松戸行脚

平潟神社の不思議(方位について)

平潟神社松戸行脚
平潟神社
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松戸市の平潟神社

松戸駅西口を江戸川方面に歩き一平橋を渡り暫く歩くと江戸川の堤防の手前右側に平潟神社がある。この平潟神社に何度か通ううちにある疑問を持った。それは方位。神社本殿は通常南又は東に向いているのが一般的だと思う。ところが在松戸の神社を調べると東が案外少なく、南と西を結ぶ円弧方向に社殿が向いている場合が多いようだ。

松戸神社本殿、岩瀬の胡録神社、松戸新田の神明神社、栗山&小金上総町の日枝神社、樋野口&横須賀の女体神社他は南西つまり裏鬼門に向いている。その逆に紙敷の胡録神社、平潟の平潟神社は表鬼門である北東に向いている。六実の六実稲荷のように北向きの本殿もある。

そこで北西、つまり表鬼門に向いている平潟神社にスポットを当てる。考えられる理由の内「これは?」と思われる仮説について書いてみる。配置したのは何百年前の事であろうし、真実がどうなのかさっぱり分からないというのが正直なところだが……

北東の裏鬼門に向いている平潟神社

下の図はuMap(OpenStreetMap)のマイマップ機能を使い、簡単に趣旨を説明したものである。

マップを画面にいっぱいでご覧になりたい場合はフルスクリーン表示をクリックしてください。

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北東を何故向いているのか?

松戸宿の分間延絵図

文化年間(1806~17年)幕府が製作した松戸宿の分間延絵図

仮説:水難への封印では?

平潟神社隣地の来迎寺は1609(慶長十四)年創建とされている。当時はまだ江戸川が上図の青い点線を流れており左上の樋野口は埼玉側にあった。ここに平潟河岸と若干北東に本多河岸があったと聞く。平潟神社は元々水神社として来迎寺の鎮守としてあった説がある(後に神仏分離以降平潟神社として独立、それ以前は来迎寺の境内に水神社があったことになる)。

平潟と樋野口の関係

この水神社(現平潟神社)がいつ作られた物なのかは現在まだ調査中で分からないが、文化年間(1806~17年)幕府が製作した松戸宿の分間延絵図には来迎寺及び水神社の記述がある。1688(元禄元)年7月江戸川が氾濫し樋野口の堤防が決壊したらしい。これに関わらず江戸川の水難は大変多かったようだ。

後の1716(享保元)年、江戸川直線化工事により平潟河岸・本田河岸が陸地内に入り河岸としての役目を終わる。その後河岸は隣の新たな納屋河岸に移っていった。

北東は「川の氾濫の方向」だったからではないか?

さて、ここで考えられる事は意識的な平潟神社社殿の方向付けである。北東つまり「表鬼門」の方向は旧江戸川の水が流れてくる上流方向であり、災厄の多い上流方向にわざわざ向けたのではないか?と考えたわけだ。水害が多かったこの地域、然し物流の中心であり経済的には豊かであったと考えられるこの地域に来迎寺が創建され、その鎮守として水神社(現平潟神社)を建てて、しかも水難の発生する方向に向けて立てて封印していたのではないだろうか?と考えたわけだ。となるとこの向きはこれは「魔除け」という事になる。

先述したように松戸のその他の神社に裏鬼門が依然として多い。南西は「台風のやってくる方向」、北東は「川の氾濫の方向」とでもいう事だったのか……?どうもこの辺が良く分からない。

平潟神社の事

平潟神社祭神は水神様の「罔象波乃売命」(みづはのめのみこと)と言い伝えられる(或いは「水波之女命」という書き方もある)。佐藤忠徳著「古代日本人の方位信仰と神社」は奈良県の神社の方位他を非常に細かく調査した本。この中で水神である「罔象波乃売命」(みづはのめのみこと)は奈良県では統計上南向きが多いらしい。

佐藤忠徳氏は「水の神である罔象波乃売命は山地谷合いの地に祀られていることが多く、その元宮と思われる丹生川上神社は上中下社共に南西向きである。この南西向きに何らかの意味があるのではないかと考えている」ただし、出雲大社のように神社本殿は南向きでも神座は西を向いている場合もある。平潟神社の場合神座がどちらを向いているかは調査する必要があるだろう。

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終わりに

この平潟神社の秘密は2006年頃作成した松戸行脚の投稿の一つだった。今から読み返してみると、随分と幼い事を書いていたなあ・・・と思うのだが、これを書いたことで、2007年の1月頃、実は松戸本町のある中心人物とお知り合いになる事が出来た。それ以来、たくさんの場所に連れて行っていただき、たくさんの人を紹介していただいた。

その頃から、表の家の方向性が少し変ったような気がする。その方は2000年末に鬼籍に入られてしまった。改めて哀悼の意を評したい。

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