昔日の松戸松戸の残像

根本英数塾:松戸駅東口

教室 松戸の残像
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塾や予備校について

少子高齢化

いらすとや
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我が友達が元々予備校の先生をしていたが、色々な苦労話を聞いた。一番大きな問題は少子化だという。少子高齢化によって、塾や予備校による子供の取り合いになり、大切なお客さん扱いになったそうだ。昭和の頃の、熱血先生は本人や父兄に受け入れられない状況になってしまい、生徒への対応も難しくなった。

同時に生徒の絶対数が足りなくなった事で、過当競争となり塾の数は減り、予備校の先生も減らざるを得なくなったそうだ。

小学生が減った平成から令和

昨今、我が娘の授業参観に行くと、クラスが三クラスしかない。それに一クラス当たりの人数も我々の頃よりも少ない。

我々が小学生だった頃は、少なくとも倍以上の生徒数だった。子供が多い時代だった。同時に戦後、東京の衛星都市、ベッドタウンとして発展してきた松戸は人口が急増した事で、私が生まれた頃は人口約7万人だったのに、小学校に入学した頃は倍の約14万人になり、令和5年現在は約50万人弱と急激に増えた。

松戸市の人口が増えたのに子供が少ないというのは不思議な感じがする。だが、それは松戸に限った事ではなく、日本全体に言える現実だ。小学校に行くとすでに高齢化社会に突入していた事を実感する。

子供がとにかく多かった昭和30-40年代

バス通学

いらすとや
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昭和39年までは我が北部小学校に稔台から通ってくる子も多かった。みんな定期券を持ってバスで通っていた。あの定期券というものに憧れた事もあった。ただ、昭和40年4月に松戸市立稔台小学校が分離開校した事から、仲の良かった同級生の多くが稔台小学校に移った。これは自分にとってかなりショッキングな出来事だった。

そうそう、俳優の豊川悦司さんは稔台小学校卒業なんだそうだ。

小学生だった頃の私

筆者

小学生の頃の私。遊んでばかりいました。
1965-1966年頃撮影

そもそも私は小学校のうち遊んでばかりだった。下校すると鞄をポ~ンと家に投げ入れ、古ヶ崎、伝兵衛新田に飛んで行き夜遅くなるまで帰ってこない。毎日、魚採りに熱中し、すでに少なくなりつつあった自然に接していた。小5の頃からだったか鳩も飼っていた。周りに遊んでばかりだった友達も多くいたから尚更だ。中学生になってもこの生活スタイルは大して変わらなかった。

ただ、いつしか同級生は勉強に夢中になっていった。遊び友達が一人消え二人消え、若干取り残された状態になった。松戸市立第六中学校(六中)に入学し、中一の夏休みが終わった頃「何だか面白くないなあ・・・でもこりゃ~このままじゃいかんぞや~」と焦りに近い気持ちが強くなっていった。これは塾でも行かないといけないかなと思い始めた頃だった。

(写真は小学校の頃の私です。左が我が母の営業していた軽食堂、後方トラックの左に浅間鳥獣店、右後方に見える大きな屋根は農協です。この頃は魚取りに夢中になって遊んでばかりいました)

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根本英数塾

根本英数塾に通う決断

塾の先生

ダ鳥獣ギ画
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そもそも遊んでばかりだったので、独学で勉強するのは多分要領が悪いに違いない。従って何処かで先生から学ぶ方が良かろうと思った。親に「塾に行こうと思う」と話すと、親はとっくに同じ考えだったらしく、渡りに船で、松戸駅東口の根本英数塾に通う事になった。英語と数学の二科目を習うことにした。下図の地形図の赤いマークのついた建物がそれです。

根本英数塾のあった場所

1964(昭和39)年松戸地形図

ここには同級生のM君がすでに通っていた場所だった。M君と私自身は特別仲が良かった訳ではなかったが、母同士が友達だった。この根本英数塾は松戸市立第一中学校(一中)の学区エリアに入っていたので、一中の生徒が多かった。つまりM君以外は知らない人ばかり。個人差はあるが、真面目な人が多かった印象があり、みんな懸命に勉強していた。

根本英数塾の先生

叱る

いらすとや
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先生が何人かいたが一番印象的だったのは三浦先生。数学を教えてくれた。恰幅が良く真っ黒い顔、太い黒縁の眼鏡をかけて、怖いオーラが漂っていた。宿題をやってこないと大きな掌を垂直に頭めがけて振り下ろす。バ~ン!これが痛かったヨ。三浦先生は塾裏(線路際)の木賃アパート”福寿荘”に住んでいた。この福寿荘はペンペン草が生えるような所謂昭和な古びた建物。

三浦先生は、授業中面白い話もしていた。例えば「任意の角度をコンパスで三等分することが出来たらノーベル賞取れるぞ!」とか、キセルの経験談も話してくれた。要するに友達の居る所を旅行先に定め、入場券で入ってもらいそれをもらって出るという方法だが、こんな授業をしたら、現在だったら問題になってしまうだろうね。

三浦先生には愛想の良い快活な奥様がいた。英語はもう一人の三浦先生。同族だったか・・・?細面で色白、ドジョウひげだった。数学の授業は一中の生徒と一緒だったが、英語は早い時間帯と遅い時間帯の二つあり、私は遅い時間帯で、ほぼマンツーマンだった。先生が目の前で教えてくれるのだが、足の臭いで辟易したのが唯一の欠点だった。ただ、教え方は上手な先生だった。

塾で覚えた教訓、”予習の大切さ”

予習

いらすとや
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習い始めて一ヶ月経ち、変化を感じた。学校の授業がその場で分かるようになった為だ。この塾の教え方や効果を考えてみて面白い事実に気が付いた。それは

  1. 塾は普段使っていた教科書を中心に教えてくれた。
  2. 私の通う六中と一中の教科書は同じだった
  3. 塾で教えているのは中学校で教える内容と対して変わる物ではなかった。
  4. 同じ内容を中学校で授業が行われるタイミングよりも塾で教える方が一週間くらい早かった。

つまり、進学塾とは言えず、どちらかというと学校での勉強の補助をする為の場所という位置づけだったと思う。ただ、言える事は、私は六中で一週間後で受ける授業に先んじ`予習`をきっちりやったという事実だった。中学校と学ぶことは変わらないのに、この`予習をきっちりやる`事の重要性をこの塾で自ら知り、学んだことになる。

学校の教員が「予習復習をやりなさい」と耳にたこが出来るくらい言われた。しかし、少なくとも予習というものがこんなに大切な事だったとは体験して初めて知ったようなものだ。恥ずかしながら・・・

予習をすることによる良い効果として言えるのは、何と言っても中学校での授業が楽しくなる事だ。授業内容が前もって分かっているので当然だ。みんなに先んじて分かっているというのはやる気の向上に繋がる。数学と英語の学力向上は他の科目にも少なからず影響を与えた。その他の教科は独学で勉強し始めた。これが根本英数塾に通った上で得た重要な教訓になった。

自分が家庭教師になった時

それから7-8年後に家庭教師をした事があった。近所の野球部の男の子と従妹の男の子だ。この時も予習の大切さが本人たちに実感してもらえるように、仕向けて行った。

三年後、仲良し三人組と遭遇

さて、同級生のM君はいつしか、塾に来なくなり六中の生徒は私一人になった。ただ、名前は分からないが、この塾には、仲良しグループの男女が居た。女性二人と男性二人の男女三人組だ。いつも、黒板に向かって右側の最前列に居た。男性は短髪で何となくビーバーの様な顔立ちだった。三人とも顔は覚えている。

そうそう、あれから三年後、私が高校生になって、夏季講習を受けようと思い、柏予備校、千代田予備校等色々な所に行ったが、最終的に良いと思ったのは水道橋の研数学館だった。研数学館は日本最古の予備校と呼ばれていた(上記のストリートビュー参照)。県数学館で英語の授業を受けていた時、根本英数塾で勉強していたあの仲良し三人組が連れ立ってきていたのには驚いた。

向こうも私に気が付いた様だったが、お互いに話しかける事は無かった。あれっきり彼らには遭遇していない。どこかでそれぞれが良き家庭を築いているのだろう。

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その他

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