旧水戸街道(松戸市根本・竹ヶ花地区)は活気のある商店街だった
1961年-1969年頃までの旧水戸街道、根本・竹ヶ花地区
上の航空写真は国土地理院による1961年-1969年頃の旧水戸街道周りの航空写真です。写真右上の道がクネっと曲がっているところが竹ヶ花の踏切(浜街道第二踏切)、中央したのこんもりとした森が見えますが、これは金山神社。今回はこの踏切から金山神社参道までの商店にスポットをあて、記述していきたいと思います。
常磐線複々線化による影響
根本・竹ヶ花はそもそも旧水戸街道筋であり、昭和30-40年代は小さな商店がたくさんありとても活気のある賑やかな街だった。大繁盛とはいかないまでも堅い商売が出来た場所だったはずだ。そんな商店街に変化があったのは国鉄の複々線工事以降かもしれない。千代田線の乗り入れの為、それまでの複線にもう一つ複線が出来た。
この結果、効率性の面から踏切が閉鎖、跨線橋又は地下連絡路に取って代わった。根本-岩瀬の開かずの踏切にも、それに替わり跨線橋が出来た。竹ヶ花の踏切は閉鎖された後、歩行者用に歩道橋が出来た。自動車用は分けられ、別に跨線橋が出来てヤマザキパンの工場の所で大きく迂回する形になった。これらの変化によって随分と人の動きが変わったと思う。
生活スタイルの変化
勿論変化は複々線化だけではなかった。商売のあり方にも変化があったはずだ。私が産まれた頃松戸の人口約7万人、現在は約四十九万人。圧倒的に人口が増えた。工場も誘致した。東京の衛星都市化を推進し、人口を増やし工場を誘致するのは松戸市の政策だった。その政策の大きな理由は人が増え金が回ることによって商店に活気がみなぎり松戸市全体が発展する為だったはずだ。
しかし、振り返ってみて実際、そのとおりになったのだろうか?そこがよくわからない。ただ、下記の様な要素があるのかもしれない。
- 踏切で旧水戸街道が分断された事で、人の流れが変わった。
- (特に駅近くの)大型店に客が行くようになった。
- 商店街で買い物をしなくなった。
- スーパーなどの何も話さずに買って帰ってこられるスタイルに慣れた。
松戸市竹ケ花&根本の商店(竹ケ花踏切から市場まで)
では、どんな商店があったのか見てみよう。広いエリアを対象にすると大変なので、竹ケ花の踏切から根本の市場までを対象に調べてみた。
下記は1960年代から70年代にあった商店・飲食店のプロット。uMap(OpenStreetMapのマイマップ)に落とし込んでみた。赤いアイコンは現存しているお店、黒はすでに無いお店。街道筋の踏切から市場あたりまで調べてみただけでこんなに商店があった事になる。現状のこの界隈の状況を考えると不思議な感じがするが、私が小中学生くらいまではいかに地域と個人商店が密接ににつながっていたのかわかるのではないかと思う。
竹ケ花踏切から金山神社参道までの間にあった店舗
画面いっぱいに地図をご覧になりたい方はフルスクリーン表示をクリックしてください。
竹ケ花踏切から金山神社参道まで(竹ケ花側)店舗リスト
- 助六
- 五光文庫(貸本屋)
- ラーメンえぞふじ
- 神田餃子屋
- 屋根松
- ろうそく屋
- 原商店
- テーラーキワ
- 染谷(鍛冶屋)
- 小久保電気商会
- 山長(蕎麦屋)
- 山長(和菓子)
- 都鳥そば
- 那須野印章店
- 藤枝ローラー
- 大黒印刷
- パチンコ→燃料→五香不動産
- 武井商店
- 東京都中央青果市場松戸支店
- 大塚商店
- 金子屋種苗店
1.助六
母がイカフライの揚げ方を教わっていたようだが、私は入ったことが無い。我が敬愛するI女史は北部小学校の帰りに買ったらしい。又、O様によると注文を取りに北部小学校まで来ていた時代もあったとの事です。現存せず。
2.五光文庫(貸本屋)竹ケ花14番地
あの界隈には踏切を挟んで其々一つづつ、計二つ有った。この地図は踏切の西側で微かに記憶がある程度で、東側の貸本屋は何度も借りに行った。現存せず。
3.ラーメンえぞふじ
写真はラーメン屋廃業後の作業服お店の写真。この作業服のお店もいつしか廃業。現在同地は駐車場になっている。ラーメンえぞふじには1985-87年の間に毎晩の様に通った。そもそも立ち寄るのが深夜0:00頃だったので、すっかり太ってしまった。店主は脚本家を目指していたが果たしてどうなったのか?現存せず。
4.神田餃子屋
中華料理のお店。この店の長女が我が妹の同級生だった為交流があった。飼っていたセキセイインコのヒナをいただいた事があった。長男が中学生当時に家庭教師として数学を教えていた事があった。長男は野球部に入って活発な子で、勘の良い子だったので私が教えたことをどんどん吸収していった。
いつしか廃業し、御主人はいつも歩くのが苦になっていて大変そうだった。痛風だったのかなんだったのかは良く覚えていない。現存せず。
5.屋根松
最近は分からないが、年末になると正月用しめ飾りの販売をしていた。
6.ろうそく屋(Fさん)
Fさんは現在、この場所には住んでなく、古ヶ崎に住んでいるとの事。2021年8月14日墓参りの途中遭遇し聞いた。和ろうそくはハゼの木の実から作る。ハゼの木は紅葉すると真っ赤になってきれいで、根本橋の下に野生化しているのがある。下の写真の赤い葉の樹木がそれです。この木は最初から河原にあったのではなくて、実は河原の上の家に生えていた。
ある時、伐採して残念に思っていたのだが、気がついたら、目の前の河原で成長した姿を見つけてしまった。という事は・・・?
7.原商店→ハーモニーホームウエアーズ→アパート
上の写真はすでに原商店ではなく、その後、出来たハーモニーホームパーティーズと書かれたタッパーウエアのお店だが、建物は一緒。あまり記憶が無いが卸問屋的な雰囲気があった。此処は原商店→ハーモニーホームパーティーズ→廃墟→アパートと変遷している。この建物の隣の家屋に住んでいたのが大家で、いまでもよく墓参りに行くとお会いする。
8.テーラーキワ
新坂川沿いに住んでいたChさんが店主だった。ここ10年ほどお見かけしない。長野輪業に良く遊びに来ていたフルちゃんはテーラーキワの職人だった。現存せず。
9.染谷鍛冶屋
上の広告は日本商工業明細図(松戸市)昭和32年より。
ここで、書かれている打刃物とは日本の刃物を作る鍛冶職人の伝統的な作り方で、金型を使わず、熱してハンマーで打ちながら形を整えていくやり方です。鍛接→鍛造→荒仕上げ→焼入れ、焼戻し→研ぎ→仕上げという順番で打っていきます。つまり打刃物一般と書いてあるという事は、作業場があり、トンカントンカン叩きながら作業していたという事なのでしょう。
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、ここは鍛冶屋で「学校帰りには立ち止まって仕事を飽きること無く眺めていた」と書かれている。竹ヶ花に過去お住まいだったOさんもこの鍛冶屋の仕事を眺めていたそうだ。
10.小久保電機商会
あまり記憶がないがここのご長男が私よりもいくつか先輩で、少しカッコいい人だった。松下電器の小売店だったが現存せず。
11.山長(蕎麦屋)
すでに引退しているが、店主のSさんに、街で会うと声を掛けられる。すでに閉業されて久しい。踏切の写真など提供していただける小倉様によりますと、左の山長そば屋さんはオープンの時にチンドン屋が来ていたそうです。当時ラーメンが30円だったとの事・・・懐かしいですね!
そういえば、50年前くらいに南花島に住んでいたエイムさんという人が現在仙台で不動産業を営んでいらっしゃいますが、同級生がこのそば屋さんの息子さんだったそうです。
12.栄屋そば→山長(和菓子)
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によればここには元々栄屋そば屋があったと書かれていた。多分転居後、山長が出来たのではないか?
和菓子の山長さんは亀戸の山長が本店との事。そこから暖簾分けされたらしい。ご主人、奥様共に顔見知り。奥様は新潟出身とお聞きした。
おかみさんはいつも人懐っこい
最近、山長のおかみさんと松戸駅付近でばったりお会いした。私自身かれこれ40年は山長には行ってないのに私の事を覚えていてくださっていて、しかも実名で声を掛けられた。気さくな方でニコニコしている。勿論私も会釈する。また、ダイエーでも良くお会いする。とても大きな声で話しかけられる。
とにかくここの店主もそうだが、女将さんは愛想が良い。商売というのは不思議なもので普段あまりこないお客でもちょっとした言葉使い如何で、そのお客が「たまには行ってみようか」という気持ちになったり、悲しいかな逆に遠ざけてしまうことがある。あの笑顔に引きずられるようにしてたまには行ってみようかという気持ちにさせられる。
おはぎのサービスをしてくれた
私が「赤飯ふたつください」というと懐かしむような憂いのある笑顔で「もう今晩は遅いし終わりだから、おはぎをサービスするわヨ」と言って赤飯の横にガリを置き、さらにその横におはぎを置いた。三十年来変わらないこげ茶のロゴの入った包装紙で包んでくれる。現在、赤飯を買ってガリを入れてくれるのが常識なのか私は知らない。ただ、このとき何とも言えない新鮮さと嬉しさでいっぱいになったと記しておきたい。
蕎麦屋と和菓子の二軒長屋
左側がそば屋で右側が和菓子+軽飲食を営業していた。両店舗は壁一枚で仕切られているだけで、壁の一部に四十五センチ角程度の小さな小窓があって、品物の受け渡しが出来た。松戸ベスト100のミスターTさんはクリームソーダを山長で飲んだ話を書いていた。私は和菓子の山長のメニュー内容はすっかり忘れた。
左のそば屋に居て、あんみつが食べたければ、店主が自動的に例の小窓から隣の和菓子山長に注文する事が出来た。程なくして小窓からアンミツがサービスされてくる。連係プレイになっていたのだ。
初めて山長に入ったのは
昭和三十八年、小学校の入学式の帰りだと思うが、母と山長に行くと同級生のS君とばったり会った。彼もやはり母親に連れられて来ていた。それ以来S君は私の事を「山長君」と呼んでいた。何年前だったか隣のそば屋の親父さんは体が弱くなり廃業した。現在はリフォームして住宅の構えになってしまっている。和菓子山長は現在テーブル席がなく販売のみになっている。
補足:和菓子の山長さんは2021年の5月くらいだったか、廃業されてしまった。あの界隈は寂しくなった。
13.長谷川鳶→都鳥そば
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば「長谷川は鳶職、今は転居」となっている。我が実家近くの古老に聞いたところによると、ここにあった長谷川鳶は、この頃長屋の様な家に住んでいたが、後に竹ヶ花の市道沿いに土地を買い、長谷川鳶工業になったとこの事。下の亀甲堂印刷の写真の左側が元都鳥そば
都鳥そばは一度も入った事が無い。現存せず。
14.美濃屋豆腐屋→那須野印章店→亀甲堂印刷
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば「美濃屋豆腐屋は堂の口通りからきた。今は無い」となっている。その後亀甲堂印刷が出来廃業し、暫く看板が残っていたが、2020年8月頃その看板も無い。
15.藤枝棒屋→ローラー工場
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば屋号が棒屋、1970年の住宅地図ではローラー工場。現在は一般住居。
16.大黒印刷
1970年の住宅地図に記載されていた。詳細分からず
17.パチンコ→東葛石油/塗料店→五香不動産
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、「三好屋は立場で馬方相手の飯屋」となっている。その後、パチンコ屋→燃料、塗料屋→五香不動産が入ったらしい。ここは竹ヶ花始まりの家作
18.武井商店(八百屋)
現在陶芸教室のある建物の横は市場に続く道でした。竹ヶ花に以前お住まいだったOさんの近所に、この武井八百屋さんがあったそうです。市場の近くの八百屋だったんですね!1970年の住宅地図に記載あり。
19:東京都中央青果市場松戸支店(丸果市場)
この東京中央青果市場松戸支店、通称”丸果”市場に関しては、表の家のコンテンツ「農業と共にあった松戸の市場を考える」及び「消えた踏切」で、詳しく書いております。また、消えた踏切では市場の写真もあります。ご参照ください。
20.大塚商店
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば「大塚商店は食用油・石油・肥料・コンロ類を扱い、現在は米・雑貨を商う。健在」となっているが、少なくとも2003年頃まではお店が開いていた。米の看板も見える。色々な雑貨も売っていました。現在はシャッターが閉まったまま。手前の白い建物は陶芸教室です。
21:金子屋森谷種店
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば「金子屋吉六森谷タネ屋は二百年以上の古い家で、当主が森谷耕平という小学校教師。今は「フローリストかねこや」といい、園芸業として健在」とある。この店舗に関しては松戸ベスト100のミスターTもご意見箱に記述しているが、少々変った洋風建築が建てられていた。
竹ケ花踏切から金山神社参道まで(根本側)店舗リスト
- 西村下駄屋
- 吉岡→神田餃子屋
- しぐれ
- 高津商店→関理容店
- 高木桶屋
- 澤田畳屋
- 金物道具工場”Y”
- 富田せんべい→松北堂吉田書店
- 遠山傘屋
- 大田原米店
- 松葉屋花沢商店
- 二葉屋吉川酒店
- 石井かどや→駄菓子屋→石井美容室
- 野田屋(荒物屋)
- 石黒飴屋
- 森栄堂
- 林髪結い
- 出光興産給油場
- 銅銀ブリキ屋
- 鈴木くずもち屋
- 林屋洋品店
- 大和運送
- 根本郵便局
- 長野輪業
- ヤマザキ松戸店/レストランやまと屋
- 澤田せんべい屋→出雲産業・住友生命→よし寿司
1.西村下駄屋
竹ヶ花踏切小屋の横にあったらしい。渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図より
2.吉岡商店→神田餃子屋
吉岡商店は後に北部小学校前に店を構え、その跡に神田餃子屋が店を構えた。踏切が閉鎖になる頃だと思うが、神田餃子屋は旧水戸街道対面の土地に移った。
3.しぐれ
このしぐれは1972(昭和47)年1月27日に開業したので、来年でちょうど50年になるのかな?この店も長く営業を続けているなあ・・・商店がどんどんなくなってしまっているこの界隈において、老舗の一つになってきたようだ。いろいろな人にこの店でお会いした。ボクサーをしていた男性も来ていた。2017年7月にあの吉田類氏が来店、お店の案内をしていたっけ・・・来店した客を見ると知っている人ばかりだったよ。しぐれさんのFacebookもあるようだ。
4.高津商店→関理容室
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、高津商店は昭和12年頃、吉岡商店と同じ様なお店をしていたらしい。後に北部小学校前に移動し、高津工務店を開業した。
関理容室のご主人のイメージは丸顔で目がくりっとして、おでこが広く髪の毛が癖毛(或いはパンチパーマ?)。石川進さんというタレントを覚えているだろうか?石川進さんはオバキューの主題歌を歌っていた人で、おはよう子供ショーではキューピーちゃんの愛称で呼ばれていた。まるで石川進さん(つまり、キューピーちゃん)が白衣を着て床屋になっちゃったぁ……そんなイメージの人。
スーダラ節を歌いながら顔剃りをすると
カットが終わると次は顔剃り。顔に蒸しタオルを被せ、正面の鏡の付近にあった短冊状の馬皮のナイフ研ぎに向かい、端を持ちスイスイと研ぐ。当時植木等のスーダラ節が流行、私は「スーダラ節が大好き」だった。あの歌を聴くと無性に笑いがこみ上げる。それを聞いたご主人「私もスーダラ節が好きだ」と言い、スーダラ節を歌いながら顔剃りを始めた。
チョイト一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらハシゴ酒、気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ身体にいいわきゃないよ、分かっちゃいるけどやめられねえ♪
ここまでは良い。次が問題だった。「ア ホレ スイスイ スーララッタ スラスラ スイスイスイ♪」というサビの部分に入ると、このご主人、急に熱が入り顔剃りがリズミカルになった。スイスイに合わせて顔を剃る。
スイスイ スーララッタスラスラ スイスイスイスイスイ スーララッタスラスラ スイスイスイスイスイイ♪ スーララッタスーララッタ スイスイ♪
こんなリズムに合わせて顔そりをやられたらたまったもんじゃない。私が笑う-スイスイスイ-笑う-スイスイスイと繰り返す。ご主人もすっかり興に入ってしまいスイスイスイばかりが連続して、いつの間にか歌では無くなる。スイスイの度にご主人の目つきも変わってきて、夢中になっているのが良く分かる。
実に面白、おかしいのだが、ヒッチコックの映画に感じるような一種の恐怖感も伴い、剃られる本人としては複雑な心境で、子供心にも「止めて~!」だった。あのご主人どうしているかなあ・・・(近所にお住まいだったOさんによれば、屋号はバーバーセキで、後に佐倉市に引っ越したそうです)
5.高木桶屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図に掲載されていた店舗だが現存しない。
6.澤田畳屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図に掲載されていた店舗だが現存しない。住居になっている。
7:金物道具工場”Y”さん
松北堂書店の横の道を入った所に、金物道具を作っていた人が居た。確かYさんの工場だと思う。Yさんの作ったヤットコは我が家にも1つある。今は普通の住宅になっている。
8:富田せんべい→松北堂吉田書店
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、ここは富田せんべい屋だったが、後に松北堂書店になった。
竹ヶ花の踏切西に渡り、少し歩いた右側に松北堂書店さんがあった。大田原米店の二軒手前。中学生の頃、私は大のプロレスファンで『ゴング』というプロレス専門誌を松北堂書店さんで購入、松北堂受取りでバックナンバーも注文した事もある。松北堂は良く通った店。ここの店主、顔かたちは柳家小さん師匠似、つぶらなドングリ眼で優しそう、でも頑固で昔気質。
大人が漫画を立ち読みしていると「大人の漫画の立ち読みはお断りだよ」と大声で言うものだから何となく客が寄りつかない。私の母方の新小岩の祖父(三十数年前に他界)を思い出す。ところが後に廃業してしまった。店無き後暫くは週刊誌の自動販売機を置いていたがいつしかそれも消えた。
☆松北堂書店の写真はご近所にお住まいだった小倉様からいただいたものです。
ありがとうございます。2013/03/30更新
9.遠山傘屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、ここは遠山傘屋と記載されており、傘の製造販売をしていたようだ。店舗裏には傘干場があったとの事。
10:大田原米店
向かって一番左が大田原米店、現在の店主は根本保育園の時の先輩。背が高い二枚目で、スポーツが得意な先輩だった記憶がある。今でも時々お見かけする。
11:松葉屋花澤商店
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、「氷屋とも言い、松葉、薪を販売する一方、立葉として馬方相手に飯屋も兼ねた」という事だそうだ。そういえば、近所の大先輩N氏によれば、ここには松葉がたくさんあったと語っていらっしゃった。
花澤商店のおじさんとは路上でよくお会いする。声をかけられる時もある。2018年頃だと思うが、お孫さんだかひ孫さんが分からないが、北部小の運動会の為に来ていて、体育館で一緒に食事をしていたのを見かけたっけ・・・花澤商店さんの家作には60年近く前だと思うが、小暮さんという靴修理のおじいちゃんが店を構えていた。その後、小暮さんは北部小学校横の吉岡文具店横で靴修理をしていた。
12:二葉屋吉川酒店
根本の花沢燃料屋さんの先に二葉屋さんがあった。二葉屋は屋号、店名は吉川酒店。店舗は旧水戸街道沿いに相応しい、木造平屋の旧式建築。中に入ると暗い、いかにも昔の酒屋さんだった。当時は量り売りの時代だったらしく、酒だけでなく醤油なども量り売りしていた。ご主人がマッソウさん(マスオさんということかな?)で細身で赤ら顔をしていて実直で真面目な人というイメージ。
二葉屋のおばさんはいつも白い割烹着を着て、目がクリッとして快活で話好き、とても明るい人だった。そもそも子供が酒屋に用事などないのだが、何故か親切にしてもらった記憶がある。
マーちゃん熊は金太郎より強かった
長男はマーちゃん、お父さん似で背が高かった。マーちゃんは私より二歳年上で根本保育園の先輩。根本保育園の学芸会でマーちゃんは熊役だった。熊は金太郎に投げられる脇役である。ところがマーちゃん熊は主役の金太郎を投げてしまった。数十年前に、ご家族は引越してしまった。又、2018年11月にこの建物も解体された。その後、マーちゃんがその跡地を見にいらっしゃっていた。思わず声をかけてしまったよ。
13:石井(かどや)→石井美容室
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、「かどやと言い、一時駄菓子も売った。今は美容室」となっている。石井美容室さんも廃業されてから暫くそのままだったが、2018年頃だったかこの建物も解体されて現存しない。
14:野田屋(乾物屋→荒物屋)
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、野田屋乾物屋となっている。ただ、昭和30年代以降は所謂荒物屋だった筈で、子供だった私にはあまり馴染みのない店だった。
15:石黒飴屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば「学校帰りに飴造りを見るのが楽しかった」とある。私自身は覚えがない。
16:森栄堂
北部小に給食用のパンをおろしていたお店。菓子パン、和菓子などを店舗売りもしていた。裏には工場もあった。上の写真は暫く残っていた裏の工場の写真です。
17:林髪結い
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図に描かれているが、私自身は記憶がない。
18:出光興産給油場
この東葛石油株式会社についてはあまり記憶がない。過去のご意見箱ではこの燃料屋の奥にボーイスカウトの詰め所のようなところがあったらしい。
19:銅銀ブリキ屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図に描かれているが、記憶にない。
20:鈴木くずもち屋
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によればくずもち屋だったそうです。今はありません。又、ここについては秋本勝造氏が述べていて、鈴木菊太郎さんという方が、開いた”松戸名代”久寿餅”のお店だそうです。ところが、リュウマチを患い昭和31年に享年77歳で生涯を終え、お店も無くなってしまったらしい。
秋本勝造氏のお話によると、うどん粉を原料にして、水を混ぜて練る。捏ね上げて餅の状態になったものを水洗いする。白い濁った水が出るがこの水が澄みきるまで何回も洗うと綺麗な餅が出来るが、この工程で白い濁った水を濾し、これを集め樽に入れ外気に触れさせて一年半以上置くとくず餅の生麩になるらしい。これに熱湯を加えながら捏ねていく。
そうすると葛(ではないが)葛の様なものが出来る。これをせいろの木枠に流し込み、蒸せば「くず餅」の完成らしい。
私はこの話を聞いて、本来はくず餅は葛の粉を使うものだと思っていたが、うどん粉だと聞いて驚いている。また、秋本勝造さんが聞き取ったこの話を読んでみて、ふと美味しんぼという漫画の「代用ガム」という話を思い出した。この代用ガムは山岡君の上司である富井副部長が、貧しかった子供の頃、お父さんがガムの代用品を小麦粉を練って作ってくれたという話だ。
確か、うどん粉を手の中で捏ねて、水をゆっくり流してさらに捏ねていくと、粘りのある物質が出来る。これをチューイングガムの代用だとして優しい父親が子供たちに作ってくれたお話。ただ、漫画の通りにやってみるとそんなにうまくいかず、多分一度うどんを作り、捏ねて、それを水で洗い落したのではないかと思う。
21:林足袋屋→林屋洋品店
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、林足袋屋だったそうです。その後林家洋品店になった。
写真の建物の右側です。林屋洋品店さんは女性用の服のイメージが強かったが、実は小学校の制服、靴なども扱っていたことが分かると思う。お店はすでに数年前に廃業されてが、ここのご主人は植物が好きで、犬走りにいろいろな植物を植えて楽しんでいらっしゃる。先日も娘と通りかかった時声をかけたら、ニラの苗をいただいたので、私が住んでいる場所の植え込みに植えた。
あれは一年前だったのに、いまだに元気で生えている。
22:大和運送
1970年の住宅地図に記載されていた。今は無い。
23.根本郵便局
根本郵便局は小学生だった私の記念切手収集を支えてくれた郵便局です。多くは母に行ってもらっていたが、私も何度も買いに行きました。下の長野輪業さんの写真の右側がそうです。切手収集については 118 松戸でも流行”切手収集” という頁でも書いてますので御覧ください。
24.長野輪業
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、長野自転車は今は長野輪業。健在。当時妻は産婆」と書かれている。多分、その当時の店主は長野平八郎さんで創業者だと思う。我が尊敬する松戸観光大使のIさんはここの長野さんのお産婆さんに取り上げられたと述懐されていた。
長野輪業さんのあった場所
長野輪業さんは数年前柏市にお店を移してしまったが、元々根本郵便局の隣で自転車屋さんを営んでいた。木造平屋のいかにも水戸街道沿いの歴史的建造物といったイメージを残していた。軒先の犬走りにはたくさんの自転車が置かれていて、それは歩道側にもあふれていた。 入り口は木製のガラス引き戸。中も外も土間で、何とも油臭かった。
縁側の様な場所があった
正面奥には座敷への上がり框、色々な来客がきてはその框に座り雑談をしていった。いわば近所の人が集まる縁側の様な場所で、私もその和に混じり雑談に加わった。当時はまだ大学生で時間を持て余していたのだ。夕方になると特に賑やかになった。ラーメン太郎の職人Mさん、金山神社付近に住んでいたEさん、テーラーキワの職人のFちゃんが常連だった。
みなさん多かれ少なかれ訛りがあった。あれは松戸訛りだったと思う。松戸訛りは聞き分けられてもしゃべることは出来ない。夕方閉店時間になると自転車等全て店舗の中にしまう。白いカーテンと共にガラス戸を閉め白い軽トラックをガラス戸ギリギリにとめて終了。
長野輪業さんのオリジナル自転車
写真は元山長さんの前に置いてあった長野輪業さんの自転車を撮影したものです。これは所謂実用車なんですが、細部を見ていくと興味深いのです。
縦に長いシールにはMLW MODEL CYCLE, NH, ・・・・PATENT BY NAGANO SHOTEN・・・と読める。またその下のワッペンには白赤でNHのログが入り、NH CYCLEと読める。その下には四角いロゴ板には長野商店の名前が書かれており、その他タイヤカバーにもNHの押印がされている部材。
サドルにもNHの押印があります。このNHとは創業者長野平八郎さんのイニシャルですね。つまり現Nさんのお父さんです。
路地があった
子供の頃は長野さんと根本郵便局の間には路地があり新坂川まで抜けられた。生け垣と生け垣に囲まれたいかにもヤブ蚊にさされそうな路地だった。路地途中に私の同級生の女の子、西沢ふき子さんが住んでいた。西沢さんは小学校一年生から六年まで同じクラスだった。数年前にこの路地を通ろうとしたら路地も西沢宅も無くなっていて、びっしりと住宅がブロックして新坂川まで抜けられなくなっていた。
いつものメンバーとツーリング
店主のNさんを始めお客さん数人で原動機付き自転車でツーリングをした事がある。銚子に初日の出を見に行ったり、大利根温泉に行った。写真は1980年と書かれていた。一番下がEさん、次のサングラスをかけているのが私、その一段右斜上で黒いジャケットに白いヘルメットを持っているのが店主のNさん、そのNさんの斜め左上の白いつなぎの様な服装の人がFさん。一番上の白シャツに黒ズボンの人は知らない人。
長野輪業さんは現在柏へ
マンション建設の為、長野輪業さんが入っていた木造の歴史的建造物は解体された。この後、よし寿司の隣の建物、以前レンタルビデオ屋さんであった所に移った。大きく黄色いテント看板に100円レンタルと書かれた場所。旧長野輪業跡地は現在マンションになっていて、私のお友達も住んでいる。その後、この長野さんが移った先の場所は駐車場になり、長野さんは柏に移っていった。
25:ヤマザキ松戸店 & レストランやまと屋
元々はやまと屋として、パン他を売っていたお店です。ある時、アメリカで修行してきたというご子息の方がいて、とても美味しいハンバーグ、ステーキを出す洋食レストランを始めました。よく行ったのは1969年頃だろうか?牛の形をした鉄板でジュウジュウ音のするハンバーグは新鮮で絶品でした。その後、ヤマザキ松戸店はヤマザキパン工場横の敷地でコンビニを始めてましたが、2007年頃だったか廃業され残念です。
26:澤田せんべい屋→出雲産業・住友生命→よし寿司→駐車場
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌(崙書房出版)の昭和12年の家並み図によれば、「せんべい屋」となっていた。1970年の住宅地図を見ると出雲産業、住友生命となっていた。その後開店した時期は不明だが、よし寿司が出来た。
我が実家で寿司の出前をお願いしたお店は色々会った。昭和40-50年代は小根本の銀寿し、昭和60年以降平成10年くらいまではこの”よし寿司”、よし寿司が無くなってからは岩瀬の”金太楼寿司”になった。100円レンタルのライブス根本店の黄色い看板が見えますが、後にここに長野輪業さんが暫く入っていました。現在この2つの建物のところは駐車場になっています。
参考文献・聞き取り
- 1962年商店街マップ
- 1962年、1970年、1992年住宅地図
- 昭和の松戸誌:渡邊幸三郎著、崙書房出版
- 竹ヶ花に過去お住まいだったO様からの聞き取り
- 近所の大先輩N様からの聞き取り
- 松戸観光大使I様からの聞き取り
関連ページについて
松戸駅を中心とした商店、根本、小根本、竹ケ花等の商店はとても範囲が広いので、ゾーンごとに色々とまとめていますので、ご興味がありましたら、御覧ください。まだ、書ききれていないエリアもたくさんありますが、分かる範囲で投稿していきますね。
コメント
松北堂、なつかしいです。子供の頃はここで本を買っていました。
また、親が辞典を毎月買ってくれていて、オジサンが自転車で配達してくれていました。
あと、松北堂の前にあった富田せんべい店、私の曾祖母が富田せんべい店から嫁いで来ました。現在、富田家は金ケ作に転居されています。
山長さんが閉店してしまい、お盆のお団子が買えなくなって、母が自作するようになりました。
辻建築設計事務所、ちょっとオシャレな建物で窓から見えるドラフターに憧れました。あと、歩道橋降りたところにあった電話ボックスが当時を思い出させます。
うしとら様も松北堂書店さんに行っていたんですね!
松北堂書店さんは確か稔台の方に移ったという書き込みがあったような気がします。
子供の頃はよく行った店です。富田せんべい屋さんから嫁いだとは、やっぱり世間は狭いですね!感心してしまいました。
山長さんも、ご主人が他界されて、それで店をたたむ事にしたようです。山長さんのおばさんには良く今でもお会いします。
辻建築設計事務所は懐かしいです。同業ですので、何かと気にして見ていました。
ドラフターもありましたね・・・
我が家のドラフターは学校卒業後全然使わなくなり、結局捨ててしまいました。
NEW表の家のコメント欄に書き込みするようになって、いろいろ気になることがあり、実家の古写真を漁ってみたら、初見のヨシズの宝船が並んでいる写真が出てきました。写っていた男たちの一人が曾祖父だということです。確かに曾祖父の顔は遺影の顔です。でもヨシズの宝船が何なのかが気になりネットで調べていたら、「昭和の松戸誌」のことに触れているブログに行き当たりました。そのブログの主は家電量販店のコジマの現社長さんのブログでした。昭和初期、根本の水堰橋の近くに大きなヨシズ店が二軒あり、川光工場隣の小川すだれ店、坂川を越えた所にある小島よしず店です。で、家電のコジマの現社長は小島よしず店の孫だということでした。私が見つけた写真の宝船には「初荷」と書いてあったことから正月飾りの一種であることが分かりました。私の曾祖父は専業農家だったので、小川すだれ店の繁忙期に手伝いに行っていたのかもしれません。
https://ameblo.jp/cazushige/entry-12645503024.html
うしとら様、
ああ、このページ私も見た事がありました。
コジマよしず屋さんのご子孫だというので・・・
確か、私がいきつけにしていた居酒屋の女将さんがこのコジマ家出身だったような記憶があります。
もう一方の小川よしず屋さんの小川さんは顔見知りです。金山神社の清水講の調査で7月1日の山開きの日に金山神社に行くと、巡礼者をお迎え準備をするんですが、この中に小川さんがいらっしゃって、色々なお話をさせていただきました。
それにしてもどこでどう繋がっているのか、事実は小説より奇なりですねえ・・・
写真に写っている一番奥の男性が私の曾祖父だとすれば、
この男性の奥さんは富田せんべい屋の娘さんです。
歴史は繋がっていると実感します。大変興味深いです。
松戸ベスト100 2位の松北堂を語らないわけにはいけません 小学生当時はほぼ毎日行っていました 営業時間は10時からだと思うけど 夏休み中はプロレス雑誌を買いに行くのが待ちきれなくて 家の外で開店を待ちわびていた ただ店の前で待つのは恥ずかしく 松北堂の店舗の横に店のシャッターの中柱を立てかける金具が壁に付いており その中柱を壁に立て掛けたら開店の合図だった 立ち読みを躊躇しなかったのは 家の本の9割は松北堂で購入してるのと 店で立ち読みしてると 店主に「~君 回覧板もっていって」と 重要な任務をまかされることが多かったからだろう 松北堂も昭和最後ぐらいに閉店してしまうが 松北堂で返品できない本や漫画家のサイン色紙をうちで処理することになった 当時は坂川の河川敷で物を燃やしてもOKの時代 自分も燃やすなら自分に頂戴ということで 探してはみたものの全部文字の本ばっかりでとりあえず写真付きの空手の型の本があったのでそれを頂戴したものの15年後自分が引っ越しの際 その頂戴した以来一度も開くことなく処分した
松戸ベスト100!待ってました。嬉しいです。
松北堂の親父さんとそういう間柄だったとはすごいですね!
ご近所さんですものね!回覧板も持っていったんだ!
ゴングやプロレス&ボクシングだったら、いくらでももらってくるんだけど、いらない本じゃね!
昔は我が家でも一斗缶で焚き火をよくやりました。いい時代でしたね!