はじめに
この投稿は2004年-2008年に作成し発表したものです。まだ、関連事項に関してはこれから加えていきますので、時々見に来てくださいね!竹の根商店街に補足的になるものだと考え復活させ加えました。下記と併せて御覧くださいね。
1974(昭和49)年の松戸市立北部小学校界隈の様子
この写真は1974年を記念して撮影された松戸市立北部小学校付近の空中写真です。度々ご意見箱で発言をしてくださるyuki様より頂いたものです。誠にありがとうございます。北部小学校を松戸駅方面から北松戸駅方面(南西から北東方向)に向かって見ている写真です。写真には現れてませんが、写真の右外側には新坂川が流れ常磐線の線路があります。
又、三年ほど前に完成した`しんはま跨線橋`があるはずですが、それは写真には現れていません。この`しんはま跨線橋`は常磐線複々線(つまり千代田線乗り入れの各駅停車の線路の事)が出来、線路敷き幅が拡張、これにより、竹ヶ花踏切を閉鎖、その代わりに旧水戸街道を南花島付近で`かじ坂`方面に繋げたものです。
又、松戸市立北部小学校のホームページが有り、そこの沿革を見ますと古い頃の写真があり、懐かしいです。
堀江食堂・千葉相互銀行寮・平林産婦人科
北部小学校旧正門付近角には堀江食堂の建物が見えます。堀江食堂の先にに見える4~5階建てのビルは千葉相互銀行の寮。千葉相互銀行の寮のさらに先のビルは平林産婦人科の建物です。1967年(昭和42)頃、ヤマザキパンとの間の区画には殆ど建物がありませんでしたが、僅か7年後、この写真の1974年(昭和49)には御覧の通り建物が密集し現在の状況と殆ど変わらないのが分かります。
校庭内のプレファブ校舎
北部小学校の校庭を見ます。校庭内は新校舎が雁行型に配置され、体育館も完成し、然しプレハブ教室が5棟見えます。Yukiさんによれば敷地左上の給食室付近に新校舎建設中の状態なのだそうです。私が北部小学校に通学していた頃、三年生までは木造旧校舎でしたが、北部小学校初の鉄筋コンクリート構造の新校舎建設工事が始まり、小学校四年生の我々はプレハブ校舎で学ぶことになりました。
当時のプレハブ校舎は南西の現在の正門付近でした。プレハブ校舎は夏暑く、冬寒い劣悪環境。床もコンパネのような材料なので愛着も湧かない。あのプレハブ校舎のおかげで暫くの間はプレハブ=安普請という構図で見るようになりました。当時は冬にダルマストーブはありましたが、夏の冷房設備などありません。
プレファブ校舎に比べれば旧木造校舎は遥かに環境が良かった
それに引き換え旧木造校舎は天井は高く風の通りも良いので、プレハブよりは環境が良かったのです。小学校5年生になった時、新校舎に入る事が出来ました。当時の新校舎は北東の角(写真の右上)の柱4スパン分だけでした。新校舎に入った年の12月に北部小学校の火事があり、新校舎以外の木造校舎の大部分が燃えてしまいました。
上の写真を見ますとすでに新校舎がZ型に完成してますが、先述した給食室前新校舎及び、体育館の前にも新校舎が出来現在に至ります。
北部小や周辺で流行った遊び(北部小だけではないかな?)
牛乳のフタ遊び
小学校5年生の頃、通学していた北部小学校では牛乳のフタを使った遊びが流行った。机の上に自分の手持ちの牛乳のフタを並べ、息を吹きかけ空気の勢いでフタの抜きや返しをする。言ってみれば牛乳のフタを使ったメンコ遊び。息を吹きかけるのも力がこもる。「パン!」「プァン!」と大きな音を立てて吹きかける。
かなり面白いゲームなのだけれど、ゲーム後は机の表面が唾だらけになり汚なくなったはずだ。多分女の子には歓迎されないゲームだったと思う。当時、テトラパックはあったが、牛乳と言ったら瓶詰め全盛だった。そして牛乳は買いに行くのではなくて配達されるのが一般的だった。牛乳の販売所と契約すると郵便ポスト等の横に木製の牛乳入れを設置してくれる。
配達員は朝早くから牛乳瓶の入った木箱を自転車の荷台に載せ、カチャ、カチャ、カチャと瓶の擦れ合う音をさせながらやってくる。家庭で飲み終わった空の瓶を牛乳入れの箱に入れておくと、早朝配達員が回収すると共に新しい牛乳を入れていく。松戸には保証乳業の工場があり、我が家は保証牛乳を配達してもらっていた。
当時、色々なメーカーがひしめいていて、保証牛乳以外に興真乳業、雪印乳業、明治乳業、グリコ協同乳業は代表的なメーカだったと思う。森永乳業はある理由で、あまり見かけなかった。その他にもまだたくさんあったと思う。中小色々あった為か、フタを探し松戸の街を歩くだけでもかなりレア物の牛乳のフタに出遭い驚喜したのを覚えている。
あんなにたくさん集めた牛乳のフタは何処にいってしまったのか・・・あのコレクションはもうない。
酒フタ遊び
酒フタ遊びとはお酒一升瓶のフタを使う遊びで、我々が小学生の頃である昭和41-42年頃に流行った遊びです。当時の酒フタはコルクが使われていて、簡単にコルクの部分を外すことが出来て、それで金物のフタ部分でフタのエッジの凹部に引っ掛けて、相手のフタを裏返しにして取り合うゲームです。
これについては下記のページの方が詳しいので、ご興味の有る方は御覧ください。
2Bやかんしゃく玉など
2Bについては、別途書いてみた。
型屋ー新坂川の一本橋
北部小学校の付近に度々露天商が来ていた。露天商は色々な商品を持ってきては消える・・・を繰り返していたが、その中で面白かったのは型屋だった。私はこの型屋遊びに夢中になった。北部小学校の直ぐ近くに新坂川(新川)があり水門がある。この水門の上は大人が一人通れるようになっていて、「一本橋」と呼んでいた。
この「一本橋」の袂が若干広くなっている箇所があって型屋が商売をしていた。型屋というのは、鉄腕アトム、動物、般若などなどを形取った凹型を先ずその店で買う。粘土や色粉も買う。買った粘土をその型に入れて形が定着したら取り出し、これに型屋から買った色を塗る。これがきれいに出来ると点数をもらえる。もらった点数を貯めてより大きな型に交換する事が出来る。
いい点数をもらうためには大きな型と金銀などの色を使う必要があった。然しながら、当時のお小遣いは小額であり一番小さい型を買うのがやっとだ。小さい型で作成したもので大きな般若を手にするにはどれだけの粘土と塗料を買わなければならないか・・・お金がある子には敵わなかったがそれにしても、うまく出来た商売だったと思う。
点数がたまってきたかなあと思うと何故か型屋は来なくなってしまう。翌年の夏休みに来るかどうかは不明で、仮に型屋が商売をはじめても、去年と同じおじさんなのかどうか分からない。去年の点数も有効なのかどうか・・・?型屋が来ないのに型を持っていても何の役にも立たない。
ある日型に鉛を流し込むことを考えた。年長のお兄さんがやっていたのを思い出したからだ。型を洗いきれいになったところでドロドロに溶けた鉛を流し込んだ。濡れている型に鉛を流し込んだらどうなるか次の瞬間直ぐ理解した。鉛が水に反発して飛んできたのだ。本当に驚いた。幸いにも少しのやけどで済んだ。恐ろしかった。二度とやるまいと思った。
今戸焼き
又、型屋で売っている型はどうやら葛飾区の東四つ木の橋本さんの窯で焼いて作っていたらしい。その名も今戸焼きというらしい。葛飾区郷土と天文の博物館で今戸焼きの催しも行われたことがあるらしい。この手の催しが得意なのは多分堀学芸員かな?と想像する。あの方は本当に面白い学芸員だからなあ・・・さて、今戸焼きに、ご興味の有る方は下記参照
型屋に関するご参考
カタ屋研究会
カタ屋のおじさんになりたい
ビラ撒きとビラ拾い
昭和50年代くらいまででしょうか、ヘリコプター又は小型飛行機で「ビラ」を捲いていましたね。ヒマを持て余していた我々は宝物探しに行くような気持ちで、慌てる様に拾いに行きました。ビラは要するに広告で、拾って特に面白くもなんとも無く、すぐ捨ててしまう様な類でした。多分、扇屋やボックスヒルなど大型店が開店した時は撒いたと思います。
当時は住宅街や学校の周辺には空き地も多く、又、道路に落ちてもそれほど危険でないので、捲いても十分効果はあったのかもしれません。現在は法律で規制されているのか、それともお金が掛かりすぎるのか良く分かりませんが、 撒きビラという広告媒体はすっかり見かけなくなり、新聞にチラシが入るか、人海戦術で手渡しが多いですね。
ビラという言葉は英語のbillから来ているというのは随分歳を取ってから知りました。
ドジョウ刺し(よどぶち):竹ケ花清水下
これは遊びというよりは、魚釣の一種かもしれません。我が父から聞いた話です。父がまだ子供だった頃、つまり昭和10年前後になりますが、親と一緒にドジョウ刺しに行ったそうです。つまりドジョウ採りです。場所は竹ヶ花字清水下。つまり、新坂川と常磐線の線路の間は水田でそこにドジョウがいて捕まえに行った。
これは多分、現在の竹ヶ花の陸橋の下に当たる場所でしょうか・・・夜半のまだ暗い頃、腰にカンテラをぶら下げていくのだそうです。そして図の道具の柄を持って、水田の上から針の部分をおろして行くとドジョウがその針に絡まって採れるのだそうです。針は横に引くのではなく縦に下ろす。取れたら魚籠に入れるを繰り返す。採れたドジョウをどうするかというとドジョウ汁にしたそうです。
然しながら、ドジョウは煮ると腹を上に向けて浮いてしまうので、なんとなく気味が悪くて家でのドジョウの人気は今ひとつだったとの事でした。確かに、柳川鍋などを食べると卵でとじてありますが、これは煮た時のドジョウの腹が見える気味悪さを軽減した料理方法という事になるのでしょうか?なんて事を考えておりました。
後にこの漁法を調べてみますとヨドブチと言われるやり方のようです。苗代の5~6月に回るらしい。その時期が産卵を控えて一番味の良い時期だかららしい。まだ暗いうちにヤスで突く、叩くようにつくことから図の道具をタタキヤスと言われた様です。
伝書鳩を飼う
伝書鳩は北部小の頃からすでに流行っていて、南花島の野々下くんや三堀くんが飼っていて、私は彼らから、鳩をわけてもらい小5の頃伝書鳩を飼い始めた。伝書鳩について下記に書いてありますので、よろしかったら参照お願いします。
スロットカー屋さん:北部小裏
確か昭和42年の頃だったが、スロットカーが流行った時代があった。当時はスロットカーという言葉は知らず、我々はレーシングカー屋さんと呼んでいた。スロットカーについて、下記のリンクに書いてありますので、よろしかったら参照お願いします。
禁じられた遊び:松ヤニ遊びについて
松ヤニとは何か?
松の樹皮を削って得られる樹液を精製しテレピン油を松脂(マツヤニ)で所謂ロジンという。ちなみに松脂が化石化すると琥珀。さて、松脂は滑り止めになりバイオリンなど弦楽器、野球のロジンバッグ、弓道のくすね、製紙のサイジング剤につかわれる。
松脂(まつやに)遊び
ところで、皆さんは松脂遊びをご存知だろうか?これが、校内で流行ったことがあった。昭和42-43年頃だろうか?松脂の塊を指で強く握ると砕け白い粉になり、これを衣服(例えばズボン)などの一部につけて指で擦るとキュキュッと音がする。このキュッキュッが面白くて松脂遊びをする。少ない量であれば、松の樹にいけばいくらでもとれる。どうという事はない。
この松脂はクラスの友人からのお裾分けとしてもらっていた。多分、神社などの大きな松の樹液が自然に固まったものを持ってきたくらいに思っていた。みんな持っている松脂は小さいものだった。ところがある日、クラスのいたずらっ子で乱暴者の通称ジャイアン(以下ジャイアン君)が両手に余る大きさの松脂を学校に持ってきた。
それはそれは見事だった。ジャイアン君は基本的に目立ちたがり屋。当然この大きい松脂をクラスで自慢した。自分も大きい松脂が欲しいと思う連中がジャイアン君案内でその松脂が「在る」という場所に行ったそうだ。翌朝、その場所に行った同級生に松脂ゲット作戦の首尾を聞いた。
私「どうだった?」
同級生「それが大変だった」
話しを聞くと、行き先は北松戸の工場だったそうだ。先生や親からも叱られ大変だったのだと……朝礼でも話題に上がった。 その後我々の間ではあの騒ぎを「松ヤニ事件」と密かによび、松ヤニ遊びはすっかり廃れた。ただ、後日見に行ったっけ・・・松脂については下記で述べているので、もしご興味ありましたらどうぞ!
北部小学校の火事
1967(昭和42)年12月8日朝4時頃北部小学校が火事になりました。(写真は広報まつどNo.218より転載)朝、両親に起こされると家の南側のカーテンが真っ赤に見え、まるで隣地が火事になったように明るかったのを覚えてます。窓を開けると、自宅から燃えている木造校舎まではほぼ200メートル近く離れているにも関わらず、燃える炎で暖かったのです。
これはとてもショッキングな事でした。火元は事務室(つまり職員室)でした。火事の原因については、当時色々な噂が流れましたが、確信が持てないため何十年経ったとしてもあの時の噂だけはここには書けません。二度とああいうことの起きないことを願います。
八日早朝、北部小学校焼く
木造二階建校舎など四むね
十二月八日午前四時頃、市内根本の市立北部小学校事務室から出火、木造二階建校舎とパネル校舎(普通教室十一室、特別教室三室、管理室四室)および講堂など四棟延べ二千二百十八平方メートルが全焼、午前五時三十八分鎮火しました。
幸い当日は風もなく、各消防署員および消防団員の必死の活躍により民家への類焼はまぬがれましたが、この火災には市内の消防署ならびに各消防団から十数台の消防車が出動するほか近隣都市からも消防がかけつけました。
写真:燃え広がる北部小学校の木造2階建校舎
(市内根本212の山口和夫さん写す) 広報まつどNo.218号
最後に
はじめにでも書きましたが、下記の情報を補う為に復活作製した投稿です。下記の情報も併せてお読み下さい。
コメント