建築

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つれづれなお話

夢のある街を求めて

日経新聞朝刊トップに「夢を語り始めた経営者」と題した記事が掲載され、目を引いた。そして「企業は停滞の30年でまとった縮小均衡の経営を捨て、再び世界に打って出つつある」と書かれていた。松戸市でも、夢を語る経営者を歓迎したい。我々市民は夢が欲しい
つれづれなお話

デザインツール

43年間の某設計事務所での勤務生活の中で、色々なデザインツールを使った。就職当時から製図という業務は、手書きの人的な作業から、キャドというデジタルデータを扱う分野に進歩してきた。特に人的に製図を書いていた頃の道具について、振り返ってみたい。
つれづれなお話

続:”自分で考えろ”は果たしてタイパが悪いだろうか?

仕事をする中で、上司から「自分で考えろ」と言われた若者が「教えてくれないと、タイパが悪い」と主張するらしい。そんなブログがあり、読んでみるとなるほどと思う部分もある。単純作業ならまだしも、複雑なからみのある仕事は、自分で考えないと行き詰る。
つれづれなお話

”自分で考えろ”は果たしてタイパが悪いだろうか?

仕事をする中で、上司から「自分で考えろ」と言われた若者が「教えてくれないと、タイパが悪い」と主張するらしい。そんなブログがあり、読んでみるとなるほどと思う部分もある。単純作業ならまだしも、複雑なからみのある仕事は、自分で考えないと行き詰る。
平潟

松戸市平潟、昭和の頃の家並み

松戸駅最寄りで、旧水戸街道から少し外れにあった平潟歓楽街。戦後、昭和30年頃から司法試験、受験勉強の施設となった。バブル崩壊の頃までは歓楽街の印象が残っている家並みが残っていた。当時の風景をラーメン77さんが撮影していたので、公開したい。
昔日の松戸

北松戸工業団地の緑地の今昔

昭和の頃は公害が大きな問題になり、工場は工場立地法という法律で緑地を作る事を求められた。ところが北松戸工業団地の緑化は理想通り進んでいない。そこで松戸市で昭和37年発行の工場適地案内書と共に、新坂川と共に北松戸工業団地の緑化を考えてみた。
つれづれなお話

私版”私の履歴書” 建築設計(いざ浜松へ)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。この話は、就職して浜松に常駐する頃
つれづれなお話

人との繋がり:今自分の隣にいる人の正体の話し

知らない人とお話しする楽しみがある人とない人が世の中にいる。一人で初めてのお店に飛び込めるのは私の性格なのかもしれない。或いは自分の好奇心の為だろうか?それはそれで楽しい。何故なら、自分の業界では知りえない話もあるからだ。ある意味独身生活が
つれづれなお話

私版”私の履歴書” 建築設計(学生の頃)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。お世話になった建築設計へ愛をこめて
つれづれなお話

私版”私の履歴書” 建築設計(就職後)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。お世話になった建築設計へ愛をこめて