昔日の松戸昭和の松戸を歩く松戸行脚

昭和の頃の松戸根本商店街(金山神社参道から根本交差点まで)を歩く

八百伊 昭和の松戸を歩く
八百伊さん、2021年8月29日撮影
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旧水戸街道(松戸市根本地区)は活気のある商店街だった

これは、前作「松戸市竹ヶ花&根本の商店街(竹ケ花踏切以西、金山神社参道まで)を歩く」の続編で、金山神社参道から根本交差点までの商店街をあげて制作したものです。

1961年-1969年頃までの旧水戸街道、松戸市根本地区

上の航空写真は国土地理院による1961年-1969年頃の旧水戸街道周りの航空写真です。写真右中央にこんもりとした森が見えますが、これは金山神社。今回はこの金山神社参道から根本の交差点までの商店にスポットをあて、記述していきたいと思います。

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松戸市根本の商店(金山神社参道から根本交差点まで)

では、どんな商店があったのか見てみよう。広いエリアを対象にすると大変なので、金山神社参道から根本の交差点までを対象に調べてみた。

下記は1960年代から70年代にあった商店・飲食店のプロット。uMap(OpenStreetMapのマイマップ)に落とし込んでみた。赤いアイコンは現存しているお店、黒はすでに無いお店。街道筋の踏切から市場あたりまで調べてみただけでこんなに商店があった事になる。現状のこの界隈の状況を考えると不思議な感じがするが、私が小中学生くらいまではいかに地域と個人商店が密接ににつながっていたのかわかるのではないかと思う。

金山神社参道から根本交差点までにあった店舗

このマップはuMap(OpenStreetMapのマイマップ機能です)に昭和37年頃から40年代にかけてのお店をプロットしたものです。

画面いっぱいにご覧になりたい方はフルスクリーン表示をクリックして下さい。

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金山神社参道から根本交差点まで(旧水戸街道北西側)店舗リスト

  • 美寿可そば屋
  • 小鳥餌屋
  • 宇田川呉服店(たばこ屋)
  • 栗山米店
  • 相馬質屋
  • 八百伊(鈴木八百屋)
  • 豊田商店(デイリーマート→アワーズ→マンション)
  • 松藤湯
  • 井澤ふとん
  • 大東建築
  • 東都開発
  • 渡辺新聞店
  • 川井建具店→百田or木材店
  • 菓子本城屋
  • 岩勢屋酒店→小倉表具店
  • 松橋鉄工
  • 金子鞍屋→押田家畜病院→マス・ヤマモト
  • 鈴木煎餅→クリーニング屋
  • やの中(荒物雑貨→燃料→電気工事)
  • パール理髪
  • 喜楽、桜井飲食店
  • 篠田商店(菓子パン)
  • 高橋豆腐店(浜松屋)
  • 伊藤歯科
  • 岡本医院

金山神社参道から根本交差点まで(旧水戸街道南東側)店舗リスト

  • くらや履物店(相沢)
  • 木崎たばこ店
  • 松戸米穀根本販売所
  • 安沢理容
  • 押田写真
  • 細谷揚げ物
  • 八百浪
  • 渡辺種苗店
  • 魚力商店
  • 博文堂
  • 東ずし
  • 山室肉屋
  • 千葉県酒類販売株式会社
  • 関口薬局
  • 関金網店
  • 岩間風呂店
  • 川友自転車
  • 雪和食品株式会社

根本山吉祥寺の北側

  • カネコヤ種苗ビニールハウス
  • 内山医院
  • 市岡(納豆製造)
  • 根本保育園

金山神社参道から根本交差点まで(旧水戸街道北西側)店舗説明

八百春→美寿可そば屋

美寿可

美寿可 2001年10月7日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「八百春・・・妻が水賀そば屋をやり、戦後もそば屋一本でそば美寿可。健在」となっている。元々は八百屋だったわけだ。

根本商栄会に長く営業を続けていた美寿可そば屋さんは、2012年頃?についに店をたたんでしまった。暫く、お店を開けていなかったが、その後建物を壊してしまった。根本の清水講山開きの日にお会いした根本商栄会の某重鎮と話していたときに「どうやら売ってしまうらしいよ。残念だね・・・」と語っていた。

美寿可そば屋さんのご主人のご兄弟、確かお兄さんが営業されていたと思う。弟さんは暖簾分けして旧水戸街道と国道六号線の交差点付近でそば屋を運営していたと思ったが、現在もお店を運営されているのかは分からない。また金山神社の階段の欄干に嶌根春蔵の名前が刻まれている。これは美寿可さんの先代の事で当時は清水講にも入っていたらしい。

タイミング的に美寿可さんの目の前にマンションの現場が完成した頃に廃業した。現場の職人の利用で潤ったのではないか?と考えがちだが、どうやら最近の職人さんは高度成長、バブルの頃と違って、経済的にお堅いらしく、弁当持ちで来る人も多いと聞く。難しい世の中になったものだなあ・・・

昭和30-40年代、常磐線の複々線が開通する前は竹ヶ花の跨線橋の所には踏切があって、この旧水戸街道沿いは人の往来も多く商店街も流行っていた。当時、美寿可さんは丼物の盛りが良い(多い)と評判で、タクシーの運転手が良く利用していたのを覚えている。それにしても、根本商栄会は本当に寂しくなってきた。何か打つ手は無いものか?

現在はセブンイレブンが建設されている。

小鳥餌屋

不明、何かご存知の方はアドバイスお願いいたします。

宇田川呉服店(たばこ店)

宇田川呉服店

宇田川呉服店 2001年10月7日撮影

右側の茶色の建物。呉服店であった頃は記憶がない。物心ついた頃からすでにたばこ屋だったと思う。

栗山米店、相馬質店(→日商開発→現存せず)

お米

ally jによるPixabayからの画像

上の宇田川呉服店の左側の日商開発と書かれた辺りがそれにあたる。相馬質店さんの姓を調べたら、実は栗山さんで、米屋さんと質店さんは親族で経営していたのかもしれない。50年ほど前に根本山吉祥寺近くに住み他界したTさんによれば、この相馬質店に300円で購入したズボンを持っていったら、800円で質入れしてくれた。味をしめて、再び300円のズボンを持っていったらバレて怒られたとのエピソードを聞いたことがあった。

ビデオシティ

ビデオシティ

ビデオシティ 2001年頃撮影

上の栗山米店と相馬質店の店舗がどのくらい間口があったのかよくわからないが、日商開発と八百伊の間には一つマンションが建設されている。この一階にはビデオシティというレンタルビデオ屋さんが出来ていた時期がある。1980年前後だろうか?

ビデオが一般家庭にも普及をしたのは?ベータ vs VHSの戦いも盛んで、ビデオショップに行っても両方のタイプのビデオがあった。根本にビデオシティが出来たのもそんな当時だったように思う。最初は同じ根本の水戸街道沿い「よし寿司」の右隣に彗星の如く突然現れオープン。

お客さんで溢れていた。ビデオの普及と共にビデオを扱う数量が増え、音楽CDを扱う必要が出て、手狭になったのか、現在のオステリアタナロのビルに移動。派手なネオンが印象的だった。あれから二十数年、ドル箱だと思っていたあの商売も需要の変化か、ネットの映画配信の影響か分からないが、2006年、ついに閉店してしまった。

香港に赴任する数年前よりすでにあまり行かなくなったお店であるが、これで根本商店街の灯りが一つ減ると思うと寂しい。その後、中古品を扱う店が出来、廃業し、2015年からオステリア・タナロというイタリアンレストランが出来ている。

八百伊(鈴木八百屋)

八百伊

八百伊2001年10月7日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「・・・この年(1990年頃)金子の隣より田久保蹄鉄屋跡へ来る。現在裏に在住」となっている。

実は八百伊さんが営業していた頃の記憶が何故かない。ただ、金山神社の祭礼の時は御神酒所に使われたり、正月の初参り客の為の餅を作っていたりする。選挙事務所にも使われたことがあった。根本で街道沿いらしい二葉屋さんの建物が無くなってからは、残るはこの八百伊さんの建物だけ・・・という感じだろうか?

建物左側は手前にアオギリの木、少し奥にこの付近では珍しいハグマノキ(スモークツリー)があり、夏みかんの木もあるようだ。また、春になるとハゴロモジャスミンが生い茂る。

豊田商店

天ぷら

likesilktoによるPixabayからの画像

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「いさば屋豊田商店は乾魚・塩魚の他はんぺん・薩摩揚げ等製造販売。こうした店を五十集屋(いさばや)という。今はない」となっている。我が地元民はこの豊田商店を通称”おばけ屋”とよんでいた。金山神社参道付近にある市岡さんの納豆工場で作られた玉子納豆はこの豊田商店で売っていた。1975-6年頃までは豊田商店はあった。1977年頃一旦更地になって、1980-1年頃にデイリーマートが出来た。

この当時はまだ、デイリーマート(豊田商店)だったと思う。豊田商店の息子さん(細身でアフロヘアだったと思う)がコンビニを初めたんだと思っていた。その後、1983~4年にアワーズになった。このアワーズの頃、あの豊田商店の息子さんは居なかったように思う。1987年、1988年頃は更地で建物がなく、1991年頃には朝日松戸プラザというマンションが竣工現在に至る。

度々ご意見を下さったミスターTさんが、このアワーズについて書いていらっしゃった「それ以前のコンビニは道路の向いにあった”アワーズ”。私はアワーズ派だったので、アワーズが無くなるまでは根本のセブンイレブンに入ったこともなかった。松戸駅から帰るまでの間にコンビニがないと困るので、この場所に早く次の店が出来ることを望んでいる」ミスターTさん、ありがとう。

おばけ屋のいわれ

それにしても、豊田商店は何故「おばけ屋」と呼ばれていたか?

これには二つ説がありどれが正しいかよく分からない。

一つは常磐線の線路で人身事故があった事からお化けが豊田商店付近に出たというもの。昭和三〇~四〇年年代に複々線(現在の千代田線の事)を敷く為に線路敷地の拡張が行われたが拡張前は竹ヶ花の元踏切から松戸駅までの間にはたくさんの無人踏切があった。これらの無人踏切の多くは遮断器も無く、☓印だけの簡易な踏切だった。金山神社付近の夜は暗い。現在でもあれだけ暗いのだから、当時踏切付近も含めもっと暗かったに違いない。事故があっても不思議は無かったと思う。

もう一つの説は私の曾祖母から伝え聞く話で相当古い話。豊田商店のさらに松戸駅よりに東葛家具センターがあった。今はすでに取り壊されマンションが建っている。あの土地に罪人の斬首場があったそうだ。豊田商店と八百伊の間の小道に馬繋ぎ場があり、そこに罪人を運んできた馬を繋ぐ。そういう場所だったそうだ。そんな事から人魂(ひとだま)を始め、お化けが豊田商店付近に出たという人が現れ、それから豊田商店がおばけ屋になったというお話である。多分江戸時代の頃の話かもしれない。

松藤湯→オークハイツ松戸(パスカル)

松藤湯は住宅地図を確認していくと1988年にはまだ存在していたようだ。その後更地になり、1992年にオークハイツ松戸というマンションが出来た。オークハイツ松戸の一階にはパスカルというマッキントッシュ専門店が出来ていた。

パスカル

パスカル

パスカル 2001年10月撮影

松戸市根本のオークハイツの一階にアップル社(マッキントッシュ等)製品を主に扱っていた革新的なお店があった。名前は「パスカル」ここの社長が安藤正人さんと言って、人並み外れてマッキントッシュ関連の情報に詳しかった。一九九九年当時同社のホームページでアンディーマックとカウントマックの短文を掲載。

この短文からアップル社の考え方や動きが伺うことが出来た。私はアンディーマックの正体が安藤さんじゃないかと思っていたが、安藤さんに聞くと否定していた。安藤さんは「本人を知っている」と言っていたが本人そのものじゃないのか?

それはともかくこのお店に行くと事務をとっていた女性(青山さんだったかな?)がブレンドコーヒーを立ててくれる。ありがたくて、どうしても長居になってしまう。面白い店だったなあ・・・

今では信じられないが、マック以外のパソコンはWindows95が発売される以前、画面は文字画面で操作するというのが当たり前だった。

それに比べてマッキントッシュは一九八三年にGUIと呼ばれるグラフィックな画面でパソコンを操作する製品を市場に発表した。(GUI:グラフィック・ユーザー・インターフェース)勿論これはゼロックス社に属するPARCで開発された技術を利用した物であった……その後、アップル社は次々にGUIによる製品を発表した。

iPhone

Jan VašekによるPixabayからの画像

GUIによって操作できるというのは全く先進的な考えであって、ファンも非常に多かった。ただ、当時マッキントッシュは高価だった。貧乏人の私には変えない代物だったのだ。それが今や随分やすくなり又、iPODiPHONEといった製品も大ブレークしている。パスカルに話が戻る。

この店は当初「マーボーブー」という社名だった。私が1991年にイスタンブールから帰国した当時の話だ。ところが、当時秋葉原に「マ○ポー○ャ」という某教団の営業していたパソコンショップがあった。「マーボーブー」「マ○ポー○ャ」名前のニュアンスそっくりで当時はどっちがどっちなのか勘違いした。

まさか松戸にもあれがあるのかと思った事もあった。これらは勿論は全く別の会社だったが、紛らわしい名前と感じたのは安藤さんも同じだったらしい。久しぶりに松戸に戻ったときは「パスカル」という店名に変わっていた。その後、私はマッキントッシュユーザーになった。直後香港に赴任してしまい、松戸の事情が分からなくなった。

然し、二〇〇一年、シャッターが閉まったままのお店になってしまった。同時に「パスカル」のホームページも見られなくなってしまった。同社が扱っていた製品、パスカルライト(ワープロソフト)、マリーナJ(表計算ソフト)は別の会社の管轄になってしまった。松戸の根本にあって、あんなに斬新的な製品を置く店、マック派の私にとっては神様みたいな存在のあの店が無くなってしまった事を私は非常に残念に思う。

また、数年して同ビルの地下階にあったModEというファッション画用の素材集を販売していたお店も行方が分からなくなった。

井澤ふとん

井澤ふとん

井澤ふとん 2001年10月7日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「井澤ふとん屋は通称夜具屋。健在」となっている。井澤ふとん屋さんのこの建物はつい最近まで残っていた。2020年の夏前後、店舗をおやめになったようで、住宅として建て替えていらっしゃる。

大東建築、東都開発、渡辺新聞店(→家具のトーカツ松戸店)

大東、東都に関しては良くわからない。なにか情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いします。ただ、渡辺新聞店は現在旧水戸街道沿いで角町方面に向かうと鳥海米店があり、その先に渡辺新聞店があります。又、小山の浅間神社の所にも渡辺新聞があったと思った。

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では井澤ふとんに続くこのエリアについて「空地は元の馬のつなぎ場→明正堂薬局は斎藤姓。戦後郵便局。今は居ない→しもたやは色々変った。今は倉庫→

家具のトーカツ松戸店

家具のトーカツ松戸店
2001年10月07日撮影

ただ、昭和40年代前半だと思うが、これらの区画の場所に家具のトーカツ松戸店が出来た。現在この地は新しいマンションが建設されている。

川井建具店→百田(or木材店)、菓子本城屋

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によれば、ここは川井建具だったようだ。権利関係が変ったのか、後に百田さんになったようだが、これは百田建具屋さんだと思う。百田建具店さんは金山神社の清水講の階段手すり子にもその名が刻まれている。この菓子本城屋というのは良くわからない。ご存知の方はアドバイスお願いします。

岩勢屋酒店→小倉表具店

襖

フリー素材.comからの画像です。
https://free-materials.com/

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によると「岩勢屋酒店は・・・戦後表具店。現住」となっている。小倉表具屋さんは襖などのお店だったと思う。私が子供の頃通っていた根本保育園の先生だった川村先生が、この小倉建具屋さんで立ち話をしていたのを見かけたことがあった。

松橋鉄工

鉄骨

Foundry CoによるPixabayからの画像

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によると「裏で鉄工場経営。今はいない」となっている。

金子鞍屋→押田家畜病院→本屋さん→プロショップ”マスヤマモト”

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によると「金子鞍屋さんは荷鞍屋とも言われた」となっている。その後の病院にはあまり記憶がない。ただ、旧金ケ作陣屋道に以前押田医院があった、区画整理後、ダイエーが出来たが、その頃もダイエー前に押田医院はあった。その押田医院とのご関係があるのかないのか、良くわからない。

又、安沢理容さんの横にも押田写真店があった。ありふれた名前ではないので、何らかの関連があるのかもしれません。良く分かりません。ミスターTによると実はその後、本屋さんが出来たらしい。しかし短期間だったらしく、すぐ廃業されたようだ。私も記憶がない。激レアな情報だそうだ。ミスターTさん情報ありがとう。

現在はマスヤマモトというゴルフのプロショップが営業されている。

ゴルフクラブ修理はプロショップ マス、ヤマモト|増、山本商会
千葉県我孫子市のゴルフクラブの修理・調整専門店プロショップ マス、ヤマモト(株式会社増、山本商会)では、ゴルフクラブの修理・調整、グリップ交換、リシャフトなど対応いたします。柏市・松戸市・流山市など近隣の方には出張相談も承ります。

ただ、その後、この場所にも変化があり、2022年2月にマスヤマモトさんは我孫子にお店を移動した。2022年3月11日現在この元マスヤマモトさんのお店は解体中である。

元マスヤマモト解体

元マスヤマモト解体中
2022年3月11日撮影

 

鈴木せんべい屋→クリーニング店

私が物心ついた頃はせんべい屋さんがここにあった。

やの中

やの中電器

やの中電器20011007撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌に従えば、やの中は肥料・雑貨商→燃料商→電機工事業→駐車場となっている。

高木木賃宿→パール理髪、喜楽、桜井飲食店、篠田商店(菓子パン)

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によると「高木木賃宿は今はない」となっている。その後出来たこれらのお店については良くわからない。ご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いします。

高橋豆腐店(浜松屋)

高橋豆腐 20011007

高橋豆腐 2001年10月7日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌によると「浜松屋豆腐店は川光と同じ頃浜松より来た老舗。健在」となっている。左の白い建物がそれ、上はアパートになっていた。その右の古い家屋は元々が高木木賃宿だったのだろうか?311の時に罹災して、屋根が落ちてしばらくビニールシートを貼っていたが、3-4年前だったか、隣の浜松屋豆腐店と一緒に建て替えをして一棟のマンションになっている。

また、高橋豆腐店(浜松屋)は市役所前の奈良屋さんが、「ショッピングセンターときわ」だった頃、テナントとして入っていたらしい。

伊藤歯科、岡本医院

伊藤歯科は分からず、岡本医院は確か耳鼻咽喉科だったと思う。風を引いて鼻水がとまらないと、この岡本にいき、「あー!」と言いなさいと言われ、鼻から水を流され、口から鼻水と共に流れ出てくる。非常に痛くていやな治療だった。今は無い。

その後、岡本医院は北部小近くの一本橋付近に移ったらしい。

金山神社参道から根本交差点まで(旧水戸街道南東側)店舗説明

相沢鞍屋

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「相沢鞍屋は荷鞍屋とも。戦後は駄菓子屋。いない」となっている。ただ、1962(昭和37)年発行の松戸市全住宅案内地図帳では、履物屋と書かれている。

木崎たばこ店ー松戸米穀根本販売所

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「清水屋木崎足袋屋はたばこ屋も、戦後荒物雑貨店、いない」とある。1962(昭和37)年に制作された商店街マップでは松戸米穀根本販売所と書かれている。木崎さんの店舗は、相沢さんの裏側にも家作があったようで、色々と商売が変遷されたのかもしれない。

矢野靴屋

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「矢野靴屋はいない」と書かれている。ただ、1962(昭和37)年発行の松戸市全住宅案内地図帳では、木崎さんと次の安沢理容さんの間には細い道があって、安沢理容さんの裏に矢野と書かれた家が確認出来る。

安沢理容

理容

kalhhによるPixabayからの画像

この表の家に度々資料提供してくださり、ご意見も書いて下さる元竹ケ花に在住されていたO様によれば「古い店内でしたが。安沢さんのお子さんとは北部小一年生の時同級生でした」との事で、O様のお母様と安沢理容さんの奥様は良く八百浪で立ち話をした・・・とのエピソードをいただきました。ありがとうございます。

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「安沢床屋はいない」と書かれている。

下駄屋、空地、空地の後ろの稲葉→押田写真

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「下駄屋は調べても名が不明。いない。空地後ろの稲葉もいない」となっている。ただ、1962(昭和37)年発行の松戸市全住宅案内地図帳では、前者が押田、後者が内田になっている。多分この土地が後の押田写真になったのではないか?

細谷揚げ物

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「細谷石屋はいない」となっている。どうやら揚げ物屋の前は石屋さんだったようだ。私が小学生の頃は揚げ物屋だった。

コンビニは生活必需品、飲み物、食事、雑誌、映画など大抵の商品は手に入る。昔からある小売商店を大切にしたい気持ちと同時に、コンビニは我々の生活に密着し離れられなくなっている。こんなに便利なコンビニが松戸に全く存在していなかった昭和四十年代、お腹がすくとコロッケ屋さんに立ち寄った。

とんかつ・ほそやさんは旧水戸街道沿いで金山神社参道入口から数軒駅よりにあった。間口が一間程度の小さなお店で、緑色デコラ張りの受け渡しカウンター。まだ背の低かった私の首くらいの高さだった。カウンターを向かって右側ガラスの保温陳列棚の中に揚げたコロッケやその他のフライが入っ
ている。

コロッケもフライも子供のお小遣いで買える手頃な値段だった。ジャガイモのフライが5円で3個だったと思う。現在の様なファーストフード店なんてものは松戸の街には一切無い時代で、子供がコロッケ屋に通う光景は極当たり前の事だったと思う。冬、寒い時期そろばん塾に通う途中で立ち寄る。

知人から「そろばん塾に通う途中、コロッケ屋に寄ったのは松戸に限ったことではないよ」と言わ
れた。寒い日に経木に包んだコロッケやフライを手にするととても暖かくなった。ああ、経木で無くて単なる紙だったかもしれない。

高橋玉子屋

裏で養鶏をして表で玉子を売っていたらしい。確か今はマンションになっている。ラフィーヌ・プレミエだったか?

八百浪

八百浪

八百浪
2005年11月撮影

冬になると必ずイメージするもの……それは柑橘類。中国や香港などでは旧正月(チャイニーズニューイヤー)では砂糖蜜柑の木を街の至る所にディスプレイしているのを見かける。金山神社の付近の近所のKaさん宅、会計事務所のKiさんの庭木に夏みかんらしき木、古ヶ崎浄水場にユズの木、根本の大先輩N氏宅にはキンカンがある。

松戸市根本の伊沢布団店の対面に八百浪さんがあった。根本の商店街の中でも活気のあるお店の一つ、太って丸顔のおばさん、長男のカズちゃん、次男のミサちゃんなどなど商売熱心だった。私が店頭にあったキンカンが実に美味しそうで欲しくて欲しくていただいてしまい、親からイヤという程叱られたことがある。

ただ、食べるみるとそんなに美味しいものではなかったのだけれど……そんな悪ガキだったに関わらず八百浪のおばさんからはいつも笑顔だった。八百浪のおばさんも次男のミサちゃんも今は亡き人。長男のカズちゃんは地元でも有名なサユリスト(吉永小百合ファンを当時こう呼んだ)で勿論ファンクラブにも入っていたと聞く。

吉永小百合は美人の代名詞だった。シャープの液晶テレビのコマーシャルに今でも出ているが、あの方は年齢を全く感じないほどいまだに美人。現在八百浪さんは店舗販売ではなく、東口某病院への直販などをしているらしい。

渡辺種苗店

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「昭和9年頃は渡辺農園はタネ屋。現渡辺種苗健在」となっている。

魚力商店

魚力

渡辺種苗店(左)と魚力商店(右)2001年9月30日撮影

根本の商店街でもっとも活気ある商店の一つだと思う。昭和40年代までは大きなスーパーも少なかったので、魚力さんの様なお店が主婦の料理の先生代わりになったものだ。店の奥には刺し身ブースがあり、そこで生魚の処理をしていた。昭和31年代の市勢要覧を見ると店主はT利吉とある。仮に利吉をりきちと読んだとすれば、そこから魚力の力(りき)に繋がる。

利吉さんの時代はあまり良く覚えていないが、利夫さん(二代目?)は私も覚えている。何となくアラファト議長に少し似の美男子だった。勿論利夫さんの方は色白でもっともっといい男でしたけど・・・変な喩えをしてごめんなさい。また、魚力さんは奉公を受け入れるほど忙しかったお店であった。

上野で売っている新巻き鮭を見てきた人が利夫さんに曰く「アメ横では安いのに・・・」、それに対して利夫さん曰く「アメ横で売っている鮭と一緒にしないでくれよ」だそうだ。魚力で売っていた魚は間違いなかった。良い魚ばかり売っていた印象、記憶がある。ただ、品質がしっかりしている分、当然ながら少し高めだったとは思う。

利夫さんの奥様は確か東北ご出身で上京して働いていたら利夫さんに見初められたという様な話を聞いたことがある。同時にお酒もお好きで、阿比留で飲んでいる姿をお見かけしたこともある。ただ、いつだったか、交通事故で他界されたというお話をうかがった。寂しい事だ。そういえば、魚力さんが廃業したのは1990年代だったと思うが、廃業直前に「お節料理作ります」という広告がわが実家のポストにポスティングされていたっけ・・・

博文堂

博文堂については分からない。現在同地にはハクホウドウという印刷関係のお店がある。関連があるのかどうかは不明。

ジーンズファースト

根本の魚力と山室肉店の間にジーンズ・ファーストというお店があった。私はまだ二十歳代後半。ジーパンと言えば必ずここで買っていた。店主は歳にして四十歳代後半、髪の毛は洗いざらし、醤油顔、手入れ不足のヒゲ、服装はウエスタン調といういでたち。近寄りがたい強くて細い目をしていたが、話せば概ね人が良さそうな人だった。

安物のセール品ばかり手を出していた私は勢いで二着ほど買わざるをえなくなってしまう事もあった。ただ、この店はいつ通りかかっても人気が無く、果たしてこのままやっていけるのだろうか?と心配の種でもあった。ある日、この店は転居した。転居先は松戸駅の方向だったと思うが、正確な場所はすっかり忘れてしまった。

その後私はスリランカに常駐し、帰国以降はこのジーンズ・ファーストの行方はさっぱり分からなくなってしまった。

東ずし

この寿司屋さんについては全く記憶がないが、何かご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いいたします。

博文堂、東ずしの裏の木造平屋の建物→駐車場

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌ではどうやら「・・・駅前の小泉歯科医院のお婆さんが住み、何人もの松戸へきた宮様が泊まっている」となっている。その建物が、このここで述べている木造家屋なのかどうかは分からない。ただ、私がこの建物を知った時にはすでに廃屋で、誰も住んでいなかった。2018年10月末解体され、現在は更地、駐車場になっている。そういった歴史があったのであれば、しっかりと管理して、保存する事も出来たのだろうけれど、残念である。

山室肉屋

このお肉屋さんは私は一度しか入ったことがなかった。

買ったのはチャーシューだった。このチャーシューは自分がイメージする、もっともチャーシューらしいチャーシューで、とても美味しいものだった。多分あれはバラ肉のチャーシューだったと思う。これを蝋が塗ってある包み紙で包んで、もう一度紙で巻き直していただく。今現在、スーパーなどに行って買っても、肩バラ肉で作られたものなのか、あの山室肉屋で購入して食べたチャーシューにはかなわない。いつか食べたいなあ・・・

千葉県酒類販売株式会社

この会社は所謂千葉県内の酒の卸をしている会社で、私が小さい頃に松戸支店がここにあった。当時房総白浜出身の知り合いのお兄さんがここに務めていた。それで、会社の前まで見に行ったことがあった。その後、1970年前後だったか、南花島の新京成電鉄の線路と国道6号線が交差するエリアに移動した。

南花島の敷地内には一升瓶の空き瓶がたくさん積まれていた。一升瓶の蓋遊びが流行っていたので、宝島のような場所だわ・・・と思ったものだ。千葉県酒類販売株式会社のホームページをご参照下さい。現在は松戸には営業所は無いようだ。

関口薬局

関口薬局

関口薬局 2001年9月30日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「関口薬舗は江戸期以来の薬種業の旧家で現関口薬局、健在」となっている。2021年現在はシャッターがしまったままで、薬局は廃業されているようだ。2階に歯医者は健在。関口薬局は金山神社の清水講石碑の記録を見ると、清水講開講に重要な位置をしめる人だったようである。

関たばこ屋→関金網店

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「関たばこ屋は警察で剣道を指導。戦後は金網屋。今はいない」となっている。この店舗は隣の中銀松戸まんしおんが建設される時に移動されたのかもしれない。

岩間桶屋→岩間風呂店

岩間風呂店

岩間風呂店2021年9月30日撮影

渡辺幸三郎先生の昭和の松戸誌では「岩間桶屋は今は風呂屋として風呂の一式を取り扱う。健在。新松戸にも出店」となっている。

中銀マンシオンの一階に入って久しい店舗だった。岩間風呂店の店主は根本保育園に通っていた1~2年先輩で、よく見かけた。2018年頃だったか、内装を変えていらっしゃった。出来上がったらモダンな感じになっていたと思う。ところが、改装して半年もしないうちに、その先輩だった店主が他界されたらしい。

それから暫く、せっかく新しくなったお店は閉じたままになっていたが、2020年頃だったか、根本の中村床屋さんがこの店舗に越してきて、2021年現在理容店として営業。なお、元中村床屋さんだった所は2021年現在マンション建築中。

川友自転車

根本の商店街 アーバンヒル松戸周辺で述べているが、川友自転車があったこの場所は、昭和39年前後だったと思うが、権利関係が変わり東葛信用組合他が入った東信ビルになった(松戸駅東口のメガネ屋さんが入っている三角ビルも確か東信ビルだった)。その後、東葛信用組合は合併などにより、後に東京ベイ信用金庫になる。その途中の過程で、不動産の中銀(なかぎん)が、分譲マンションとして、中銀松戸マンシオンを1984年8月に竣工した。

雪和食品株式会社

雪和食品さんは川光グループの重要な会社の一つ、だからこそ、この川光物産のすぐ近くにあったのかもしれない。昭和40年代前半まではこの場所にあったが、現在は南花島に場所を移している。跡地には現在Tビルが建設されている。現在の雪和食品トップのK.I.さんには松戸神社の祭礼の際に、神酒所でお会いして少しお話をさせていただいた事があった。その当時は私もK.I.さんの家の近くに住んでいた。

金山神社参道から根本交差点まで(根本山吉祥寺側)事業者説明

カネコヤ種苗ビニールハウス

このビニールハウスは隣の金子屋さんのハウスだったらしいが、記憶があまりない。

内山医院・市岡(納豆製造)

根本の根本保育園付近に納豆製造をしている家があった。金山神社の参道、線路沿いの一群の住宅街の中。家の造りは工場然とはしている訳ではなく普通の住宅のような建物。市岡さんと言う家だった。何ともジメジメとした場所だった上に、内科・皮膚科の内山医院が隣地にあり、医院の薬臭さと工場の納豆臭さがコラボレートして饐えた(すえた)ような何とも言えない臭いが漂っていたものだ。

人がたまりかねて医院の内山先生に納豆の臭いについて話すと「何を言って居るんだ、良い臭いじゃないか」と言ったそうだ。内山医院は藪医者だと言う人もいたが多分名医だったと信じている。北部小学校講堂で定期的な予防接種の時、内山先生も来ていた。寅さんシリーズのおいちゃん役で出ていた松村達雄のような顔立ちの人だった。

納豆工場で販売していたのは`たまご納豆`だ。経木(きょうぎ)を使い、三角形にくるまれ赤く印刷した紙で覆われていた。今は無き豊田商店(おばけ屋)と南花島のボウ屋に卸していた。たまご納豆は粘りが悪かったのが今でも不思議。納豆工場、内山医院付近はその後テニスコートになったが2021年現在はマンションに変わった。

根本保育園

第一次ベビーブームが昭和二十二年から二十四年頃で、第二次ベビーブームが昭和四十五年から四十九年頃であるとすれば私はその谷間に産まれた事になる。私が幼稚園に入る頃は第一次ベビーブームによって幼稚園の不足はなかったと思うが、はたしてどうだろうか?中部小学校附属幼稚園は大正時代からある歴史ある幼稚園、現イトーヨーカドー建設前には聖ミカエル幼稚園があった。

私が作務衣や浴衣を購入した松戸駅西口の岡田屋さんのご主人は聖ミカエル幼稚園ご出身らしい。私は根本保育園で三年保育。根本吉祥寺お墓北側にあった根本保育園に通うには、金山神社の境内を通り踏切を渡り、内山医院や納豆屋さんの路地を通る。根本保育園の土地は吉祥寺からの借地だったと思う。

南花島、根本、竹ヶ花に住んでいる友人の多くはこの根本保育園に通っていた。近所に住んでいるススムちゃん、南花島のミエちゃん(故人)、金山神社付近に住んでいたカズミちゃんは同級生。一年先輩として竹ヶ花の材木屋のソウちゃん、そしてシロちゃん等。保母さんは川村先生。とても綺麗な先生という思い出がある。

根本学芸会での金太郎!さて私はくま役ですが、どこにいるでしょうか?

学芸会根本保育園

根本保育園学芸会
1961年11月12日撮影

当時、私はいたずらっ子で、この川村先生には相当面倒を掛けた。一年に一度講堂で学芸会(お遊戯会)が催され父兄が参観する。演題は浦島太郎、金太郎、桃太郎のような物語。私はそもそも演技力など一切無く二年目までは端役で金太郎の熊役をやった。分相応。 熊役は金太郎と相撲をとって投げられるだけの役、誰でも出来る。ただ、中には熊役なのに主人公の金太郎を投げてしまう子も現れ、これが父兄の爆笑を呼ぶ。

写真は金太郎が演じられまさにこれから相撲をとるところ。この中に私が熊役で出てます。分かるかな?演技力のない私だったが、流石に先生も三年目は桃太郎の主役を与えてくれた。桃太郎はそもそも材木屋のソウちゃんが演じた由緒正しき役。お遊戯会の花形。しかもソウちゃんは裕福な家庭なので特注衣装も持っていて格好良い桃太郎だった。

道草亭ペンペン草の晴れの姿:桃太郎役

桃太郎

桃太郎役の私です 1962年10月7日撮影

私の三年目に材木屋のソウちゃんが卒業、その特注衣装をソウちゃんの家から借り受け桃太郎を演技することになった。端役の経験しかない私は腰巾着からキビ団子が中々出なくて両親や先生をハラハラさせた。上の写真が私の晴れの姿の桃太郎です。白黒写真でもお金のかかった衣装だという事が分かりますでしょ!

根本保育園はいつしか廃園。いつだったか、川村先生が家を訪ねてきた。女は単なる保険の外交員になっていた。かつての教え子の家を勧誘して回っているのだろう。

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