松戸行脚

八柱霊園に眠る著名人

有名人 松戸行脚
mohamed HassanによるPixabayからの画像
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八柱霊園に眠る有名人・著名人

このページを作った目的

八柱霊園は松戸市にあるものの、流石に東京都営の霊園なので、多くの有名人が眠っている。令和になってしまうと、江戸時代から昭和にかけて活躍されていた方々なので、特に昭和後期以降に生まれた方は、著名人と言われても知らないと感じる方も多いと思う。私も知らない人がたくさん居ました。

しかし、調べてみたら実はその方の偉業を案外知っていたり、聞いた歌の作詞家だった・・・という事が少なくなかった。そこで、この方々の事をみんなで再認識する事によって、ご冥福を祈る事に繋がるのではないかと思ったわけです。つまりこの方々を忘れないようにしましょうや!という訳です。故人で著名な方々の偉業やエピソードを交えて、なるべく多く掲載したつもりです。

そして、スマホやパッドで位置を確認しながら、またどんな方だったのか確認しながら回れるようにしたかった。これがこのページを作った目的です。

著名な方々のお墓の位置図

大きな画面で確認したい方は、フルスクリーン表示をクリックしてください。

この地図はuMap(OpenStreetMapのマイマップ)機能で作成したお墓の位置図です。正確ではなく、大体の位置だと思って下さい。そして、大体の位置と言っても、「おいおい、全然場所が違っていたぞ」という情報がありましたら、是非教えて下さい。歓迎いたします。そして確認の上訂正します。

また、各著名人の名前の後にはお墓の位置情報も入れてあります。例えば、柔道の嘉納治五郎先生であれば、(5区1種5側13番)ですが、区→種→側→番で、大きな区画から小さい区画まで分かる番号を振ってあります。このお墓住所を正確に見る場合は、東京八柱霊園案内図が公式PDFデータでありますので、それを確認するとよりわかりやすくなります。

注意とお願い

八柱霊園はあくまで、それぞれ一個人の為の墓地です。遺族の方々が不快に感じる事はしてはいけません。著名な方のお墓を見たいからと大挙押し寄せたり、お墓内に無断で立ち入ったり、インスタやその他SMSへの投稿の為に大胆に撮影行為をしたりしないでください。また、旧盆、新盆、お彼岸の時期は遺族の方々がお参りに参りますので、そのじゃまになるような行為もいけません。

あくまで、第三者としてそっと生前のその方を偲ぶという清楚な気持ちで行ってくださいね!お願いいたします。

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八柱霊園で眠る著名な方々に関して

嘉納治五郎(かのう じごろう)(5区1種5側13番)

1860(万延元)年12月10日兵庫県に生まれる- 1938(昭和13)年5月4日に他界。講道館柔道の創始者、日本のオリンピック初参加に尽力、日本の体育の父と呼ばれた人。教育者。灘の嘉納財閥の内、嘉納治五郎さんは本家の本嘉納家(菊正宗を作っている)の一族である。ちなみに分家の白嘉納家は白鶴を作っている。

又、灘中学校は嘉納財閥の二家の他、灘の「櫻正宗」の山邑酒造の三家が協同出資をして作ったが、具体的な学校の基礎づくりをしたのは嘉納治五郎さんだそうで、立派な方ですね。

柔道とは | 講道館
柔道総本山 講道館のオフィシャルホームページ。柔道を始めたい、柔道を学びたい方へ、講道館への入門方法から、柔道の歴史、技解説、講道館の案内、試合情報やオンラインショップなどを掲載。

レオニード・クロイツァー(2区1種10側13番)

1884年3月13日にロシアのサンクトペテルブルクで生まれる。1953年10月30日東京都で他界。ユダヤ系ドイツ人を両親を持つ。サンクトペテルブルク音楽院で、ピアノと作曲を、ドイツでは指揮を学ぶ。ベルリン音楽大学の教授を務めるが、1931年来日、1933年に再来日し、音楽家近衞秀麿氏に引き止められ、そのままドイツに帰らぬまま、1953年に他界するまで日本に居た。

1933年に再来日して、ドイツに戻らなかったのは、彼の出自や、その当時のドイツでの政党のあり方から考え、正解だったのではないだろうか?又、1952年2月4日、門下生で東京芸術大学ピアノ科講師の織本豊子と結婚した。お墓もこの豊子さんと一緒。それにしてもこんなにすごい人のお墓が有ることが改めて驚きである。

レオニード・クロイツァー - Wikipedia

西條八十(さいじょう やそ)(2区1種1側13番)

西條八十 - Wikipedia

1892(明治25)年1月15日東京市牛込(現在の新宿区払方町)で生まれる。1970(昭和45)年8月12日世田谷区成城の自宅で他界。詩人・作詞家・仏文学者。童謡、歌謡曲、校歌も作っていた。

童謡で馴染みがあるのは♪母さんお肩をたたきましょう。タントン、タントン、タントントン♪の出だしの”肩たたき”や ♪てんてんてんまり、てん手まり♪の”まりと とのさま”だろうか?

”肩たたき”

童謡「肩たたき」歌詞
童謡「肩たたき」の歌詞ページ。歌い出し♪かあさん お肩をたたきましょう タントン タントン...

”まりと とのさま”

童謡「まりと とのさま」歌詞
童謡「まりと とのさま」の歌詞ページ。歌い出し♪てんてんてんまり てん手まり てんてんてまりの...

 

校歌も作っていて、比較的身近な学校では、葛飾区立新宿中学校校歌、千葉県では大多喜町立大多喜小学校校歌を作詞している。

土門拳(どもん けん)(21区1種3側4番)

1909(明治42)年10月25日山形県酒田で生まれる。1990(平成2)年9月15日虎ノ門病院で他界。

土門拳さんは、昭和30年代の炭鉱離職者をテーマにした「筑豊のこどもたち」、広島の被災者の方々の昭和30年代の状況を撮影した「ヒロシマ」などの社会派としての写真が有名だが、仏像、自然、著名人の肖像などの素晴らしい写真を残してくれた偉大な写真家である。

山之口貘(やまのうち ばく 本名:山口重三郎)(8区108側38番)

1903(明治36)年那覇区東町で生まれる。1963(昭和38)年に他界。本名は山口 重三郎。

詩人なのだが、ちっとも気難しくない、ウイットのある詩を書く。例えば、”借金を背負って”とか”喪のある景色”など・・・子どもでも読めそうでしょ!”チャンプルー”という詩はどちらかというとエッセーに近い感じの作品であるが、沖縄料理が好きな私もなるほどと思ってしまいます。

喪のある景色

うしろを振りむくと
親である
親のうしろがその親である
その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに
親の親の親ばつかりが
むかしの奧へとつづいてゐる
まへを見ると
まへは子である
子のまへはその子である
その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに
子の子の子の子の子ばつかりが
空の彼方へ消えいるやうに
未來の涯へとつづいてゐる
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちてゐる
血に染まつた地球が落ちてゐる

沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫では山之口貘の作品が多数収蔵されている。

山之口貘文庫 - 沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫
山之口貘[1903年(明治36)~1963年(昭和38)、那覇区東町出身、本名...

杉村楚人冠(すぎむら そじんかん 本名:杉村広太郎)(4区1種4側6番)

1872(明治5)年和歌山県和歌山市に生まれる。1945(昭和20)年10月3日他界。
杉村楚人冠(本名:杉村広太郎)は東京朝日新聞で活躍したジャーナリストで、随筆家、俳人。大正12年に起きた関東大震災を機に翌年大正十三年に別荘として持っていた我孫子に引っ越してきた方。
杉村楚人冠の家は我孫子に記念館として残されており、見学が出来る。私も訪れたことがあります。

我孫子市杉村楚人冠記念館:我孫子市公式ウェブサイト

神吉晴夫(かんき はるお)(21区2側8番)

1901(明治34)年2月15日兵庫県加古川市に生まれる。1977(昭和52)年1月24日他界。
編集者であり、光文社元社長、カッパ・ブックスシリーズを作った人。かんき出版創業者。光文社とは、講談社が戦後責任追及の手を逃れるために、別組織とした出版社。ただ、その起源は講談社の別会社としてあった日本報道社だったようだ。

光文社 - Wikipedia

田久保英夫(たくぼ ひでお)(4区1種21側48番)

1928(昭和3)年1月25日東京府東京市浅草区(現台東区)に生まれ、下町の料亭で育つ。2001(平成13)年4月14日に他界。戦争中は工場動員と病気療養生活のうちに過ごす。戦後、慶應義塾大学で仏文学を学び、山川方夫らと三田文学を編集。20、30代で注目され著作活動をしていたが、暫く無冠だった。

しかし、1969(昭和44)年に41歳にして「深い河」で芥川賞を受賞する。短編の名手と言われた小説家。

辻 征夫(つじ ゆきお)(27区69側13番)

辻征夫 「学校の思い出」から「俳諧辻詩集」まで(前橋文学館) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」
A4判43頁 状態:並 / 刊行年 : 1997 / 出版社 : 前橋文学館

1939(昭和14)年8月14日浅草に生まれる。2000(平成12)年1月14日他界。詩人。学生の頃ユリイカを手に取ると辻征夫さんの詩が寄稿されていることがあった。何だか自分の事のように思えてくる”宿題”という詩をご紹介したい。

辻征夫の”宿題”

すぐにしなければいけなかったのに
あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
いまならたやすくできてあしたのあさには
はいできましたとさしだすことができるのに
せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて
もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない
わかきひに ただいちど
あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて
げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに
わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

これを読んで、他の詩も読んでみたくなった方はどうぞ!

花田 清輝(はなだ きよてる)(8区101側7番)

花田清輝 - Wikipedia

1909(明治42)年3月29日福岡県に生まれる。- 1974(昭和49)年9月23日他界。作家であり文芸評論家。日本のアバンギャルド芸術論の先駆的存在。新日本文学会の機関誌だった新日本文学の編集長になったが、1954年には宮本顕治の持ち込み原稿を拒否したたことから編集長を解任された。

これは親会社の社長の原稿を却下したという事なので、相手の地位、権力にも迎合せず、文章に関して妥協の無い、強い信念を持っていた人だったのだなあ・・・と感じる。岡本太郎とアバンギャルド論で「夜の会」結成したり、「記録芸術の会」結成したりしていたらしい。

日沼倫太郎(ひぬま りんたろう 本名:生沼正三)(28区49側26番)

1925(大正14)年7月3日栃木県に生まれ、 1968(昭和43)年7月14日年に他界,戦後は通信技官、電電公社の社員となり、同時に文学評論家

古書肆 マルドロール

大村能章(おおむら のうしょう)(10区1種1側19番)

1893(明治26)年生まれ、1962(昭和37)年に他界された作曲家”麦と兵隊”(徐州徐州と人馬は進む♪)、トニー谷の歌った”算盤チャチャチャ”, ”戦友の唄(同期の桜の元唄)”などが有名。ただし、”同期の桜”の元歌は確かに”戦友の唄”(作詞 西條八十、作曲 大村能章)なのだが、後に軍人が替え歌にしてしまった。

例えば、歌の出だしが:

  • “戦友の唄”では♪君と僕とは二輪の桜、同じ部隊の枝に咲く♪
  • “同期の桜”では♪貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く♪

と勇ましくなっている。また歌全体も、御霊を捧げる歌に変わってしまっている。この為だと思うが、作曲した大村能章さん自身は”同期の桜”は自分の作った曲ではないと否定しているらしい。これに関して西條さんがどの様に考えていたのかは分からない。ただ、西條さんも自分の詩が替え歌にされた訳で、気分は良くなかったと思われる。

大村能章作曲の歌詞一覧 - 歌ネット
大村能章作曲の歌詞一覧ページです。歌詞検索サービス歌ネットに登録されている「大村能章」作曲の歌詞の曲目一覧を掲載しています。朝顔ながし,お駒恋姿,おしどり笠,お夏清十郎,お夏清十郎,祇園絵日傘,小判鮫の唄,小判鮫の唄 歌ネットは無料の歌詞検...

千葉さな子(佐那子、佐那)(現在は練馬区の仁寿院に改葬)

『千葉佐那とその後「青天を衝け」の時代 坂本龍馬の婚約者で北辰一刀流千葉道場の娘』
千葉佐那は、婚約者の坂本龍馬が勝海舟の弟子となって京へ登ったが、いつか帰る日を待ちながら江戸で暮らした。千葉佐那とその後を詳しく見ていこう。千葉佐那は1838…

1838(天保9)年3月31日千葉定吉の二女として生まれる。千葉定吉は千葉忠左衛門成胤の三男であり、長兄は又右衛門、次兄は周作。つまり千葉さな子は千葉周作の姪であり、千葉さな子にとって千葉周作は伯父(おじ:父の兄)という事になる。千葉定吉は北辰一刀流桶町千葉道場(八重洲桶町)を開く。

この千葉定吉の道場では千葉さな子も剣術を習っていたが、坂本龍馬が千葉さな子は龍馬と知り合い婚約したという事になっている。江戸から一旦土佐に戻った龍馬は何故かお龍と結婚してしまう。そしてその後、龍馬は暗殺される。千葉さな子はその後鍼灸師となり千住で開業、1896(明治29)年10月15日59歳で他界。

死後谷中墓地に埋葬、その後八柱霊園の無縁仏塚に改装され、2016年に千葉さな子が没後120年となった事から、千葉家ゆかりの寺、東京都練馬区の仁寿院に改葬された。千葉さな子は”生涯独身を通した”が通説となっているが、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年に結婚し、その後離婚したとされる新聞記事が見つかり、独身を通したという通説が崩れている。

また、この件に関して、足立史談に一部記述されている。ただし、資料が少なくいまだ、想定の域をでていない。まだ、謎が多い。

松山恵子(まつやま けいこ 本名:岡崎恒好 つねこ)(28区1種27側22番)

1937年4月10日福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)で生まれる、2006年5月7日他界。福岡県出身の演歌歌手、お恵チャンの愛称。近い年代なのが美空ひばりや島倉千代子。多くのレコードを出したが、実は私が物心ついた頃はレコードを出していなかったと思う。よく知る曲としては「だから言ったじゃないの」かな?

松山恵子 - Wikipedia

三宅久之(みやけ ひさゆき) (10区26側30番)

元毎日新聞記者で政治評論家、テレビでもお馴染みの人だった。某コメンテーターとテレビの討論番組でやりあった時に、相手の日本語の読みの間違いを次々に指摘してすごかったね・・・

「”死に体”は”しにたい”です。”しにてい”ではない」なんて感じで・・・喋り方が少し舌っ足らずな感じで、面白い人だったんだけど・・・2012年11月15日

追悼2012 写真特集:時事ドットコム
三宅久之氏(みやけ・ひさゆき=政治評論家) 11月15日、東京都内の病院で病気のため死去、82歳。東京都出身。 同日早朝、東京都目黒区の自宅で「トイレに行きたい」と家族に訴えた直後に意識を失った。救急隊が駆け付けたが、既に心肺停止状態で、搬...

奥山儀八郎(おくやま ぎはちろう)(25区1種44側55番)

奥山儀八郎さんがこれら八柱霊園で眠る著名人の方々の中でもっとも、身近な人だったと言えるかもしれない。何故なら、下矢切に工房があって住んでいたのだから・・・

1907(明治40)年2月17日山形県村山郡寒河江町(現、寒河江市)に生まれる。 – 1981(昭和56)年10月1日に松戸市で他界。日本の版画家である。1954年には松戸市下矢切に自宅及び奥山儀八郎版画工房を作った。奥山儀八郎さんが、他界された後はご子息の奥山義人さんが、工房の跡をつぎ松戸の版画など作られている。

ちなみに私は奥山義人さんの作った戸定邸の版画を持っており、部屋に飾っている。

戸定邸版画

戸定邸版画
奥山義人さん作

なお、奥山儀八郎さんはコーヒー好きで、珈琲遍歴という本も出されている。

血脇守之助(ちわき もりのすけ)(4区1種4側11番)

血脇守之助 - Wikipedia

1870(明治3)年3月2日我孫子で生まれる。1947(昭和22)年2月24日他界。歯科医師であり、野口英世のパトロンだった。野口英世は黄熱病ワクチンを作ったとされるが、福岡伸一著”生物と無生物のあいだ”を読むと野口がロックフェラー研究所で見ていたのは光学式顕微鏡。黄熱病ウイルスを見るには電子顕微鏡でないと見られないのだそうだ。日本では野口英世の評価はお札になるくらい高いが、ロックフェラー研究所では評価が低いのだそうだ。

話はそれたが、血脇守之助碑が手賀沼公園内に置かれている。元々は生前、血脇守之助の家にあったそうだが、後に公園に移された様だ。

 

大谷米太郎(おおたに よねたろう)(2区1種10側1番)

この大谷米太郎さんは私の仕事にもっとも近い人かもしれない。

1881(明治14)年7月24日富山県西砺波郡正得村水落集落(現、小矢部市)に生まれ、1968(昭和43)年5月19日他界。31歳まで農家の小作として一家を養う。その後上京するが、仕事も見つからず日雇い人夫となる。後に力自慢だった為、稲川部屋の力士(四股名は郷土の地名から砺波山、後に鷲尾嶽)となり、幕下筆頭になるが、手指の故障で幕内に入れず断念。

その後国技館近くで酒屋に転身、さらに鉄鋼業に転身。戦後朝鮮特需で鉄工業を大きくする。東京オリンピックの時にホテル不足の為、ホテルニューオータニを建設するが、屋台骨であった鉄鋼業の経営不振で社長を降りる。

実は、道草亭ペンペン草は、まだ学生の頃この紀尾井町のニューオータニのショップゾーンの”サンローゼ”で果物の売り子としてアルバイトをしていたことがあった。

鯨岡兵輔(くじらおか ひょうすけ)(10区1種16側)

Lauren kujiraoka @HKujiraoka のツイプロ

1915(大正4)年9月15日福島県石城郡四倉町(現・いわき市)に生まれる。2003(平成15)年4月1日に他界。政治家。鈴木善幸内閣の時に環境庁長官として抜擢された。

鯨岡兵輔さんのお父さん(鯨岡兵衛さん)は、鯨岡製袋を創業。鯨岡兵輔さんもこの鯨岡製袋を引き継ぎつつ政界でご活躍されたようです。現在の鯨岡の社長は鯨岡兵輔さんのご子息の鯨岡亘さん。

株式会社 鯨岡 紙袋製造 機内カート販売 百年以上続く製袋メーカー
東京、大阪、札幌、九州、関東三郷、関西日野に支社を持つ、紙袋デザイン・製造及び製袋・印刷機械販売企業の株式会社 鯨岡

小松崎茂(こまつざき しげる)(27区1種75側12番)

小松崎茂 - Wikipedia

1915(大正4)年2月14日東京に生まれ、2001(平成13)年12月7日他界。画家、イラストレーター。昭和生まれの人にとって、タミヤのプラモデルの箱の絵や少年漫画誌で出会う小松崎茂さんのイラストに胸をワクワクさせられた人は多いじゃないかなあ・・・架空の乗り物でも描写も細かくて、本当に実在するような気になってしまう。

以前、松戸市小金清志町の浅野工務店さん後援で、昭和ロマン館(館長根本圭助さん)にたくさん所蔵されていて、見に行ったことがある。素晴らしいと思った。現在、そのコレクションは紙敷の昭和の杜博物館(現在休館中)に移されている。下の写真は昭和の杜博物館で撮影させていただいた、小松崎茂さんの絵です。素晴らしいでしょ!

小松崎茂さんの絵

小松崎茂さんの絵
昭和の杜博物館にて
2007年撮影

江上トミ(8区1種17側)

17/ 133 エンゲル係数を高めよう 江上トミの画像

1899(明治32)年11月19日熊本県葦北郡田浦村(現芦北町)に生まれる。1980(昭和55)年7月21日他界。料理研究家で、きょうのお料理、奥さまお料理メモ、キューピー3分クッキングなどに出演していたらしいが、私はあまり記憶がない。ただ、長男の嫁である江上栄子は三分クッキングでおなじみだった。

いいお話なので、下記のYoutubeのリンクを貼っておきます。江上トミが8歳の時にお母さんの作ったライスカレーを食べたとなっていますが、明治40年に食べたことになるので、江上トミのお母さんも相当料理好きで、先進的だったんじゃないでしょうかね!

大内山平吉(おおうちやま へいきち)(19区28側9番)

大内山平吉 - Wikipedia

1926(昭和元)年6月19日、茨城県那珂郡平磯町(現:ひたちなか市)の漁師を営む家に生まれた力士。1985(昭和60)年11月1日他界。家業の漁を手伝う内に背が高くなり(最終的には2m2cmの巨漢)、後に父親と海軍に入るが軍人の勧めで双葉山相撲道場に入る(後に 時津風部屋)。ただ、相撲の経験など無く当初は弱かったそうだ。

戦後1948年に十両昇進とともに大内山を名乗った。大内山は戦前皇居を意味する言葉でもあったので、昭和天皇はこの大内山を気に入っていたとの事だった。名誉ですね!最高位は東大関。

平磯駅はJR勝田駅からひたちなか海浜鉄道で行ける。ひたちなか市は、水戸市の東隣の海岸沿いの市で、平磯は那珂川から流れてくる川と親潮が合流する場所で、想像だが良い漁場だったんじゃないか?と思う。

城戸尚夫(きど ひさお) (5区2側7番)

1897(明治30)年11月1日生まれる。 1997年 5月18日他界。現在卓球は中国が有名となっているが、実は中華人民共和国が建国直後の1950年代に日本の指導で普及したんだそうです。卓球は、実はイギリス発祥で、1921年頃にテーブルテニス(Table Tennis)を卓球と名付けた人たちの中の一人が城戸尚夫さんです。

下記写真後列左が城戸尚夫さんだそうです。

【世界選手権おもしろ史12前編】「ついに日本が世界デビュー!初参加で4冠!」 (2009年5月号から) | Nittaku(ニッタク) 日本卓球 | 卓球用品の総合メーカーNittaku(ニッタク) 日本卓球株式会社の公式ホームページ
日本卓球(ニッタク=Nittaku) は卓球用品の総合メーカーです。公式ホームページでは卓球のラバーやラケットなどの卓球用品/卓球製品の紹介や、卓球の動画や全国の卓球場検索などのコンテンツなど盛り沢山です。

和田静郎(わだ しずお)(1区2側4番)

和田式の歴史:和田研究所
ミス日本コンテストを主催してきた和田研究所は半世紀以上の長きに渡り、美容と健康を増進する和田式ダイエット手法を研究・提供しております。

1922(大正11)年「和田牧場」の長男として東京都足立区北千住に生まれる。2006(平成18)年他界。戦後自らの肥満を直した和田式健康法、所謂和田式フィギュアリングを開発した美容家。昭和34年から2年間「テレビとともにやせましょう」という番組で有名になる。

本多貞次郎(ほんだ ていじろう) (4区2側11番)

本多貞次郎 - Wikipedia

1858(安政5)年2月20日下野国宇都宮藩(現栃木県宇都宮市)藩士本多良之助の次男として生まれる。 1937(昭和12)年2月26日他界。明治15年に社会基盤整備と殖産興業の為の省庁である工部省に入省、その後、東海道線の鉄道工事の監督となり、明治36年に馬が線路の上で車両を引く馬車鉄道である東京市街鉄道に入社。

所謂鉄道のプロですね!明治42年に京成電気軌道株式会社の専務取締役となって、大正10年には社長になる。京成電鉄の父の様な人ですね。市川真間駅近くにお邸があったらしいが、当地は市川医師会の建物が建ち、入り口の所に本多貞次郎の顕彰碑が建てられている。

最後に

繰り返しますが有名・著名と言っても、あくまで一個人のお墓ですので、勝手に踏み込んだりせず、お墓から一定の距離を保ち故人の生前のご活躍を忍び、追悼をお願いします。また、遺族の方々が不愉快に思うような行為も厳禁です。よろしくお願いいたします。

この他に大谷竹次郎さん(2区10側2番)という方がいらっしゃるのですが、この方が松竹を立ち上げた大谷竹次郎さんなのか、それともニューオータニホテルを建てた大谷米太郎さんの弟の大谷竹次郎さんなのか、わからないので、判明次第掲載します。

先述しましたが、間違えている記述がありましたら、どうかご指摘お願いいたします。

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八柱霊園の絵葉書のページ

八柱霊園の絵葉書
八柱にあるものの東京都の墓地である八柱霊園昭和12年オープン。非常に大きい霊園で、中でウロウロとしていると迷子になりそうなくらい広い。今は、禁止されているかもしれないが、まだ、自動車の運転免許をとってまもない頃、練習の為にきた思い出がある。

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