松戸駅西口の高砂通りについて(昭和30-40年代を回顧)
現在の松戸駅付近は日本のどの地方都市に行ってもあるありふれた駅前風景でしかない。大手のスーパー、銀行、コンビニ、空虚なぺデストリアンデッキがあるだけ・・・ところが区画整理前の松戸駅周辺は全くイメージが異なっていた。細くくねった道、物陰のある道、界隈性のある場所・・・危険な場所が無かったわけではないが、怪しげな魅力があるからこそ情緒ある活気に溢れた街だったといえるのだろう。
駅前通りは路線バスの通り道であったが道が細く、バス同士がぎりぎりですれ違う。新小岩駅付近は今でもそうだという人がいたが私は確認したわけでない。松戸駅付近のうち最も馴染みのある場所は高砂通り。高砂通りは賑やかな商店街、飲食店街の中心であり、お気に入りの通りだった。当時家にはテレビもなかったし、生活の中に娯楽が少なかった。
したがって家に居てもすることがなく家族で松戸駅付近に夕涼みに行くことがあった。夕涼みの際は必ず高砂通りを通ったのを覚えている。子供の私もあの活気を膚で感じた。上の航空写真は国土地理院の空中写真(1961年-1969年)の松戸駅近くの高砂通りを中心に見たものである。
かつての高砂通り位置(松戸駅西口都市区画整理事業前)
下の地図は昭和37年ー45頃の高砂通りの位置と店舗などについて、OpenStreet Mapの現在のマップ上に記述して作成したマップです。オレンジ色の太いラインが旧高砂通りの位置です。現在の高砂通りとかなり違った位置だったことが分かると思う。
もしこの地図を画面いっぱいにご覧になりたい方は、フルスクリーン表示をクリックすれば見られます。
高砂通りの店舗リスト(昭和37~45年)
高砂通り西側(金ケ作陣屋道から南へ)
金ケ作陣屋道
- リスボン
- マイン
- 杉橋メガネ店
道
- 玉木屋菓子
- 高砂屋倉庫
- 金馬車
- 東光ゲームランド
- 金星
- 小林印房(昭和45年頃まで)
- おにぎりやど(後にやど寿司)
- 楽園
道
- スター旅館
- 中華料理
- お社
- 玉子屋
- 初音
- 下駄屋
- 上州屋(乾物・食料品)
- 美松化粧品
- たつみ
- ミユキ洋装店
- 喫茶わかまつ
- 相互土地建設
- 松戸薬局
松戸駅前通り
高砂通り東側(金ケ作陣屋道から南へ)
金ケ作陣屋道
- ウテレス
- ロサ
- ハレム→シャラント
- 芹沢商店
小道
- 芹沢商店倉庫
- 東條パーマ
道
- 斎藤果実店
- 花柳→鳥孝松戸支店
- 双葉旅館
- 宝月旅館
道
- 角屋洋品店
- 万上→S蔵
- 河内医院
- 長束雑貨
- ナガツカ
- 田中化粧品店
- 大橋工務店(→辰正堂書店)
小道
- 林美粧院
- 波場パン
松戸駅前通り
高砂通り西側のそれぞれのお店について
これは右が金星、左が斎藤果実店で駅前通り方向を見ている写真ではないかと考えている。この道路の幅員は夕涼みにちょうど良いと思いませんか?
リスボン・杉橋メガネ店
これらの店については当時子供の頃であった為、分からずどなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、情報お願いします。
マイン
このお店にお勤めであったご子息の方からコメントをいただきました「私の小学校の入学の時にマインのママがランドセルをプレゼントしてくれました。ターキーみたいな人でしたが名前は分かりません。松戸酒場Ⅱの上に後年住んでいました」だそうです(20210813)。ありがとうございます。ターキーという事は水の江瀧子さんの事かな?素敵な方だったんでしょうね!
玉木屋菓子
普通のお菓子屋で色々なお煎餅があったそうです(まつど観光大使のI女史からのコメント2021年8月13日)。ただ、大正時代に発行された松戸案内を見ると、玉木屋の少し裏に松戸出身の力士松登の本名と同姓の家作がある。これは力士松登の実家ではなかろうか?
松登の父親は常磐館で弁士をやっていたが、トーキーの時代となり、廃業し高砂通りにカフェ永楽を開業していたと聞く。その場所がここだろうか?詳しい方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いします。又、Youtubeで松登の取り組みを見つけました。下記です。
昭和28年初場所二日目で横綱照國に対する小結松登の取り組みです。松登はこの取り組みで横綱照國を寄り切りで破ります。二敗となった横綱照國はこの後休場し、引退します。印象的ですね。もう一つの取り組みです。
昭和31年初場所千秋楽。初代若乃花との取り組みです。松登と共に大関同士の取り組みで、若乃花が勝ちます。この若乃花は後の若貴ブームを呼んだ若乃花と貴乃花の伯父に当たります。松登の左足をご注目ください。包帯が見えますね!これは左足の甲を骨折した為です。
この初場所は新大関として期待されていましたが、五勝十敗となり、大きく負け越します。松登は足のけがや糖尿病などでこの後振るわずでした。横綱を目の前にして惜しい力士だったと思います。
金馬車
金馬車は古い高砂通りの時代のお店だが、昭和50年前後の西口年区画整理事業を経て、高砂通りが新しくなってからも、新しい店舗を構え存在していた。場所は酔虎付近で、記憶では2002年くらいまではあったと思う。私は残念ながら入ったことが無い。営業当時、店の前を通った時に中の様子を伺いながら通り過ぎた事はあった。
金馬車をご存知の女性の方からの情報ですが「金馬車のバーテンダーケンちゃんかっこよかった」だそうです。2021年8月13日情報。
添付の写真は地域誌の”月刊まつど”の広告である。この店知らなきゃモグリだよ・・・と書かれている。ルンルンのマスターが「金馬車の様な歴史あるお店を無くすようでは、松戸の繁華街として非常に残念で勿体ない事だ・・・」とおっしゃっていた。耳が痛い。
東光ゲームランド
金ケ作陣屋道より北側にあった松戸第一珠算学校にそろばんを習いに行っていた頃、そろばん授業終了後、近所のS君と南花島に住んでいた故M女史と三人で立ち寄ったことがあった。それは東光ゲームランド。当時ゲームセンターは不良のたむろする場として、学校からは一応ゲーム禁止だったにもかかわらずお店にいった。
中に入り一番目立ったのはフリッパーゲーム(別名:ピンボール)だった。フリッパーゲームは大型のスマートボールのようなもので、手前に下り勾配の盤面の中で転がってくる直径三センチくらいの鉄ボールをフリッパーと呼ばれるレバーでバタバタと跳ね返す。盤面のオブジェクトに当てることによりガチャン、チン・チン・チンという音と同時に点数が上がる。
現代のフリッパーゲームはデジタル表示になってイルミネーションもすっかりケバケバしくなったが、この当時のフリッパーゲームはすべてアナログでドラムがカチ・カチという音ともに回っていく。単純で簡素であった。その他、原始的なドライブゲームもあった。蛇行する道路の真ん中に数十センチごとに凸があって、ハンドルで車をコントロールしながら、このポイントの上を車を通して点数があがる単純な方式。
スピードもゆっくりで現在の高性能ゲームとは比較にならないが、それでも充分刺激的だった。クレーンゲームもあった。クレーンで掴むのはラムネ菓子等の駄菓子だった。
金星・小林印房・楽園
これらについては分からず、なにかご存知の方がいらっしゃったらアドバイスお願いします。
おにぎりやど(後にやど寿司)
おにぎりのお店は松戸酒場IIの前身らしいが、はっきりと分からず。
うなぎのひっかけ釣りのお店
場所は現在のマーケット(飲み屋街)の少し先だったと思う。多分、小林印房跡に出来た店ではないかと思っているが、確信は無い。店名は覚えてない。店内には縁高がせいぜい45センチ程度の堀が設置されていた。堀と行っても大きい生け簀のようなもので決して立派な物ではなかった。水は透き通りうなぎが泳いでいるのが見える。短い竹竿(多分シノダケだと思う)を店主より借りる。
釣り糸の先に所謂ギャング針という引掛け専用の針がついている。これでうなぎを要領よく引掛ける。コツがあり狙うのはエラ。他の部分は先ず駄目で、特に体はツルツルしてしまい針に掛かる筈がない。ウナギの背中から針を廻しエラの部分にエイとばかり掛ける。簡単なようで意外に難しい。上手なおじさんもいた。「僕もいつか上手になりたい」と思った。
釣り上げたうなぎは店内で捌いてくれた。店先に調理台があってその場で捌いて、串を打ち、炭で焼く。蒲焼きの良い香りを漂わせていた。多分、釣れば釣るほど客が損をする仕組みになっていたと思う。釣り上げた本数x○円=合計ではなかったか?通常関東スタイルの蒲焼きはウナギを捌いた後素焼きを行い、次に蒸すという動作が入る筈だ。
この蒸す段階が入る為、関東式は関西式よりもさっぱりした口当たりの蒲焼きだとされる。ところがこの店は蒸しの行程はなかったと思う。となると関西式?長続きしない店だったので今となってはさっぱり分からない。うなぎ捌きは実に面白い。独特のつかみ方です~と首もとを掴み、さっとまな板に乗せ、千枚通しのような道具でトンと首を刺して、包丁でス~と引いていく。
これが要領よく早く行われる。キモなどの食べられる部位を取り去り、残りは足元のバケツに廃棄。バケツの中を見ると身も内臓も剥ぎ取られ、頭と骨だけの姿になったウナギがまだ生きている。口をぱくぱくさせた姿がかわいそうだった。もし何処かにうなぎの引掛け釣り屋があれば行ってみたいが、果たして何処に行けばあるのだろうか?
そういえばバブル崩壊前の台湾台北のある街(もうどこだか忘れた)にウナギの釣り堀があった。中を覗くまではしたが、時間がないため遊べなかった。
スター旅館・中華料理・お社
これらについてはよくわからない。情報ご存知の方がいらっしゃいましたら宜しくおねがいします。
玉子屋
「玉子屋は生卵と茹で玉子(店先でセイロで蒸して)売っていました。母の誕生日にここで生卵一個50円を買った思い出がありま」(まつど観光大使のI様からの情報です。2021年8月13日)
又、松の木通りが坂川を渡る手前に、以前そば屋さんがあった。ここのご主人が「元々玉子屋だったんですよ・・・」と語っていた事があった。Mさんだったが、Mさんがここに店を持っていたのかどうかは私もよくわからない。
初音・下駄屋
初音は分からず。「下駄屋は我が家の御用達のお店でした」(まつど観光大使のI様からの情報です。2021年8月13日)
上州屋
このお店は元々乾物、食料品のお店だった。当時からの名物男が居て、それがテッチャンだった。この店はニュー上州屋として現在飲食店をされている。名物男テッチャンは健在。
この上州屋の周りは小さな飲食店がひしめいていて、規模が小さくなった現在でも、その名残が感じられる。
美松化粧品、たつみ、ミユキ洋装店
これらのお店についてはよくわからない。何か情報を持っている方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いいたします。
喫茶わかまつ
わかまつは区画整理後も対面の区画に店を構え、いまでもお店を運営されています。ここのママさんは高砂通りを盛り上げようとしている若者たちに非常に好意的な様で、色々と協力している姿をお見かけする。
松戸薬局
松戸薬局は健在で、本町の医院にかかるときはたいてい松戸薬局で処方箋をお渡しする。
高砂通り東側のそれぞれのお店について
ウテレス、ロサ、ハレム→シャラント
ウテレス、ロサ、ハレムについては年代的に全く縁がなかった。ただ、シャラントに関しては、西口区画整理後、現在の楽の所にお店を新たに建てて、構えていた。私がまだ二十代前半の頃、入ったことがあった。決して安いお店ではなかったが、勉強になった。
芹沢商店
芹沢商店さんはいわゆる燃料屋さんで、現在は高砂通りの中央付近にビルをお持ちで、セブンイレブンが入っているところである。健在。
東條パーマ、斎藤果実店
分からず、情報求む
花柳→鳥孝松戸支店、
鳥孝さんは、区画整理後辰正堂書店裏付近にビル一棟丸々鳥孝さんで運営していたが、2020年未明、突然廃業され、ビルも壊されてしまった。店頭焼き場の男性が印象的だった。
双葉旅館、宝月旅館
どんな旅館だったのかは全く分からない。それにしても、昭和30-40年代は松戸駅近くに旅館が多かったのだなあ・・・
角屋洋品店
カドヤは(当時の店は一般的にそうだったが)お店の天井から服がたくさん吊してあり奥が見えない。間口を一面いっぱいに使った店つくりをしていた。香港の女人街を彷彿とさせる造りだった。ここに眼鏡を掛けた目のクリクリっとした女店員(店主?)が居た。あの人は今どうしているだろうか?西口都市区画整理後、カドヤは商売替えをして角屋というせんべい屋さんとなっている。健在。
万上→S蔵、河内医院
これらの店舗、医院は情報が無く分からない。どなたか情報求む。
長束雑貨、ナガツカ
「ナガツカは一中の先生が嫁いだ店で、その先生は今、地域新聞の関連業務をしています」(2021年8月13日の情報)この2つの店舗の関係は良くわからない。ただ、西口都市区画整理事業の後、鳥孝横にナガツカさんの飲食店があった。残念ながら入ったことは無い。
田中化粧品店
「田中化粧品店は同級生の家で、駅ビルにも店を出していました。同級生も店を手伝っていました」(まつど観光大使Iさんの情報です。2021年8月13日)
確かに、アトレの上にビューティスクエアタナカというお店があった。ただ、2017年1月28日に廃業されてしまった。実は、根本・本町地域には田中姓の方が多く、店名にもタナカが書かれていた店が多く見られた。田中茶店、田中美容院その他たくさんいらっしゃる。
大橋工務店(→辰正堂書店)
大橋工務店さんは2021年現在は東口の大橋ビルに入っていらっしゃる。私が生まれる前だと思うが、竹ヶ花の雷電神社の鳥居は大橋工務店さんが手掛けたと聞いたことがあるが、この広告を見ると”瓦斯器具と厨房器具の店”とある。同時に水道工事店なんですね!よく通った大徳さんも大橋さんだったけど、関係ないかな?
辰正堂書店さんは、元々、旧水戸街道の消防署前付近にお店があった。その後、高砂通りに移られた。西口都市区画整理事業以降は西口駅近くに大きなビル(当時は倉田ビル)の一階に入っていた。ところが、2012年12月12日に閉店され、現在は小金辰正堂に移られたようだ。ビルにはその後、ウエルシアが入っている。
林美粧院
千葉県県議会議員を輩出したお店。松戸では有名人です。
波場パン
中部小学校に通っていた近所のKaさんの次女が昔を思い出し「良く波場商店で菓子パンを買ったわ」と言った。私の住む竹ヶ花は中部小学校に行く生徒と北部小に行く生徒が混在していた。Kaさんは殆ど目の前に住んでいるのに中部小学校、私は北部小学校。当時の中部小学校は現在の伊勢丹の場所にあった。幼稚園も併設されていて、松戸町商店のご子息が通っていたのだと思う。
波場商店にジュース販売機があった。噴水型で機械の上部にドーム型のプラスティックの覆いがあって、その中でジュースが噴水のように噴き出してディスプレイしている。昔良く見かけたタイプだ。これを紙コップで飲む。今のように全自動ではなく一部手動だった。先ず紙コップを自分で取り出す→自分で紙コップをトレイの上に置く→お金を入れる→ボタンを押す→ジュースが出るとなる。この当時の自動販売機は単純で原始的な機構だった。
私がジュースを飲みたくて親の同意も得ず、勝手に紙コップを抜き出しトレイに置くと、母が困ったように紙コップをお店の人に返していたのを覚えている。松戸駅西口区画整理後、マーケット先の波場ビルに移り、パン屋さんはやめてしまった。その波場ビルも現在名称が変わってしまった。お店で菓子パンを売っていた方は元気なのだろうか?
自動販売機を初めて見たのは東京オリンピック開催の一、二年前だったと思う。場所は松戸本町通りから高砂通りへ入る角にあった波場商店。本体頭部の透明容器の中で美味しそうなジュースが噴水のように吹き出すディスプレイだった。思わず飲みたくなってしまう。紙コップに冷えたジュースが出てくる。そもそもジュース自体飲みつけなかった。
至る所にコンビニがある現在と違い、当時冷えたジュースを飲む為には街の飲食店で(あれはバヤリースだったか?)飲むか、或いはパン屋さんの缶ジュースや米屋のプラッシーを買い、家の氷冷冷蔵庫や井戸で冷やして飲む。話しが脱線するが、母から「バヤリースの瓶を抱え、蓋を勢いよく叩くとビーン!と割れるような音がした。
これは中が真空になっている証拠でジュースの保ちが良いんだなんて言っていたわ!」という話しを聞いた。話しはさらに脱線してジュースと言えば渡辺のジュースの素もあった。ただ、渡辺のジュースの素は買えなくて北部小学校前の吉岡文具店や北部堂で売っていた製造元不明の怪しげな粉ジュースを買い、掌に粉を乗せ舐め舐めする。
ミカンを搾って飲む手もあったかもしれない。ただジュースはそもそも夏に飲みたくなるわけで、夏にはミカンなど売っていない。否、昭和39年以降であれば、駅前のアリタや遠州屋果物店には夏でも輸入オレンジがあったかもしれない。只相当高価だったに違いない。両親に連れられて日本橋高島屋で生ジュースを飲んだ事があったがあれは全く別世界の飲み物だったと思う。
いずれにしても、あの波場商店のジュース自動販売機のイメージを探していたら、やっと見つかった。下記のリンク先にホシザキタイムトラベルというページに繋がっている。そこのページで、オアシスに出会えます。
機械名:オアシス, 製造:ホシザキ電機
あんなに大きな機械を波場さんは買ったのか或いはリース契約だったのか、いつ処分したのか、今となっては調べようがないけれど非常に気になる機械だった。
上は昭和40年青森県弘前のデパート”かくは宮川”の様子の動画だが、1:43付近にほしざきのジュース販売機が登場する。ご覧あれ!
ヒヨシさん
日吉さんは昭和30-40年代は高砂通りではなく、高砂通りと交差する道にあった。現在は高砂通りに面していらっしゃる。若い噺家を呼んで食事しながら落語を聞くというような素晴らしい取り組みをしていた。再び始めないだろうか?又、後述するがMad Cityによる取り組みに賛同し、各店舗に積極的に働きかけ、協力者を募り、高砂通りの発展、街としての楽しさ発掘の多大なる貢献をしている店である。飲食、喫茶両方とも応援していきたいお店である。
関連ページ
この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。
最後に
まつど観光大使のI女史に北千住の西口の飲食店街に連れて行っていただいた事があった。この北千住西口の飲食店街を夜歩いてみて、思い出したのは高砂通りだった。人が歩くのにちょうど良い幅員で、何となく右の店、左の店と千鳥足をしたくなってしまう感じがしないだろうか?
現在の高砂通りは自動車には便利な幅員かもしれないが、人がショッピングをして歩くには広すぎる。また、高砂通りの歩道は夜店などには規制があるらしいが、街づくりに何か活かす事が出来ないだろうか?夜市などが出来るようにしたらどれだけ面白い街になるだろうかと考える。
高砂通りの楽しい取り組み
コアラテレビでも取り上げられたが、2013年頃行われていたMad Cityさんによる取り組みをご紹介したい。
どぶ板通りの事
忘れそうになったが、一応書いておこうと思う。この通りは今で言えば能登歯科の横の道(金ケ作陣屋道)から入って20メートルほどのゾーンだろうか?私が子供の頃は松戸第一珠算学校に通うための道で、道の中央に排水溝があり自転車で通るとパタパタ音がして面白かった。これは岩瀬方面から流れてくる水道(みずみち)が坂川に注ぐ前の途中の場所だ。
私が子供の時分は、どうという道とは思わなかった。昭和30年代は大人向けの飲食店が軒を並べていた場所らしいが、どぶ板の事しか記憶にない。ここは地元の先輩諸氏からいろいろなお話をお伺いするが、ある意味松戸の陰影の一つであったのだろうと思う。その飲食店街と能登歯科の間辺りに駄菓子屋もあったそうである。
コメント
ルンルンのマスターのことが知りたいので返信頂けますか。
宜しくお願いします。
滝沢様のメアドにメールを送ろうと思いましたが、送信出来ませんでした。メアド間違えていませんか?
分かる範囲でお答えしようと思いますが、マスターのプライベートな内容が含まれてしまうかもしれませんので、この場ではお答えが難しい場合もあります。
いかがでしょうか?