松戸旧市役所通りについて
2022年現在、松戸市役所は、松戸市根本387番地5の高台の上にある。また、将来計画として、相模台の上に移転しようという計画もある。
松戸市役所は元々は松戸三丁目(現在のキテミテマツドの駐車場方面)にあった。我が母が、松戸にお嫁に来た頃は三丁目のまさにキテミテマツド用の駐車場ビルの場所に市役所があった。付近には松戸税務署もあり、所謂官庁街だった訳だ。この投稿ではこの旧市役所通りについて、所持している絵葉書他資料と共に調べてみた。
旧市役所通りの位置
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これはuMapです。現在の地図の上に、松戸町案内図(大正期)や昭和35年の住宅地図の情報を重ねて、表現してみました。また、旧市役所通りとは、現在のキテミテマツドとキテミテマツドの駐車場ビルとの間の道の事です。今では信じられませんが、ここは松戸の官庁街でした。
松戸町案内図(大正期)
これは大正期に発行された松戸町案内図の一部です。この地図見て分かる事、感じる事は下記の通り:
- 松戸町役場:松戸町役場が川沿いにあった事を明確に表している
- 松戸工区:この当時、税務署等役場関連の建物の建設予定地であったか、すでに工事が始まっていたという事だろうか?
- 松戸幼稚園:現在の八百七の横にあった事が分かる。多分これが後に、中部小学校側に取り込まれたのではないだろうか?
- 小松号シャツ製造所:小松号シャツは後に蝶矢シャツのOEMもやっていたのではなかろうか?
- 植田歯科:植田歯科は後に松戸市民会館の線路側→松戸市民会館の相模台公園寄り→他所と移っている。つい、十数年前までは松戸市民会館の相模台公園寄りに茶色いタイル張りの建物があった。
- 杉浦写真館:私の結婚式の集合写真はここで撮影していただいた。ご主人は稲葉八朗さんと同じ開成高校出身。
- 原写真館:松戸町役場の川向うにある。原写真館は工兵学校に出入りが多かったのか、度々、古いアルバムにその名前が刻まれている。
- 松戸裁判所:東口の線路近く。現在の松戸市民会館の場所。裁判所が有る為か、東口には弁護士事務所が多い。その名残なのか、2021年現在、その付近の東風園ビルにも弁護士事務所がある。以前はそのビルの一階にふぐ料理の”東山”があった。よく通った。階上の弁護士事務所の先生方も良く”東山”を利用していた様だ。
- 田中弁護士事務所:松戸町役場右下に見える。ここは後の住宅地図などでは”生蕎麦田中屋”となっている。身内の方がそば屋さんを始めたのか?或いは末裔の方が始めたのか?田中屋さんは現在、キテミテマツド前の道沿いにあります。
松井天山図(昭和5年)
松井天山による松戸鳥瞰図昭和5年版です。昭和5年版では松戸町役場は松戸三丁目1315番地にあり、小松号のシャツ製造所も見えます。田中屋そば屋さんも杉浦写真館も見えますね。
松井天山図(昭和12年版)
松井天山による松戸鳥瞰図昭和12年版です。この松井天山昭和12年版を見ると昭和5年の時には川沿いにあった松戸町役場が、すぐ付近ではあるが、線路寄りの土地に写っています。これは松戸三丁目1315番地から松戸三丁目1415番地に移転したのを表しています。
村田古物店と松戸公益質店
そして、元の川沿いの土地(松戸三丁目1315番地)付近には松戸公益質店と村田古物店が出来ている(ただし、鳥瞰図では松戸公益七店と表記)。この村田古物店とは隣の松戸公益質店で質流れになった品物を売っていた店であろうか?下記より公益質屋について説明がある。
職業紹介所
東葛飾農会という表示の左側に職業紹介所が書かれている。これも昭和5年には無かった。役場内にある職業紹介所とは、今で言う職業安定所を指すのだろうか?とすると、昭和4年の世界恐慌に続く、昭和5,6年の昭和恐慌で影響を受けた人々が駆け込んだ場所という事であろうか?
安田紀念碑
昭和12年版には松先稲荷様の入り口付近に”安田紀念碑”が記されている。これは昭和5年には無い。当初、現地でその有無を確認しようと思っていた。
本日、令和4年4月8日”安田紀念碑”とは別件で、戸定邸敷地内にある戸定歴史館のS名誉館長とNさんを表敬訪問し情報交換をした。研究員・学芸員の方々が現れ、我が表の家を皆さんが見ているとの事でそれだけでも嬉しかった。
さて、戸定歴史観の研究員であり学芸員のKさんが現れ、我が表の家のペンディング項目になっていた、“安田紀念碑”について、マップと共に資料を下さった。マップの位置をさして「ここにありますよ」との事だった。Kさん、ありがとうございます。助かります。
一旦帰宅後、居てもたっても居られないので、この資料をたよりに、実際に現地に行ってみた。他人様の庭内にあるので、写真掲載は遠慮しておくが、その”安田紀念碑”はそこにあった。それは戦争で亡くなられた方への慰霊碑/鎮魂碑であった。高さは2Mはあろうかと思われる大きなもので、道路側に向いていた。敷地内なので入ってみる事まではしなかった。
Kさんからいただいた資料は大正六年発行の松戸町誌で、こんな事が書かれていた。
第四節 戦死病者及廃兵
A 戦死病者の部
—–途中略—–
安田弥太郎(芳松長男 明治十四年三月十一日生)
(1)就役 明治三十四年十二月一日近衛歩兵第四連隊へ入隊
(2)本籍 東葛飾郡松戸町松戸・・・・(地番は割愛しました)
(3)兵科等級 歩兵伍長
(4)充員召集 明治三十七年二月八日近衛歩兵第四連隊へ充員召集ニ応ズ、明治三十七年十月三十日清国奉天省高力匂ニ於テ戦死。
(5)明治三十八年四月三十日 特別賜金額 公債六五〇円 現金二五円 父安田芳松
明治三十八年七月二十日 給助金七拾円、明治三十八年七月二十五日扶助料年額金七十円、明治三十九年二月三日勲八等ニ叙シ、白色桐葉章並ニ金鵄勲章功七級年額金百円下賜。
奉天とはすでに無い都市名だが、かつての清国の都で、後に北京に都が移って、奉天は陪都(皇帝の居ない都)となり清国の時代は都が複数あった事になる。中華民国になってからは、瀋陽市に改名されたが、満州国成立から、1945年まで奉天市となった。ここは、現在の遼寧省の省都の瀋陽にあたる。高力匂という場所は分からず。
それにしても、松井天山の鳥瞰図に描かれているとは・・・いずれこの当時の時代背景も考えてみたい。
旧市役所(町役場、戸長役場)
東葛飾郡案内(大正八年)によれば、
松戸町役場
松戸町三丁目に在り、一ケ年の町経済は二万八千圓内外にして町會議員の定数は十八人、町長鈴木孝太郎氏は町民の信頼篤し
とある。この町長鈴木孝太郎さんという方は松戸駅前通りの鈴木時計屋さんのご先祖です。信頼されたえらい方だった様子が感じられます。
現在の松戸市役所は、松戸市根本387番地5の高台の上にあるが、実は明治以降転々としている。
- 1878(明治11)年:旧本陣に戸長役場(松戸駅:駅となっているが、後の松戸町)が置かれる。
- 1884(明治17)年:松戸三丁目1315番地に戸長役場が松戸が移る。
- 1932(昭和7)年:松戸三丁目1415番地に町役場が竣工する。
- 1943(昭和18)年:松戸市となり、町役場が松戸市役所となる。
- 1959(昭和34)年:根本の松戸市役所新庁舎が竣工し、移動。
松戸三丁目1315番地とはキテミテマツド南西方向の川沿いに現在、舎輪(自転車屋さん)、中山こどもクリニックがあるが、その界隈。松戸三丁目1415番地はキテミテマツドの駐車場ビルが建っている場所。旧市役所の住所については千葉薬局の千葉則夫さん著の「松戸町1315番地物語」を参考にさせていただきました。勉強になりました。ありがとうございます。
旧市役所封筒
この封筒は母が所有していたもので、まだ松戸三丁目に市役所があった頃使われた封筒です。貴重な資料でしょ?この封筒でも松戸市大字松戸1415番地ですね!
松戸税務署
東葛飾郡案内大正八年によれば
松戸税務署
大正二年元松戸区裁判所廃庁となり、同構内に置かれしが、大正七年七月十五日松戸区裁判所の復活とともに、同庁二丁目に移転す
とあります。どうやら、大正七年までは東口にあったが、同7年7月15日に現在のキテミテマツドの地に移転したという事らしい。
これは松戸市勢要覧に掲載されていた写真を転載させていただきました。かっこいい建物だと思います。
この写真絵葉書は多分、昭和8年頃発行されたもので、坂入書店発行ではなかろうか?と思っている。まだ、現在のキテミテマツド付近にあった頃の松戸税務署の写真である。
小松号シャツ
この地は、大正時代の松戸町案内図を見ると”小松号シャツ製造所”であり、昭和35年の住宅地図では蝶矢シャツとなっている。しかしながら、上記の小松号という会社のページを見ると、明治33年に松戸のこの地で創業した事になっている。また、現在の小松号の本社もこの地になっている。という事は、ある時期、蝶矢シャツのOEMとして作っていた時期があったという事ではないだろうか?
松戸裁判所と弁護士事務所
東葛飾郡案内大正八年によれば
松戸区裁判所
市街裏の耕地中にあり、明治四十三年の建築にして、大正二年の制度変成と同時に廃庁となりしが、後大正七年七月復活さる
裁判所は一度制度変更で無くなり、五年後の大正七年に復活したらしい。
これは松戸市勢要覧に掲載されていた写真を転載させていただきました。
この旧市役所通りの東口側には松戸地方裁判所があった。これは現在の松戸市民会館の場所である。その為か、松戸裁判所付近には弁護士事務所がいくつもある。その名残なのか、付近の東風園ビルにも弁護士事務所がある。以前はそのビルの一階にふぐ料理の”東山”があった。よく通った。階上の弁護士事務所の方々も良く東山を利用していた様だ。
松戸検察庁
現在の相模台にある千葉地方法務局松戸支部、松戸簡易裁判所付近にあった。
田中弁護士事務所→生蕎麦田中屋
大正時代の松戸町案内図では田中弁護士事務所になっている箇所が、昭和の住宅地図では生蕎麦田中屋になっている。これは田中屋さんに聞いてみないとなんとも言えないのだが、松戸駅東口に松戸裁判所(現在の松戸市民会館の場所)があった事から、田中弁護士事務所を開業し、田中弁護士の奥様がおそば屋を始めたのか、或いは、末裔の方がそば屋を始めたのではないだろうか?
あくまで想像です。イセタン松戸が出来た頃、現在の位置に引っ越しています。松戸には私の大好きなおそば屋さんがいくつかありますが、この店はその一つで、おすすめです。
参考にした資料
- 松井天山図 昭和5年版及び昭和12年版
- 松戸町案内(大正期)
- 住宅地図(昭和35年)
- 松戸市勢要覧 昭和28年版等
- 松戸市産業振興調査
- 東葛飾郡案内大正八年
- 松戸町1315番地物語(千葉薬局 千葉則夫様著)
関連投稿
この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。
最後に
2006年頃松戸税務署の絵葉書の写真についての投稿でしたが、旧市役所通りとして、内容を発展させ再投稿しました。お楽しみいただけましたら幸いです。
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