昔日の松戸

我が遊びの師匠”黒縁メガネ君”-松戸市古ケ崎

小僧弁天絵葉書昔日の松戸
昭和30年頃、松戸市観光協会発行による絵葉書、(松戸町名所) 古ヶ崎小僧弁天
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古ヶ崎の原風景

水郷にあった昭和30年前後の小僧弁天の様子

小僧弁天絵葉書

昭和30年頃、松戸市観光協会発行による絵葉書、(松戸町名所) 古ヶ崎小僧弁天

この絵葉書は当時の古ヶ崎小僧弁天及び坂川の周囲がどんな状況であったのか表していると思う。この小僧弁天は坂川と合川の間に挟まれた場所にあった。

空中写真から見た古ヶ崎浄水場付近(国土地理院1945-1950の空中写真)

画面左の大きな区画は古ヶ崎浄水場、その他のエリアで濃いめの色になっている場所は田畑です。いかがですか?

水郷だった昭和39年当時の古ヶ崎浄水場周り

フルスクリーン表示

空中写真では水の部分が分かりにくいので、1964(昭和39)年当時の古ヶ崎浄水場-北部小付近の河川の状況を現在のマップ上に落としてみました。使用しているのはuMap(OpenStreetMapのマイマップ機能)です。現在この周辺を歩いてみると川として流れているのは坂川と新坂川くらいのもので、その他は暗渠になってしまっているところが多い。

遊んだポイントも列記した。ただし、2021年現在その場所に行ってもすでに開発されている箇所なので何も取れないと思う。

坂川に沿って、今は無き合川という川が流れていた

キューバンズクラブ

在りし日のキューバンズクラブ 2008年7月5日撮影

坂川に沿ってもう一本合川という川が流れていた。その名残として合川公園が古ヶ崎五叉路付近にあるのをご存知だろうか?現在はこの川は暗渠化され、工業団地方面に向かう産業道路になってしまい一変した。現在のセブンイレブン、すでに廃業したビリヤード場(キューバンズクラブ)の前の道だ。産業道路化する前は古ヶ崎五叉路から小僧弁天付近までしか接続していなかった。

その為、当然ながらセブンイレブンも無かったし、あの周囲はぼた山の様になっていた。子供にとっては良い遊び場、空き地の様な場所だった。黒縁メガネ君とそのぼた山で遊んだ。2021年現在、その産業道路を100メートルくらい北上した所に”はぎの家給食センター”や”吉翠亭”といううどん屋のあるが、その近くに橋がある。

その橋の手前に乾いた開渠が坂川に繋がっているところがあるが、あの開渠は並行したもう一方の水路の名残だ。又、その新道の北部小学校側にクネクネと大きくS字を描いた道がある。これも元あった水路の跡で、現在は暗渠になっている。あの道を歩くと何となく在りし昔の姿を想像する事が出来る。

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我が遊びの師匠”黒縁メガネ君”

メガネザル

asuka yamagamiによるPixabayからの画像

小学校三年生になるとクラス替えがあった。新しいクラスには古ヶ崎に住むヒョロっとした黒縁メガネ君と乱暴者のジャイアン君がいた。このジャイアン君は本当に乱暴者で後に私も怪我をさせられたが、黒縁メガネ君はコバンザメの如くジャイアン君の子分の様な形でいつも一緒に居た。とはいえ黒縁メガネ君も何らかの被害にはあっていただろうと思う。

クラスの担任は乾先生で非常に怖いおじいさん先生だった。頭は坊主で鬼という印象だったのを覚えている。ただ、成績悪く、とても正視出来ない私の通信簿に図工だけは良い評価をくれたのが乾先生だった。私は認められたように感じ有頂天になったものだった。とにかく嬉しかった。

休み時間で教室に乾先生不在の際、それを良いことに黒縁メガネ君とジャイアン君は教壇の演台の上に乗って、ここでは書けない悪戯をしていた。

黒縁メガネ君は七色に変化

カメレオン

Gerhard G.によるPixabayからの画像

黒縁メガネ君はスネ夫の様な所があり、強者の太鼓持ちに変身する。強者の前に立つと行動が七色に変わった。保護色のカメレオンみたいな人。ただし、痩せて病気がちで弱々しい反面、黒縁メガネ君は遊びに関する知識は何故かピカイチだった。動物の病気の事、メッサーシュミットなど飛行機の名前の事、魚捕りのコツなど、自分の興味有る分野は熟知していた。

例えば、魚捕りのポイントとして、”メダカの学校の下にはクチボソやフナがいる事がある・・・”などである。黒縁メガネ君の家は坂川沿いで弁天橋の近く。家は古い農家風の木造平家だった。向かって右側が土間で台所、左側が八畳以上の座敷で、庭に面した広縁があった。少し家が傾いていて、広縁の窓が閉まっていたのを観たことがなかった。

黒縁メガネ君の家

遊びに行くと、たいてい黒縁メガネ君の兄さんと姉さんが座敷に居た。同級生のTさんはそのお兄さんと良く将棋を指したと言っていた。庭には井戸があった。庭にはヤツデやアオキの低木以外に雑草や苔が生えているだけだった。直ぐ裏に坂川が流れていて、その坂川も魚捕りには絶好の場所だったので、黒縁メガネ君が羨ましかった。

魚捕りに夢中だった私は毎日の様に学校から帰宅すると家にランドセルを置き、黒縁メガネ君の家に直行した。ただ、自宅から毎日、四つ手網とバケツをもって出ていくというのは、目立つ。流石に母の手前怒られる。そこで私は、一計を案じ、黒縁メガネ君の家近くにあった”わら屋”に四つ手網とバケツを預ける事を考えた。この”わら屋”はパンを始めとした食料、雑貨を売っていた。

黒縁メガネ君の口利きで、ここのおばさんにお願いし、倉庫の一部に四つ手網とバケツを置かせてもらう事になった。そのおかげで、本腰を入れて魚捕り三昧の毎日を送ることが出来るようになった。

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黒縁メガネ君の教えてくれた遊び場

Kさんのバラック付近

黒縁メガネ君は古ケ崎五叉路付近の水門があった辺りのポイントも教えてくれた。古ヶ崎五叉路のあの周りは高木に囲まれ鬱蒼とした雰囲気があった。河岸にはバラックがあり生活している人がいた。そこには大きな四つ手網が立てかけてあり、真っ赤な顔をしたおじさんがはちまきをして魚捕りをしていた。Kさんだった。

子沢山

M WによるPixabayからの画像

Kさんは子だくさんで5~6人くらい子供がいたのを覚えている。私と同い年と思える子もいた。いつだったか古ヶ崎五叉路から小僧弁天の横を通って北松戸まで続く新道(上述した新道)が完成し、それと共にあの界隈の雰囲気も一変した。勿論大きな四つ手網のあったあのバラックも無くなった。

数年前、大きく成長したあの少年を松戸駅で見かけた。私の事は覚えていない様子だった。実はこの節はもう少し鮮明な描写が可能で一つの章になる内容を含んでいるが、諸般の事情もありこの程度の表現にとどめる事をお許し下さい。

古ケ崎五叉路付近の魚捕りの穴場

坂川は私が魚捕りに夢中になっていた頃は生活排水などですでに汚染していた。後の古ケ崎五叉路の界隈もメタンガスと思しき泡が川底からブクッと立ち上っていた。同時にドジョウらしきが呼吸をしに水面に現れていた。それでも、獲物は居た。いつ頃からだろうか?そういう魅力さえなく汚れてしまったのは・・・その証拠に殆ど坂川、新坂川で釣り人を見かけなくなった事があげられる。

松戸全体がビオトープだった時代

古ヶ崎浄水場内で遊んだ事

ビオトープ

CouleurによるPixabayからの画像

松戸は町中がビオトープの様なもので、水のあるところに獲物が居た。道路に出来た水たまりにどこからともなく現れたアメンボウが水上をスイスイと走っていたものだ。古ヶ崎浄水場の付近でも小さな瀬があるとそこにはメダカを始めとした魚が見つけられた。私はそういう場所に敏感に反応した。

古ヶ崎浄水場は2021年現在、子供が遊び場として選びにくい雰囲気になっているが、私が小さい頃は何故か自由に入って遊ぶことが出来た。浄水場の中には貯水槽もあって、必ずしも安全では無かったかもしれない。その古ヶ崎浄水場に黒縁メガネ君とジャイアン君と一緒に遊びに行ったことがあった。

ジャイアン君が悪戯をするとジャイアンのお母さんが火消しに回る

三人で石投げをし始めた。ところがジャイアン君にとって太鼓持ちの黒縁メガネ君は手下なので、黒縁メガネ君には投げない。その為、私に向かって石を投げる事になる。黒縁メガネ君はスネ夫と同じで、強者であるジャイアン君には石を投げない。その結果として、二人は私に向かって石を投げ始める事になる。一人相手だったら、何とかかわせるが、二人相手だとかなわない。

その内、投げられた石の一つが私の頭を直撃し当然ながら怪我をした。その夜ジャイアン君のお母さんがお詫びをしに我が家に来た。ジャイアン君のお父さんは当時市議会議員で、PTA会長もやっていた有名な人だったので、お母さんとしても、ジャイアンの悪戯にはかなり手を焼いていたらしい。ジャイアンくんの悪事に発する、醜聞の火消しに(絶えず)廻っていた様子だった。ある意味気の毒。

駄菓子屋と焼き芋の話

古ケ崎浄水場の並びに道が斜めに入っていく所があり、その入り口の角地に駄菓子屋があって、黒縁メガネ君立ち寄った。また、その駄菓子屋から少し先に古い平屋の家屋で八百屋らしきお店があった。その八百屋でサツマイモを買い、近所の悪戯好きな男の子達と一緒に石油の一斗缶で、たき火をして焼き芋を作ったのを覚えている。寒い日でとても美味しかった。

今は焚き火さえ制限されて妙な世の中になってしまったが、当時は家庭で出たゴミは焚き火で処理するのが一般的だった。今はゴミの中にプラスティックトレイも多く含まれるだろうし、そうそうは燃やしていられないとは思うが・・・

汚れていった坂川、新坂川、それに代わる伝兵衛新田付近

年を追う毎に坂川や新坂川は汚れていった。主原因は生活排水らしいが、北松戸工業地域からもたくさんの排水があった。どぶ川と化した一級河川の坂川、新坂川での魚捕りに魅力は無くなった。そこで、黒縁メガネ君の案内で江戸川や伝兵衛新田付近の水田地帯に連れて行ってもらった。そこにはまだ獲物の棲息する環境が残っていた。

特に面白いポイントは横六間川付近だったと思う。横六間川とは六間川と接続する川で、六間川は古ヶ崎五叉路付近で坂川から分岐し江戸川方面に流れ堤防手前で、北上し江戸川と並行に流れる川。伝兵衛新田付近でT字型に直角合流する川がある。その川が横六間川。横六間川の近くには同級生のW君(通称タケス君)が住んでいた。

タケス君の家には大きな四手網がセットしてあった。小魚を採っていたのだろう。

タケス君の家付近の横六間川が穴場

横六間川

横六間川
2021年4月10日撮影

同級生のTさんがタケス君の家に遊びに行くと、お母さんが「タケスはいねか・・・」と言っていたそうだ。あの界隈は2021年現在はかなり住宅開発されて変わってきたが、1970年代当時は田園が広がるノンビリとした風景が広がっていた。まだ、横六間川は健在だが、1970年代当時の雰囲気を味わいたい場合は、旭町や主水新田方面にいくと良い。コサギが飛び交う自然あふれる場所だ。

当時、伝兵衛新田界隈の用水路に四つ手網を仕掛ければ大抵何らかの獲物が掛かった。馬橋高校方面から横六間に注いでいる用水路の水門が今でもあるが、その水門の付近はマブナの稚魚の宝庫だった。このポイントも黒縁メガネ君の誘導により知った場所だった。

破傷風は怖かった

ただ、昭和40年頃北部小で破傷風に気をつけるように言われていた。破傷風の菌は土の中に居るので、転んで怪我をしても軽視してはいけない・・・と。千駄堀に住む知人のおばあちゃんが転んで怪我をして破傷風で他界した話も聞いたことがあり、怖かった。怖いとは思うが、やはり遊びの方が優先していた。

四つ手網を用水路の中に仕掛け、上流から素足で魚を追い込むなんて事は平気でやっていた。用水路には大抵、葦が生えていて、その葦の葉で擦り傷を負った事は一度や二度ではなかった。

主水池(現在のまこも池)でビンドウを覚えた

主水池

主水池 2019年4月21日撮影

そして、黒縁メガネ君に連れて行った貰った極めつけは主水池だったと思う。主水池は現在はまこも池と命名されている池で元々はその土地の地主の池で、タナゴの宝庫だった。多く居たのはタイリクバラタナゴだった。ただ、主水池は、タナゴだけではなくヘラブナ・マブナも多く居た。その為、ヘラブナ師がノンビリと竿を垂れている。

そこで、いくらなんでも、四つ手網は使えない。そこでビンドウを使う。ビンドウとは瓶状のガラス或いはプラスチックの筒で、ロートの部分が瓶の中に向いている。ビンドウの中には溶けない餌を入れておく。そうすると魚がロートの部分から筒の中に入ってくるが、逃げようと思っても逃げにくいという道具。


ヘラブナ師に憧れた

主水池にはヘラブナを専門に釣るヘラブナ師と呼ばれる人達が多くやってきた。独特の行李の様なものを背負ってやってくる。餌は練り餌で浮子は細長いへら浮子を使う。ヘラブナ師のおじさんの持つ竿もいかにも高級な感じの竿だった。多分、当時の松戸の釣り道具屋でも数万円はしたのではないか?と思う。
憧れて私もいつかヘラブナ師の様な人になりたいと思ったこともあったが、所詮四つ手網出身の私には高嶺の花だった。

 タナゴ釣りをしたい人には

タナゴを釣る人も居て、専用のハリスもある。タナゴは口が小さいので極細と呼ばれる針を使う。その極細に赤虫をちょん掛けして釣るのだが、正直難しい。私は経験があるが、わからないことが多い。たなご釣りの極意について書いている人がいる。下記参照。

タナゴ釣りのマイ極意を紹介 狙い方で変わる『数と型』

ライギョの銀座は何処か?

ライギョ

WPClipartより

あれは昭和42年だったか、43年の頃だったか、同級生のTさんと共に黒縁メガネ君と一緒にとても興味深い場所に行った。その名も”ライギョの銀座”。黒縁メガネ君が教室で自慢げに話していたので是非行きたくなった。ライギョは餌としてクチボソなどの雑魚を使う。それを針にちょん掛けして泳がせる。それをライギョが狙う。

黒縁メガネ君とTさんと一緒に行ったその日はライギョが捕獲出来たわけではなかったが、後日一人で行ったときに大きいのを捕獲した。それを自宅の水槽に入れておいたが、ライギョは動きも少なく鑑賞に値する魚ではなかった。次第に興味も情も薄れ、情けない自分とやせ細ったライギョの姿があった。

餌はあげていたはずだが、狭い環境ではストレスも溜まったのだと思う。いつしか死んだ。考えてみれば可哀想な事をしたものだ。

黒縁メガネ君と再開、見違えるように立派な体格だった

バイク

Niels KlintによるPixabayからの画像

その数十年後、Tさんにあのライギョの銀座は何処だったっけ?と聞いたことがあった。Tさんも正確には覚えていない。多分、旭町か伝兵衛新田のあの辺りかという感じは覚えてはいるが・・・現在の旭町に行くと冬にはコサギ、アオサギなどが優雅な飛翔を見せている。我々が、大学を卒業した頃だったろうか、黒縁メガネ君とRさんと十年ぶりくらいに会った。

その当時の黒縁メガネ君は貧弱な体型という我々の固定観念を見事に打ち破る立派な体格をしていた。確かボディビルのジムに通っていたと思う。見違えるような血色の良い顔で、あの黒縁メガネ君とは思えなかった。黒縁メガネ君はバイクに乗っている姿を見せてくれた。私もRさんも原付50CC一本槍だった(自動二輪の免許が無かった)。

黒縁メガネ君はスズキの4気筒の250ccに乗っていた。すごいな・・・と思った。一度、江戸川の河川敷で乗せて貰ったことがあった。確か、Rさんも一緒だった。あの時はエンジンの音が静かな割に意外な程、力があって、流石に大きなバイクは違うな・・・と思った。

その後の消息分からず

その後、黒縁メガネ君の消息が分からなくなった。あの家にも居ない。たまにはみんなで会いたいのだが、寂しい限りである。

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