デザインツール
43年間の某設計事務所での勤務生活の中で、色々なデザインツールを使った。就職当時から製図という業務は、手書きの人的な作業から、キャドというデジタルデータを扱う分野に進歩してきた。特に人的に製図を書いていた頃の道具について、振り返ってみたい。
松戸市平潟、昭和の頃の家並み
松戸駅最寄りで、旧水戸街道から少し外れにあった平潟歓楽街。戦後、昭和30年頃から司法試験、受験勉強の施設となった。バブル崩壊の頃までは歓楽街の印象が残っている家並みが残っていた。当時の風景をラーメン77さんが撮影していたので、公開したい。
松戸市平潟に司法会計研究所のあった頃のお話
松戸市平潟は終戦直後までは有名な歓楽街。ところが、昭和29年以降は、司法試験の勉強をする学生さんの寮になって、多くの人がここで学んでいた。しかも、歓楽街の頃の建物を少し、寮に改造しただけ、そんな平潟の寮に通っていた知人の話を聞取り書いてみた
根本英数塾:松戸駅東口
昭和30-40年代は子供が多かった。小学校を増やしていく時代だった。同時にある人は受験の為、ある人は落ちこぼれない為、塾に通った。私が通ったのは、松戸駅東口から扇屋のあった道を北に歩いた所にあった根本英数塾だった。一中の生徒が多かった。
学童集団疎開と母
母がまだ国民学校に通っていた頃、山形県鶴岡市湯田川温泉にあったたみや旅館に学童集団疎開で行ったそうだ。当時、学童集団疎開の行き先はマチマチで、お寺であったりいろいろでそれぞれに苦労があったらしいが、たみや旅館では大変お世話になったそうだ。
私版”私の履歴書” 建築設計(学生の頃)
四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。お世話になった建築設計へ愛をこめて
私版”私の履歴書” 建築設計(就職後)
四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。お世話になった建築設計へ愛をこめて
千葉県松戸町鳥瞰図 松井天山図
松井天山の描いた松戸町鳥瞰図には昭和五年と昭和十二年の二種類がある。所有しているのは昭和十二年版であり、これは常磐線の上野-松戸間の電化を記念して作られたものである。今回はこの昭和十二年版について、少々説明を加えながら当時の松戸の姿を考える
拓銀松戸支店のちらし
1971(昭和46)年頃配られた北海道拓殖銀行松戸支店の出店案内の広告を自宅で見つけました。この広告を読み込んでいくとその当時の松戸の町が見えてきます。懐かしいお店もあります。これを2022年3月現在の視点から当時の広告をみていきたいと思う
古絵葉書:祝千葉高等園芸学校移管祝賀会
現在の千葉大学園芸学部が、昭和四年に文部省に移管された時を記念している絵葉書。管轄が県から国に変わった事を記念した祝賀会で配った記念絵葉書。主催は校友会、戸定会、松戸協賛会となっている。園芸学部(元園芸学校)は松戸にとって掛け替えの無い学校