれは力道山に関係有るのか無いのか、さっぱりわからない。

松戸とプロレス

松戸では松戸サニーランドと運動公園

表の家のページへのコメントをしてくださった方が、プロレスが松戸サニーランドで開催されていたという話を書いて下さった。私は松戸運動公園体育館くらいしか知らなかったので、お!と思い調べてみたら、昭和プロレス懐古Lというブログの
1975年にスタンハンセンが来日していて、興業が各地で行われた内、”第2戦、9月27日、千葉県:松戸市サニーランド、観衆3000人”という日程場所で開催されていたらしい事がわかりました。
1977年(昭52)6月14日 千葉県:松戸市スポーツセンター、ハーリー・レイスVSジャイアント馬場
となっていた様に松戸サニーランドでも行われていたようだ。この松戸市スポーツセンターというのは運動公園の体育館であろうか?

ポスターの貼る場所があったらしい

松戸ベスト100のミスターTが松戸運動公園体育館で行われるプロレスの試合のポスターが必ず、竹ヶ花の交差点の所の鉄柱に張ってあったと書いていたっけ・・・

興味を引いたプロレスのリンク

「名誉レフェリー」が語る外国人レスラー列伝シリーズ

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