昭和の松戸を歩く

かつて竹ケ花踏切以東にあった松戸市竹ケ花商店街

かき氷昭和の松戸を歩く
フリー素材.com より
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かつて活気のあった松戸市竹ケ花界隈

国道6号線と陸前浜街道と水戸街道

現在我々が自動車で走っている国道6号線は、時代時代で呼び名が違っていて、鎌倉時代は浜街道、浜海道とも呼ばれ、江戸時代には藩を中心としたそれぞれの呼び名があった。明治以降は陸前浜街道と呼ばれる。陸前とは東京から陸前国(仙台方面)を結ぶ浜沿いの街道だった為だ。水戸街道は陸前浜街道の一区間の愛称である。

江戸時代、この街道について、水戸藩は水戸以南江戸までを水戸街道と呼んだが、水戸以北は磐城街道或いは磐城相馬街道と呼んだ。仙台藩では江戸浜街道と呼び、相馬中村藩(福島県相馬市を中心とした藩)では中村以北を仙台通、中村以南を水戸路と呼び、磐城平藩(福島県いわき市を中心とした藩)では磐城平以北を相馬路、磐城平以南を水戸路と呼んだようです(Wikipedia 陸前浜街道参照)

踏切の名前にも浜街道の名前が継承されていた部分があって、例えば松戸市竹ケ花にあった踏切は国鉄の呼び名では有るが、第二浜街道踏切と呼ばれていた。

松戸市竹ケ花は住宅街だが、かつては旧水戸街道の街道筋だった

国道6号線は急増する交通量の緩和の為、1961(昭和36)年松戸バイパスが出来た。金町から上本郷で旧水戸街道と合流するまでである。松戸駅の西を走る旧水戸街道は後に国道ではなく県道となった。旧水戸街道は松戸バイパスが出来た後も主要な幹線道路として維持していたので、常磐線複々線化くらいまでは、それなりの交通量があり、竹ケ花はその旧水戸街道沿いの通過点ではあるものの街道沿いの商店も活気があった。

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竹ケ花踏切から竹ケ花交差点付近までの商店街

竹ケ花踏切以東の商店・飲食店をグーグル・マイマップにインプットしてみる

昭和37年以降の飲食店・店舗他についてグーグル・マイマップを作成してみました。黒いアイコンは、すでに存在していないお店です。赤いアイコンは現在稼働中のお店です。こうやって見ますと、この街道沿いにたくさんあった商店・飲食店の殆どが廃業し、今あるお店は比較的新しく誕生した店ですね。

松戸市道の昔

matsudo-shido

「松戸がよく分かる本」
松戸青年会議所 1988

これは松戸青年会議所発行の「松戸がよく分かる本」に掲載されていた松戸市道(竹ヶ花)の写真です。右の2階建ての建物は米穀倉庫の管理人の住んでいた建物、左端の建物は多分「牛久食堂」道路の正面にみえるのが、多分藤巻自動車工業所、その隣に見える大きめの建物が多分農協だと思います。道路に数台、自動車が停まっていますが、当時はこんな感じで駐車していた車が結構ありました。

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踏切以東の商店・飲食店リスト

旧水戸街道の北西側

  1. つぼ焼き
  2. 関口下駄屋
  3. 貸本屋
  4. 藤巻モータース
  5. 藤倉運動具店
  6. 農協
  7. 鈴荘材木店
  8. 喫茶ゲート
  9. 木下理容
  10. いさみ寿司
  11. 蝦夷サカバー タッテューヤ
  12. 笹屋酒店
  13. そば屋

旧水戸街道の南東側

  1. 楢原建設
  2. 大衆食堂明治屋
  3. 三橋屋(紺屋)
  4. 横尾商店
  5. 末広食堂
  6. 浅間鳥獣店
  7. サチ美容室
  8. ヤマザキショップ
  9. 牛久食堂
  10. 竹の湯
  11. 松戸商事
  12. サンドラッグ
  13. 長谷川鳶工業
  14. 三笠屋靴店
  15. 島根自動車
  16. 石井米店
  17. 松戸タイヤ
  18. 小川モータース
  19. 善味屋
  20. 理容ヒデ

 

旧水戸街道北西側

1.つぼ焼き

Hさん宅

つぼ焼きのHさん宅 2001年10月7日撮影

ここはHさん宅だったが、色々な商売をしていた記憶がある。一つはガソリンスタンド、一つはお茶屋、一つはつぼ焼き。ここの次男さんはよく我が実家のおでん屋さんにおでんを食べに来てくれた。白ちくわが好きな人だった。竹の湯でお会いした時は「カメラマンになるんだ」と伺いましたっけ・・・お兄さんのお顔も覚えていますが、どちらにいらっしゃるのかは分かりません。暫く家も残っていましたが2010年前後に解体されなくなった。現存せず。

2.関口下駄屋(関口履物店)

おばあちゃんが健在だった頃のお店だったと思う。現在は横浜方面にお住まいだと聞いた。お盆の時に墓参りでやってきた時にお会いする事がある。現存せず。

3.古本屋

漫画といえば貸本屋か床屋だったかな?

小学生の頃、漫画を読みたいと思えば貸本屋か床屋に行くか友達に借りるしかなかった。当時の私のお小遣いが20円、週刊少年マガジンが確か50円くらい。やはり割高感がある。しかし単行本漫画は数百円もしてとても買えない。そこで貸本屋で借りる。これを一冊10円で借りる。10円だったら何とかなる。

古書店

lovelyheewonによるPixabayからの画像

貸本屋さんが住宅街にあった

近所に何軒か貸本屋があった。一つは竹ヶ花の踏切を渡り、現在の「しぐれ」の向かい付近(元神田餃子屋あたり)にあった貸本屋、もう一つはすぐ近所の「関口履物店」(通称関口ゲタ屋)付近にあった貸本屋。「関口履物店」の隣が私が最も立ち寄った古本屋さん。多分昭和40年頃までだと思う。

もう一つ、岩瀬の中華料理「末広」の裏付近で「埼玉屋豆腐店」の前に「住吉文庫」という貸本屋が一軒あった。記憶では昭和43年頃に借りに行った記憶がある。これらの貸本屋さんには勿論少年マガジンやサンデーもあったが、何と言っても多かったのは単行本サイズの漫画だった。所謂貸本漫画家の描いた漫画だった。

消えていった貸本屋

需要がなくたってきたのか何年かすると貸本屋は徐々にその姿を消していった。詳しい理由は知らない。高度成長の波にのり国民全体の所得が上がり、同時に本が安くなったからかもしれない。或いは図書館が出来て貸本屋にいく必要がなくなったのかもしれない。やはり前者かな?貸本屋で借りるのは漫画が中心だったけど図書館に漫画はなかったもの……

4.藤巻モーター

Fモーター

藤巻モータース2001年10月7日

この竹ケ花踏切以東には車の修理工場が3つ混在していた。その一つは藤巻モータースだった。浜松に常駐していた頃購入したジェミニの中古車はこの藤巻モータースで車検をお願いしていた。廃車もここで頼んだ。鬼籍に入られた綱ちゃんの同級生が社長だった。現存せず。

5.藤倉運動具店

4.藤巻モータースの写真の右の5階建ての建物が藤倉運動具店。1946年創業のお店、現在はお孫さんに代替わりしていて、Fujikura Sportsという横文字店名を使い、新しいイメージで営業されている。建物右壁には、大きな壁画が描かれていて、MAHARO氏(GROUNDRIDDIM所属)によるものなのだそうだ。週末にはライブなどのイベントもやられているようだ。頑張ってほしい。

6.農協

昭和30年代までは北部小横の竹ケ花、南花島界隈にも水田が広がっていたので、街道沿いという事で農協があったようだ。我が実家でお店を営業していた頃は母に頼まれ、お札を硬貨に替える為、農協に行かされた事もあった。今は移転して北松戸にある。

7.鈴荘材木店

一年先輩のSさんの実家。Sさんはスポーツ万能で活発な人だった。小さい頃、鈴荘材木店に遊びに行ったことが何度もあった。おじいちゃんの家の前だったか盆栽がたくさん置いてあって、蹴飛ばして怒られたこともあった。昭和40年代だったか、材木店は廃業され、等価交換方式で東急リバブルマンションになった。

8.喫茶ゲート

実質、鈴荘さんが営業していた喫茶店。ゲームが置いてあり、妹を連れてよく行った。焼きサンドも美味しかった。1988年頃だったか廃業され、その後不動産会社が入っていた。

9.木下理容

実は木下理容ではない理容店に私は行っていたので詳しいことは実は分からない。分かり次第、加筆しようと考えている。

10.いさみ寿司

分からず、情報はありません。

11.蝦夷サカバー タッテューヤ

竹ケ花の雷電神社参道真向かい付近で営業されている北海道料理のお店。多分2018年頃から営業をされているようだ。我が家も一度食事をした事があった。店頭には駄菓子のコーナーもあり、娘には好評だった。ホームページもあります。

12.笹屋酒店

お店界隈の地主的存在だったが、ある時廃業されてしまった。

13.そば屋

地図によって名称が異なっていたので、そば屋とした。このそば屋は中華そばも提供していたし、店頭でソフトクリームも提供していた。まだ陸橋の出来る前の時代だった。

旧水戸街道南東側

1. 楢原建設

楢原ビル

楢原建設の本社ビル 2001年9月30日撮影 楢原ビル

実家の近所にあった建設会社。高校受験の時だったか大学受験の時だったか忘れたけど、楢原建設の社長の住んでいる階から私の勉強部屋の明かりが遅い時間まで点灯しているのが見えた為、「あの家には受験生がいるのか?」と家族に聞いたことがあったとの頃でした。その家族も我が家の事を知っていたので社長に説明したそうです。

2.明治屋

この店は乾物屋の記憶のほうが大きいが昭和37年頃は飲食店も営業していたようだ。ここの末裔の方が現在北部小横の一休を営業されている。

3.三橋屋(紺屋)

”こうやさん”と呼んでいた。私の記憶では看板を出して商売をしていた訳ではなくて、敷地内の建物で洗張をしていた記憶が強い。この竹ケ花界隈は地下水が豊富で、30センチも掘るとコンコンと溢れ出す事があったので、紺屋も成り立ったのかもしれない。

4.横尾商店

横尾商店

横尾商店 2001年9月30日撮影

写真の右側の赤いテントの場所が横尾商店です。パン・煎餅、菓子類、飲料水などを売っていた。この長女のMちゃんは実家に行くたびに声をかける。Kちゃんは市川に住んでいる。長男のTちゃんは松戸市道側でヤマザキショップを運営している。何かとよく通ったお店。お世話になった。横尾商店はいくら書いても書ききれないくらい思い出がある。機会がある時に記事を増やそうと思います。

5.末広食堂 ・ 6.浅間鳥獣店

末広食堂も浅間鳥獣店も同じ経営者。街道沿いだったので、食堂は運転手の需要も多かったのではないか?末広食堂の前を通るとかき揚げの油の香り(主に玉ねぎだと思うが)がよく漂ってきていた。浅間鳥獣店では主に鳩を買ったり、鳩の餌を買った。中に入ると水槽がたくさん並んでいて、ピラニアも売っていた。外側には人研テラゾーの流しを使った水槽があり、金魚を売っていた。ここの長女のKちゃんは今でも時々挨拶する。

7.サチ美容室

20年以上はここで営業されている。お客もリピーター・常連が多いようだ。看板は無い。

8.ヤマザキショップ

ヤマザキストア

ヤマザキストア 2021年5月撮影

横尾商店のTちゃんが経営しているコンビニです。Tちゃんと言っても私よりも5-6歳年上です。以前はこの建物の場所は、土地が入り組んでいて、奥に紺屋さんが洗張をしていたり、地面は湿地帯の様で、古い井戸もありました。その当時道路側の皮一枚分がTちゃんの店舗で、暫く10-20年以上は状況として変っていませんでした。

1978-79年頃だと思いますが、松戸ベスト100のミスターTによれば、ここにゲーム機が何台かあったというお話を書かれていました。ただ、いたずらがあったのか、その後ゲーム機は無くなったとの事でした。いつか、Tちゃんに会う機会もありますので、聞いてみたいと思います。

続報

2021年8月1日にTちゃんではなくて、妹のMちゃんと話しました。

Mちゃんによれば、昭和50年前後に確かにゲーム機を置いていたらしい。4-5台だったかな?との事です。ゲーム業者が現れ、置かせてくれと言われたので、旧水戸街道沿いの母屋の新築工事をしていた間、約1年間ゲーム機をおいていたとの事。ただ、母屋の工事が終わった後は、ゲームは撤去して、自動販売機をおいたよ・・・との事でした。

9. 牛久食堂と周辺

あれは昭和43-44年頃だろうか、おばさんが運営していた。いつの間にかやめてしまった。牛久さんの所にも井戸があったっけ・・・この牛久食堂の横にはミッチャンとタッチャンの家があって、後にタッチャンは市役所の職員になりました。ミッチャンは五香のラーメン屋さんを運営していたので一度行ったことがあったっけ・・・

ミッチャンの決り文句があって、「竹ケ花のこのエリアは魔のトライアングルなんだ。結婚が遅れるから早く出ていったほうが良いぞ・・・」だった。実際私は遅れた。結婚していない人も居るので、満更無視もできないんだなあ・・・

10.竹ノ湯

竹の湯

竹の湯2001年10月7日撮影

竹の湯に関しては別記事がありますのでそちらを参照お願いします。

11. 松戸商事

 

松戸商事

松戸商事 2001年7月撮影

松戸商事の社長さんは今でもよく覚えている。多分軍隊経験がおありだと思うのだが、手を大きくふりつつ、脚を大きくあげて行進といった感じで歩いていらっしゃった。お嬢さんが三人ほどいて、末娘の人が、私の一年先輩で確か六中ではバレーボール部に入っていたと思う。ピアノがお上手で、松戸商事の前を通ると華麗な演奏がよく聞こえてきたものだ。

12.サンドラッグ

米穀倉庫と月極駐車場の間にトタンで出来た薬屋さんがあった。その名はサンドラッグ。記憶によれば多分、奈良屋が出来た昭和42年頃あのお店ができたと思う。お店を運営していたのはEさんで、奈良屋の上の公団にお住まいだった。元々、名古屋出身で商売上手で、普通に考えると薬屋は子供にとって全く関連の無いお店なのだが、何故かよく訪れた。

ご主人のEさんは近所の人からは”先生”と呼ばれていた。確か当初カメラの販売もしていたと思う。写真好きだったようだ。昭和30年代までは普通の家庭でカメラを持っているところがすくなくて、特殊な趣味に近かったのではないか?その後、コンパクトカメラが普及し、ハーフサイズカメラが発売され、段々普及していった。井上順のコニカジャーニーのコマーシャルがテレビで流れるとカメラを売る店が増えていったような気がする。

ただ、カメラを売る店が増えると共にサンドラッグではないところで皆がカメラを探すようになり、先生のところはプリントだけになった。娘さんが一人いて、何処かの薬学部をでて、薬剤師になったという話を聞いた。その後、サンドラッグのあった土地でも建設計画があり、お店の場所が上本郷駅付近に移った。あれはいつだったかな?何度か上本郷のお店に薬を買いにいったことがあった。

13.長谷川鳶工業

我が実家の向かって左の増築部は実は長谷川鳶工業の血筋の方(Yさん)に設計していただき、建った建物です。おじいちゃんが生前の頃はいかにも怖い感じで、近寄りがたい光を放っていたっけ・・・そのおじいちゃんが他界された時は確か木遣でお悔やみの儀式が執り行われた記憶がある。ピアノを弾く可愛い孫娘さんもいたっけ・・・

すでに他所に引っ越されて、今は全く違う方がお住まいです。

14. 三笠屋靴店

三笠屋さんは竹の花界隈でもいち早く電話を入れた家で、我が実家に電話がなかった頃、クリスマスプレゼントの為、母がサンタに電話すると言って三笠屋さんに行って電話をしていたっけ・・・当時は本当にサンタに電話しているんだと思っていた。現存せず。

15. 島根自動車(自動車修理工場)

島根自動車工業

島根自動車 2001年9月30日

写真の左側の白い建物、屋根の下に山小屋の様な梁の模様が描かれている建物が島根自動車。ここには話しやすいおじさんが二人いた。TさんにMさんだった。Tさんはいつのまにかいなくなったが、その後Mさんが跡を継いで、運営していた。すでに現存せず。

16. 石井米店

石井米店

石井米店2008年10月撮影

竹ケ花唯一のお米屋さん。

17.松戸タイヤ

タイヤ修理のYさん

竹ヶ花の雷電神社付近にタイヤの修理をしていたYさんというおじいちゃんが居た。このYさんは交通指導員の制服を着て、毎朝北部小へ登校する少年少女達の道路横断を誘導していた。しかも優しそうな笑顔で!つまり「緑のおじさん」だったわけだ。立っていたのは旧水戸街道と松戸市道の交差点付近で、実はこの界隈事故が多かった。というのはまだ竹ケ花の踏切があった頃で、交通量が馬鹿にならないくらい多かった。

そんな交差点と踏切を渡って北部小学校に通学する児童たちを何とか守りたいというのが、Yさんの献身的な行為だったのだ。今となっては懐かしい光景だ。

火の見櫓の人

このYさんは同時に地元の消防団に入っていた。竹ヶ花倶楽部の敷地内に、火の見櫓(ひのみやぐら)があった。Yさんは何処かで火事があれば半鐘(はんしょう)を鳴らす役目だった。半鐘は住民に知らせると同時に避難や消火の出動を促す役目も担っていた。半鐘とは火の見櫓に吊されている釣り鐘の事で、この叩き方によって火災のあった地点の距離を次のように表現している。

……半鐘の鳴らし方……
二つ半(二つ半鐘)-ジャーンジャーンと二度叩くのを繰り返す。一番遠い火災。
三つ半(三つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンと三度叩くのを繰り返す。もう少し近い距離
四つ半(四つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンジャーンと四度叩くのを繰り返す。さらに近い。
擦り半(擦り半鐘)-連続して間断なく叩く。これは直ぐ近くであるという合図。

四つ半は殆ど聴いたことが無った。二つ半或いは三つ半と擦り半(すりばん)が多かったと思う。ただ、Yさんの場合、最初二つ半を叩いていても、暫くすると何故か三つ半になってしまう。こちらとしては「間違えたかな?でも三つ半だから遠いのかな?」と思っていると、いつの間にか擦り半に変わってしまいためらった。

18. 小川モータース

小川モータース

小川モータース 2021年6月撮影

ここが竹ケ花の踏切近くで3つ目の自動車修理工場。ここには昭和40年頃だったか、工員のOさんという人がいた。このOさんは我が実家のかき氷やおでんを食べに来てくれれていたし、私にとても優しくしてくれたお兄さん。Oさんは確か住み込みだったと思う。私が「家を出てOさんの所に一緒に住む」と言い出し、周りを困らせた事があった。

先日、我が家の自動車のバッテリーが上がってしまったので、小川モータースさんに助けていただいた。その時、工員のOさんの話をしたら、懐かしそうに「北小金に住んでいたけどいつだったか他界したねえ・・・」との事だった。寂しい。

19.善味屋食料品店

実はあまり記憶ないが、交番の隣で野菜や乾物などを売っていた記憶がある。流行っていた店だったが、いつしかなくなってしまった。

20.理容ヒデ

「理容ヒデ」は何となくモダンな感じがした

黒ネクタイの女

黒ネクタイの女とはこんな感じの絵でした

「理容ヒデ」は若夫婦が懸命に頑張って仕事に精を出していたし、近所でも評判は良かったと思う。お店に入るとイタリアの画家アメデオ・モディリアーニの「黒ネクタイの女」の複製画が額に飾ってあり洒落ていた。ここには貸本漫画の単行本がたくさんあり読んだ。カット無しで漫画だけを読ませてもらったこともある。

マネキンをテーマにした怪談漫画

マネキン

Adam EvertssonによるPixabayからの画像

多くの漫画のうち、一つだけ内容を覚えている漫画がある。それは確か「マネキン」を題材にした奇妙な漫画で、舞台がデパートの怪談物だ。

マネキンが夜になるとそわそわし始め動き出す。それは朝方まで続き翌朝何もなかったように元のマネキンに戻る。それが毎晩お祭りの如く繰り返される。ある夜このデパートに泥棒が入る。ところがこの泥棒は心臓麻痺で謎の死を遂げ翌朝発見される。警察が調べても原因不明。実はマネキンの仕業だったという様な筋書きだった。怖い漫画だった。

そういえば「マネキン」という映画もあったなあ・・・

(補足:理容ヒデさんはその後、人形の町として有名な岩槻市に行ったと聞いた)

おまけ

”焼きそばや○む○”

さて、ここからは我が実家の写真を公開します。上の地図のどこかにあったのです。でも記入はしませんでした。具体的な場所は伏せておきたい。ご存知の方だけ分かればよろしい。

”焼きそばや○む○”我が実家は軽食堂(甘味処?)だった

お店と私 

お店を背景に父と私 昭和40年7月頃撮影

表の家は“やきそばや○む○”という店名で(ジュースは勿論のこと)冬はおでん、夏はかき氷他色々な甘味、あんみつ等を売り繁盛していた。当時は電気冷蔵庫自体がまだまだ高価で、表の家の“やきそばや○む○”は電気ではなく氷で冷やすタイプの冷蔵庫を使用していた。映画「三丁目の夕日」に登場したあの氷式冷蔵庫だ。木製で上下二つの扉があり、上の扉に氷を一貫目を入れて下の扉の食品を冷やす。

かき氷が売れるときは次から次へと売れるので、かき氷用の氷も保存する冷蔵庫が必要になる。そこで父がカキ氷用の氷保冷庫を自宅庭地面下に作った。土は自然の断熱材であることを利用した簡単なもの。お店の左後ろは紺屋さんの敷地です。

冬のおでん販売

現在`おでん`を食べたくなったら、コンビニにいけば用が足せる。スーパーに行けばレトルトパックのおでんもあるし、秋葉原名物おでん缶なんてのもある。おでんは冬というイメージはあるが、他にいくらでも魅力的な食べ物、お菓子がある昨今、子供がおでんに群がる光景はすでに過去の風景かもしれない。

お店と母

お店と母 昭和40年7月頃撮影

老若男女たくさん来ていた

夏はかき氷がメイン、冬になると焼きそば、おでんを提供した。当時、おでんの顧客は大人だけでなく子供も大切な対象だった。子供が立ち寄るおでん屋さんで有名なのは、北部小学校旧正門付近の堀江食堂のおでん、そして根本の川光物産裏手川向こうにある谷口さんの食堂(昔日の松戸を読んでくださる読者の方から平潟の千壇家旅館付近にもおでん屋さんがあったとのお話を伺ったが、残念ながら私は行った事がなかった)。

このふたつは比較的味が似ていて、濃い口醤油で甘い味付けだった。子供には味噌田楽が人気だったと思う。母によれば小根本の栄久さんのご主人は出前の途中で、表の家のおでんのつゆをいただきに来ていたとの話しをきいたことがあったっけ!又、山長そば屋の親父さんは出前の途中で我が食堂に現れ、おでんのつゆをいただいていったのだとか・・・

“やきそばや○む○”のおでんの味は塩味でサッパリ系だった

甘いおでんが主流だった当時、表の家の軽食堂“やきそばや○む○”のおでんは今にしてみれば大人向けの味で昆布ベースの塩味でさっぱり系、べとべとしていない。当時は珍しい味だったのではないかと思う。実際、塩味のおでんを覚えたくて母は東京のおでん屋さんに何度も通って食べたそうだ。今では塩味おでんの方が一般的で珍しくなくなった。

塩味だから子供への人気は無かったかと言えば、そうでもなく小学校下校時間になるとたくさん児童が集まってきた。近所のHさんの次男さんは白ちくわが好きだったらしい。残念ながら私は白ちくわは駄目・・・

当時は人工着色した駄菓子屋の粉ジュースに夢中になったと同時に、塩味のおでんも好んで食べたと言うことは好奇心旺盛と同時に案外おませだったのかもしれない。或いは単なる食欲旺盛だったという事か・・・?

かき氷のお話 : ”焼きそばや○む○”

「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」

今現在、松戸を歩いていて喉が渇けば、どんな場所でも缶ジュースの自動販売機が一つや二つ必ずある。或いはコンビニだってある。好きな時に好きなように飲み物を手に入れて喉を潤す事が出来る。これは現在日常の当たり前の風景になっている。

缶ジュースの自動販売機は見かけなかった時代

昭和四十年代前半までは缶ジュースは存在したが、自動販売機はまず見かけなかった。缶ジュースとして明治製菓のオレンジジュースを覚えている(瓶ジュースでバヤリース、プラッシー、ミリンダなどもあった)。

現在のような便利なステイオンタブ式ではなく、付属の缶切り付きで売られていた。缶切りで二箇所穴を開けて飲む。片方が飲む穴、片方が空気が入り込む穴だ。しかも硬めのブリキ缶の様な感じであった。当時の商店には必ずしも冷蔵庫があったわけではないので、缶ジュースにしても瓶ジュースにしても、常温の状態で棚に並べられている事も珍しくなかった。

缶ジュースは自動販売機と出会い、冷やされ売られる事によって初めて普及したのではないかと思う。缶ジュースがまだまだマイナーだった時代、夏の清涼を取るためには軽食堂やそば屋のような場所に行くのが一般的。

 

冷たい飲み物は一般的に商店にはなかった

現在は冷たい飲み物を飲むという事は当然の事になっているが、当時冷たい飲み物を飲むという事はお金も掛かるし簡単ではなかった。

又、松戸駅の付近には松戸製氷そして小根本の交差点付近(モリヤ米店付近)には折原氷店があった(ある時期この店は栄久氷店と言われていた時期もあった)。夏休みの間なので、自転車で店から近い折原氷店に度々買いに行かされた。

氷を買うときの単位は貫目。当時一貫目は二十五円。確か一貫目で14~5杯くらいはとれた。これを一杯二十五円で売る。

「五十円を持って銭湯に行けば帰りにはおつりでかき氷が食べられる」

歩いて数十秒の所に竹の湯があり、大人料金が二十五円だった。「五十円を持って銭湯に行けば帰りにはおつりでかき氷が食べられる」という便利さから重宝されたようだ。ただ、当時は缶ジュース時代の到来は近いと見られていて、保健所から営業許可をとる際、担当官から「カキ氷はあと数年の命だよ」とアドバイスされた。

あれから数十年、すっかりかき氷は廃れ缶ジュース、缶コーヒーの時代になった。現在フラッペと称しかき氷が提供される店はある。然し、かき氷という食べ物は団扇や扇風機で涼を取り、汗かきながら食べるものであって、冷房のきっちり効いた店舗内で果たしてかき氷を食べたくなるだろうか……

冒頭に「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」と書いた。私はかき氷は缶ジュースにその座を取られたのではなく、クーラーという冷房設備と冷蔵庫にその存在価値を奪われたのではないか?と思っているからだ。

新橋駅近くの製氷屋さんで

10年前に東京新橋付近で製氷屋を見つけた。店外に作られた作業台で氷詰め作業をしていた。どうにも懐かしくなって話しかけてしまった。

「今、一貫目いくらぐらいですか?」
「六百円だよ」
「私の子供の頃は二十五円でした」
「あんた、いつの時代のこと言っているの?」

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