レジャー昔日の松戸松戸の残像

松戸市下矢切にかつて存在した国際射撃場(国際射撃倶楽部)

クレー射撃 昔日の松戸
Monica VolpinによるPixabayからの画像
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松戸市下矢切にかつて存在した国際射撃場(国際射撃倶楽部)

昭和30年代、松戸には意外に身近な場所に射撃場があった。終戦後米軍によって占領されると銃砲類禁止令が発令され、事実上銃砲は持てなくなったが、数年後には競技射撃に関しては緩和され、松戸には少なくとも二つの射撃場が出来た。昭和二十四年には下矢切の式場病院隣に国際射撃倶楽部(クレー射撃+若干の空気銃)が出来た。もうひとつは南花島の射撃場(クレー射撃)である。

『千葉県スポーツ史 2』(千葉県

体育協会 1978)千葉県クレー射撃協会 196ページに「民間の射撃場は昭和35年、36年に東京射撃倶楽部・国際射撃倶楽部がそれぞれ復活」とあります。

又、松戸市体育協会二十五年史の143ぺージに松戸市クレー射撃協会の設立時の状況という項目があり、下記の様に記述されている。

1.設立時の状況

昭和30年頃、射撃場が開かれると同時に現在故人になった竹内清太郎氏或いは木村愛之助氏らを中心に、故人の大塚俊夫、更に土井崎盛氏などのメンバーが栗山にあった国際射撃場(後、八ヶ崎に移転、更に現在は沼南町に移転し沼南国際射撃場となっている)。東京射撃クラブ(当時、花島にあったが37~38年頃から中和倉に移転)などを活躍の場として教会を設立した

下矢切にあった射撃場は資料によっては国際射撃倶楽部、或いは国際射撃場となっているが、国際射撃倶楽部として記述します。又、南花島にあった射撃場は東京射撃倶楽部とします。

この章では下矢切に存在した射撃場である国際射撃倶楽部について述べます。

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国際射撃倶楽部(下矢切)

国際射撃倶楽部のあった場所

1962(昭和37)年、人文舎による『松戸市全住宅案内地図帳 37年改訂版』には国際射撃場が記載されている。

国際射撃場

国際射撃場
1967(昭和37)住宅地図より

現在の地図に国際射撃倶楽部を当てはめる

水上勉の自伝小説「冬日の道」には

「そこは下矢切といい、市川との境である。国府台の式場病院の裏にあたる高台だったが、一帯はまだ畑で、結核療養所と警察の射撃場にはさまれていた。目あての家は、射撃場の上にある。六畳、四畳半に台所のついた恰好の広さで、月六千円という家賃も魅力だった。あたりの田園風景に魅かれて、私は借りることにした」

と書かれている。

水上勉は下矢切123に住んでいた

これらの情報から、現在の地図に当てはめてみたのが下図である。

もう少し周辺を見たい方はフルスクリーン表示をクリックしてください。

この水上勉邸には柏に住んでいた川上宗薫氏が良く遊びに来ていたそうだ。ただ、この水上勉邸は昭和48年に子供の遊びによる不審火で燃えてしまったようだ。

1960-69年頃の下矢切の同地

国土地理院の1960-69年の空中写真です。中央が射撃場のあったらしき場所ですが、よく分かりません。

2022年現在の下矢切同地(北総線矢切駅)

元国際射撃倶楽部があった土地の現在はこんな感じです。栗山坂下交差点附近から矢切駅方向を見ました。全く面影を感じません。

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戦争遺跡としての国分、国府台周辺の事

国際射撃倶楽部近くの陸軍射撃場

又、 水上勉の自伝小説「冬日の道」にはさらに

「式場病院の裏へゆく途中に、三角山とよぶ、旧連隊時代の、これも実弾射撃場跡があって、ここは、松林にかこまれた篠竹原になっていたが、蜘蛛は無数にいた」

と書かれている。この実弾射撃場跡というのは現在のじゅん菜池の東側の高台周辺にあったようだ。下の地図のピンク色の部分に当たる。その一部が三角山と言われていたのであろう。

もう少し周辺を見たい方はフルスクリーン表示をクリックしてください。このマップを作るにあたっては下記のサイトを参考にさせていただきました。

会則・会報|市川市中国分自治会
市川市中国分自治会のホームページ
千葉県市川市堀之内の駒形墓地に、明治18年頃の松戸街道整備工事の従事中に死亡した千葉県監獄の囚人の合... | レファレンス協同データベース
レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ方、コレクション情報など調査に役立つ情報を公開しています。

市川村と陸軍教導団

中国分歴史探訪の第二章明治期・大正期・昭和期の中国分街の変遷によれば

文部大輔田中の「真ノ大学校」構想によって、元々大学都市をつくる計画で考えられていた国府台の土地(24ha弱)が東京の本郷に東京大学(当時は東京帝国大学かな?)が設立された事で、この国府台での「真ノ大学校」構想は中止になって、土地は明治13年には文部省から陸軍省へ移管されていた事から陸軍教導団が移転する事になったそうだ。

この教導団の人数が大変な人数だったらしく、明治24年の市川の人口が4千人弱だった処に2千人強の教導団が来たことになり、これが市川村が市川町に発展する起爆剤となったようだ。

周囲にあった練兵場や野砲連隊など

戦後まもない頃の国府台の空中写真です。国土地理院空中写真1947-50年頃です。

また、この周辺は東練兵場や西練兵場、野砲連隊が周辺にあり、元々は軍事施設が(市川市側だが)広がっていた事がわかる。じゅんさい池の東側台地には、東練兵場があり、東練兵場は現在の中国分の住宅街の殆どがそれにあたり、陸軍の墓地もあった。

また松戸市川街道の東側には、西練兵場が、松戸市川街道の西側には野砲15,16,17連隊があり、西練兵場は戦後国府台病院になり、野砲15連隊は戦後、和洋女子大学、和洋国府台中学校高等学校、筑波大学附属聴覚特別支援学校となり、野砲16連隊は戦後、東京医科歯科大、県立国府台高校、市川市立第一中学校に、野砲17連隊は戦後、千葉商科大学が出来ている。

軍事都市だった市川への空襲

総務省|一般戦災死没者の追悼|市川市における戦災の状況(千葉県)
広報いちかわ10月17日号 トップページ|市川市公式Webサイト

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/gen01/file/0000359999.pdf

上のリンクをみていただければ具体的に分かると思いますが、市川は必ずしも空襲の標的になったのではなく、東京大空襲で落としきれなかった焼夷弾などを市川で落としていった例があったようです。といっても、それなりの被害があったらしい。

三角山や練兵場を作った人々

千葉県歴史教育者協議会 編. 千葉県の戦争遺跡をあるく. 国書刊行会, 2004.8”の記述によれば、
「政府は、農村地帯を軍隊の訓練に適する土地に変えるため大工事にとりかかるが、それは、軍用道路(現在の松戸街道)をつくるために山を削り、生活道路を軍用道路として拡張し、射撃訓練のための三角山(中略)を東練兵場につくるなど大変な工事であった。この難工事に動員されたのが、千葉刑務所に服役していた囚人たちであった」

市川市役所発行”市川市絵はがき”より

市川市絵はがき

市川市役所発行
市川市絵はがき

市川市役所が発行した市川市絵はがきのシリーズが有る。多分戦前であろうと思われるが、その中に鳥瞰図の絵葉書がある。絵の感じからは松井天山図ではないようだ。

市川市役所発行 市川市絵はがき

市川市役所発行
市川市絵はがき

この鳥瞰図には射撃場、東練兵場西練兵場が描かれている。つまり、この絵葉書は戦前に作られたもので、市川市発足が昭和9年11月なので、昭和9年11月~昭和20年8月の間に発行された絵葉書なのであろう。

昭和3年の松井天山、市川町鳥瞰図

7:鳥瞰図から読み解く市川 ~ 市川・浦安 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産
図は絵師・松井天山によって描かれた『千葉県市川町鳥瞰』を加工し、施設名などを記したもの。松井天山は1927(昭和2)年から1938(昭和13)年までの12年間で千葉県内27市町、29枚の鳥瞰図を描いており、市川町の鳥瞰図は1928(昭和3)...

これについては上記のページで周囲の状況が何となく分かる。野戦重砲第七連隊という文字が見えるが、陸軍射撃場は見えない。西練兵場らしきは見える。

野戦連隊への坂道

旅団司令部旅団坂の絵葉書

旅団司令部旅団坂の絵葉書

これは野戦連隊へのスロープの絵葉書だと思われる。市川市役所発行で、多分昭和9年~昭和20年の間に発行されたものだと思う。下のグーグル・マップは同場所を写している。

 

下矢切にあった国際射撃倶楽部の移転

松戸市の衛星都市化政策で、この矢切地区にも戦後たくさんの住宅が建ち始めた。水上勉も述べていたが屋根に散弾銃の破片が落ちてきたり、危ないことも多かったらしく、昭和38年には移転を余儀なくされた。その為、国際射撃クラブはその後八ヶ崎、沼南と移転し沼南国際射撃場となった様だ。

第一回目移転先:八ヶ崎の国際射撃場の位置

フルスクリーン表示

移転先は意外にも東京射撃倶楽部と国際射撃倶楽部はご近所で、当時の中和倉、八ヶ崎はまだ区画整理前で、田園風景の中で営業もしやすかったのだろうと思う。この国際射撃場があった場所は八ヶ崎の松戸市立八ヶ崎小学校の北東部にあたる場所です。現在の状況を見に行ってみましたが、住宅が密集していて、高低差はあるものの、その面影は見つけることが出来ませんでした。

第二回目移転先:沼南町の沼南国際射撃場の位置

フルスクリーン表示

この沼南国際射撃場は現在は千葉県立沼南高等学校の位置である。度々、表の家サイトでアドバイスやご意見をいただくうしとら様が調べていただきました。ありがとうございます。この場所には少なくとも昭和52年頃まではあったようです。ただ、付近の開発や県立高校が出来る事で、他所に転居せざるを得なくなったようです。ただ、この沼南の次はどこに移ったのか、それはまだ未調査です。

もしご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いいたします。

その他の情報

作曲家小杉太一郎さんと射撃(国際射撃場でのワンショット)

小杉太一郎さんが、射撃の名手で幻のオリンピック選手と言われていたそうです。その当時の写真がSalidaの下記のページにあります。馬橋国際射撃場と書かれているのが、八ヶ崎にあった頃の国際射撃場であると考えています。この情報はうしとら様から伺いました。貴重な情報ありがとうございます。

幻の東京五輪選手 小杉太一郎
幻の東京五輪選手 小杉太一郎

国際射撃場では

第2回千葉県射撃選手権大会開催が松戸国際射撃場で開催

-その他は調査中-

一般社団法人 日本クレー射撃協会は下記のリンク

JCSA 日本クレー射撃協会

クレー射撃トラップJCSA 4番セット

水上勉関連参考リンク

1955年(昭和30年) 新一年生 千葉県市川市立国府台小 - THE EYE FORGET
千葉県市川市立国府台小学校 昭和30年(1955年)4月、新一年生。 (写真を...
矢切と水上勉氏

最後に

これは2008年頃に昔日の松戸において東京射撃クラブ-南花島として投稿した記事に下矢切の国際射撃倶楽部の情報やその後の情報について加筆し、2022年2月に再掲載したものです。

松戸市にかつて存在した射撃場(南花島編)がありますので、そちらも御覧ください。

松戸市南花島にかつて存在した東京射撃倶楽部
終戦後米軍によって占領されると銃砲類禁止令が発令され、事実上銃砲は持てなくなったが、数年後には競技射撃に関しては緩和され、昭和30年代松戸市には身近な場所に少なくとも二つの射撃場が出来た。この章では南花島にあった射撃倶楽部について述べる。

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