昔日の松戸昭和の松戸を歩く松戸行脚

昭和の頃にたくさんあった松戸市の銭湯を記録する

銭湯 昭和の松戸を歩く
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昭和の頃にたくさんあった松戸市の銭湯について

私が小学生の頃、松戸にはたくさんの銭湯がありました。現在、松戸には数えるほどしかありません。ある時期から我が家にも家風呂が出来てしまい、銭湯に通う頻度が極端に減りました。しかしたまに近所の銭湯に行くこともあって、体がポカポカに温まり、やっぱり銭湯は良いなあ・・・と思うわけでした。

Webよみうりによれば、「千葉県公衆浴場業環境衛生同業組合松戸支部に加入する銭湯は大正14年~昭和11年が8軒。最盛期の昭和39年~45年は30軒があった。しかし現在は5軒にまで減っている」そんな無くなっていく銭湯、そして現在も健在に営業されている銭湯などの記録を残していこうと思いました。

かつては社会勉強の場、コミュニティの場だった銭湯

銭湯

sayamaによるPixabayからの画像

銭湯は社会勉強の場、コミュニティの場と言いますが、全くその通りで、子供だった当時いたずらっ子だった私はどうしても大人に怒られる事になります。例えば、

  • “湯船のお湯をうめるんじゃない”
  • “遊ぶな!”
  • ”うるさい”
  • ”潜水するな”

と叱られるわけです。でも叱られるばかりではなくて、洗わず遊んでばかり居るとどこかのおじさんが背中を流してくれたりしました。つまり否応なしに人と接触するわけです。こうやって社会勉強をした訳です。2021年現在、他人のおじさんに怒られるなんて事なくなりましたよね。

人口と銭湯との関係

Webよみうりの記事「千葉県公衆浴場業環境衛生同業組合松戸支部に加入する銭湯は大正14年~昭和11年が8軒。最盛期の昭和39年~45年は30軒があった。しかし現在は5軒にまで減っている」と先述したが、大正14年~昭和11年が8軒と少なかったのは、その当時の銭湯は松戸町に集中していたからではないか?

松戸市の人口の推移のページがある。このリンク先のページの関連ダウンロード→平成25年以前の数値はこちら(エクセルファイル)(Excel:17KB)をクリックすると昭和18年以降の人口が分かる。ただ、昭和29年に小金町を編入、昭和31年に沼南町を編入しているので、その点を割り引くが、

  • 昭和31年の人口は7万人
  • 昭和39年には14.4万人
  • 昭和43年は20万人
  • 昭和48年は30万人
  • 昭和55年は40万人

と急激に増えている。これは松戸市の衛星都市化政策で人口が増えた事を意味するが、これはつまり”最盛期の昭和39年~45年は30軒”というのは、衛星都市化政策による松戸市の人口流入で、銭湯への需要が急激に伸びた為だと考える。

元々松戸にあった銭湯と昭和30年代以降に出来た銭湯との二極化

従って、元々松戸にあった銭湯とこの急激に人口が増えて建設された銭湯との二極化があったのだと思う。一極として、松戸に元々あった銭湯は人口が集中していた松戸町、水戸街道沿いにできていたのではないかと考える。その対極はニュータウンの銭湯だと思われる。例えば、栄町界隈にあっただるま湯などがその例で、又、新京成電鉄沿線上の銭湯は、戦後開発されたニュータウンであり、特に昭和30年代以降にこの界隈にはオープンしている。

松戸の銭湯マップは後述するがそれらの中で、松戸駅近くにあった松の湯、小松湯、霧湯(旭湯)、赤入橋の所の富士見湯、常磐線線路沿いの錦湯は現存しないが、大正時代からあった銭湯だったようだ。未確認だが、旧水戸街道沿いの根本にあった松藤湯も古くからあったのではと考えている。調査中。

銭湯の客相手の軽食堂運営

我が実家は竹ヶ花でしたので、銭湯は竹の湯でした。私の記憶では小学校低学年の頃、番台に居た人と後年の昭和43年頃いた人は違った家族だったと思います。昭和40年代以降の家族は土肥さん一家でした。竹の湯のお話は後に譲るとして、当時は(我が家もそうでしたが)家風呂が無い家が多かったので、どうしても銭湯に行くことになります。

我が実家ではそういった銭湯客も立ち寄れる、かき氷やあんみつなどを出す食堂も経営していました。お店は昭和39年から昭和42年まで続きましたが、結構儲かったようです。それだけ銭湯の客が当時は多かったという事なのでしょうね。

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修正状況

2024年8月4日
松井天山 松戸鳥観図昭和5年5月により大黒湯、松二湯を加えた
2023年6月7日
小根本の市営銭湯について、記述を増やした。
2022年2月11日
馬橋湯の情報について追加加筆した。

どの様な修正を加えたのか、後日書きたい

 

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松戸市の銭湯マップ(営業中、廃業の銭湯を含む)

下記マップはuMap(Open Street Mapをベースにしたマイマップ)を使い、かつて存在した銭湯を含め、現在も営業されている銭湯を書き込んだものです。昭和12年頃に存在した銭湯も表示してあります。上述のように現在松戸で健在なのは5軒であるとの事。最盛期の昭和39年~45年は30軒があったという。一応、過去の住宅地図を調べ、30軒までピックアップしてみました。

ただ、戦前に廃業した富士見湯も含めていますので、多分まだもう一つあるはずです。もし、ここが足りないぞ・・・という銭湯がありましたら、是非アドバイスお願いします。

画面いっぱいにこのマップをご覧になりたい場合はフルスクリーン表示をクリックしてください。

それぞれの地区別の銭湯リスト

松戸駅西口方面:

  • 松の湯(名鑑63)
  • 小松湯(名鑑63)
  • 旭湯(名鑑63)
  • 錦湯(名鑑63)
  • 松二湯(松井天山図昭和5年5月)

松戸駅東口方面

  • 日の出湯
  • 福の湯(名鑑63)

下横町、宮前、角町方面

  • 富士見湯
  • 宮前湯(名鑑63)
  • 小松湯(名鑑63)
  • 大黒湯(松井天山図昭和5年5月)

矢切方面

  • 富士見湯(名鑑63)
  • 矢切湯(名鑑63)
  • 浜の湯(名鑑63)

樋野口・根本・竹ヶ花方面

  • 平潟湯(名鑑63)
  • 日の出湯(名鑑63)
  • 松藤湯(名鑑63)
  • 竹の湯(名鑑63)
  • 稲荷湯

上本郷・松戸新田・稔台方面

  • ニュー富士見湯
  • 源湯
  • 仲の湯
  • 武蔵湯
  • 松戸ヘルスランド(みなもと湯)

常盤平・五香方面

  • ときわ湯(名鑑63)
  • 五香泉(名鑑63)
  • 平和湯ランド

北松戸・栄町方面

  • ニューだるま湯
  • 本郷湯

馬橋・新作方面

  • ゆたか湯
  • 馬橋湯(名鑑63)
  • 末広湯
  • 光富湯
  • 鳩の湯

小金方面

  • 清志湯
  • 小金バスランド(元小金湯)(名鑑63)
  • みどり湯

注(名鑑63):松戸市役所庶務課編『松戸市の事業所名鑑 1963年』に掲載されている銭湯は、名鑑63と記しておきます

それぞれの地区の銭湯の説明

松戸駅西口方面

松の湯

松の湯

松の湯 松戸案内(大正期発行)

上のマップは大正期に発行された松戸案内。縦に走る道が、現在で言う松戸駅前通り、松戸薬局が見えるが、接しているのは高砂通り。中通りの途中に松の湯が見られる。現在の位置にするとスポーツ倶楽部NASの辺りであろうか?昭和49年くらいまで存在した。現存せず。

小松湯(押田外科隣、金ケ作陣屋道沿い)→越の湯

komatsuyu

小松湯 松戸案内(大正期発行による)

上のマップは大正期に発行された松戸案内。上中央から右下方向に走っている道が金ケ作陣屋道。今で言えば、ダイエー松戸駅西口店前の松戸西口公園の中あたりになるだろうか?このマップでは”松湯”としか書かれていない。ある時には高松湯と呼ばれ、小松湯と呼ばれたらしい。色々と名前が変ったらしい。

松戸駅西口都市区画整理が行われた頃まで存在した銭湯。調べてみると、西口区画整理後、1975年と1977年の住宅地図によれば、少なくとも1977年まで、越の湯として、存在していたらしい。小松湯を曳家したのかもしれない。しかし、1981年の住宅地図には書かれていない。高砂通りのエンドは金ケ作陣屋道にぶつかるが、そこを岩瀬方面に少し歩いたところにあった。

まつど観光大使のI女史は幼少の頃この小松湯に入った後、その正面の松風軒で食事をしたとの事です。この小松湯も松風軒も現存しない。松戸市松戸1199

霧湯→旭湯

霧湯

霧湯、松戸案内(大正期発行)

上のマップは大正期に発行された松戸案内。中央縦の細い道が、現在で言えば旧水戸街道の日暮商店からキテミテマツドを結ぶ道。元中部小通りでもある。立沢商店の右下辺りに霧湯が見える。この当時は霧湯と言っていたのだろう。その後は、旭湯となったようだ。区画整理される昭和49年くらいまで存在した。道路が拡張され、立ち退き。現在の位置としては、蕎麦屋田中屋辺りだと思う。松戸市松戸1853

松二湯

松二湯

松二湯 松井天山 松戸鳥瞰図昭和5年5月より

これは松井天山昭和5年5月松戸鳥瞰図に書かれていた。ただ、場所が上記の霧湯(旭湯)のそばであるため、霧湯(旭湯)が途中で名前が変わり松二湯になった可能性もある。何とも言えない。

錦湯

matudo-annai

大正時代の松戸案内

大正時代の松戸案内には掲載されていた上図参照。中央下部に錦湯の文字が見える。右の松戸工区と書かれている場所は現在のキテミテマツド付近。左上の松戸神社の敷地と比べても十分大きさを感じるかもしれない。尊敬するI女史によれば昭和49年頃通ったそうだ。大きな銭湯だと語っておられた。現存せず。松戸市松戸1439

松戸駅東口方面

日の出湯(小根本)

岩瀬地区、向山下にあった。昭和37年の住宅地図を見ると中野湯となっていて、日の出湯ではなかった。経営者とともに銭湯名も変遷したのかもしれない。あの周辺には埼玉屋豆腐店、大橋屋さん、その他たくさんのお店があった。日の出湯が立ち退き後、土地は聖徳学院の所有となり、学校施設の一部が建設されている。現在の位置としては、セブンイレブンの前辺り。松戸市小根本32

栗原酒販、先代栗原社長によれば、当初松戸市役所の職員が銭湯を経営していた時代があったと聞いた。そこで調べてみた。松戸市報第2号:昭和25年2月号によると

市営銭湯の件
三、公営事業の経理状況について
本市においては八月十日召集の第四回定例市会において公衆浴場の設置が議決され、誠意これが完成に努力した結果十一月三十日竣工し十二月五日開業のはこびとなった。開場以来の収入は十二月六日ひり同月三十一日まで拾貳萬圓、支出は四萬八千圓で、七萬餘圓の収入を上げておる。

と書かれている。この市営銭湯は小根本にあり、1949(昭和24)年12月5日開業した事になる。多分同場所の事であると考えている。松戸市報昭和28年9月15日によれば、

市営浴場は昭和27年度限りで売却 

とある。つまり、同場所が市営銭湯であった期間は下記の三年強という事になる。やはり銭湯経営は重労働だったのではないだろうか?その後は個人営業に切り替わった様だ。

  • 開業 1949(昭和24)年12月5日
  • 売却 1952(昭和27)年4月~1953(昭和28)年3月の間

福の湯

ゾーンとしては戸定ヶ丘周辺の人達が使う湯だと思われる。現在の位置で言えば、松戸神社横の道から常磐線の下を通るトンネルがあるが、そのトンネルを抜け、さらに進んだところにタイ料理のルウァン・タイがあるがその隣付近。松戸市松戸1101

下横町、宮前、角町方面

富士見湯

富士見湯

富士見湯2004年7月25日撮影

写真の建物は下道に入り口を向けていた富士見湯という銭湯だった建物。その後、竹田接骨院になった。堤防に向いている入り口は、かつての商圏だった納屋河岸のメインストリートに向いていたわけだろう。渡邉幸三郎先生による『昭和の松戸誌』(崙書房出版、平成17年)によると、「富士見湯は浅草から来て開業したが戦時中に廃業し、今(1994年調査)は接骨院に貸している」となっている。

富士見湯

富士見湯 松戸案内(大正期発行)

上のマップは大正期に発行された松戸案内。マップ上部は江戸川。右に見える川のようなところが坂川。この当時は土手も低く、富士山が見えたのだろう・・・2021年現在この建物は無い。

宮前湯

宮前湯

宮前湯 2008年6月2日撮影

1941(昭和16)年開業。松戸神社と同じ井戸水をお使いだとか・・・健在です。松戸市松戸1766(旧住所:松戸市宮前町1766)

小松湯(角町交差点付近)

角町交差点付近に存在した湯。渡邉幸三郎先生による『昭和の松戸誌』(崙書房出版、平成17年)によると「江戸期は船頭、松戸宿の名主吉岡隼人より姓をもらい、裏の土地と隼人庶流の墓を守る。古い家で、元対面の翠松堂書店の所から昭和5年に現地に移転」と書かれている。現存せず。

大黒湯

大黒湯

大黒湯
松井天山 松戸鳥瞰図昭和5年5月より

松井天山松戸鳥瞰図昭和5年5月に書かれている。角町交差点から小山方面に向かう途中左にあったらしい。詳細分からず。

 

矢切方面

富士見湯

上矢切交差点付近の上矢切259-1辺りにあったと矢切のM様、東松戸のI様より情報いただきました。1988年の住宅地図には掲載されていました。現在は住宅街になっています。ありがとうございます。松戸市上矢切259

矢切湯

矢切湯

矢切湯 2008年9月2日撮影

今で言えば、下矢切の蔵のギャラリー結花和菓子所 八矢庵に比較的近い場所にあった。2021年現在は存在しない。張り紙によれば、2008年7月1日をもって営業終了だったようだ。張り紙には、

「お客様各位、営業を再開する予定でおりましたが、休業中に設備不良が発生し、再開が不能となりました。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが、七月一日をもって営業を終了させて頂きます。長い間ご愛顧頂き、誠にありがとうございました。 店主」

と書かれていて、別の張り紙には、

「お手持ちの入浴券の払い戻し・お預りしている荷物の返却は、自宅へお声をかけて下さい」

と書かれていた。この銭湯の経営者の実直さが伝わってくるようだ。

松戸市の和菓子、矢切最中、どら焼きなら【和菓子所 八矢庵】
松戸市にある【和菓子所 八矢庵】は、素材本来の持ち味を最大限に生かし、季節感を大切にした和菓子を創造します。お祝いごとや人生の節目の行事に添えるお菓子、またオリジナル焼印を使用したどら焼きなど、お客様の様々なご要望にお応えします。

浜の湯

昭和44年頃の商店街マップに掲載されていた。矢切駅近くに2021年しゃぶ葉 松戸栗山店(元夢庵松戸栗山店)がオープンしている筈だが、その場所に浜の湯があった。

 

樋野口・根本・竹ヶ花方面

 

平潟湯

旧松の木通りを平潟方面に向かい、坂川を渡ってすぐ右に曲がったところにあった。現在坂川沿いにマンションが建設されているが、その辺り。この平潟湯は中央司法会計研究所で司法試験の為勉強する苦学生が、ここに入りに来ることがあったらしい。空いていない時はそのまま竹ヶ花の竹の湯に来ることもあったらしい。

日の出湯(旧水戸街道沿い、根本)又は杉田湯場

銭湯名が岩瀬の銭湯と同じなのだが、この根本の日の出湯の経営者が、岩瀬に移って、日の出湯としたのだろうか?なんとも言えない。渡邉幸三郎先生の『昭和の松戸誌』(崙書房出版、平成17年)による昭和12年の家並みに書かれていた。

ただ、大日本職業別明細図(昭和5)では杉田湯場となっている。

松藤湯

松藤湯

松藤湯2001年10月7日撮影

井澤布団屋さんの向かって右隣。少なくとも昭和50年まではこの松藤湯はあったと思う。当時、私は竹の湯専門で松藤湯は入ったことが無かった。栗原酒販さんによれば、根本湯という言い方をしていたが、そういう呼び方の時代もあったのだろうか?2021年現在はマンションになっていて、一階には2000年頃、マーボーブーというアップル製品を売る店があった。現在はこの井澤布団屋さんも一般住宅になってしまっている。松戸市根本122

竹の湯

竹の湯

竹の湯 2001年8月13日撮影

私は竹ヶ花地区に住んでいたので、必ず竹の湯でした。私の記憶では小学校低学年の頃、番台に居た人と後年の昭和43年頃いた人は違った家族だったと思います。昭和30年代は岩瀬にお住まいの渡辺さん?(栗原酒販さんに伺った。メモを再確認要)、昭和40年代以降の家族は土肥さん一家でした。竹の湯のお話は後に譲るとして、当時は(我が家もそうでしたが)家風呂が無い家が多かったので、どうしても銭湯に行くことになります。

土肥さんのご長男の一夫さんの年齢は私のほうが一つ上でしたが、何度か遊んだことがあります。銭湯の裏方の方に行くと薪や籾殻の様な木の細かいチップの様なものがあり、そのチップの上で倒れると少しふわっとして面白かった。でも調子に乗って遊びすぎた為、背中やらに色々と入ってしまって、女将さんにお風呂に入っていきなさいと言われ、ありがとうございます・・・という感じで入った記憶があります。

銭湯での子供の遊び

母が、かき氷やあんみつなどを出すの軽食堂経営し始めた為、小学一年生から一人で銭湯に通わざるを得なくなった。「一人で通ってしっかり身体を洗ってエライね」と言われそうだが、とんでもない。遊んでばかりいた。銭湯の遊びにはいくつかある。一つは潜水。湯船の浅い方と深い方は湯量のバランスを取るため、仕切りの下の方が開口していて子供だったら、潜水して行き来が出来るようになっている。

もう一つは尻滑り。浴槽洗い場側の縁に手を掛けてしゃがみ、足裏で浴槽を思いっきり蹴っ飛ばす。そうすると水上スキーの如く、洗い場のタイルの上をお尻で滑っていく。これが案外面白い。ただ、後ろ向きに滑るので人にぶつかって危ない。私はいたずらっ子でしかも家でかき氷屋さんを営業していた事もあって、近所ではよく知られた子供だった。

従って、多くの大人の監視下にあったと言える。遊んでばかりいる私を見るに見かねたおじさん達は時々私の背中を流してくれた。そしてそのおじさん達は帰りしな母の営業しているかき氷屋に立ち寄り、かき氷を食べながら全てばらしていく。「おい、おたくの息子は遊んでばかりで洗ってないからおれが洗ってあげたぞ!」てね!竹の湯はまさに近所のコミュニケーションの場だったのだ。

洗い場が混んでいる時は、洗っている人の少し後ろからお湯をもらって洗った

当時、家風呂を持つ人は少なく、殆どの人は銭湯に通った。洗面器を持って銭湯に通う。曜日や時間帯によって竹の湯は混雑した。混雑するとカランの前に座れない。従ってカランとカランの間にしゃがんで先客の斜め後ろで、居候の如くお湯をいただきながら洗う。文字通り肩身が狭い。湯船の中で空くのを待ってもそうそう簡単に空くわけではない。だから情けないのを承知でお湯をいただく。みんなそうしていた。

小4で女湯に行った話し

先述したように、母が自宅でかき氷商売を始めて以降、私は一人で男湯に通わざるを得なくなった。小学四年生の頃だったか、お店が休みの日に「たまには一緒にお風呂行く?」と母から誘われた。母と一緒に行くと言うことは女湯だが恥ずかしさなど全く感じる歳ではなく、断る理由も無いので勿論一緒に行った。

さて久しぶりの女湯だなあと思いつつ、服を脱ぎ捨て湯船に向かった。ところがなんと同じクラスのミチコちゃんに出遭ってしまったのだ。ミチコちゃんはとても恥ずかしがっている。恥ずかしさなんて無縁の筈だったのに私もとても恥ずかしかった。小学校四年生の女の子と言えば意識的にかなり大人になりかけている。否、身体的にも変化が現れる頃かもしれない。

ミチコちゃんはじっと私睨んでいるように見えた。とにかく一言も話をしなかった。とにかく湯船に入り、洗い終わって銭湯を出るまでの間はただ一心不乱にカランの方だけを見ていた。それ以来女湯は一切行かなくなった。

竹の湯の閉店と共に

2005(平成十七)年八月三十一日付を以て竹の湯が閉店した。ほぼ四十五年間の営業だった。土肥さんに聞くと五香の銭湯をやるんだと行っていた。五香西1丁目12-12の平和湯ランドらしい。土肥一夫さんは千葉県公衆浴場業生活衛生同業組合理事長や松戸市公衆浴場組合の組合長も兼任され、銭湯を盛り上げようと頑張っているらしい。

立派な人だなあ・・・いつか会いたいなあ・・・

稲荷湯

樋野口にあった銭湯。いつ廃業されたのか分からないが、多分2005年頃ではなかろうか?樋野口は五色鮨さんから江戸川方面に歩き、中華の珍来さんの角を右折すると稲荷湯があったが、あの界隈は商店街を成していて活気もあった地区だったと思う。途中明治屋ストアさんがあった(2021年現在はクリーニング屋)。あの明治屋ストアさんは竹ケ花の明治屋さんが踏切閉鎖後に引っ越した先の店らしい。付近の山崎(そば屋)さんで聞いた話。

同級生I君も住んでいたが、その後どうなったか・・・福島県の建設会社に務めていたようだったが、311以降連絡が取れなくなった。

上本郷・松戸新田・稔台方面

ニュー富士見湯

胡録台の消防署のほぼ正面にあった銭湯。記憶にはあるが、入ったことがない。ここからも富士山が見えたんだろうなあ・・・存在していた頃撮影しておけばよかった。

源湯

上本郷駅近く、マルエツ上本郷付近にあった。お風呂の入り口付近に中の見えない雑誌の自動販売機がおいてあったのを思い出す。

仲の湯

仲の湯

仲の湯
2009年3月21日撮影

松戸新田駅南口から南西方向に歩いていくと2021年現在業務スーパーがあるが、その並びである。以前業務スーパー前はハローマート本社があった。仲の湯は多分2015年前後まで建物があったと思ったが、その後更地になり、住宅が建設されているようだ。

武蔵湯

稔台駅と八柱駅のほぼ中間くらいにあった。現在は、廃業されたようだ。詳細は分からず。

松戸ヘルスランド(みなもと湯)

松戸の銭湯娘、Yちゃんの銭湯だ。松戸市みのり台の銭湯「松戸ヘルスランド」(みなもと湯)というブログもある。ブログによれば昭和40年創業で平成2年までは「みなもと湯」という名前で営業していたとあります。上本郷駅近くにあった源湯(みなもとゆ)と名前が同じだが、関連があるのだろうか?健在。

■近況|松戸市みのり台の銭湯「松戸ヘルスランド」(みなもと湯)
松戸の銭湯娘さんのブログテーマ、「■近況」の記事一覧ページです。

常盤平・五香方面

ときわ湯

松戸市常盤平3丁目13、西友常盤平裏手にあった銭湯。すでに廃業。その当時の名残かいまでも、コインランドリーがある。東松戸にお住まいのI様よりアドバイスいただきました(2021年8月16日)。松戸市常盤平3丁目13-3

五香泉

2007~2008年までは存在したらしい。ザ・プライスの並びに存在したようだ。東松戸にお住まいのI様によれば五香泉の経営者と現在のカラオケとの経営者は同じとの事(2021年8月16日)

平和湯ランド

竹の湯の欄で書いたが土肥さんが次なる転地として選ばれた銭湯が平和湯ランド(五香西1丁目12-12)で、土肥一夫さんは千葉県公衆浴場業生活衛生同業組合理事長や松戸市公衆浴場組合の組合長も兼任され、銭湯ハンコ作家、コラムニストの廣瀬十四三さんの協力を得つつ、「桜・湯めぐり 2019」を開催したり、外壁に熊本城の絵を書いたり、銭湯を盛り上げようと頑張っているらしい。

平和湯ランドにはこんな情報もあります。コロナ騒ぎで銭湯業界もなかなか大変だと思う。五香というと遠くて、私には行けないが、是非何らかの形で応援したい銭湯です。久しぶりにお会いしたいなあ・・・1968年(昭和43年)創業。健在。

平和湯ランド(千葉県松戸市)
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北松戸・栄町方面

ニューだるま湯

 

上はGoogle Street Viewで2011年頃のニューだるま湯の様子を見ている。

栄町という町は昭和40年代前半に出来上がった町なので、銭湯も住宅が建ち始めて出来たのだろうと思う。栄町に住む同級生によれば、比較的最初の頃に出来た商店街が本町通り商店街:昭和47-8年にはパッとしなくなってしまったそうです。その後、→だるま通り(だるま湯が中心)→中央通り(栄ストアが中心)→一番会お買い物横丁(スーパーマーチが中心)と流行りの商店街が変遷したらしい。

同級生によると「だるま湯は仕事終えた後の商店会の人が夜入りに来ていた。風呂上りに一杯で居酒屋だけでなく洒落たスナックも数軒あった」ニューだるま湯は2013年12月閉店したらしい。松戸市栄町4丁目222

本郷湯

場所は北松戸2丁目6-2。北松戸駅東口を降り、国道6号線を亘り、市立病院方向の坂道を少し登りマルエツの斜め前あたりにハローマート食品館北松戸店があるが、ほぼそこにあった。東京病院があった頃はその隣。現存せず。北松戸、上本郷、新作の高台方面は住宅も多く、その住人を対象としていたのだろう・・・

東進の予備校講師、今井宏さんのブログ「風吹かば倒るの記」に北松戸に住んでいた駆け出しの頃のエピソードとして、本郷湯が登場する。

また、「松戸がよくわかる本(社団法人松戸青年会議所発行)」のP117に「街の音」と題しこの本郷湯について述べられています。

要略:上本郷にある本覚寺と本郷湯に一つの共通点として、有線放送を引いて、流している事で、お寺に有線放送で音楽を流しているという状況は非常に面白いですが、実はこの本郷湯では浴場全体に音楽を流していて、松戸に二十軒ある浴場の内その過半数がこの本郷湯の用に音楽を流しており、全国的にみて珍しい・・・と説明されています。

今井宏『Thu 090319 16日取手講演会 北松戸・松戸・新松戸の思い出 本郷湯とビール自動販売機』
16日は茨城県取手で講演会、出席者80名程度。午後4時半の千代田線で代々木上原を出て、後はひたすら千代田線に乗り、北千住で電車が地下から出て「JR常磐線各駅…

馬橋方面

ゆたか湯

馬橋314付近で比較的駅に近い場所。王子神社の西側にあたる場所。

馬橋湯

1962(昭和37)年の住宅地図では大衆浴場(筒井)となっている。現在の馬橋湯は運営が上丸俊雄さんになっている。馬橋湯はいくつかのWeb情報を見ると公式には創業が昭和38年という事なので、多分昭和38年に経営者が筒井さんから上丸さんに変更になって、馬橋湯になったのかもしれない。つまり、現在の馬橋湯が創業する前に銭湯が存在していた事になる。なにか資料は無いものだろうか?

我が尊敬するI女史も時々通っていた銭湯だったようだ。以前は、この馬橋湯に浸かった後に、”おでん あら川”でおでんを食べるというゴールデンルートがあったらしい。すでに東松戸に越されたので、さすがに今は行っていないんだろうなあ・・・

馬橋湯は馬橋本通り商店街のページが有る。又、松戸市による紹介ページもある。松戸市馬橋95

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ページを表示することができません|松戸市

末広湯:西馬橋

2007年10月にすでに廃業されたようです。同地にはコインランドリーだけがポツンとあり、ほかは駐車場になっているようです。

光富湯:馬橋1890

光富湯

光富湯
1969(昭和44)年住宅地図より

1969(昭和44)年の住宅地図に記載されていた。馬橋1890。現在はTairaya馬橋店の裏方という事だろうか?

鳩の湯:中根新作

鳩の湯

鳩の湯
1969(昭和44)年住宅地図より

1969(昭和44)住宅地図に記載されていた。この頃、新作にも司法研究所があったのか・・・これが平潟にあった司法会計研究所と同じ柳沢義男さんと一緒の経営だったのだろうか?あのスタイルだとすれば、司法試験を勉強する生徒さんたちがたくさんいたはずなので、鳩の湯もそのお客さんだけでも随分来たのではないだろうか?

司法研究所の場所は現在、”松戸第4住宅、1号棟、2号棟”として使われている。

又、この界隈はポッポ会という商店街らしい。鳩の湯にぽっぽ会、もしかして、戦後向島附近から引っ越して来た人たちの集落だったのだろうか?今でも”ときわ”というコインランドリーがあるので、これが銭湯の名残ではなかろうか?ただ、この裏にマンションときわある。1977年に竣工したマンションらしい。1970年代に銭湯の経営者或いは土地を購入した人がときわというマンションを建てたのだろうか?

小金方面

清志湯

松戸市小金清志町2-37-7

2015年頃、すでに廃業されたようです。

銭湯遍路ー銭湯大好き!-お湯巡り日記さんが、清志湯について書かれています。

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  • さよなら清志湯ー松戸市小金ー30日まで(T ^ T)! 
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  • 番外編ーきよし湯ー千葉県松戸市 2014年01月30日
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小金バスランド(旧小金湯)

 この写真はグーグルストリートビューで小金バスランドを見たものです。

松戸市小金きよしケ丘2丁目9−1、創業は昭和38年で、馬橋湯と同じですね!2021年現在で58年目にあたるかな?!1988年住宅地図では小金湯という表記でした。

小金バスランドの松戸市によるホームページもあり、応援したいですね。松戸市小金118

小金バスランド

みどり湯

松戸市小金きよしヶ丘1丁目9付近、上はみどり湯を中央に見ている国土地理院の1988年-1990年頃撮影された空中写真です。
隣地にリバティコート(小金きよしヶ丘1丁目9-3)があり、このリバティコートが1992年12月竣工で(築29年)という事なので、多分1989年頃まではみどり湯があったのではないかと想像する。ここは北小金駅からみると北東方向。東雷神社から比較的近い。北小金駅は標高20mくらい東雷神社は標高16mくらい,みどり湯が17mくらい。北小金駅から行くと一旦少し上がると徐々に下がっていく感じになる。

東雷神社の周りは水田が囲んでいた様な場所で、水田を区画整理後住宅街が出来ている。東雷神社の南西方向にみどり湯があったが、東雷神社とみどり湯の間は谷津状に低地になっており、そこにライオンズマンションロワイヤル北小金が建設され様である。
1960年代は低地が水田だったが、1970年代になると区画整理されて住宅が建ち始めているので、多分みどり湯はこの1970年代に建設されたのではないかと考える。

最後に

使用した書籍、聞き取りをした方

  • 昭和の松戸誌(渡邉幸三郎著、崙書房出版)
  • 松戸案内(大正期)
  • 松井天山 松戸鳥瞰図(昭和5年5月)
  • 松戸町商店街マップ(昭和37年)
  • 松戸商店街マップ(昭和37年)
  • 住宅地図(昭和37年、昭和44年、昭和63年)
  • 松戸市役所庶務課編『松戸市の事業所名鑑 1963年』
  • 東松戸にお住まいのI女史
  • 矢切にお住まいのMさん
  • 小金にお住まいのOさん
  • 松戸市立図書館リファレンス担当の方
  • 栗原酒販様

この”昭和の頃にたくさんあった松戸の銭湯を記録する”について

この投稿は2005年の竹の湯に関する投稿を発展させ、訂正に訂正を重ね作成したものです。

残る銭湯情報について

30軒の場所の特定が出来ました。ただ、気になっているのが、六実や六高台方面にもかなり大きな住宅群がありますから、あの界隈にももう一つ銭湯があったのではないかと思っています。今後調べていきます。もし、ご覧になっている皆様で、ここの銭湯が入っていないというものがありましたら、ご連絡お待ちしています。

コメント

  1. うしとら より:

    わたしも銭湯といえば竹の湯でした。大人になってからも行っていました。
    近所で廃材が出ると竹の湯に持ち込み手伝いをしてお駄賃をもらっていたことを思い出します。
    根本に銭湯があってことも覚えています。隣に洋食屋がありましたね。
    岩瀬十字路の先にあった銭湯も覚えています。
    松戸新田にあった銭湯も覚えています。
    いま考えると銭湯が沢山あったんだなぁと思いますね。
    先月、吉岡材木店の先代が他界されたのですが、
    材木屋も絶滅危惧種だなぁと・・ぼんやり考えていました。
    昔は沢山あったのに、ほとんど残っていないですよね。
    吉岡材木店は、戦前に他家の軒先を借りて炭を販売していたとこからスタートしたそうです。戦争で東京が焼け野原になり、木材は飛ぶように売れ、急成長したとのこと。何が幸いするか分かりませんが、今では昔の活気が嘘のようです。私が学生時代に借地だったところを整理するという話が持ち上がり、既存建物をどうするか?という話になったのですが、材木屋の建物というのは特殊な構造をしており、建て替えが難しいということになり、現在に至っております。
    以前は正月になると干支の絵が描かれた材木が飾られて、その前で記念写真を撮りに来られる方が大勢いましたが、そういうことも無くなり寂しいです。

    • うしとら様、コメントありがとうございます。
      竹の湯は廃材を持っていくと受け入れてくれたんだ・・・五香に移ってもやっぱり薪で風呂を炊いているらしいですよ。何らかのホームページで、薪をくべる一夫さんの写真を見たことがありました。
      根本の銭湯の横はやまとやさんですね。両親とあそこのハンバーグを時々食べに行きましたっけ。
      確かに材木店と言いますと、雷電神社前にも鈴荘材木店がありましたし、ヤマザキパン工場の横にも一軒ありましたっけ・・・
      そういえば、千葉県伝統工芸の北島さんのハサミ工場があの界隈にあったと思うのですが、先日歩いても分かりませんでした。ご存知でしょうか?以前私は屠殺場坂下のところのハサミ工場が北島さんの工場だと思い込んでいたのですが、勘違いだったみたいで、吉岡材木店さんの近くみたいですね。

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