松戸市の平潟
数年前まで、松戸市の平潟について投稿していたが、内容を盛り込みすぎていて、分かりにくかった。そこで、テーマ別に分けて、再投稿しようと思う。今回は、平潟にあった学生寮にからむお話についてです。
平潟の学生寮
子供の頃、下駄を履いて学生さんが竹の湯に来たことがあった。母曰く「あれは平潟の学生さんだよ、平潟湯や根本のお風呂屋さん(松藤湯)が休みなんじゃないの」であった。今思えばわざわざ竹の湯に来た事に感心する。
平潟の街並み
さて、話は戻るが、平潟神社の背景のエリア、松の木通りまでを当時有名な歓楽街だった。私が物心ついた頃はその歓楽街は無くなっていたが、建物は一部残っていた。父と江戸川に釣りに行く際には必ず通過した場所だった。父は口を濁すだけで、はっきりとは言わなかった。
色々なタイプの建物があって、概ね古い和風の木造家屋であったが、洋風の建物も混在していた。そして壁を見ると、小粋な窓などがあり何となく”遊びの場”を感じさせるデザインがあった。そしてかび臭い様な一種独特の雰囲気と共に小洒落たディテールが混然一体となって、全体として特殊な街並みの性格を醸し出していた。
表現は難しいが何となく子供を寄せ付けない力のようなものが、漂っていた。実家近所の美容院のお姉さんも、平潟界隈を歩くと「まるでタイムマシーンで昔に行ったような感じになった」と言っていた。
残念ながら令和5年現在は昔の面影を感じる建物は何も無い。あるのはシダレヤナギだけ。上の写真はラーメン77さんが、1987-88年頃に撮影していた写真を寄贈いただきました。ありがとうございます。別の建物の写真もあるので、それはいずれ再掲載したい。
平潟の寮に住んでいたNさんの話
友人AY氏の友人N氏は平潟にあった寮に住んでいた事があり、2007年頃だったがお話しする機会があり、食事をしながら詳しいことを聞いた。N氏は実家が千駄堀、中央大学法学部卒業で、現在は上野に住んでいるビルオーナー。AY氏は松戸在住。やはり中央大学法学部卒業でN氏の寮に何度も遊びに行ったとのこと。
早速、平潟の事をお伺いしたいのですがどういう情況で住んでいたのか話していただけますか?
この平潟の中のいくつかの建物は、寮として利用されていました。独特の家屋でした。そして私はそこで司法試験の勉強をしてました
どうしてその寮に入るようになったわけですか?
中央大学教授(後に名誉教授)の柳澤義男氏が中央大学司法会計研究室として学生の為に寮を開放していました。司法試験は本腰を入れて勉強しなければならないので仕事をしながらというのは無理なわけです。従って、私も法律事務所を数年勤めた後この寮に入って勉強したわけです
当時、`酒に溺れれば合格が一年遅れ、女と付き合うと三年遅れ、結婚しても三年遅れる`なんて言われましたね
ええ、そのくらい司法試験は頑張らないと合格しなかったわけです。司法試験を受験すると言うことは片手間では無理です。一年に数百人という枠がありいくら良い点を取っても枠外ですと落ちます。
寮の卒業生が講習の先生になるのが伝統みたいになってましたね
そうでしたね
元々弁護士時代の蓄えと矢切の住まい等、私財を投げ売ってここを学生の為の寮にしたと聞いてますね
その家屋は先生の持ち物だったという事でしょうか?
いえ、土地建物の所有が柳澤先生のものかどうかは分かりません
Nさんはいつこの寮に入っていたのでしょうか?
1988(昭和63)年の正確には3月から同年8月までの半年です
家賃や食事はどうなってましたか?
家賃は朝夕食付きで3万円/月でした
格安でしたね
寮に賄いのおばさんが居て、ご飯にみそ汁漬け物程度の食事なんです。納豆やその他のおかずは自分で揃えるという事は勿論認められていました。私の場合朝は食事を食べられますが、夜帰宅が遅かった。でもおばさんがご飯を取り置きしておいてくれたので随分と助かりました
お風呂はどこにありましたか?
寮の中にお風呂はあったのですが、事実上使えない物で近くの銭湯に行ってました。確か二軒ほどあったと記憶してます
千檀屋の先に確か銭湯があったような気がします。`平潟湯`だったかなあ?今はありませんが・・・
ええ、そこに行きました。もう一軒あったんですが、何処だったかなあ・・・?
ところで建物の中に地下階があったよね
あった、あった。でも私は入ったか入ってないかどうも記憶がないなあ・・・
確か洗濯機があったような気がする
そういえばそうだったね
トイレはやはりくみ取りですよね?
トイレは確か裏の樋古根川に流していたんじゃないかなあ?はっきり覚えてませんが・・・
それはどうなんでしょうねぇ・・・??
ところで部屋の大きさはいかがでしたか?
狭かった。確か4畳半だったなあ。今でも思い出しますが建物全体が何となくジメジメとしてカビくさかったんです
そうそう、まるでお化け屋敷みたいだったね。お化けが出たという話を聞いたことがあるけれど、Nさんは見た?
それは流石に見てませんでした・・・笑
夜になると暗くてねえ・・・確か柳の木が何本もあったような気がします。
少なくても三本はあったかなあ・・・
現在、大きいのが一本残ってますよ
うむ。夜、歩くと電灯は殆ど点いてない状態で真っ暗なんです。それで柳はザワザワ・・・本当に怖かった。それで寮に帰ってくるとあのかび臭さですからね・・・笑
寮の施設は住んでいたところだけなのでしょうか?
いえ、いくつかの建物が共用して使っていまして、図書や資料のある棟などいくつかに分かれてましたね
なるほど・・・今日はありがとうございました
柳澤義男氏について
N氏との会話から柳澤義男氏の名前が出てきた。この柳澤義男氏という人物がどういう方だったのか調べてみた。先ずは足跡である。参考にしたのは、法學新報 第86巻 第1,2,3号中央大学法学会編、柳澤義男先生定年退職記念号 昭和55年7月30日発行、及びWikipediaである。
年代 | 出来事 | |
1 | 1907(明治40)年8月1日 | 千葉県流山にて出生 |
2 | 1929(昭和4)年10月 | 高等試験行政科合格 |
3 | 1930(昭和5)年10月 | 高等試験司法科合格 |
4 | 1930(昭和5)年11月 | 弁護士登録 |
5 | 1931(昭和6)年3月 | 中央大学法学部を卒業 |
6 | 1934(昭和9)年3月 | 中央大学院法学研究科修了 |
7 | 1937(昭和12)年4月 | 中央大学より法律学研究の為欧州留学を命ぜられる |
8 | 1938(昭和13)年 | パリより帰国 |
9 | 1945(昭和20)年12月 | 中央大学教授就任 |
10 | 1946(昭和21)年、1947(昭和22)年 | 衆議院選挙落選 |
11 | 1949(昭和24)年- 1952年(昭和27)年 | 第24期衆議院選挙に民主自由党候補として当選、衆議院議員を務める |
12 | 1951(昭和26)年6月 | アメリカに留学 |
13 | 1952(昭和27)年,1953(昭和28)年,1955(昭和30)年 | 衆議院選挙落選 |
14 | 1954(昭和29)年5月 | 中央大学白門会司法会計研究所所長就任 ※1 |
15 | 1955(昭和30)年-1977(昭和52)年 | 中央大学公法研究会会長就任 |
16 | 1971(昭和46)年5月 | 中央大学在外研究員としてイギリスに留学 |
17 | 1978(昭和53)年3月 | 中央大学を退職し同年4月より中央大学名誉教授就任 |
18 | 1990(平成2)年12月2日他界 |
※1に中央大学白門会司法会計研究所所長就任とあるが、これが、松戸市平潟にあった寮で、司法試験に合格するまでここで閉じこもり、勉強する場所だった。又、柳澤義男氏はウィキペディアによれば、昭和期の法学者、弁護士、計理士、実業家、政治家、衆議院議員、法学博士となっており、所謂憲法学者で著書も多数ある。
司法会計研究所が開設された頃の時代背景
日本は1945(昭和20)年8月15日に終戦をむかえた。戦後ボロボロになった中で、朝鮮戦争が始まり、日本は特需で湧いた。1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコ講和条約を結び、晴れて日本は主権国家に戻った。当初マッカーサーは非武装、非軍事化、賠償金を支払う講和条約にしたかった様だが、中ソの反対があり、せめぎあいの中で、講和が数年遅れた。
その後、マッカーサー解任で風向きが変わった。政策企画室長のジョージ=ケナンの提案により、赤化の防波堤にする目的で日本に軍事化をさせる事になった。それが後の自衛隊となった。名前は自衛隊だが、目的は上記のとおりである。同時に日本に対する強制的な賠償金は無くし、各国との国交正常化の為の自発的賠償金の道を歩む事になる。
1953(昭和27)年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれた。1956(昭和31)年の経済白書では”もはや戦後ではない”という一文が刻まれた。石原慎太郎の太陽の季節が昭和30年に文學会新人賞、昭和31年芥川賞受賞 、同31年に映画化され太陽族という言葉が流行した。
1956(昭和31)年日本住宅公団(現在の都市再生機構)が入居者募集を開始(千里山団地) 。人々が経済発展の中で良い暮らしを目指し始め、徐々に世の中が変わってきた頃だといえる。
昭和29年~30年代前半に松戸・平潟界隈で起こった事
さて、昭和29年5月に中央大学白門会司法会計研究所が開設されたが、その当時松戸ではどんな事があったのか、ここではこの平潟周辺や松戸駅周辺にあった出来事を挙げてみた。
- 平潟田圃の区画整理事業(昭和29年)
- 新京成電鉄の開通(昭和30年)
- 平潟道路の開通(昭和32年)
- 電電公社の建設(昭和32年)
- 法律第118号(売防法)公布1956(昭和31)年5月24日(施行:1957(昭和32)年4月1日、罰則施行:1958(昭和33)年4月1日)のあの法律
上の内5番目のあの法律がインパクトがあったのだと思う。同時に松戸市の衛星都市化、ベッドタウン化に伴う、人口増加を吸収する宅地開発(上記1)。ベッドタウン化を実現する為の交通機関拡充(上記2)、宅地化された平潟から通学通勤する為の道路(上記3)、ベッドタウン化を支える自動電話交換設備の中心(上記4)・・・と言ったところであろう。
5はご自分で調べていただくとして、1~4に関する当時の松戸市報、広報まつどの記事を取り上げてみたい。
平潟田圃の区画整理
平潟田圃埋立始まる
約1万6千坪を宅地に
市では今、土地区画整理組合の結成を進めていますが、この程他の地区に先駆けて平潟土地区画整理組合(責任者島村俊氏)が設立され、約1万6千坪中、取り敢えず7千2百5坪の平潟田圃を埋立し、宅地にすることになりました。
これは新京成と同組合が協定を結び、現在新京成の軌道敷設工事を進めている小根本地区の残土を運んで埋立をしているもので、完了は9月頃を予定されています。同地域には松戸電報電話局舎の新築敷地としてほぼ決定されており、市でも駅前通りから直接道路を計画していますので、将来この地区の発展が期待されるわけです。
なお、土地区画整理組合とは、都市計画法により必ず道路に面するようになりますから、宅地として不適当な土地はなくなり、有効に土地を使用することができます。又、区画整理地域には、公園緑地帯を三つつくることにもなっている等の利点がある外、更に簿書の無料閲覧謄写、登録税の免除及び国有地の無償交付などの恩典もあるわけです。
平潟歓楽街は排水川(現在の樋古根川)と平潟の田圃に囲まれた陸の孤島の様な場所にあった訳で、この時代の後にやってくる自動車社会に対応できるような道ではなかったと言える。この記事にも言及されているが、平潟の埋立を実現した裏には新京成電鉄の開通、切通があった。
新京成電鉄開通
新京成電車4月6日開通式
沿線開発に一役
市民久しく待望の京成津田沼-松戸間、延長26.2キロの新京成は3月いっぱいまでに全線完成、来る4月6日関係者多数を招いて盛大に開通式が行われる予定になりました。
同線の全通により、千葉市-習志野市-松戸市の直結が完成するわけで、予定ダイヤでは松戸-京成千葉間は70分、松戸-京成津田沼間は50分運行が実現し従来の所要時間より半分になります。
なお運転時間の予定は次のとおりです。
松戸-椚山間 20分毎
松戸-京成千葉間 40分毎
松戸-五香間 10分毎
画像が二つあるが、下の画像には国府台-松戸間の幻の路線が描かれている。駅名を見ると
松戸-園芸学校-上矢切-下矢切-里見公園-国府台学園-国府台-手児奈-京成国府台
となっていて、後に反対運動をされて中止になったと言われる柴又線と異なる。下記二つのホームページ参照されたし。
この二つのページから柴又線は下記の駅が出来る予定だったようだ。
松戸-園芸学校-松戸高等学校前駅(-中矢切-江戸川堤防)-柴又駅
松戸市報昭和30年3月15日では松戸-京成国府台を結ぶ路線、ところが、この松戸-京成柴又を結ぶ柴又線は、翌年の昭和31年に申請、昭和37年に認可が下りたものなので、この一年の間に国府台とつながる経路から土地買収の目途など紆余曲折があって、先ずは柴又線を申請したという事だろうか?
このどちらかの路線が出来ていたら矢切方面はどの様に発展していたのか・・・と夢想するが、今は昔・・・
2024年新京成電鉄は京成電車に吸収合併
京成電鉄は、2025年4月1日を合併効力発生日として、完全子会社である新京成電鉄株式会社を吸収合併するとの事。新京成電鉄と共に育ったので、何だか寂しい気持ちになるのは私だけだろうか?
平潟道路の開通
市街の縦深化を企図する
平潟道路いよいよ完成
16日地元で盛大な祝賀式挙行
昭和十二年から長い間の懸案でありました松戸駅前通りの国道から、平潟に通ずる幹線道路(1,31号線)がいよいよ完成いたしました。従来の国道に沿った細長い市街地も、この道路の完成によって活性化を計ることができ、市街地発達上寄与するところ大きなものがあります。
この道路は、平潟土地区画整理事業による敷地の開発に役立つことは申すまでもありませんが、電電公社を平潟に建設し、電話を自動化するためには、どうしてもこの建設が条件として必要となってきたもので、この道路は電話の自動化とは密接な関係にあったわけです。
坂川に架けられた一平橋も、市内では最も大きく、かつ立派なもので、電電公社の大きな建物と好対照をなしています。道路は一月十日竣工検査を終わり、今月の十六日頃から一般交通が開始される予定です。地元の一丁目や平潟では協賛会を作り目下盛大な祝賀式を行うべく準備中です。
この道路の概要は次のとおりです。
幅員 十一米
全長 百十三米
橋梁 幅(有効)十一米 長さ十六米
工事費
昭和29年度 175,000円(坂川の護岸と同時・・・)
昭和30年度 6,051,245円
昭和31年度 12,801,786円
合計19,028,031円
内「橋梁架設費 4,685,000円、街路築造費 1,922,583円」
(註) 一平橋とは一丁目、平潟の頭文字をとってつけた、従来の木橋の名前を襲名したものです。
(写真は(上)完成混じ会、一丁目・平潟幹線道路 (下)完成した一平橋)
平潟道路とは現在で言えば、松戸市民劇場の横の江戸川まで通じる道の事である。この道は昭和32年に開通した道路で、この道路のおかげで、平潟までのルートがしっかりと出来た事になる。又、元々一友会館付近にあった一平橋を撤去し、新しい一平橋としてこの平潟道路に作った事になる。
参考として、前年の松戸市報の昭和31年8月15日号も参照されたい。
平潟線の工事着工、10月1日
坂川には鋼橋を架設
懸案であった駅前道路の平潟貫通道路の工事がいよいよ10月1日から始まります。この道路は全長110m幅員11mで現在の国道より少々広い舗装道路となり、建設を急いでいる電電公社へ通ずることとなります。なお本工事は全額起債によって行われ、坂川にかかる橋梁も本市には珍しい鋼橋となる見込みです。又竣工は来年3月頃を予定しています。【写真は移転する岡医院】
電電公社松戸(平潟)
東京-市川、船橋は即時
電話いよいよ3月自動化
松戸電報電話局の新局舎は総額約1億円の経費でこの度平潟に新設され、
ただいま内部機械の設置と調整を行っておりますが、いよいよ馬橋郵便局内の加入者も含めて(620回線)3月21日に自動式電話に切り替えられることになりました。同時に市内の電話番号が全部改正されますので、ご理容の方はご注意下さい。
3月27日までに全線開通
ただいま新規加入希望申込者が、約1千件あり、この新設電話は3月27日までに開通できる見込みです。
取扱い方法は全面的に改正自動式になりますと次のようなサービスとなります。
▽度数料金制となります。市内通話1回毎に7円となります。
▽共同電話の個別計算が実施されます。単独電話は勿論ですが、共同電話の場合も各所に度数計が設備されて、別々に度数を記録いたします。
▽相互自動即時通話(指定通話地域)の区間ができます。東京、市川、船橋の加入者の方とは自動式に接続されます(支給、特急の扱いはない)呼び方は次のとおりです。
対手局/市外局番/1通話料
東京/03/21円
市川/073/14円
船橋/074/21円
【例】東京の43局、1234番へかける時は03・43・1234 とダイアルを回す。
市川・船橋の場合は
073(市川),又は074(船橋)次に先方の電話番号を回せばよいのです。
▽自動即時通話区間の4通話自動切断はされません。
▽先の3市外地区以外の市外通話受付交換事務は市川局へ集中され料金に変更はありません。
▽電話使用料は次のとおりです。
基本料 事務用 住宅用
単独加入 500円 350円
共同加入 330円 230円
新規加入料金は
●普通区域(局を中心として、馬橋、中和倉、松戸新田、八柱、陣前、矢切を含んだ地区)3万4300円(うち1万円は公債)
●特別区域、普通区域料金の外、○○経費が加算されます。
・・・ご注意・・・
現在磁石式電話の取替工事をしておりますが、取り付けられました自動式電話機は局側から試験のためお願いする以外、絶対にご使用にならないようにして下さい。外から電話が掛かった場合は新電話機のベルがなりますが、お話は旧電話機でしてください。新電話機の受話器をはづしたりしますと故障となります-電電局-
(写真上は全景 中は試験交換台 下はリレー機)
さて、平潟のあの建物はどうする予定だったのか?
さて、戦後松戸平潟の街をどのように変えようとしていたのか?そのヒントが松戸市報昭和29年9月15日号に書かれていた。これがすごい計画だったのだ。
180度転換 平潟に文化センター誕生
上の記事の写真は見ずらいので、テキスト化したのが下の記事である。昭和29年9月15日号の松戸市報。
百八十度転換
平潟に文化センター誕生
日本育英財団が三年計画
江戸時代の宿場町当時から遊郭として繁盛を極めて来た平潟は、約四十名の接客婦十五軒で営業していたものが、去る六月いっぱいで廃業、百八十度転換しました。通信教育の学生を主な対象として、それに下宿、修学旅行の生徒、一般の宿泊にも利用させる所謂教育文化センターとして生まれ変わり、その名も「柳仙育英センター」の名称の下にこの程新発足しました。
これは財団法人日本育英事業協会理事長柳澤義男、学芸大教授溝江徳明の両氏(何れも市内居住)などの発案で、去る4月頃から平潟業者代表森政市、朝日出喜六氏らと協議し実施に奔走して来たものがこの程実を結んだものです。敷地三千坪、建物二千五百坪は一部の改修を加へ、そのまま同財団が運営することにし、
宿泊施設は、千人収容ができ、大ホール(三一〇坪)は食堂、集会場研修会映画会などの会合場所となり、浴場(120坪)は千人風呂式大浴場とする休養施設にする他、診察室、体育館、図書館、さては江戸川ラインを利用した水泳場、ボート練習場など、いたれりつくせりの学生及び教育関係者が利用するにふさわしい教育文化センターとすべく夫々工事を進めています。
今夏にはすでに中央、東京学芸両大学通信教育部のスクーリング学生五百名が、全国から集って期間中宿泊利用している外、日大、法政、明治、慶応の大学生も来年からはスクーリング期間中利用することに契約されているようであり、又東京その他に修学旅行に来る児童生徒、その他各種団体の宿泊を希望しており、下宿設備もすでに完了しその申込を受け付けております。
事務局ではこの高台な設備を完全に利用するまでには、三ケ年はかかる計画で進めているようで、市当局としても事業の性格から深い関心をもつております。
この記事の中で平潟業者代表として、森政市、朝日出喜六という二人の名前が出てくる。森政市氏とは、叶家のご主人、朝日出喜六氏とは、喜楽のご主人。朝日出喜六さんは、この平潟の協議の後、つまり昭和29年11月1日に松戸消防団の初代消防長に就任している。
https://www.city.matsudo.chiba.jp/matfd/toukei/nenpou/h29_shoubou_nenkan.files/H29ayumi.pdf
大風呂敷の説明への疑問とその後
1954(昭和29)年5月,柳澤義男氏が中央大学白門会司法会計研究所所長になった際は平潟代表の方々に、この大風呂敷の話をして説得した筈だ。だからこそ、研究所所長になったのだ・・・と解釈しても良いのだろう・・・と思う。だからこそ、松戸市報に掲載された訳で、公のお約束になった筈だ。
しかしながら、実際千人風呂が出来たというニュースも聞かないし、301坪の大ホールと言われても、どこにどのような計画にしていたのかも分からない。ただ、下宿サービスに関しては、その通りになっていたと思う。しかし、それを超えるものではなかったのではないか。現在であれば、公約破りでかなりの問題化するのではなかろうか?
柳仙育英センターは日本厚生事業協会という別名もあったようだ(目的事業が「国家試験受験生に対する宿泊施設の供与等」となっていた)。これは千葉県のホームページに千葉県知事所管公益法人一覧表というページがあった。そこに書かれていたもので、会長は柳澤義男氏と書かれていた。ちなみに令和5年現在は、日本厚生事業協会という名前は当該住所に残されている。
詳しい事は分からないが、柳澤先生もかなり大きな夢をお持ちだったという事はいえる。又、ある時点から柳仙育英センターという用語が使わなくなり、中央司法会計研究所という名前だけが刻まれている。それがいつ何があり、そうなったのかはさっぱり分からない。
今後の調査が必要だと思う。
柳澤義男先生の衆議院時代のご活躍
下記のリンクをご覧ください。戦後4年経っているのに主権国家として認められておらず、アメリカに國会議員の使節を兼ねた研究員團を派遣する提言をされているのが印象的です。
中央大学司法会計研究室のその後
中央大学司法会計研究室の在った場所は現在いくつかの建物になっている。それはスチューデントプラザ1,2(後のポルタビアンカ、ポルタ・オーレア)、ポルタビアンカという建物になっている。誰が所有しているのかも分からない。
お勧めの本
奥田博昭氏著作の「遊廓跡の司法研究室―ある司法浪人の記録」は、ここ平潟について書かれている。すでに古本・絶版だが、図書館か古本屋で探してみるとよい。仮名で書かれているが面白い。そういえば、関宿屋の八朗さんが、奥田君は時々来ると言っていたっけ・・・
まとめ
今回は主に中央司法会計研究所についての記事を書いてみた。ざっと書いてしまったので、後日訂正や追加をするかもしれません。その際はご了承お願いします。司法会計研究所時代の建築群についてはラーメン77さんから複数の写真を提供いただいている。それは次の記事で掲載してみようと思う。
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