松戸の残像

故稲葉八朗さん

稲葉さん 松戸の残像
2007年2月10日撮影
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松戸の残像-1

残像

UnsplashMag Poleが撮影した写真

以前”残像”と題されたホームページがあった。”残像”は松戸ロータリークラブの重鎮について思い出を認めていた短文集であった。これは関宿屋の先代社長であった故稲葉八朗さんによるものだった。初めてお会いしたのが2006年頃であったが、2020年12月に他界されてしまった。私としては生前にもっと色々なお話を聴き取りしておけば良かったと後悔している。

稲葉さんほど色々な人を知っていた訳ではないが、私が知る範囲で何人かについて、書いてみようかと思っている。これを私なりの、“松戸の残像”としたい。

古老が一人一人草葉の陰に・・・

古老

いらすとや
https://www.irasutoya.com/

私は当初定年退職後に何かホームページか本の様なものを残したいと考えていた。現役の間は仕事で忙しく、主に東南アジアや中国を飛び回っていたからだ。ところが、2000年頃帰国してみると、松戸が様変わりしている事に気が付いた。そして、何か聞こうにも古老が一人、また一人と草葉の陰にお隠れになっていった。

こりゃ引退してからじゃ遅いぞ!とにかく前倒しで始めなければいけないのではないか?と危機感を感じ、急遽、40代でこの表の家Web Siteを始めた訳だ。始めてみて、40代でも、遅かったと感じた。

さて、私が表の家を始めて最初の頃に出会った松戸の歴史を知る古老が故稲葉八朗さんで、駆け出しの若造の私に色々と教えて下さった我が恩師である。故稲葉八朗さんの作ったあの”残像”と題されたページを思い出し、敬意を表し故稲葉八朗さんから始めたい。

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神社の調査から

鎮守の杜

鎮守の杜

UnsplashSyuhei Inoueが撮影した写真

表の家Webページを2003年に開始後、そのコンテンツを充実させるため、ページとしての方向性を確立するため、竹ヶ花,小根本から松戸駅方面にかけての子供の頃からの遊び場やかつてテリトリーであった場所をまめに歩いていた。当初は、商店街の遍歴などを中心に書いていたが、それだけであるとネタも尽きる。さあ、どうしようか!

”東葛の348ヶ所 鎮守の森の樹木調査研究” に出会った

当時は樹木の名前を覚えたかった頃で、原点は実家の庭にある植物で母に教えてもらった。それで植物の基礎知識の一部が身についたと思う。

次に着目したのは通勤途中の住居の庭であり、金山神社だった。何故、住居や神社に注目したかというと、通勤途中にそれらはあり、ざっとではあるが毎日観察出来るからだった。もし、それが植物園で覚えようと思うと、どうしても土日祝祭日になってしまうので、間が空いてしまい忘れてしまうのだ。

やる気はあったのだが、今まで植物に対して殆ど知識の無かった人間が、図鑑片手に神社の境内に入ったからと言って、すぐ分かるほどこの世界は甘くはない。ある日、韓国居酒屋”かずちゃん”のママと市役所で遭遇し、話したら、「図鑑見ても分からないでしょ」と言われた。その通りだと思った。

途中で行き詰ったのは言うまでもないが、そんな私に救い船となったの本があった。それは自然通信社の田中利勝先生著による ”東葛の348ヶ所 鎮守の森の樹木調査研究” であった。

東葛の348ヶ所 鎮守の森の樹木調査研究(田中利勝) / 氷川書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」
A4判99頁 状態:良好 / 刊行年 : 2001 / 出版社 : 自然通信社

これには私の身近な神社である金山神社の樹木調査も含まれていた。この本を片手に何度も金山神社に通ったのは良い思い出である。ただ、この本は出版してから何年も経ていたので、本の内容と現在の姿とは、かなり変化があった事に気が付いた。とはいえ、田中先生による調査が入った場所を繰り返しおさらいして、見て回った。継続は力なりというが、非常に勉強になった。

あの本は、私の樹木への興味を駆り立てた、植物の知識の第一歩に近い状態になった。

神社の調査への第一歩

神社

UnsplashYusheng Dengが撮影した写真

”東葛の348ヶ所 鎮守の森の樹木調査研究”による勉強を通し、次第に掲載されていない神社の調査もしてみたくなった。実は港区の愛宕山神社のある愛宕山の樹木調査を始めたのだが、愛宕山は予想よりもかなり広くて、これは一人では無理だと思い始めた。もう少し小ぶりな神社を探さないといけない。そこで一日調査すれば、一定の樹木マップが書けそうな場所を探す事にした。

それが松戸市の松戸市立図書館本館の先にある平潟神社だった。

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平潟神社の調査

獅子

平潟神社狛犬 2009年1月2日撮影

さて、前章は故稲葉八朗さんの話題からは外れてしまった。申し訳ない。軌道修正しましょう。

さて、平潟神社の樹木調査は比較的短時間で済んだ。次に、あの平潟神社は過去の松戸市教育委員会による調査によれば、水神社(平潟神社)、三峯神社、秋葉神社、稲荷神社があった。これらの石造建築物についても調べた。同時にこの当時私は、本殿の向きや鳥居の向きなども調査していた。

松戸・平潟神社案内マップ:松戸駅西口
松戸駅最寄りの歓楽街・平潟にあった平潟神社(水神社)は色々な歴史的光景を見てきたに違いない。この平潟神社の樹木や石造建築物に関して、記録を残し、説明を加えたマップを作成。平潟神社に興味を持たれた方はこのマップを持って是非訪れてみて下さい。

平潟神社の秘密

松戸・平潟神社の不思議(方位について)
平潟神社は松戸市立図書館の比較的近い場所にある神社。その平潟神社のある平潟という土地は、ある時期、ある意味で非常に松戸の経済を潤したエリアだったとも言える場所。神社の境内のいくつかの石造建築物が物語る。その中で、社殿の向きについて考えてみた

本殿や鳥居の向きは特殊な事情がない限り、東向き(日の出方向)や西向き(伊勢神宮、富士山など)が多かった。ところが、平潟の水神社に行ってみると、北東の鬼門方向を向いていたので、不思議に感じた。色々と考えた末にこんな推論をしてみた。

つまり、平潟のエリアの北東から西にかけて、現在樋古根川が流れている。これは地元では、かつて排水川と呼び魚釣りのメッカだった。さらに江戸時代に遡ると、樋野口は二郷半領側(現在の三郷市側)にあり、江戸川が平潟に沿って流れていた(実は私が子供の頃(昭和40年代)までは埼玉側に樋野口と書かれた地名を見たことがあった)。

これが後に樋野口で蛇行していた江戸川のコースは直線に変わり現在のコースになったが、蛇行していた旧流路は言わば三日月湖の様になった。そこが現在の樋古根川なのだが、直線になる前の江戸時代に蛇行して平潟に沿って流れていた頃の地形を考えると、平潟は蛇行の突端であり、いかにも水難に遭いそうな土地であったと想像に難くない。

この事から、かつて何度も遭遇した水害に対する封印として本殿、鳥居が北東に向いていたのではないか?と推論し、表の家に載せた。これは、あくまで私の仮説に過ぎない事をご理解ください。ただ、故稲葉八朗さんはこの記事を読んで、面白いと思って下さったらしく、メールをいただき、お会いする事になった。これが八朗さんとのおつきあいの始まりだった。

故稲葉八朗さんは気さくな人だった

会ったその日から食事に誘ってくださった。

開進

開進 2007年撮影

とても気さくな方で、初めてお会いしたその日から、食事に誘ってくださった。一番最初は焼き鳥の開進だったろうか?大徳、サマンサ(坂川沿いにあった頃)、そして大抵最後はセシールだった。しかしながら無理をせず、午前0時になるときちっとお帰りになる。言ってみればシンデレラボーイであったと思う。

そして、そこからであれば近いので、ご自宅には歩いてお帰りになる。何時に帰ってきてもご飯を食べてから就寝されるというお話も聞いた。

色々な方を紹介してくださった

盃の会

2007年2月、盃の会にて、左からAさん、Sさん、Tさん、後ろに立つのが稲葉さん

良くお会いする様になってから、まもなく秋葉神社の祭礼であったか、御神酒所に寄付に行くと八朗さんが待ち構えていて、一人一人に私を紹介してくださった。岡田屋のムネさん、峰月さん、関時計店さん、鈴木時計屋さん、遠州屋薬局さん、雪和パン粉さん、ふじや質店さん、政治家関連では渡辺博道夫妻、東口の桜井さんなどであろうか?みなさん、総じて好意的に私を捉えてくださっていた。

又、平潟の中央司法会計研究所出身の方々(著者の奥田さんとはお会いしていない)、江戸組紐の中村正さん、大徳の女将、ひよしの御大、柳家千寿さん、数え上げるときりがない。この18年の間に鬼籍に入られた方も少なくない。そういえば、一度、東口の酒蔵で遠州屋薬局さん、八嶋さん、八朗さんと四人で話したことがあったなあ・・・

遠州屋さんはインテリで色々なことをご存じで、私などは恐縮し末席に座ることになる。しかしご本人と話し始めると気さくで野鳥撮影の好きないい人だね。江戸川で撮影していた頃は良くお会いした。今でも家の入口付近でお会いすることがある。

柳家千寿さんには厳しかった

柳家千寿さん

柳家千寿さん@日吉さん、2007年10月27日撮影

稲葉八朗さんは芸事に造詣が深い方で、例えば落語も好きだった。居酒屋ひよしの酔いどれ寄席で柳家千寿さんがメインに話したが、欠かさず聞きに行っていた。稲葉さんは、千寿さんにはえらく厳しくあたっていたので、飲みに行く先々で千寿さんを見つけるとお小言が始まる。こちらとしてはえらく恐縮してしまう。

ただ、千寿さんに厳しいのは稲葉さんだけではなく、ひよしの御大や岡田屋のムネさんも厳しく当たっていた。ただ、会えば千寿さんにご馳走してあげていた。それらの姿勢はあくまで「もっと芸の道を究めなさい」という叱咤激励の様に感じたものだった。

石造物調査後日談

石造物に関しては、自分の調査資料をいつか発表しようと思っていたが、松戸だけでもかなりの量があり、十年経ってもなかなか進行しなかった。2017年に松戸史跡マップ研究会による”松戸市石造遺産 ふるさと史跡を探訪”が発刊された事で、私の当初の方向は失ったが、手にしてみればとても良い本で、素晴らしい本が出来たものだと思った。

新東京病院に入院された時

さざなみ情話

さざなみ情話

稲葉八朗さんが新東京病院に入院されていた事があった。当時は我妻との時間を多くとっていた時期であったので若干稲葉さんとは縁遠くなっていたが、お見舞いに行く事にした。何を手土産にしようかと思い、私は乙川優三郎著の『さざなみ情話』を持参した。入院で暇をしているだろうし良いんじゃないかな?と思った。

この本を手渡したら、「俺は小説読まないんだよ・・・」という。私は「いやいや、この本は平潟遊郭を舞台にした歴史小説で、高瀬舟の船頭と遊女との切ないお話なんですよ・・・」と話したら目が輝いて、しっかり読んでくださった。

私の結納

寿司

yasutoshi kanamiによるPixabayからの画像

或る日、晩婚ではあったが、私は結婚する事になった。そして、本来結納は我々が嫁さんの家に行くべきところであったが、当時我が母の足が不自由になっていて、恐縮しつつも嫁さんのお母さんが上京してくださった。無事結納を済ませ、夜の食事は治平鮨で予約し、座敷で食事をした。

食事が始まり、食事の途中で女将さんのアイコ様が、恭しく鯛の酒蒸し(尾頭付き)を部屋に配膳した。私は頼んでいない料理だったので、お話をうかがった。どうやら、この日、稲葉八朗さんが板場に入り、調理を担当してくださった事を聞き、そして、「いつもごひいきにしていただいていますので」との事だった。
ありがたい事です。その節はありがとうございました。

私の結婚の際

ウエディングイベント

ウエディングイベント
2010年3月14日撮影

結納の後は結婚式である。どこで結婚式をしようかと妻と話していた。当初は富吉だろうかと思い、松戸の観光大使で市民劇団の座長であるルミルミさんに相談したら、戸定邸でウエディングイベントをやらないか?というありがたいお話をうかがった。話を聞いていくと、千葉県でちょうど観光キャンペーンをやろうという話が持ち上がっていたらしい。

千葉県と松戸市と合同でお祭り騒ぎをやろうという訳だ。そして松戸ではそれを戸定邸でやろうじゃないかと思っていた矢先、私の結婚話があったので、それでは山室さん、主役になりなさい・・・という事になった。お祭り騒ぎは戸定邸の庭で行われるのだが、披露宴は松雲亭でやることになった。

そこでルミルミさんにはおすすめのシェフも考えていらっしゃった様だったが、私は稲葉さんとの人間関係もあるし、やはり、松雲亭での披露宴は関宿屋さんで出来るか聞くべきじゃないか?筋を通した方が良いとルミルミさんからアドバイスいただいたので、お言葉に甘んじ、稲葉さんにご相談申し上げた。

話してみたら、残念なことに稲葉さんから「出張仕出しはやらないんだよ」と言われた。そして「うちの二階でやりなよ」というありがたい言葉もいただいたのだが、ウエディングイベントの予定がきっちり決まっていた関係で、結局は松雲亭で別のシェフを呼び、披露宴をやる事になった。
このウエディングイベントは2010年3月14日に行われたが、当時の松戸市長であった川井敏久さんを始め、教育長や、観光協会会長、さらには森田健作知事もきて、大きなイベントになった。311の前年であり、もしウエディングイベントが一年後であったら、先ず中止になっていただろう・・・

八朗さんの動画

言葉だけではイメージが分からない方にどなたかが、youtubeにアップロードしていた動画をご紹介したい。次の動画である。

最後に

稲葉八朗さんは、2020年12月に他界された。思えば松戸の重鎮を一人一人、紹介していただいたし、一緒に盃を傾けながら、松戸の歴史について語った。心から哀悼をささげたい。合掌!

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