泥面子
泥面子、”どろめんこ”或いは”どろめん”と呼ぶ。3-4cm角の面型に粘土を詰めて素焼きにしたもので、江戸時代、享保年間に登場、大阪が発祥らしいが、その後、各地に普及したらしい。江戸では浅草東北部にある今戸で今戸焼の一つとして作られたらしい。今戸は言問橋付近から北方面の地区。
今戸焼き
今戸焼は素焼き、楽焼の陶器で天正年間(1573年-1592年)に始まったと伝えられ、最後の今戸人形師は尾張屋・金沢春吉さん(明治元年~昭和19年)だったそうだ。下には今戸焼のウィキペディアであるが、「歌川広重『名所江戸百景』の「隅田川橋場の渡し かわら窯」がある。前景が浅草橋場町と呼ばれた一帯で、今戸焼の窯から煙が上がっている」と説明している。
泥面子の遊び
遊び方については色々あるようだが、どうやら穴一遊びに由来しているらしい。
松戸で見つかった泥面子
松戸で見つかったというと大げさですが、この泥メンコは区画整理前、松戸の現在のイセタン付近に住んでいた方から、ヤフオクを通じて入手したものです。何でも松戸市秋山の農地で見つけたのだそうです。
秋山の農地で見つかった泥面子
いかがでしょうか?一見怖そうですが、可愛いでしょ!
泥面子の大きさ
大きさが分かりやすいように100円玉と並べてみた。だいたい直径2cm程度である。
秋山の畑で発掘した理由を考えてみたい
泥面子が東京近郊の畑から出土する理由には大きく2つの説があります。一つは肥料の中に入っていた。もう神事です。
江戸ゴミとして運ばれた説
江戸の頃から昭和の30年代初期までは江戸近郊の地域で、米・野菜などの食料を作り江戸(東京)に運び、江戸(東京)からは汚穢(つまり便)を運び、近郊の田畑の肥料に使われていたわけです。この江戸の汚穢の中に泥面子が含まれていて、肥料として田畑に施肥したことで、田から泥面子が見つけられるという説です。
実際、我が母が松戸に嫁に来た頃は、江戸川に汚穢船が行き来をしていたと語っていました。下記は所沢の三ケ島中の生徒が拾ってきた泥面子について、語っているページです。
その他泥面子についているページ
下記は市原市埋蔵文化物調査センターの書き込みです。「大きさは1から3cm程の円形を呈するものを基本とし、その形態から面打(めんちょう)・芥子面(けしめん)・面摸(めんかた)に分類されています」と書かれていて興味深い。
神事としての説
大阪や関東近郊だけかと思ったら、九州の熊本でも泥面子が発掘されることがあるそうだ。熊本県伝統工芸館のサイトでは「江戸時代、春の神事に五穀豊穣を願って田畑に撒いた泥の面子です」と書かれている。
この泥面子は木葉猿窯元が作っているもので、「約1300年前「虎の歯(このは)の里」に侘住まいをしていた都の落人が、夢枕に立った老翁のお告げにより奈良の春日大明神を祀り、木葉山の赤土で祭器を作って残りの粘土を捨てたところ、それが猿に化けたという伝説から生まれたと言われています」とのことです。
基本的には猿の焼き物を作っているようですが、泥面子も作るようです。
結論としてはどちらなのか?
私の結論は次章で書きますが、それが正しいのかどうかはなんとも言えません。最終的に、ではどちらなのか?という事は皆さんがめいめいに考えていただきたいのです。市川歴史博物館でも「祭祀説、塵芥・下肥混入説など諸説があり、今もなお疑問な点が多い」としています。したがってどちらなのか、なんとも言えません。
ただ、市川歴史博物館に行くとわかりますが、数が非常に多くて、塵芥・下肥混入説を基本に考えた場合、いくら長い期間だとは言っても、そんなにたくさんの数がきっちり運べるのか?と疑問を感じざるを得ません。
道草亭ペンペン草としての結論・考え
結論から先に申し上げますと、私は泥面子が各地の田畑から出土する理由は、農家の人々が五穀豊穣を願って、何らかの場所で購入し、それを田畑に撒いたのではないか?と考えています。これが私なりの結論です。
理由:1
上の写真を見てわかると思いますが、まだ泥面子に顔色が残っているのです。頭には青い色、鼻の辺りには赤い色です。仮に肥の中にしばらく入っていた泥面子であったとしたら、これほどの顔色を保っていられるのかどうか疑問です。
理由:2
汚穢は船で運ばれてきますが、そのまま撒くのではなくて、一度溜めに蓄えて、発酵させることによって、肥料になります。実際に畑地に撒く際は、柄杓で桶に詰め替え天秤棒で担いで畑に行きますが、液体状になった肥料を撒くことになります。このような作業の中で、汚穢の中に泥面子が入っていても溜めの底に沈殿するのではないか?
そして桶に汲み出す時に溜めの底の方まで汲まないので、柄杓にそもそも入らない。さらに柄杓に入ったとして、桶に入れたとして、柄杓で畑に撒く際に桶の中から泥面子を拾いきれないのじゃないのか?と考えています。
理由:3
これは理由:1に関連しますが、例えば、柴又帝釈天の参道沿いで題経寺に入る手前の園田神佛具店があって、そこでは神事仏事用関連商品を売っています。例えば、蜷局を巻いた蛇が売られていますが、蛇は元々雨乞いの龍の化身ではありますが、それだけでなく商売繁盛などのご利益があるとして、弁天様へのお参りの際お供えするものです。
これは曾祖母から聞いた話ですが、松戸市の小根本に池田弁天様があります。市役所のすぐ近くです。ここでのお参りは供えてある蛇の置物の首を折り持って帰るのだそうです。その首に願掛けをして、願いがかなったら新しい蛇の置物をお供えするんだそうです。この首を折るという動作にもヒントが隠されているように思います。
多分、浅草寺の参道沿いやその他の縁日の開かれるお寺や神社の参道で、あんな感じのお店、或いは露天で泥面子が売られていたのではないか?つまり、五穀豊穣祈願の目的で泥面子を買っていく農家の人が多かったんじゃないかな?と思うのです。
土偶と泥面子
縄文時代に存在した土偶を割って、畑に撒いたという説があります。これは五穀豊穣の目的だったと考えています。この土偶が時代の変化と共に、簡易的な行為として泥面子の形で畑に撒いたのかもしれません。
中国の長江(揚子江)中流域で8000-14000年前に稲作文化があった
稲作文化は弥生時代に大陸から伝わってきたという説があります。ただ、最近は縄文時代にすでに作っていたなどの説もあります。実は、国際日本文化研究センター安田喜憲教授がこんな事を発言している。
「長江中流域において稲作に立脚した稲作農耕集落の誕生が暦年代8000年前までさかのぼることは確実であり、稲作農耕の起源はそれよりもはるか以前の1万年以上前、おそらく1万4000年前頃までさかのぼる可能性がきわめて高いといってよいであろう」
縄文時代が紀元前3000-13000年頃と云われているので、仮に長江中流域で稲作農耕集落が1万年前に始まっていたとすると、縄文期の比較的最初の頃に近いという感じになる。こうなってくるとそれから一万年くらい経た頃が弥生文化なので、果たして稲作が伝わるのに一万年もかかるのか疑問になる。これはどう考えても縄文期に伝わったのではないか?と考えてもおかしくない。
土偶はこの縄文時代に作られたと云われています。
ハイヌウェレ型神話と日本神話
世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、ハイヌウェレ型神話があります。これは殺された神の死体から作物が生まれるという考え方で、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布しています。
このハイヌウェレ型神話に似た日本神話があるようです。下記はハイヌウェレ型神話のウィキペディアより:
「『古事記』においては、岩戸隠れの後に高天原を追放された速須佐之男命(素戔嗚尊)が、食物神である大気都比売神(おおげつひめ-)に食物を求めた話として出てくる。大気都比売は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差しあげた。しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまった。大気都比売の屍体から様々な食物の種などが生まれた。頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれた。神産巣日神(神産巣日御祖命・かみむすび)はこれらを取って五穀の種とした」
土偶の破片にすることハイヌウェレ型神話からの流れではないか?
神話学者の吉田敦彦さんは、縄文時代中期の土偶の大半が地母神的な女性を表現しており、且つ破壊されている点に注目した様です。
土偶についてNHK
これはNHK for Schoolのビデオで土偶について語られていますが「土偶は女性をかたどったもの、しかも妊娠した女性が圧倒的に多い・・・中略・・・女性の妊娠を自然の恵みになぞられて、豊かな実りを願い、あるいは感謝を捧げたのではないかと考えられています」と説明しています。
『土偶を読む』(竹倉史人、晶文社、2021年)について
日本の宗教人類学者の竹倉史人(たけくらふみと)さんという方がいます。この人は考古学者とは又違った視点から土偶について考えています。この竹倉史人の土偶に関する考え方について、頸城野郷土資料室の石塚正英さんがコメントのリポートを残していて、非常に興味深い。
頸城野郷土資料室学術研究部 研究紀要 Vol.6/No.22, 2021.10.9、ディスカッション・ペーパー「土偶は植物そのものという新解釈をめぐって」『土偶を読む』(竹倉史人、晶文社、2021年)へのコメント、石塚正英さん作成です。
「土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉
の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでい
た主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている」
「すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ
写実性に富むものだったのである」
「もともと聖なる存在であったものを、儀礼を通してもともと聖なる大地に戻す。土偶の破壊と散布、それはごく自然な行為」
こんな事が書かれていて、これに従えば、食用植物をモチーフとした土偶を砕き畑に撒くことによって五穀豊穣を願ったということになります。
竹倉史人著『土偶を読む―130 年間解かれなかった縄文神話の謎』については、アマゾンで買えます。下記参照。
地母神信仰からという説
関裕二著 新潮文庫”古代史謎解き紀行III” 新潮社出版の191頁に地母神信仰から畑に撒いたという説について下記の様に書かれている。妻が読んでいた本です。
”縄文時代の土偶は、乳房を必要以上に大きく造形するなど、「女性」を強調した物が多く、また、ほとんどが破壊された状態で発掘される。それはなぜかというと、「女神を殺して土に埋め、そこから穀物や稔りを獲得する」という地母神信仰が、縄文社会を彩っていたからと考えられている” 関裕二著 新潮文庫”古代史謎解き紀行III” 新潮社出版の191頁
最後に
20年近く前ですが、当地の自然散策チームに先導さてて、千駄堀の畑を散策していた時に、縄文土器の破片を発見した事がありました。その頃は、それほど、気にしていませんでしたが、あの土器はもしかすると土偶の破片だったかもしれません。今となっては分かりませんが、昨今のいろいろな方の説を読むにつけ、五穀豊穣の為に撒いたという考え方がもっともらしいのではないかと考えます。
泥面子の話がえらく、壮大な話になってしまいましたが、なにかわかることがありましたら、その際にアップデートしますね。
コメント
「理由:3」と似た様な話を読んだことがあります。
野村胡堂著「銭形平次捕物控 鈴を慕う女」の冒頭で、
女が「泥焼きのお狐さん」を道に落とし、狐の尻尾が折れて云々というシーンがあり、
それは、徳蔵稲荷の門前で売っている素焼きのお狐さんに泥絵の具を塗ったもので、
ひとつが十二文で、懐に入れておくと願い事が叶うということで、
手慰みをする者(博徒)が持つとか、門前の土産物屋で芸者衆が買っていくなどなどの話が出て来ます。
ネットでも無料で読み聞きできるので、興味がありましたら読んでみて下さい。
うしとら様、
野村胡堂著「銭形平次捕物控 鈴を慕う女」早速冒頭を読んでみました。
面白いですね!
そういえば、理由:3に、折るという関連の文章を入れ忘れていたので、追加しておきました。
小根本の池田稲荷様の蛇の首を折って持ち帰るという話です。