昔日の松戸昭和の松戸を歩く電車よもやま話

消えた踏切:常磐線松戸駅付近

kanayama humikiri 昭和の松戸を歩く
松戸駅方面を眺める
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踏切

開かずの踏切という言葉があった。一度遮断器が閉まると上がるまでに15分は当たり前にかかったところがあると聞いた。とくにこれが、駅に近い踏切であったり、松戸の小根本の踏切の様に新京成電鉄も重なると中々遮断器が上がらなかった。

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踏切があった昭和40年代までの松戸

消えた踏切のページを作成したのは2004年頃でそれ以来更新していなかったが、元竹ヶ花にお住まいの小倉様のご厚意で昭和40年代前半~昭和45年撮影の懐かしい写真を提供していただいた。是非、消えた踏切のページに使わせて頂きたいと思う。この度は誠に貴重な写真をありがとうございます。

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第二浜街道踏切を西側から柏方面へ小倉様撮影 昭和40年代前半~昭和45年頃

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昭和30年代にあった踏切ー根本周辺

地理院地図の空中写真1961年-1969年に当時の踏切、主要な道路,鉄道,川を入れたのが上の図です。「開かずの踏切」と言われた元大宝前の踏切(岩瀬方面への踏切)から竹ヶ花の第二浜街道踏切までの間に何と4つも踏切があった。吉祥寺の踏切、金山踏切(金山神社参道の踏切)、小根本踏切、無人踏切-A(仮名)である。

テツな”ひろやす”の鉄道小咄の投稿である”踏切にも種類がある 鉄道“超”基礎知識(26)”によれば、

踏切とは第一種踏切から第四種踏切まであるらしい。第一種踏切とは遮断器と警報のある踏切。第二種踏切は決められた時間だけ踏切保安係が遮断機を操作する踏切、第三種踏切は警報機はあるけれど遮断器の無い踏切、第四種踏切は踏切標識だけがあり、警報機も遮断器も無い踏切。

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多分、竹ケ花の踏切(第二浜街道踏切)、金山神社参道の踏切、岩瀬に通じる根本の踏切、小根本の踏切は第一種踏切だった事になる。多分、旧中部小学校横にあった踏切も第一種踏切だったと思う。ただ、第二浜街道踏切と小根本踏切の間にあった無人踏切と根本山吉祥寺から角海老付近まで渡る踏切が何種だったのかは良くわからない。

第二浜街道踏切(通称竹ケ花の踏切閉鎖)

広報まつど昭和46年4月5日号によれば、この年1971(昭和46)年4月1日に閉鎖になった。

広報まつど

広報まつど
s46年4月5日号より

4月1日から
第二浜街道踏切が閉鎖に(通称竹ヶ花)
4月20日の常磐線複々線化に備え交通量の多い県道松戸~柏線(旧水戸街道)の第二浜街道踏切(通称竹ヶ花踏切)が4月1日から閉鎖になり、新たに本格立体交差として生まれ変わりました。これにともない歩行者用の跨線橋も完成しましたので、人も車も踏切待ちのイライラもなくスムーズに通れるようになりました。広報まつど昭和46年4月5日号

その他の踏切について

その他の踏切についてもこの年1971(昭和46)年3月には閉鎖されたようです。下記参照。

歩道橋と踏切閉鎖

松戸市の踏切閉鎖記事
まつど広報昭和46年2月20日号より

まつど広報 1971(昭和46)年2月20日号より

複々線に間に合う
立体交差は12か所 常磐線

常磐線の複々線化に備えて、国・県・市が進めてきた立体交差計画についてお知らせします。いままで完成した歩道橋は、小山道、中部小裏、根本金山、新作、東雷、三村街道の六ケ所です。四本の電車が走る四月二日十日ころまでに、完成を予定しているのは、車が通れる本格的立体交差が第二浜街道(カーブのあるほう)と宮前の二箇所です。歩行者のほか、小型車も通れるのは第二幸谷。歩道橋は根本、三ケ月地下道、、三ケ月下の三か所です。一方それまでに完成しないのは、本格立体交差では幸谷(交差部だけ完成)第二浜街道(直線の方)と馬橋の三か所。歩道橋は上本郷、競輪場前、岩瀬の三か所ですが、用地などについて関係者が、いっしょうけんめい努力していますので、実現もそう遠くはないでしょう。常磐線の立体交差実現に伴って、次の踏切が三月中に閉ざされますから、運転者や歩行者はご注意ください。
三月一日・・・第二幸谷、三ケ月、
三月九日・・・馬橋駅構内中道、三ケ月下、
三月三十一・・・中部小裏、宮前、岩瀬、第二浜街道、伝兵衛新田

第二浜街道踏切の貴重な写真

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第二浜街道踏切の寫眞 小倉様撮影 昭和40年代前半~昭和45年頃

これが竹ヶ花の踏切、第二浜街道踏切と呼んだそうです。踏切際には国鉄職員が常駐していた建物が見え、写真中央奥にはヤマザキパンの工場が見えます。小倉様によれば、踏切には国鉄職員が三名常駐し、踏切西側(写真では左側)の小屋で遮断機の上げ下げ、東側(右側手前)の小屋では仮眠所となっていたとの事です。遮断機の昇降は当初は手作業で行っていたが、後半は電動になっていた様です。写真提供:小倉様

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第二浜街道踏切  小倉様撮影 昭和40年代前半~昭和45年頃

この写真は竹ヶ花の踏切(第二浜街道踏切)を松北堂書店側から雷電神社方向を見た写真。正面遠方に見える樹木は竹ヶ花の雷電神社。このまま踏切を横断すれば右側には明治屋さん(乾物、食料品店)があった。写真提供:小倉様

 

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第二浜街道踏切から松戸駅方面 小倉様撮影提供 昭和40年代前半~昭和45年頃

この写真は第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)から松戸駅方向を見ている写真。右手前の”国鉄コンテナ”と書かれたトラックの後方には松北堂書店が見える。また、踏切の開くのを待つ車の行列がはるか先まで続いているのが分かる。第二浜街道踏切(竹ヶ花の踏切)は常磐線の上下しか無かったが、それでもこれだけの渋滞をしていた。
写真提供:小倉様

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松北堂書店とトラック 小倉様撮影提供 昭和40年代前半~昭和45年頃

これは上の写真の内松北堂書店を拡大してみた。

記録映画「ある機関助士」に映っている竹ケ花踏切

また、同様に下記についても小倉様より教えていただきました。
記録映画「ある機関助士」に昔あった竹ケ花の踏切(第二浜街道踏切)が映っています。一瞬ですが、29分38秒あたりで出てくる踏切です。これは、機関車を運転していて、注意すべきことなどを述べている。前方で踏切にトラブルがあった場合の対処法(村山踏切でトラックがエンストを起こした場合)などを述べていて興味深い。手作業でポイントを変えたりしている

助六について:

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第二浜街道踏切から助六方面小倉様撮影提供 昭和40年代前半~昭和45年頃

第二浜街道踏切から助六方面を見ています。

松戸市竹ヶ花の踏切(第二浜街道踏切)を西に渡ってすぐ左に「助六」という揚げ物を売る総菜屋があった。昭和三、四十年代である。後に複々線が出来て土地の買収等がありこの近辺も引っ越しなど色々とあり、この店もなくなった。踏切も閉鎖され果たして何処にあったのか正確な位置が良くわからなっている。さらに時代は下り、この付近に札幌ラーメン「エゾフジ」が出来、それも又消えた。

「助六」があった頃、母はまだ二十歳代で、当時は自宅で揚げ物を調理するよりは買ってくる方が多かったそうだ。他の店で買ったイカフライは、イカがツルっと抜けてしまうのに、この「助六」のイカフライはきっちりくっついていたそうだ。しかも歯触りもなんとも言えない。

イカフライ

martin mirandaによるPixabayからの画像

母「どうやったらそうやって揚げられるの?」
助六「イカはね、新鮮なイカを揚げないと駄目なんだ。新鮮なイカをさらっと短時間で揚げるんだよ。揚げ過ぎちゃ、こうはならないんだよ」

主婦は商店街でこんな形で料理を習い成長する……
現在、揚げ物等の総菜はスーパーでパック入りで売られている。商店街と違ってスーパーは人が少ないので店主との会話も少ない。客も人との接触を嫌がる。結局料理が上達せず、出来合いの惣菜しか買えない人も多いと聞く。るみちゃんブログのるみちゃんは小学校の頃、この助六のコロッケを食べたと聞いた。

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揚げ物屋助六
小倉様撮影提供
昭和40年代前半

貨物引込み線車止め付近について

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貨物引き込み線位置
松戸市発行地形図 昭和31年頃に位置を書き込んだ

貨物引込み線車止め付近にスポットを当ててみたい。貨物引き込み線の車止めは上図無人踏切A付近にあった。

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左に見える線路が貨物引き込み線
小倉様撮影提供
昭和40年-45年の様子

この写真は複々線以前、右に見える二対の線路が常磐線の上り下りの線路、左に見える線路が貨物の引き込み線。この当時は、常磐線は上り下りの二対だったが、複々線化以降、常磐線快速電車と常磐線各駅停車の上下四対になった。

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貨物引き込み線車止めにて 昭和34年頃撮影

昭和34年頃、貨物引き込み線車止めで撮影した写真。右端に立つ男性は私の叔父。叔父から見て、次の少年が私、その左隣が従兄弟のミヤコちゃん。左端の二人は近所のTさんのご兄弟(だそうです)。このミヤコちゃんは線路対岸の竹山クリーニングの竹藪付近に一群の家並に住んでいた。目線はぼかしてあります。

どうやらこの引き込み線車止めは子供の遊び場だったらしく、時々線路を越えてここに遊びに来ていたようである。今だったら考えられないが、当時は本数が少なかったからそんな事が出来たのかもしれない。

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貨物引き込み線車止めにて 昭和34年頃撮影

この写真は私(道草亭ペンペン草)でございます。一応目線はぼかしてあります。

丸果市場と小根本踏切付近

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松戸市発行の地形図(昭和31年)に市場や踏切を書き込んでみた。

地図は丸果市場を挟んで金山踏切と小根本踏切の位置関係(昭和30年代の地図に踏切と市場を表している。この小根本の踏切は岩瀬方面や小根本の農家の人にとって重要な踏切で、出荷物の搬入はこの踏切を使っていた。

丸果市場(東京中央青果松戸支店)

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丸果市場の様子
小倉様撮影 昭和40-45年頃

この写真は旧水戸街道側から市役所方向を見ている。右奥の切り妻屋根が市場で東京中央青果松戸支店(丸果)、正面中央に小根本踏切があり、中央上部にそびえる高層の建物が住宅公団松戸市役所前アパートで、一階の店舗は、”ショッピングセンター・ときわ”→”奈良屋”→”土屋家具センター”と変遷した。現在は同地に松戸シティテラスというマンションが建設されている。

この丸果市場はすでに無く、その後線路側は住宅が建ち、手前はパークホームズ松戸グランフォレストになっている。写真を提供いただいた小倉様によりますと

「丸果市場は15時ころ競りが始まりました。家の前の踏み切りは狭かったですが人通りは多かったです。牛、馬に引かせて野菜なども運ばれてきていました。また初荷のときは板で棚をつくり初荷が飾り付けられました。小さな売店もありました。おばちゃんが商売していました。市場のなかでよく遊びましたが、天井の梁に上ったり、ジャガイモの俵(中身あり)で馬とびなどをしました」

との事です。ありがとうございます。

常磐重機

常磐重機

るみちゃんブログのるみちゃんによればショッピングセンター・ときわ常磐重機という会社によって経営していたとの事です。

Handrail

東京中央青果株式会社 松戸支店 2007年11月17日撮影

小根本踏切が閉鎖されるまで

小根本踏切-1

konemoto humikiri

小根本踏切
小倉様提供 昭和40-45年頃

小根本踏切を市場側から市役所方面を見た写真。右の鬱蒼とした樹木は金山神社境内。昭和四十年代前半の写真でまだ、立ち退きが始まる前の写真と思われます。

写真提供の小倉様によれば、この小根本踏切はミゼット、牛、馬、リヤカーなどに荷物を積んで往来があり、競りは15:00からだったとの事です。これは丸松市場も同様ですが、夕方から競りが始まる”ゆうす”だったと思われます。夕方に市が立つという事は即ち、地元の野菜を扱った事を意味します。

朝収穫した野菜を洗い、車、牛、馬、リヤカーなどで出荷し、これら地元の市場に運び込むとちょうど15:00くらいから競りが始まるという訳です。農業と共にあった松戸の市場を考える”を参照下さいこの踏切を渡りまっすぐ進むと市役所に上る坂に出ます。

農業と共にあった松戸市の市場を考える
子供の頃、松戸市には農地がとても多かった。ただ、戦後の農地改革、衛星都市政策の影響で非常に激減していったようです。また、同時にその農業と共に支えあった市場も分本場合わせて15ほどあった昭和30年代から減少し、現在は後に出来た南部市場だけです

という事は小根本、胡録台、岩瀬方面の農家は混雑する大宝前の開かずの踏切や竹ヶ花の第二浜街道踏切を通らず、この小根本踏切を利用すればショートカットして野菜を運べたからでありましょう。又、当時この踏切の先、左側には居酒屋があり、自家製キムチもおいていたとの事です。
写真提供:小倉様

小根本踏切-2

konemoto humikiri

小根本踏切を若干手前から撮影、小倉様提供

この写真は小根本踏切を若干手前から見た写真ですが、神輿蔵の付近にあった建物が無いので、多分踏切閉鎖直前でまだ通れた頃だと考えています。

小根本踏切-3

konemoto humikiri

閉鎖直前の小根本踏切 小倉様提供 昭和40-45年頃

この写真は踏切閉鎖の為の周辺工事を始めた頃の小根本踏切の様です。正面の信号根元にある擁壁及びその上のフェンスに注目してください。擁壁の上部に鉄管の様な物が見えますが、これは建設現場の仮設足場や仮囲いに使われる単管と呼ばれるパイプの様です。
写真提供:小倉様

小根本踏切-4

konemoto humikiri

閉鎖開始小根本踏切 小倉様提供 昭和40-45年頃

今や懐かしい栗の木で出来た枕木

小根本踏切-5

konemoto humikiri

閉鎖後小根本踏切 小倉様提供 昭和40-45年頃

小根本踏切写真-3, -4は同じアングルの小根本踏切ですが、通行止めになっているほぼ同時期の写真で踏切を解体している状況です。両方の写真とも擁壁の上部に既製コンクリート製の鉄道柵が作られているのが分かる筈です。写真提供:小倉様

小根本踏切-6

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金山踏切方面を手前から撮影、小倉様提供

複々線拡張工事の様子

小根本踏切前後

View from konemoto humikiri

柏方面を見た写真
小倉様撮影

多分、小根本踏切よりももう少し松戸駅寄りから柏方面を見て撮影したものと思われる。右斜め前の樹木は竹山さんの竹藪に生える樹木と思われる。この竹藪は湧き水もあってザリガニや小魚が捕れた。樹木の線路側の住宅群の線路側は人が行き来できるだけの小道が残されていて、その先の大きな切り妻屋根(東葛土木事務所内の倉庫だったかな?)を抜け楢原建設前付近まで抜ける事が出来た。

少なくとも昭和五十年くらいまではこの小道はあって、通勤の際、この道を通って金山神社境内付近まで抜け松戸駅に向かった。今は、この道は無く通れない。写真提供:小倉様

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柏方面を眺めた写真 2
小倉様撮影

小根本踏切付近、線路の敷設工事中で何となく間延びして見える。両側に既製コンクリート製の鉄道柵が並んで中に入りにくくなっているのが分かると思う。写真提供:小倉様

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柏方面を眺める
小倉様撮影

多分、小根本踏切から数十メートル竹ヶ花踏切寄りの場所だと思う。土中に埋まってしまっている線路が見える。線路幅とクネクネ具合から工事用トロッコの仮設線路であろうか?写真提供:小倉様

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神輿倉前の工事  小倉様撮影

金山神社の御輿蔵前付近。線路敷きとして拡張し整地している写真。写真提供:小倉様

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工事中状況、小倉様提供

対岸の擁壁の存在から、やはり小根本踏切の市場側付近から柏方面を見ている写真。あらたにU字側溝が造られている。写真提供:小倉様

金山神社跨線橋付近

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金山神社参道の跨線橋工事中 小倉様撮影

竹ヶ花方向から金山神社前跨線橋を眺める。現在の快速電車側の線路敷きが広く、まだ線路の工事中。線路敷き工事手順として、先ず既存の線路上に今まで通り、常磐線の上下線を走らせている間、拡幅した線路敷きの部分に複々線の線路を造る。それらが出来た時点で、常磐線の上下線として新たに作った線路上に走らせる。その間に線路敷き西側の部分の工事に入る。

ここには貨物船の引き込みなどもあったので、それらを統合して快速電車の上下専用の線路に作り直す。快速電車用の上下線線路が完成させたら、そこで初めて快速電車を西側の線路に走らせ、東側線路敷きに常磐線各駅停車を走らせるというやり方ではなかったのだろうか?(昭和45年4月15日小倉様撮影)

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金山神社参道の跨線橋工事中 小倉様撮影

松戸大宝寄り新京成の無人踏切付近から金山神社の跨線橋方向を眺める
 (昭和45年4月15日小倉様撮影)

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金山神社参道の跨線橋工事中 小倉様撮影

すでに金山神社参道の跨線橋がほぼ完成している写真。写真提供:小倉様

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金山神社参道の跨線橋付近工事中 小倉様撮影

線路敷の工事が始まっている写真。写真提供:小倉様

岩瀬の踏切付近前後

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松戸駅方面を眺める 昭和45年4月15日小倉様撮影

岩瀬の踏切を北松戸方面から松戸駅方面を眺めたショット。所謂開かずの踏切と言われた。当時は常磐線の上り下り、貨物線、新京成電鉄が重なる部分であったため、車の通れるタイミングが中々来なかったようだ。ここに常磐線の複々線(常磐緩行線)、現在の常磐線各駅停車の上下線が加わっては殆ど行き来が難しかった訳だ。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)

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岩瀬踏切 昭和45年4月15日小倉様撮影

左端の鬱蒼とした樹木の所が岩山稲荷、その横の二階建てピンク色の建物が角えび、さらにその先の白い建物で7層近くある建物が松戸大宝ビル。新京成の線路は画面左側に三本の白い電柱向こう側、岩山稲荷沿いを走っている為全体に線路が少なく見える。
(昭和45年4月15日小倉様撮影)

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大宝ビル 昭和45年4月15日小倉様撮影

樹林が岩山稲荷、ピンク色の建物が角えび、白い建物が松戸大宝。この当時から角えびはピンク色だった事が分かる。(昭和45年4月15日小倉様撮影)

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松戸駅方面を眺める 昭和45年4月15日小倉様撮影

左端の窓が縦に三つほど見える建物が松戸大宝、その横に富士と大きく書かれた看板があるがそれが遊技場の富士、中央右よりに見える屋上ペントハウスに赤地に白い字が書いてある建物が扇屋。(昭和45年4月15日小倉様撮影)

 

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遊技場富士方面を眺める 昭和45年4月15日小倉様撮影

参考動画

懐かしいSLの記録映像、常磐線の風景など色々あります。国鉄の赤字ローカル線の悩みなど・・・また、浜松ですが、踏切があった頃の悩みもあり、良いことばかりでは無かったという事も分かる記録映画があります。

あかずの踏切

”フィルムに残された あのころのにっぽん 昭和43年~46年” より、途中の39:07からから始まります。先送りして見てくださいね!武蔵小金井駅近くの踏切だそうです。

日本の蒸気機関車 Japanese steam locomotive

Youtubeですが、6分40秒くらいに8630+D51 947が常磐線を走る姿が映されている。どの辺りなのかは分からない。

常磐線と大煙突【1963】昭和38年

常磐線(日立駅-小木津駅間)を走るSLの風景など、子供が見ている所がいいですね!

031 常磐線 上野~北松戸 88~92年

これは1988-92年頃の風景だが、途中で松戸ビルヂング方向を見ながら撮影している場面、葛飾橋から江戸川を渡って、矢切の付近を走っている風景など懐かしい風景が結構ある。

赤字に悩むローカル線(1960年ニュース映画)

全体の鉄道網に対して8割が赤字路線であったらしい。

生活のなかの鉄道 ~ローカル線~ 昭和43年制作

全国の所謂ローカル線の赤字問題なについて語っている。昭和40年度までに1万人ほどの人員削減をしたそうだ。フランスは鉄道網を縮小している政策であるにも関わらず日本では路線数が増えている現実を語り、特に地方の赤字路線について、他の交通手段に委ねる選択肢について語っている。

踏切のない町へ

このビデオは舞台が浜松ですが、踏切がなくなる頃の状況を描いたドキュメンタリーです。

 

 

 

あとがき

この「消えた踏切」は松戸行脚2004で作成し、2008年9月リメーク、2013年2月及び3月小倉様のご厚意により、昭和40年代前半~45年当時の踏切写真を提供いただき、ページに加え、さらに私が三歳の頃の近辺の写真も加え、さらに2021年7月Wordpress化に伴い、大幅にレイアウトを作り変えた。

 

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