つれづれなお話建築デザイン

私版”私の履歴書” 建築設計(いざ浜松へ)

たこ祭り つれづれなお話
Anja-#pray for ukraine# #helping hands# stop the warによるPixabayからの画像
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私版”私の履歴書”(いざ浜松へ)

建築設計をしてきた半生(いざ浜松へ)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。働き始めた頃、例外なく私も尖っていたが、自分の考えが、いかに井の中の蛙レベルであったかろうか、思い起こせば少々恥ずかしい。先輩方には随分生意気な事を言ってきたと思う。改めて反省したいと考えこの一文を書いてみる事にした。

前回は、就職後数年の話であったが、今回は浜松常駐の頃のお話である。当初は就職後として一緒に書こうと思っていたが、文章が長くなりそうなので、浜松編として独立させることにした。

どなたか共感できる人がいたらありがたい。

浜松のプロジェクトに関わった頃

design

Lorenzo CafaroによるPixabayからの画像

プロジェクト名は書かないが(分かる人が読めば分る)、浜松のプロジェクトは尊敬するR.Sさんが率いていたプロジェクトだった。R.Sさんは施主からの信頼も厚かった。R.Sさんの次に控えるのはM先輩だった。M先輩は、これまた優秀な先輩で、海外の経験もあり、手作業で、建築外観パースを書かせたらピカ一の人だった。

私は生意気で、未経験で、実力も無く、しかも末席で実は出番が無かった。そんなある日、池袋のホテルプロジェクトが始まり、これをM先輩が担当する事になり、浜松プロジェクトを抜けた。この結果、私が(実力も無いのに)R.Sさん直下の担当者になった。R.Sさんは多分心細かったに違いない。

浜松のプロジェクトは市内の住居地域の中に既存建物として建っている料亭+ホテルに寄り添うようにして増築棟が計画された。客室棟に大きな吹き抜け空間が内包されている為、上から見ると客室棟は正方形に見える。つまり東西南北に一定の幅があった事になる。このプロジェクトは、住民からの反対もあった。この為、日影図の作製をしつつ、住民説明を丁寧に行っていたプロジェクトだった。

先代の社長K.T様について(R.Sさんに確認中)

ここの先代の社長(K.T様)が夢の多い人で、魅力ある人だった。好奇心旺盛で,我々よりも多くの建築・ホテルを見ていた人だった。特別にこのホテルの様にしたいという要望は無かったが、大きなアトリウム空間を作る方向で一致した。我々が参考としたのはポーツマン設計のアトランタやサンフランシスコのハイアットリージェンシーホテル他であった。

Hyatt Regency San Francisco

Hyatt Regency Atlanta

現状のアトランタのハイアットリージェンシーを見るとリノベーションが行われている様に見える。

磐田に姉妹ホテルがオープン

Marine equipment

AgnieszkaMonkによるPixabayからの画像

K.T社長が隣の市である磐田市に新しい姉妹ホテルがオープンしたという事で招待され試泊をしにいった事があった。行ったのはR.Sさんと私の二人だった。見学が終わり、舟をテーマにしたコーヒーショップで一息ついていると突然K.T社長が現れ我々に「どうだ?いいだろ?」と語った。嬉しそうだった。あのホテルもK.T社長の夢がちりばめられたホテルだった。設計は浜松のO事務所だった。

日影図の苦労

日影

mbllによるPixabayからの画像

浜松のホテルは丁寧に住民説明を進めていたが、一部反対もあり着工が遅れた。住民からの意見などがあると建築形状に調整が入った。客室階の階高を2950mmに縮めたり、タワートップの一部を削ったり。その度に日影図、等時間日影図を書き直した。意見がタワーに集中していた。あれから40年以上経ったので、本当の気持ちをここで書く。

実は、日影図を書いていると分かるのだが、タワーの階高を低くして、建物を少し低くしたり、タワーの上部をいくら削っても(実は)劇的な改善はない。しかし、住民というものはタワーを目の敵にし、諸悪の根源だと思われてしまう傾向が強い。しかしながら、大事なのは縦の高さではなく横の広がりだったりする。みんなそこに気が付かない。

つまり本来の解決をするには、本当は横に広がる低層の建物をなんとかしないとならない。低層部をなんとかしない限り、状況が変わらない。それは未公開の自分のケーススタディで、分かっていた。ただ、自分は住民説明に関わっていなかったし、関わっていてもそれは表向きには言えなかった。

日影図は冬至日の太陽の位置による日影の線を表す。しかも平均GLから1.5m或いは4m. 冬至は夏至に比べて圧倒的に太陽高度が低いので、群れを成している既存や新築の低層部の屋根が案外焦点になるからだ。

また、影響を受ける近隣住居の任意の一点ににおけるタワーにより影響を受ける日影は(余程タワーに迫った場所でない限り)案外短い時間だ。しかし既存や新築の低層部の建築による日影は一日の内に順繰りに起る。

つまり、タワーの上半分を無くしたとしても、横に低層部の建物が,A棟、B棟、C棟、D棟と連続していた場合、午前中はA棟の影になり、昼前後B棟の影になり、午後2時過ぎにC棟の影になり、午後3時頃にD棟の影になる。等時間日影図の場合、その任意の一点の日影は全ての日影に時間の和となる。こうなると一日中とまではいかないが、低層部によって4時間以上日影になってしまうという事がありうる。

冬至日であれば太陽高度が低いのでなおさらである。しかし、近隣住民は冬至日の既存建物による自分たちが今まで生活していた時点の過去の日影がどうなのかは忘れて、タワーありきで、タワー=悪者の論理で、攻めてくる。この為、真実が見えなくなる傾向があった。

コンピューターとの出会い
コンピュータは素晴らしい進化を遂げてきた。とても追いつけるものとは思わないが、気がつくとドンドン変化、進化している。子供の頃はコンピュータとは電子計算機だと思っていたが、用途が広がり、色々な分野で使われる。スマホ、自動車、家電、その他・・・

ただ、これを真正直に言ってしまうと、「タワーは建てていいから、低層部を全部壊せ、無くせ」の議論に繋がってしまうので、これも又、現実的ではない。結局、住民説明はしっかりと粘り強く計画を説明し近隣住民の理解を得ながら、努力を重ね納得してもらう事しかないのではないか?そう思った。

私を大切にしてくれた

roof garden

1981年7月19日撮影

まだ浜松の現場が着工する前年の1981(昭和56)年7月19日、R.Sさんが当該ホテルに連れて行ってくれた。まだ、私が25歳の頃だ。嬉しかったし、ありがたかった。施主との打ち合わせを済ませた。施主側の担当者は一様に良い人たちばかりで、親切で優しかった。あの当時、私のような知識も経験も薄い若造をみんなRespectした接し方をしてくれた。

決して若造だからと馬鹿にする人は殆どいなかった。それが、自分自身への叱咤激励に繋がり、これはうかつな仕事はできないという意識に変わりつつあった。こう書くのは実は近年、設計事務所のスタッフに対する風当たりが強く、プライドも何もない状態にさせられる事も少なくなくて、責任ある仕事を任せてくれない風潮が顕著になったからだが・・・

実は我々の頃は、本人が知識があろうとなかろうと”現場に行って揉まれて来い”的な扱いだったので、ああいう空気の中で仕事をするといやでも、仕事を覚えざるを得なかったという感じがあった。ある意味乱暴なやり方だったが、建設会社も、施主もそんな私を受け入れてくれる奥の深さがあったし、比較的暖かい目で見ていてくれた。そして、教育して育ててくれたと思う。

改めて、皆様に御礼を申し上げます。ありがとうございます。

さて、ホテルの館内を回り、夕方になってから既存建物の屋上で開催されていたビアガーデンにR.Sさんから「行かまいか?」と誘われ、喜んで御同行した。ここが浜松か・・・と非常に感慨深く感じたものだ。

サマーフェスティバルへ

大宴会場

1981年7月撮影

翌日だったか、ホテルの中でも一番大きい秋〇台と言われた既存増築棟の中にあった”O”大宴会場で、サマーフェスティバルが催されているからと、施主からご招待していただいた。ショーの内容は忘れたが、ブラジル人によるリオのカーニバル並みの踊りだったように思う。私は浜松という場所にのめりこみ始めた。

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浜松の発展

私の履歴書の話から、少し外れるが、当時の浜松は東京大阪というメガロポリスの中間点にあたる浜松の発展、そして、1980(昭和55)年通産省(現経済産業省)が地域開発構想としてテクノポリスという考え方を立ち上げていた。テクノロジーtechnology(技術)とポリスpolis(都市)を組み合わせてつくられた和製英語で、新時代の産業都市づくりだった。

栗原勝市長もこのテクノポリス構想によって浜松を発展させようとしていた人だった。そんな時代の浜松の様子をインフラという視点から少し横道に逸れる事に致します。

昭和56年頃の浜松

私が初めて浜松駅に降り立った昭和56年頃は、まだ北口広場が工事中で、出張の際は基本的には南口を使った。南口駅前には八百徳だったと思うが、大きな鰻料理の看板が見え、ついそそられた。駅前からタクシーに乗り松尾小路という住宅街の中の細い道を通って、ホテル東側の道に出る。或いは駅から雄踏街道を経て、ホテルの東の道に入りホテルに向かった。

当時はまだ細い道が多く、タクシーの運転手も大変だったんじゃないか?ただ、タクシーの窓外を見ると小さい規模の商店が成り立っていた頃の街並み、風景が見えて、ウキウキしたものだった。
又、浜松駅北口は先述した通り工事中で、遠州鉄道の新浜松が国鉄浜松よりも北東部の方向、現在のアクトシティのサンクンプラザ付近に新浜松の駅舎があった。

そもそも私にとって遠州鉄道は利用頻度が低かったので、殆ど記憶が無い。現在、遠州鉄道の高架は浜松市田町を経過して、新浜松駅まで到達するが、あの高架の遠州鉄道が開通するまでは、田町町内でまだ立ち退きが済んでいない飲食店によく通っていた。下は”伸びゆく浜松“という昭和57年に作成された浜松市の広報ビデオフィルムで時代が分かり非常に面白い。

当時の浜松市長栗原勝さん

栗原勝 - Wikipedia

私が常駐した頃の浜松市長は栗原勝氏で、栗原勝氏は元々東京工業大学の建築学科を卒業している人で、建築家谷口吉郎門下生だった。この為、建築設計に非常に関心と才があった人で、市長になる前、浜松市役所の職員だった頃(1950(昭和25)年)、浜松市立図書館の設計を担当、完成させた。

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100040/ht203560/?Word=%e6%a0%97%e5%8e%9f%e5%8b%9d 

この浜松市立図書館は図書館機能だけでなく、美術館、博物館、レコードライブラリーが併設している当時としては画期的な建物だった。市長就任後に建設された建物としては滝沢小学校、アクトシティ他多数である。当時、浜松市役所の西館に入るとエスカレーターと共にちょっとした吹き抜けのアトリウム空間があって、トップライトがあり明るいロビーだった。

この西館は私が常駐した年の一月に完成したらしい。

浜松市役所 庁舎西館建設の歩み

これも浜松市の広報ビデオフィルムで非常に興味深い、見ていると面白い。画面に見える人は元栗原浜松市市長

浜松の交通インフラ

駅から現場までのルートは、私が常駐した頃はかなり改善されていたらしいが、それでもまだまだインフラが理想的だったと言い難かった。先述したように、現場に行くためにかなり細い道を通らざるを得なかった。その為、駅からタクシーに乗っていると(そもそも現場は北口なのに、タクシーは南口)何となく、クルクル回っているような錯覚に陥る。

自分は駅からどういう向きでどのように走っているのか頭にイメージするのが容易ではなかった。

しかし、私が常駐1982(昭和57)年から遡る事、3年前までは東海道線の高架工事が終了していなかったので、浜松市の南北の移動が難しく、それぞれで格差が広がる現象があったそうだ。同時に、浜松駅北口には広大な貨物のターミナルの様な状態になっていて、これが、浜松の発展の阻害要因となっていたらしい。

国鉄浜松駅周辺で行われていた大きなインフラ再開発

これを何とかしようという機運は、平山博三市長の頃から、市や市民レベルからあったようだ。ただ、平山博三市長の頃はちょうど第二次オイルショックで、不景気の風が吹いていた頃で、それが原因したのかなんとも言えないが、1979年4月の浜松市長選挙を前にして、平山前市長が立候補を断念し、栗原勝市長が誕生し、前政権の懸案事項を引き継いだらしい。

昭和40年代-60年代に、国鉄浜松駅周辺で行われていた大きなインフラ再開発は三つ

  1. 国鉄浜松駅前の貨物ターミナルエリアを西側の森田趙方面に移動し、貨物の西浜松駅を作る:1971(昭和46)年
  2. 東海道線の高架と移動:1979(昭和54)年10月完成
  3. 馬込駅でスイッチバックしていた遠鉄を新川上で直線化及び高架化:1985(昭和60)年12月1日完成

新川沿いの遠鉄高架の完成前、完成後の写真が新川のウィキペディアにあるのでご参照。

新川 (馬込川水系) - Wikipedia

下記の地形図は、すでに貨物ターミナルが西浜松駅に移動しぽっかりと空いたようになっている北口エリア。遠鉄の馬込駅もスイッチバックのままの頃です。

フルスクリーン表示

また、下の地形図は同時期の西浜松駅

フルスクリーン表示

浜松駅インフラ工事動画

ご興味のある方は下記の動画はいかがでしょうか?

西浜松駅誕生

若返る駅周辺

アクトシティ

上の節で表した地形図で、ポッカリと空いた浜松駅の北側に出来たのがアクトシティ。
上の動画と被る部分はあるが、アクトシティにスポットを当てている動画なので、面白い。第一生命グループの案が採用され、ホテルオークラがホテルを担った。この為、浜松のホテルの勢力地図が相当変わる事になったと思う。

一度、アクトシティのバーに行った事があった。バーカウンターの中にいたのは、以前Gのラウンジで働いていたS君だった。どうやら職替えしたらしい。私の事も覚えていた。生真面目な性格なのかよく頑張っていたっけ・・・

アクトシティ物語

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浜松での生活

横道に逸れてしまったので、再び自分の仕事場の話に戻る。

単身寮+従業員食堂

単身寮

単身寮 2007年9月21日撮影

道路を挟んでホテルの東側にホテル従業員の為の単身寮+従業員食堂がある。入野町(西伊場付近)に家族用の寮もあり、R.Sさん家族はそちらに住んでいた。私は独り身だったので、単身寮に住んでいた。内装設計のS君が常駐を始めた際に、入野町の社宅に行こうと誘われ、二週間ほど住んでいた事もあったが、利便性からホテル横の単身寮に戻ってしまった。

結局、私は常駐した二年間の殆どを単身寮で過ごした事になる。一階は従業員食堂で、とても格安で三食を食べることが出来た。ありがたかったな・・・単身寮の寮長は須川さんだったか・・・基本的には厳しい人だった。私は殆ど怒られたことは無かったが、ただ、単身寮に住み始めた頃、あの狭い部屋に現場事務所の人達を数人呼んで、宴の如く始めたら、えらく怒られたっけ・・・

あの寮の二階に私は住んでいたが、何人かお友達も出来た。3階にいた芝崎君だったか?ローレルを乗っていて、フリスコからサムデイに移った若手で、彼は面白い人だったが、確か東京に行くと言って、ホテルをやめていった。今頃どうしているかな?そういえば、私の隣の部屋にいた中華レストランの料理人もどうしているかな?

現場に常駐したけれども・・・

挫折

www_slon_picsによるPixabayからの画像

当時、現場に行けば自分は成長できると固く信じていたが、そんなに世の中甘いものじゃなかった。ラジオ人生相談を聞く事がある。加藤諦三先生が担当している日の質問で「アメリカに留学して英語を覚えたい」という人が現れると、加藤先生は頭ごなしに怒り始める事がある。ストレートに「アメリカに行ったからって英語が出来るようになる訳じゃない」という。

加藤諦三先生というと私が高校生の頃は、ラジオ”百万人の英語”の先生でよく聞いたものだ。そういう先生だったので、英語に対する思い入れも一入なのだろうとほくそ笑んでしまうのだ。妻は、加藤先生のそういう時代を知らないので、話してあげると喜んだ。再び話がそれてしまった。

百万人の英語 - Wikipedia

浜松の現場に常駐した当初から、現場定例会議に出席した。ただ恥ずかしい話、分からない用語がいくつも出てきた。私は学校で何を学んできたのだろうか?恥ずかしくなった。今はどうなのかは分からないが、当時は、設計事務所が現場に行くと、曲がりなりにも先生扱いされる。

嘲笑

TumisuによるPixabayからの画像

誤解の無い様に書いておくが、彼らは私が先生だなんてこれっぽっちも思ってはいないと思う。自分たちの現場をうまく進める為に、体よく社交辞令としてそう云っているだけに過ぎない。そういう状況にいい気になると後で痛い目にあう。

だから、ゼネコンや設備下請けが来て、我々に質問されたとして、もし分からなくても、「〇〇先生」と呼んでやってくるゼネコンにストレートに「それ、どういう意味ですか?」とは聞けない訳だ。分からないときは、せいぜい「今手がいっぱいだから、後でお答えします」としか云えない。

ただ、現実問題として、私の方から何語らずとも、ゼネコンや設備の下請けの方々が、私の知識が乏しい事に気が付くのに時間はかからなかったと思う。分からない事はR.Sさんには素直に聞いたが、何でもかんでも聞いていたらキリがない。これ以上ご迷惑をおかけする訳にもいかないので、本屋に行くことになる。

今だったらネットでいくらでも調べられる事でも、当時は本で調べるしかなかった。しかし、本屋に行ったからと言って、すぐに答えが分かるような本が見つかるとは限らない。仮にあっても、直ぐ分かるというものでも無かった。 結局、恥ずかしながら、多忙なR.Sさんに聞いたり、ゼネコンの先輩方に素直に聞くしかなかった。

それが現実だった。

タワークレーンの頂上で腰を抜かしたヨウちゃん

クレーン

クレーン

私が浜松で常駐していた建設現場では資材を取り込んだり廃材を搬出したりするために、タワークレーンが使われていた。タワークレーンの中でも所謂、クライミング式つち形クレーン(ハンマヘッドクレーン)と呼ばれているもの。つちとは金槌木槌の槌であり、ハンマーの事。

つち形クレーンは、塔形の構造物の上に旋回する水平ジブを設けたもので、全体の形状がハンマに似ているため、この名が付けられている。名称が長いので、言い方としては正確ではないが、タワークレーンとして話を進める。

このタワークレーンは非常に大がかりなクレーンで建物が一層二層と増えるたびにマストと呼ばれる円筒状の柱(直径約1.5メートル、長さ3.5メートル程度)を上に重ねながら延びていく。この円筒状のマストの中にはタラップがついていて最上部まで登っていくことが出来る。円筒ポストの接続している節に当たる場所には踊り場があり、タラップを登っている最中に滑り落ちても一応途中の踊り場で止まるようになっている。

さて、施主側の施設課担当にYNさんという方が居た(愛称はヨウちゃん)。当時ヨウちゃんは29歳くらい、私よりも二歳ほど年上。このヨウちゃんは背が高く黒縁のめがねを掛けていて実直でとても話しやすい人だった。ホテル売店で勤務していた女性と結婚され、二人はオシドリ夫婦のようだった。私は売店の女性もよく知っていて、結婚の経緯等を聞いた事があった。

ヨウちゃん奥様「背の高くて素敵にヨウちゃんに声を掛けられ夢みたいだった。結婚出来てとても幸せだったのよ」と嬉しそうに話したのを印象深く覚えている。後にこのヨウちゃんは磐田で社長職に抜擢された出世株だった。残念ながら平成23年に若くして他界された。非常に残念である。

ある日、このヨウちゃんと一緒に

「景色も良いでしょうし、タワークレーンの上まで登らまいか?」

という事になった。現在、管理者のいないところでそんな行為は許されないかもしれないが、当時は案外アバウトだったのかもしれない。確か、土曜日か日曜日の現場が休みの日だった。私が先にヨウちゃんが後に続きタラップを登った。私は順調に登り終わり水平ジブの上に到達した。そして、ヨウちゃんが続いた。

ところがヨウちゃん、円筒からからジブの上に顔を出し、さあ、ジブの床(チェッカープレート)に足を掛けようとした瞬間、ジブの上に空いていた大きな穴(マストを吊り上げる為の穴)に気が付かず、片足を突っ込みそうになってしまった。つまり三十数メートルの高さで宙を蹴った様な感じ。

「ああ~!」

恐怖で押しつぶされそうなヨウちゃんの叫び声が聞こえた。我々の居る場所から下を見ると三十数メートル下の地面まで全く何にも無い。高所恐怖症でなくても震え上がる。

ヨウちゃんは思わず足を引っ込めたが、すっかり恐怖で腰が抜けてしまった。無理もない。
ヨウちゃん「○○さん、ちょっと待って!」
私「ああ、腰が抜けちゃったんだね。そのまま落ち着くまで居れば良いよ。すぐ治るよ。私は待っているから心配ない」
ところが人間一度腰が抜けるとしばらくは復帰出来ない。暫くの間マストの円柱の中でじっとしていたが、最早動けない。平静を取り戻すまでに三十分は掛かった。高みの見物どころではなかった。

結局ヨウちゃんはジブの上に乗れないまま下に降りていくのだった。

スカイラウンジ”サムデイ”

先代社長&奥様

先代社長&奥様

私が浜松で、多く通った場所は何を隠そう、浜松市内にあった某ホテルのスカイラウンジ”サムデイ”だった。先代社長が特別ジャズに思い入れの深い方だった事もあり”サムデイ”のカウンターに座れば色々なミュージシャンの演奏を楽しめた。私は当時、”酒とバラの日々”を夢見つつ、足繁く”サムデイ”に通った。

ネーミングが素敵だった。”サムデイ”(Someday) は直訳すると「いつか、いつの日か」なのだが、このSomedayは未来を表す「いつか」だ。類語のOne dayは過去を表す「ある日」。”サムデイ”、先代社長が自分の夢を実現したとても魅力のあるスカイラウンジだった。

先代社長はたくさんのジャズメンを懇意にして”サムデイ”に呼んだ。世良譲トリオ、サックスの松本英彦、タイムファイブ、サックスの与田輝夫、原信夫、ドラムのジョージ川口、ギターの沢田駿吾等々がこの”サムデイ”で演奏していたわけだ。流石にいつも大物が来るわけではないが、有名無名に関わらず色々なミュージシャンが演奏してくれるラウンジ、それが”サムデイ”。

 

当時はTime & Esperという芸能事務所が、ミュージシャンを手配していた。サムデイの担当はFさんで、演奏の日は、カウンター付近でダークスーツを着こなし、演奏している状況を事細かにチェックしていた。私はいつしかFさんと知り合いになった。Fさんは実はベース演奏者で、当時はピアニストの奥さんが居た。

一度、Fさん宅に呼ばれ遊びに行った事があった。いつしか、奥様とFさんの演奏が始まり、”どんぐりころころ”ジャズバージョンを二人で演奏してくれた。素敵でかっこよかった。今は九州でバンドを組み演奏活動をされているそうだ。

話しを戻す。先代社長は感激屋で社員の心を掴む人柄と明るい心で一緒にいると楽しくなる方。この先代社長が好きだった曲は”マイウエイ”、”サニーサイド・オブ・ザ・ストリート”、”朝日のように爽やかに”、”思い出のサンフランシスコ”、”ドラムブギ”、”酒とバラの日々”、”今日の日はさようなら”等々。

ホテルの地下一階にピアノバー”ブラディマリー”があった。パーティーの終わりにみんなで手を繋いで,”今日の日はさよなら”を先代社長自ら音頭を取り歌う。こんな素敵な先代社長も昭和57年1月12日未明、突如として享年58歳でその生涯を閉じてしまった。心不全だったと聞いている。私の感性へ多大なる影響を与えてくれた人……今でも尊敬しております。最後は森山良子の歌う”今日の日はさようなら”

サムデイの素敵なスタッフ

ドリンク

Oli PによるPixabayからの画像

サムデイでは大抵水割りだった。何度も通う内に、バーテンのM君やKマネージャーと意気投合し、仲良くなった。ビリージョエルの”ピアノマン”という歌がある。あの歌の中で”Now John at the bar is a friend of mine.He gets me my drinks for free.”というフレーズがあるが、まさにあんな感じだったな・・・具体的にはかけないけれど・・・ガッチャ、M君ありがとう。

夜中にお店がはねると、みんなと良く外食に行ったものだった。まだ20代だった。若かったなあ・・・そういえば、スタッフの芝〇君は同じ単身寮だった。芝〇君は当時日産ローレルに乗っていて、ハンドルさばきも上手だったなあ・・・彼も寮長からにらまれていたけどね・・・(笑)

“インぺリ”でのスポットライト操作の経験

インペリ

インペリ1984年撮影

既存棟低層部に「インペリ」というシアターレストラン的な素敵な宴会場があった。六角形の中央ホールと少し小上がりになった周りの客席と高い天井。ホームページで確認すると現在はこの宴会場は見当たらない。 確か立席150人くらいの規模で結婚式に良く使われ、又、ディナーショーやコンサートにも使われていた。

坂田明のコンサートや松坂慶子のディナーショーも催された事があった。「愛の水中歌」が流行っていた頃でまだ松坂慶子が三十歳そこそこだったと思う。とても綺麗な人だった。坂田明はサックス奏者だが、あの当時ピアノも弾いていた記憶があって、ハチャメチャなのにすごい演奏という感じ・・・どう表現したらいいのか分からない。

インペリの調光室は舞台の対面の二階部分にあった。調光室にはハロゲン(いやクセノンピンかな?)のスポットライトが二台あり調光室から真正面の舞台にスポットライトを当てる。ところがメインの入口付近は調光室の直下なのでスポットが当てられない。これはちょっと困る訳で、例えば新郎新婦が出入りするメインのドアにスポットを当てる為には同じフロアーにいなければならない。

新郎新婦が退場する際は調光室の二台で舞台上の新郎新婦に先ずスポットを当てる。新郎新婦は調光室の直下にある扉まで歩いていき、直下の扉ギリギリまで調光室の二台であて、途中でスポットが切れるような形になる。当然ながらこの二台のスポットを新郎新婦に当てるのは二人のスタッフで行うわけ。

二人で徐々に光りを移動させていく作業はやってみると案外難しくて、自分のスポットがどちらなのか分からなくなってしまう。自分のライトが動いているのかと思うと何故か置いてきぼりになってしまって慌てる事もある。

寸座ヴィラに行った話:

Bar Cabin前で

寸座ヴィラのBar Cabin前で筆者
1984年撮影

私が浜松に常駐していた頃はまだ、ヤマハリゾート寸座ヴィラがあった。ここは元々は遠州鉄道が運営するホテルであったが、1981年にヤマハリゾートが経営を引き継いだ。その後のヤマハリゾートは大変なことになってしまうが、ここでは書かない。

当時、浜松で知り合った人が、寸座ヴィラのフロントで働いていた人で、是非案内してほしいとお願いしたら、私の運転であったが、連れて行ってもらった。出発すると浜松城の西を南北に走っている姫街道を走れと云われた。姫街道は別名本坂街道で浜名湖を北から回っていく道で、幕末は女性に好まれた街道であった事からそう呼ばれたらしい。

姫街道 - Wikipedia
403 Forbidden

上のリンクを読んでいただけると分かるが、すでに寸座ヴィラは無くて、その後持ち主が代わっている。

現場事務所と周辺

玄葉事務所にて、筆者

玄葉事務所にて、筆者
1984年頃撮影

単身寮の隣に三階建の古い鉄筋コンクリートの建物があり、その一棟が現場事務所になった。当初はゼネコンさんの図面部隊が、東の高台の住宅の中にあった。話しによると栗原勝市長の旧邸を使っていたらしい。鉄筋コンクリートの現場事務所に戻る。構成としては一階が設備工事の事務所、二階がゼネコン、そして三階が施主の開発準備室と我々の設計監理室、会議室があった。

設計監理室の私の席は南側の窓際で、明るい席だった。窓外を眺めると洋裁の高校があり、休み時間にその生徒たちが外で休憩している姿が見えた。現場事務所へのアプローチは少し不便で、北側にある階段から登って入った記憶がある。

その階段を登り付近を歩くと小さな喫茶店の様なお店があり良く行った。店の名前は憶えていない。女将さんが一人の店で、カウンター数席の可愛いお店で女将さんが一人で応対、飲食物を提供していた。そこで良く飲み物を飲んだり、カレーライスを食べた。そういえば、多分その女将さんの娘さんだと思うが何度かカウンターの中に入っていたことがあった。

あの店の趣味はもしかするとあの娘さんの趣味だったのかもしれない。また、周辺に真珠堂という宝飾品のお店があった。社長は西尾さんだったか?その店からさらに細い道を東に歩くと元魚町、旅籠町方面に出られ、千歳町や浜松駅にも行けた。渥美ゴザ屋さんにもそういうアプローチで行ったね。

さらに進むと寺島方面なのだが、私は寺島方面は歩いていない。どうして、浜松駅の南口側には行っていたなかったのか、今となっては分からない。

現場事務所は、寮の隣だったため、仕事が終わると1分以内で寮の自分の部屋に戻れた。通勤電車もない生活は快適だった。ただ寝食が近すぎるというのは気持ちの切り替えが難しく、一日の終わりのケジメが付かない。この為(何となく言い訳めいているが)従食で夕飯を終えると有楽街や千歳町に行く事が多かった。

さて、我々と同じ階の開発準備室にはトップのNさん、企画のYさん、総務のIさんがいた。皆さん、とても優しい人たちで、良く開発準備室に立ち寄り雑談をした。総務のIさんは当時マイコンに夢中になっていて、富士通のFM8を会社に持ってきて、新ホテルとコンピュータ関連の結びつきや関連について研究していた。


私も時々FM8に触らせてもらった。これが私の卓上型コンピュータとの出会いだった。マイコンとはマイクロコンピュータの略で、マイコンピュータではない事を後に知った。IさんはこのFM8でゲームもできる事も教えてくれた。この話しは長くなるので、別の章で述べたいと思う。

この事務所で業務をしていた頃、監理日報をしっかりつけるべきだった。当時の私はそれを怠っていた。その為、いつ誰が来たのかが今となってはさっぱり分からない。常駐した年は憶えているが、自分が何月何日に来たのかも分からなくなっている有様で恥ずかしい。先輩のR.Sさんは付けていたと思う。

私生活の事

いずれ書きます。

既存改修工事の頃

スケッチ

聞き取りスケッチ
まだ私の26-7の頃に聞き取り結果を描いたスケッチ。まだまだ、下手だね。

ハードディスクを調べていたら、浜松常駐していた頃のスケッチが出てきた。既存改修部分の聞き取りの記録、そしてそれを改築部分にどう反映するのか表現されていた。とても懐かしかった。今見てみると未熟なスケッチだけれど、当時の一生懸命さが伝わってきたような気にさせられた。既存改修エリアは時間が無く、ゼネコンと建築設計は新築工事エリアとは違うメンバーが担当した。定例会議は毎日夕方から開催された。

ゼネコン側の建築担当の佐々木さん?が、リーダーとなり、あるルールを決めた。

  1. 問題は持ち帰らない。その場で結論を出す。
  2. 間違えても人を責めない。
  3. 設計であろうと下請けであろうと、立場に関わらず、みんなで一丸となって問題を解決する。

という内容だった。結果的に言うとこれは自分にとっては非常に良かった。
当初はRSさんと私の二人だったが、R.Sさんは途中から私に任せてくれた。それは重責だったが、とても嬉しかった。ただ、いつも心配の種を持ち続けることになるので、それはそれで結構つらい。

毎日自分で決めた事は、全てR.Sさんに報告した。ダメな箇所があったら、翌日既存改修定例で頭を下げて、訂正する。とにかく時間勝負だったので、悠長に図面を描いている暇はない。建築や内装に関わる部分は、その場でスケッチを描く。そのスケッチを元に定例に参加しているみんなで頭を突き合わせながら、問題点を解決していく。この定例は夕方から始まる。

こじれた問題がなければ、1時間半くらいで終わるが、場合によっては、2-3時間かかる事もあった。
この時の仕事への対応の仕方、スケッチをどんどん描いていく姿勢はその後の私の糧となり、そのスタイルが自分のスタイルになっていった。

続く

とりあえず、今日はここまでとします。今後の事は改めて、更新します。いつになるか分かりませんが、よろしくお願いします。

 

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コメント

  1. うしとら より:

    アクトシティは私が大学時代に竣工していて、
    日本設計の設計チーフの方が学校に講義に来られたこともあり、
    浜松と言えばアクトシティという感じがします。
    特に、今では普通になった免震構造の先端を行っていた物件で、
    船舶用の制震装置が搭載されたことが話題になっていたのが印象的でした。
    たしか、制震装置の振り子が数十トンあり、
    そんなデカ物を建物の高層階にどうやって吊り込むのか?
    ということを仲間と話し合ったことを思い出します。
    東名自動車道を走っていても、かなり遠方からでも分かりますよね。
    アクトシティも新しい建物と思っていましたが、
    30年近く経ってしまったことに驚きます。

  2. うしとら様コメントありがとうございます。
    アクトシティ浜松の区画は貨物ターミナル移動の頃から数えるとかなり前からと言うことが出来ますが、建設としては1991年着工、1994年竣工でバブル崩壊後の難しい時期に良く着工したものだなあと思います。同時に建設業界は1995年くらいまでは、かなりの数のプロジェクトの竣工が控えていたので、私にとっての、この頃のボーナスが一番額が良かった。あのタワーはいまだに古さを感じないですね!オークラが入っているものの、前職場では、何故か設計が絡んでいなかった。学生の頃、アクトシティの講義を聴いたという事は、うしとらさんが就職された頃は建設業界が縮小し始めた頃で色々と大変だったのでは?

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