昔日の松戸

笹屋さんと御用聞き、その他引き売りなど

sakaya昔日の松戸
いらすとやさんのイラスト
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御用聞き・引き売り・移動◯◯屋さん

昭和30年代は近所にスーパーが無かった時代で、御用聞きや色々な引き売りが来て我々の買い物の手間を省いてくれた。もっとも地域の商店街に活気のあった頃。その後、スーパーマーケットの登場で買い物のスタイルの変化があり、その他色々な理由があると思うが、御用聞き、引き売りは影を潜めていた。

ところが最近になって、スーパーマーケットやコンビニなど大手が直接店側で自宅まで商品を運ぶサービスをするようになった。

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竹ケ花にあった笹屋さん

笹屋

かつての笹屋 2021年10月10日撮影

かつて、竹ケ花に笹屋さんという酒屋がありました。笹屋は屋号で高崎酒店が店名でした。この笹屋が御用聞きに来ていたことがありました。笹屋さんは定期的に酒を運んでくるわけですが、そのペースが狂ってくると心配して声をかけてきます。つまり速いペースになり消費量が多くなると「最近量が増えていませんか?ご主人の具合は大丈夫ですか?」などと声をかけた。

笹屋さんは周辺の土地をかなり持った土地持ちだった。確か付近にあった河合肉屋さん(同級生の家)も笹屋さんが地主だったと思う。ところがバブル崩壊後いつだったか、笹屋さんは無くなってしまった。不動産が故だと風の噂には聞いたが詳しい事情はわからない。

笹屋の笹とは酒の事

この笹屋さんの笹は酒を意味する別名です。この笹は竹葉に通じます。酒のその他の別名に竹葉、竹の葉、笹、般若湯など色々あります。その内竹葉をお酒とした節にはいくつかあるようですが、その内面白いのが中国の故事なのだそうです。

駒沢大学の教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」の萩原義雄先生の「酒の異名「竹葉」と酒飲みの異名「上戸」他」によりますと、こんな中国の故事があるそうです。

「むかし、漢朝に劉石という者がありました。その継母が実の子にはご馳走を食わせ、継子である劉石にはいつも残飯を与えていました。劉石は、それを口にすることができないので、いつも家の付近の木の股に、捨てておいたところが、自然に雨水が溜まり、それがいつしか香ばしく匂うようになったのでございます。劉石は、試しにこれを啜ってみますと、えもいわれぬ味がします。

そこでこの飲み物に竹葉を折って覆いをし、酒を造りましてこれを国王に奉ったところ、比類無き味わいに国王から褒美を賜ったのでございます。劉石は、その後家富み、栄えたのでございます。この劉石の故事によりまして酒を「竹葉」というようになったのでございます」

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移動床屋さん

小学生の頃だったと思うが、床屋さんが自宅に来て髪をカットしてくれた。とても簡単で、イスを置き、座らせ、散髪ケープ(というのかな?或いはヘアエプロン?)を体に巻き、手動のバリカンやスキバサミでカットしていく。カットが終わったらブラシでバサバサと髪の毛をとり、それで終わりという感じ・・・自宅庭なので当然ながらシャンプーはなくカットオンリーだったと思う。

今どきこんな床屋無いだろうと思ったが、1996年頃、中国のハルビンで早朝路上で商売している人がたくさんいたのだが、路上床屋が居て、とても懐かしい思いで見ていた。

畳屋さん

藤倉畳店

藤倉畳店さん、2021年5月撮影

最近畳の表替え、裏返し、新調などあまりしなくなってしまった。何故やらなくなったのか?を述べている人もいるが、一説によると畳業界が畳替えの必要性を積極的にアピールしなかったからだという人もいた。実際、我が家の住む松戸市根本付近で残っているのは本町の藤倉畳店くらいかな?根本畳店は看板はあるが、商売はしてないように見える。

さて、子供の頃4-5年に一度は畳の表替えをしていた。表替えとは畳の表層のい草のシートを替える事で、一度表替えを行うと次はそのい草のシートを裏返す作業をする。新調するというのは余程のことがない限りやらなかったと思う。

当時の我が実家の庭に畳の表替えをするスペースがあったからか、畳業者さんが実家にやってくると庭に作業台を組み立てて、一枚一枚畳の表替えを行っていく。座敷の畳を敷き込みカギと呼ばれる先端が湾曲している金物道具で畳をかっこよくすくい上げる。作業台の上に畳を乗せる使用していた表を外し、新しい畳表を乗せ、畳の大きさにカットしていく。

片側をカットしたらまち針で畳表を固定し、もう一方の片側をカットしていく。次に、縁敷(へりしき)という千枚通しみたいな金道具で固定しながら縁を付けていく。この縁敷(へりしき)がいかにも畳屋さんって感じで面白い。

江戸時代から脈々と続く”先用後利”の商売、富山の薬屋さん

薬箱

Memed_NurrohmadによるPixabayからの画像

無料で薬箱を置き、お客さんに使ってもらってから、後で集金する置き薬商法。つまり、先用後利の商売だった、富山の薬売り。これは江戸時代初期から続く商売だったらしく、続いてきたのはしっかりとしたマーケティングをしていたからなんだそうです。置き薬を置いた家の家族構成、どんな持病が有るのか、どんな薬をどれだけ置くのか、事細かに記録していたんだそうだ。

その代表格が廣貫堂という会社だそうで、戦前は日本国内だけでなく、アジアに進出して薬箱を置いていったんだそうだ。残念ながら戦後撤退したそうだが・・・また、現在は医薬品の受託製造も行っていて、新しい時代には新しい時代のビジネスをしているようだ。詳しい事は廣貫堂の歩みというページや顧客との絆をつくる“富山の置き薬商法”最前線というページをご覧いただきた。

子供の頃は松戸にも来ていた富山の薬屋さん

子供の頃は、我が家にも富山の薬売りが来ていた。八畳間の机の下にその薬箱は置いてあったっけ・・・薬屋さんが来ると薬箱の中を確認し、使用した薬の料金をいただき、家人と話をしながら、その家族の変化を聞く。必要とあれば、その家族に合わせた薬に置き換えて補充していく。そんなシステムだった。

子供が居ると紙風船をくれた。薬も所謂市販の薬と若干商品名が違うものが入っていた。ケロリンの様でケロリンでない薬や正露丸のようで正露丸でない薬・・・でもどんな名前だったか良く覚えていない。富山の薬売りはネットワークが出来ているのか顧客が重なることはなかったようだ。

嘗て、現在のインペリアルマンション(松戸市竹ヶ花)の先の保健所の手前にFさん宅がある。実は、そこが富山の薬売りの指定詰め所或いは宿泊所のような形で利用されていた。栄町に住む同級生宅にも富山の薬売りが昭和50-60年代まで来ていたらしいが、置き薬をやってくれる家が一軒また一軒と減り、同地域で我が友人の家だけになってしまったらしく、効率の問題から薬売りも来ることを断念したという話を聞いたことがあった。

しかし先述したように富山の薬売りは決して斜陽産業ではなく、まだまだ伸びしろのある未来の有る会社らしい。

引き売り色々

引き売りの豆腐屋さん

我が家の近くに引き売りに来たのは小根本の埼玉屋さんだった。木製だったかアルマイトだったか忘れたが、豆腐の入った大きくて四角いお櫃の様な箱を自転車の荷台に載せて来た。昔の日本のコメディアンの榎本健一に少し似たおじさんで、ハンチング帽を被って、真鍮?のラッパでプープーと二階調で吹きながらやってくる。

お得意さんの家の近くに来るとゆっくりになる。場合によっては待っていてくれる。買いに行く時は水を張ったボールを持っていく。だから、走っていける訳ではないので、「豆腐屋さ~ん!」と声をかければ、そこで自転車を停めて待ってくれる。今から思えばノンビリした時代だった。埼玉屋さんは小根本の日の出湯の近く、或いは栗原酒販さんの横の道を向山下の崖の方向に歩いていった場所にあった。

埼玉屋さんの近くには貸本屋もあった。10年くらい前に近くに行ってみたが、様子が変わっていて埼玉屋さんは無くなっていた。そういえば、アーバンヒル松戸の横にアビーロードというレコード屋と文房具屋の入ったビルがあったが、そこは確か埼玉屋ビルと呼ばれていた。もしかして、埼玉屋さんは豆腐であのビルを建てたんだろうか?だとしたらすごい。ちなみに現在同場所にはマンションが建設されている。

引き売りの納豆屋さん

豆腐売り程頻繁ではなかったが、納豆売りは朝、早い時間にやってきた。春から秋にかけての午前6時頃だったと思う。親に言われて、お椀を持って納豆屋さんまで行くと、そのお椀に飯杓子の様なへらですくい入れてくれ渡してくれる。お椀が無い場合は、経木(きょうぎ)に包み入れてくれた。

「からしは?」と聞かれるので「はい」と言うと山盛りでドッサリ入れてくれた。単なる粉からしを練ったものなんだろうけど、何となく粒が粗くてザラザラして特別の感じがした。この納豆売りの納豆は粘りも強く好みだった。根本の内山医院の隣の納豆工場で作っていた”たまご納豆”は発酵が弱いのか、粘りが出なくてあまり好みではなかった。

ただ、あの引き売り納豆屋さんはある時期から全然来なくなってしまった。

物干し竿屋

青竹

mdrosenkransによるPixabayからの画像

物干し竿の販売もあった。彼等は昭和60年以降に来ていた記憶があるが、軽トラックの後ろに竿を立て掛けて「竿や青竹・・・・」と良いながらやってくる。しかしながら、誰もこの竿屋から竿を買う姿を見かけた事が無い。私は、どうしてあの商売が成り立つのか不思議で仕方なかった。そういえば以前、山田 真哉著の”さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学”という本を読んだ時、なるほど・・・と思ったが、どうしてなのか忘れてしまった。

ただ、街のカーテン屋が客が全く入らないのに何故店をやっているのかという疑問の回答にはなったのは覚えている。案外関連の商売があり、そちらで商売になっているからなんだそうだ。面白い本だった。


石焼き芋売り

子供の頃、石焼き芋売りはリヤカーで来ていた。考えてみると大変な商売だと思った。ただ、子供の頃は、石焼き芋は買うものじゃないと思っていた。何故なら、サツマイモさえあれば、一斗缶の焚き火の中に入れて、焼き芋を自分で作って食べることが出来たからだ。皆さんはどうだろうか?

昭和50年頃就職し、東京の勤務先に通っていた。その勤務先の周辺は住宅が多数残っていて、生活の香りのする場所だった。その為か、石焼き芋屋がやってきていた。その頃はリヤカーではなく、軽自動車などに窯を乗せていた。そうして「おいもだよ、おいしいおいしい、おいもだよ」と良いながらやってきた。

野菜売り

野菜

Jerzy GóreckiによるPixabayからの画像

野菜売りはいまだにやってくる。何を言っているのかよく分からないかけ声でやってくる。竹ケ花の我が実家付近には白井市の農家のおばちゃんが米や野菜を売りに来る。2020年現在もやってくる。この野菜売りは老齢の人が多い場所では、重宝するらしい。トラックで来ても買っているのは、かなり年配の人ばかりである。

同時にこういった野菜売りは顧客サービスも忘れていない。いままで客だった人が来ないと、一生懸命探ろうとする。商売のためとはいえ、いわば、民生委員みたいな役目をしているとも言える。

その他ご意見から

松戸に住む知人からコメントがあり、我が家にはこんな物売りが来ていたよとの事です

  • 「玄米パンの焼~きたて~」
  • 「石焼芋のほっかほか~、あつくておいしい焼き芋はいかがですか~」
  • 「焼き芋とう~もろこし さあ、いらっしゃい、おいしいですよ~」
  • 「網戸の修理はいかがですか~ 1枚1400円から、見積もり無料~」

又この知人が東京にお住まいだった頃、ロバのパン屋というのがあったらしい。珍しいですね!

  • 「ロバのパンが来た。ロバの人形が車に乗っていたかなー、玄米に粒アンが入っていてこおばしかった」

その他、栄町に住む同級生が住宅街におでん屋さんが引き売りしていたらしい。詳しいことが分かり次第掲載したいと思います。

コメントありがとうございます。

 

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