昔日の松戸

月賦で商品を買っていた昭和の時代と松戸駅付近の月賦百貨店について

ホーロー看板 昔日の松戸
ホーロー看板
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月賦百貨店が松戸にあった時代

月賦百貨店とは

ここでいう月賦百貨店(げっぷひゃっかてん)とは、割賦販売により商品を販売していた小売店のことで、このページでは信販会社が中間機関として入らなかった月賦について述べる。つまり店と購買者(消費者)の二者間契約で成り立っていた月賦百貨店を指す。

購買者が、店に出向き直接返済していく。京屋百貨店は丸井、緑屋、丸興等と同じ月賦百貨店の一つで自社で月賦システムを持っていた会社(ちなみに緑屋は現在西武系列でクレディセゾン、丸興はダイエー系列でOMCカードになっている)だった。
自社で月賦システムを持っているという事は客からの支払いが滞った場合、負債が直接自社に及ぶので倒産という危機に陥りやすくなる。

その後、この二社間契約での月賦のスタイルはなくなり、月賦百貨店は物販から離れ、クレジットカード業務に特化するところが増えていった。

日本での月賦販売、割賦販売のはじまり

1895(明治28)年県越智郡桜井村(現在の今治市桜井)にあった呉服店丸善の田坂善四郎が従来からの頼母子講式販売を一歩進めた「月掛け売り」という割賦販売を始めたことが草分けとなっているそうだ。田坂善四郎は50歳にして脳溢血で他界するが、教えを受けた人たちが全国で旗揚げをして広まっていったそうだ。

 松戸駅付近にあった月賦百貨店(1962(昭和37)年頃)

上の図は国土地理院の地理院地図を使用し、1962(昭和37)年の空中写真と2021年現在の地形図を合成し、当時存在した月賦百貨店の位置を記入したものである。青い点は主な商店で、その十数年後に建設されるスーパーマーケットの位置を描いたものである。この界隈は松戸市による区画整理が行われた。この区画整理は一期、二期に分かれて行われ、基本的にすべて終わったのは昭和50年とされている。この時期を経た後の道路は相当位置が変わっているのが分かると思う。

この当時、松戸駅付近にあった比較的大きな月賦百貨店は下記3つである。

  1. 京屋百貨店
  2. 丸幸百貨店
  3. 丸徳百貨店

この内、京屋百貨店だけは新松戸のビル名に名前が残っているが、その他は行方が分からず、今後の調査が必要である。

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看板や広告

ホーロー看板

 

ホーロー看板

古ヶ崎五叉路付近にあったホーロー看板 2006年撮影

2021年現在、このホーロー看板は消えてしまいましたが、少なくとも2010年頃まで、古ヶ崎五叉路付近にありました。根本の京屋百貨店の広告の入った看板です。

 

マルアイ

北千住のマルアイのホーロー看板、 2021年5月撮影

このホーロー看板は2021年7月現在でも見られます。北千住のマルアイ百貨店の看板です。マルアイは現在ビル名に残っていて、貸しスペース業をされているようです。松戸市はマルアイの商圏だと考えられていたのでしょうね。

紙面の広告

丸徳広告

丸徳広告
広報まつど
昭和33年6月15日より

丸徳は松戸駅前、現在の場所で言えば、松戸駅西口のツタヤ付近になると思われる。

丸興広告

丸興広告
広報まつど
昭和33年12月15日より

丸幸百貨店は現在で言えば、雑貨の山田屋さんの辺り・・・

京屋広告

京屋広告 電電公社電話帳広告より

京屋百貨店は旧水戸街道沿いのUQ(携帯)ショップがあるが、その横の松の木通り付近にあった。五香のお店は良く分かりません。

丸幸百貨店の予約明細書

丸幸明細

実際に使用された丸幸明細

これは実際に使われた丸幸の予約明細書です。名前や住所などについては消してあります。総額9900円で、初回金を1800円支払い、残額12月27日から残額を毎月27日に900円ずつ9回に亘り返済していく予約明細書(つまり契約書)です。この様な書類を作成し、毎月決まった額を決まった日にお店に返済していきます。

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京屋百貨店について

京屋百貨店について

私が物心ついた頃、母と一緒に行ったのは、丸幸百貨店ではなくて、京屋百貨店でした。これらの月賦百貨店は会社維持運営のため利益をふっかけ高かったのか?といえば決してそんなことなく、庶民的な価格で提供していた様です。アフターケアもしっかりしていたようで京屋百貨店は結構人気があった様です。私が物心ついたころ、自宅の流し台は人研ぎ石だった。母は最新式のステンレス製流し台が欲しくなった。ある日一大決心をして京屋百貨店で錆びないステンレス製の流し台を買った。勿論月賦である。

ところがある日錆びないはずの流しに錆びが出た。母は大慌てで京屋に苦情を持ち込んで取り替えてもらった。京屋は不愉快な顔一つせず快く取り替えてくれた。後に母は「あの時の原因は金タワシの様なもので表面をこすり、もらい錆びの様な状態だったかもしれない」と話していたが、やはり当時としては清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した高価な買い物なので相当慌てたのだろう。

北部小の教室で東京五輪(1964)を見られたのは京屋さんのおかげ

陸上競技

Bernd HildebrandtによるPixabayからの画像

ある日、根本交差点付近の飲食店で食事中に、こちらから何も聞いてもいないのに、突然「京屋って知っている?」と話しかける人(Kさんだったかな?)がいた。細身で比較的小柄な人で、私よりも二、三歳は歳上だと思う。その人は立て続けに話した。

「京屋は現在ね、新松戸に貸しビル(京屋ビル)があって、そちらに拠点を移しているんだよ。京屋の社長は偉くてさ、ほら、昭和三九年のオリンピックの年、北部小学校の全教室にテレビを一台ずつ寄付したんだよ。同級生に京屋の娘がいたんだよ」


ああ、記憶がある。オリンピックの年、確かにテレビが教室に置かれていた。そのおかげで私は北部小学校でオリンピックを見たのだ。今でもはっきりと覚えている。確かにそういう事があった。重量挙げの三宅、砲丸投げのタマラプレス、体操のチャフラフスカ、マラソンのアべべと円谷等々、しっかりと覚えている。あんなに記憶がはっきりしているのは京屋の社長が寄付してくれたテレビのおかげだったのだ。

その他月賦百貨店について

東京の丸興の昼休み

松戸にあったのは丸幸百貨店だが、これは東京にあった丸興の様子。昼寝の時間があったらしい。月賦百貨店だからと店内の印象は特に普通の商店と変わらないと思います。ただ、従業員が多いかな?

伊予の商人が大半だった月賦百貨店

これは中日新聞のSample動画。昭和37年当時全国で2000店に達する勢いだった月賦百貨店。これらの内、90%は愛媛県出身者、つまり伊予の商人によるもの。彼らの大半の故郷が今治であり、四国の大阪と言われる場所。ここは古くから綿業が栄え、特にタオル製造が全国輸出高の80%を占め産業の中心となっている。

桜井の漆器は天保年間から150年の歴史。松前の唐津船は高度な公開技術を持つ全国をまたにかける特異な存在であり、豊臣の時代から伊予の水軍としてその名を、轟かせ。来島海峡は村上水軍の発祥の地でもあった。というような事が聞くことができます。もしかすると松戸の京屋さんも伊予の商人だったのでしょうか?

昭和の暮らし


この動画は直接月賦百貨店とは関連がないが、当時の生活を垣間見る貴重な動画だと思い、掲載します。ところで、この団地は常盤平団地に見えないだろうか?また、ご主人が通っている会社の外観を見ると釣りバカ日誌でもロケが行われた虎ノ門の西松建設のビルじゃないかな?そう感じた。

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