ゲームレジャー

松戸とサブカルチャー

サイケデリック レジャー
stuart hamptonによるPixabayからの画像
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サブカルチャーについて

サブカルチャー

Brigitte WernerによるPixabayからの画像

サブカルチャーは現在の日本ではサブカルと略し、主にコミケの漫画やアイドルなどオタクな文化を指す場合が多い。これは狭義としてのサブカルカルチャーであるにも関わらず、むしろ日本ではそれが第一義の様な状態になっている。

デイヴィッド・リースマン - Wikipedia

しかし、その歴史を見ると1950年に米国の社会学者であるデイビッド・リースマンが初めて使った言葉らしく、当初は絵画やクラシック音楽等に代表されるハイカルチャーメインカルチャーに対立するものとして使われたらしい。これはある時はマイノリティカルチャーを指し又、ある時はベトナム反戦という時代的背景も手伝い、所謂カウンターカルチャーの意味合いが強かったらしい。

どうやら色々な面がありそうだ。先述したように日本でいうサブカルは当初のサブカルチャーからは乖離した意味合いに感じるが、中心のメインカルチャーから外れた一種のサブカルチャーの一つという位置づけであれば、理解できる。同時に、日本のサブカルが海外に逆輸出され、独自の路線を歩んでいる様にも感じる。実に不思議な存在である。

ここではこのサブカルチャーのいくつかの形態をなるべく松戸を視点に考えていきたい。又、それが難しい場合は、一般的なサブカルチャーの視点とし、その両方から考えてみたい。

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コミケ・コスプレ・フィギュア・ゲーム

日本でサブカルと言えば、コミケに代表されるコスプレ・フィギュア・ゲームが代表的なものだと思う。難しいサブカル論から始めると頭が痛くなるので、先ずは、柔らかいコミック・アニメに関わる文化を残してみたい。

コスプレと松戸

コスプレ

UnsplashAung Khant Maungが撮影した写真

コスプレの歴史を紐解くと歴史があり、えらく長くなってしまうので、割愛する。ただ、コスプレと聞いてイメージするのは、うる星やつらラムちゃんのコスプレやエバンゲリオンのコスプレだろうか?

それにしても、松戸市内を歩いているとコスプレのレイヤーグループと何度も行き交う事がある。どうやら、21世紀の森と広場、松戸中央公園やキテミテマツド等でフェスが開かれ、その参加者の様だ。21世紀の森と広場の会場の際は多くのレイヤーが八柱商店街を通る為、“コスプレに優しい街”のポスターを貼って応援し、松戸市もこれを後押ししている。

松戸市がいつからこういう取り組みを始めたのか、私としてはさっぱり分からないが、面白い現象だと思っている。

八柱商店街の取り組み

「コスプレにやさしい街」PRポスターを松戸市八柱の商店会が制作
女子高生がコスプレ衣装に変身しているイラスト、「コスプレにやさしい街 八柱」の文字――。コスプレイヤーを街に歓迎するポスターを、八柱駅前中央商店会(千葉県松戸市)が作成して話題になっている。ポスターには「週末の私は、変身する――」のキャッチ...

松戸駅近くでフェスがある時は、商工会議所近くのカフェバル類さんでは、多くのレイヤーが出入りをして中では撮影OKとフェスに協力している。

はぁと集会 @松戸 カフェ&バル 類
どこでも音楽祭さんが千葉県 松戸市で金曜日, 7月 10 2015に開催するイベントに関する投稿がディスカッションに5件あります。

コスプレ用撮影スタジオを運営するハコスタが色々とやっている企画の内の一つがアコスタで、これはコスプレのイベント。松戸では河津桜のアコスタやお盆の時期の松戸ラストサマーフェスが行われた。

松戸ラストサマーフェス 2022年8月28日

コスプレイヤーが集まる街、松戸でかわいいリアル謎解きゲーム開催! ファンタジーなストーリーでコスプレ撮影地を周遊しよう!
https://newscast.jp/news/8772314

株式会社キッチンガイズファクトリー

もともと松戸育ちのバンブー氏は元々ミュージシャンで、milktubというユニットを持っている。ある時ミュージシャンだけでなく、他に生きる道も作るためにバンダイの下請けでゲームのプランナーの仕事を数年した事で、ある時はミュージシャン、ある時はゲームプロデューサー、ある時はアーチストや作家のマネージメントもやっていて、プロダクションとしての面もある。

現在は、クラウドファンディングプラットフォームのCAMPFIREに顧問として参加しており、バンブーさんは多彩にえらく才能を発揮しているようだ。

別会社である、松戸コンテンツ事業者連絡協議会という会社で作ったのが、“秋葉原まで13時間 ~姫はゲームを作りたいっ!~”というスマホ用のゲームだったようだ。

松戸市が制作したノベルゲーム「秋葉原まで13時間~姫はゲームを作りたいっ!~前編」Android版が配信開始! | Gamer
松戸コンテンツ事業者連絡協議会は、Android版「秋葉原まで13時間~姫はゲームを作りたいっ!~ 前編」の配信を、2月28日よりGoogle Playにて開始した。

現在は、松戸ではなく、東京都墨田区東駒形4丁目24番3号に会社があるらしい。すごいね。

キッチンガイズファクトリー - Wikipedia

魔法少女まどか☆マギカカフェ

2011年前後だったか「フィギュアと一緒にくつろげるカフェ Good Smile Cafe」という店名で、松戸本町にオープンした。そこが期間限定で”魔法少女まどか☆マギカカフェ”を催していた。えらく行列が出来ていたのを覚えている。ここはインド料理のインド亭も経営していたGood Smile Companyの直営だった。

まどか☆マギカカフェオリジナルのコースターを配布したり、スペシャルメニューを注文するとまどか☆マギカカフェオリジナルステッカーを配ったり、キュゥべえプレート(850円),お菓子の魔女の執着デザート(700円)などキャラクターファンやグッズのコレクターにはたまらない店だったみたいだ。

Redirecting to http://error.jugem.jp/

一度グッドスマイルカンパニーの幹部の方と日暮商店でお会いしたことがあった。あの店は無くなってしまったが、フィギュアであれだけ人が集まるというのは、私にとって新鮮だった

キャラクター

昨年、松戸警察で採用されていたバーチャルTuberの戸定梨香の事で起きた批判問題、もっと明確な答えをして欲しかったなあ・・・ああいう時に政治家の力量が分かる。ただ、そもそも、MCN『VASE』と千葉県警のコラボに火が付いた問題だったのに、どうしてそれを千葉県や松戸市の行政を批判するのか、そして迂闊に行政が回答するのか、理解できない。

【松戸市VTuber問題】フェミニスト議連が色々と酷い件【オタク小話#30】 | オタク総研
こんにちは。オタク小話第30週です。バックナンバーはこちら さぁ先週・今週をざわつかせる迷惑案件「松戸市VTuber」問題について簡単にお話をさせていただきます…ガチな文章じゃないので御注意を(今週か...
千葉県警本部、松戸警察署、松戸東警察署、千葉県、松戸市、松戸市教育委員会宛の公開質問状を提出。およびその回答について。 – 全国フェミニスト議員連盟

ポケモンGO

Pokémon GO - Wikipedia

これは松戸でというよりは世界的な流行になった。2016年の発売後、街角のあちこちでポケストップがあるらしい事がSNSなどで広がると、あっという間に人が集まった。我が家の近くではダイエー松戸駅西口店前の松戸西口公園などがそれにあたる。樋野口に住む我が建築設計の友達が「街おこしで、色々な企画を考えてきたが、こんな方法で人が集まるというのは驚き」と語っていた。

オンラインゲームの人の動員力がここまですごいという事をまざまざと知った思いがしたものだ。

ゲームセンター

初めてゲームセンターらしきに行ったのはいつだったろうか?小5の頃根本のそろばん塾に通っていたが場所が高砂通りにすぐ出られるところだった。少し歩けば、そこはまさに盛り場の中で、東光ゲームセンターという店があった。ここにそろばん塾に通っていたM女史(南花島)とT君(竹ケ花在住)と一緒に恐る恐る入った。

今思えば、当時の機械はアナログでちゃちなものだったが、初めての私には刺激的で、ハラハラして面白かった。

松戸にかつて存在したゲーセン
電気式ゲームはゲームセンターやデパートの屋上、宿泊先の遊技場等でしか出来なかった。それが家庭用ゲーム機や発売以降徐々にゲームセンターに行く人が減り、それに伴いゲームセンターも減った。かつて活気のあった頃の松戸のゲームセンターについて、記述する
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松戸の盛り場

高砂通りと盛り場

takasago

昭和36年頃の高砂通り
(松戸市商店街診断報告書昭和37年3月発行 松戸商工会議所より)

建築そして、都市計画を勉強した我々が、盛り場を考える時、どちらかというと地域そのものや界隈性のあるエリアをイメージするが、何となくしっくりと来ない部分があった。そう思いながらも、かつての高砂通りについて、どちらかというと郷愁に近い感覚を持っていた。
ある時、この疑問に答える本があった。

吉見俊哉氏”都市のドラマトウルギー、東京・盛り場の社会史”において、こんな事が書かれている。

”われわれは「盛り場」を飲食店・商店・娯楽施設等が集中し、恒常的に多数の人びとが集まる地域として、商店街や繁華街、或いは歓楽街とほぼ同様の意味で捉えている。・・・後略・・・”

と言いつつ、吉見氏はこの定義が「どこか物足りない」と言う。そして、

”つまり「盛り場」とは、もともとは流動的で一時的な「盛(サカリ)」を、他の場所よりも濃密に抱えた空間であり、したがってこの言葉の本来の重心は、「容器」である商業施設や娯楽施設よりもまず、「中身」である「盛」そのものにあるのである”

と明確に語っている。そして、

”基本的に「盛」は、エネルギーの高い、高揚した状態を指し、「サカリがつく」という言い方に示されるようにしばしば性的なコノテーションを含んでいると考えられる”

と書かれている。これを読んで、私が盛り場の定義の曖昧さの中に見ていた、何か異なるものはコレだ!と感じた。表の家を始めた頃、明るくなった代償に活気のなくなってしまった高砂通りについて寂しさを感じ、陰影礼賛という谷崎潤一郎の本の題名をイメージしつつ考えていた。

しかし、かつて高砂通りに求めていたのは、まさにこの”盛り場”であり、即ち性的コノテーションだったのかもしれない。私は何となく、そういうコノテーションにひかれて、盛り場を彷徨っていたのだと思う。それは、西口の旧どぶ板通り、女性会館ゆう横の旧松の木通り平潟エリア、東口のポンテ建設前の飲食店街、東口のイトーヨーカ堂付近から入る三角ビルの横道、岩山稲荷界隈、

昭和30-40年代の松戸駅西口商店街、高砂通りは活気があった
現在の松戸駅付近はありふれた駅前風景でしかない。大手のスーパー、銀行、コンビニ、空虚なぺデストリアンデッキがあるだけ、ところが西口都市区画整理前の松戸駅西口商店街は全くイメージが異なっていた。細くくねった道、物陰のある道、界隈性のある場所な
松戸駅西口、昭和の頃の中通り商店街の風景
松戸駅西口に中通り商店街があり、これは現在のふれあい通りに当たるが、昭和の頃都市区画整理で幅員拡張され、道路位置もかなり調整された。中通りには様々な種類の商店が集まっていた。焼鳥の開進、映画館の松竹館、カメラのイマイ、室内釣堀の太公望、モンダ書店

屋台の街

バブル崩壊の頃までは松戸駅周辺にはおでんの屋台やラーメンの屋台があった。憶えているのが、松戸駅西口の松戸ホール前のデッキの階段下付近の屋台、松戸駅東口のタクシー乗り場横のデッキの階段下付近の屋台、1980年初頭には松戸駅東口の扇屋ジャスコ横の空き地(現在の新東京病院)付近におでんの屋台があった。

夜泣き蕎麦

いらすとや
https://www.irasutoya.com/

1960年代には夜泣きそば(いわゆるチャルメラを吹きながら来るラーメン屋)が竹ケ花の実家の前に来ていたし、数え上げれば多分キリがない。しかし、その後、道路交通法が厳しくなり、路上での飲食販売が難しくなり、姿を消していった。ただし、限りなく屋台風で、敷地内で営業している店が流山街道沿いにあるとんこつ貴生、youtubeのリンクを下に貼ってみた。

松戸飲み屋街(マーケット)

マーケット

マーケット
2010年10月17日撮影

松戸駅前通りから高砂通りに入ると飲食店が並んでいる場所がある。この界隈が松戸飲み屋街(通称マーケット)であり、上述した○○アノテーションを感じる松戸における残り少ない盛り場の一つと言える。私が入った事があるのはのぐち屋、ともこ、綱ちゃん(閉業)、たぬき(閉業)だった。一番多く通ったのは綱ちゃんかな?

綱ちゃんに来店する客は色々な人が居て面白かった。野坂昭如の様な大きな声の中島さんはすでに鬼籍に入ってしまったが、酔虎にも来ていたっけ・・・そういえば、コロナですっかり外出しなくなってしまい、八柱霊園にお墓参りに行けないでいる。最近はすっかりマーケットに縁遠くなってしまった。/

 

松戸の商店街を中心とした寄席・ダンス

日吉:よいどれ寄席

柳屋千寿さん

柳屋千寿さん、ひよしにて酔いどれ寄席での一席
2007年撮影

かれこれ10年くらい前まで、居酒屋ひよしさんで、月一程度のぺースで寄席が催されていた。定額で飲み食べ放題だった記憶がある。話し手は柳家千寿さん。千寿さんは何となく爆笑問題の太田のような人で,誰かがお守りをしてないとどうなっていくのか見えない、ハラハラする一面を持っている。私と年齢は大して変わらない。

チョイと事情があり無冠の帝王、真打ちになれず、いつまでも二つ目のままだったが、酒の絡んだ落語は熱がこもっていて面白い。この為かひよしの御大を始め、関宿屋の八朗さん、岡田屋のムネさん等は千寿さんに対して厳しく、ある時は愛情を持って千寿さんを育てようとしていた。ひよしの御大は千寿さん活躍の場を提供確保していた。

八朗さんと夜の松戸を歩いているとセシール等で千寿さんに出くわす事があった。八朗さんは芸術一般が大好きで、目を瞑り俯きながら落語を聞く人だ。芸に厳しい人であるが為、千寿さんには特に厳しく叱咤激励をしていたね。岡田屋のムネさんは夜になるとひよしのカウンターの扉に近い位置で座っていて、よくお会いした。

八朗さん同様ムネさんも千寿さんには厳しかった。もっとも、ひよしの御大も八朗さんに対しても厳しかったのを覚えている。みんな遠慮しなかった。本音で生きていた感じがする。一度ムネさんに西口のラウンジ“オアシスとも”に連れて行ったいただいた事があった。驚いたことにそこで千寿さんに出くわした。それからムネさんによる千寿さんに対する叱咤激励が始まったっけ。

千寿さんは飄々としていたが、考えてみると皆さん、一様に千寿さんに早く芸の道を極めて欲しいと思っていた訳で、出来の悪い息子を見るような感じで、愛情いっぱい注いで接していたんだね。そして同時に本町を盛り立てようとしていた。そういう実直な心持ちをひしひしと感じた。しかしながら、 その後、よいどれ寄席が開催されなくなった。

理由は分からない。千寿さんは松戸駅西口のクレストや関宿屋の二階で高座の機会をいただいていたなあ。今はどうしているんだろうか?

席亭 宇

千寿さん、一人会

千寿さん、一人会
2012年6月30日撮影

天丼の関宿屋さんの二階が、関宿屋さんの直営の貸しスペースになっている。ここで落語の高座やその他の催しが開かれる。先述した柳家千寿さんが、この席亭 宇柳家千寿落語一人会を催した。

落語一人会

柳屋千寿落語一人会
2012年6月30日撮影

写真をご覧になって分るように、金屏風の前という設えで最高である。最後はかっぽれを踊っていたっけ・・・

かっぽれ

千寿さん、一人会 かっぽれ
2012年6月30日撮影

戸定邸における私のウエディングイベントの時にサックスを演奏した瀬川香織さんも席亭 宇でドリンク付きコンサートをされたようだ。

ラムセス(閉業)

ラムセス

ラムセス
2008年撮影

閉店して今は無いが、根本の交差点付近の中銀マンション一階のテナント通路にあった。現在は居酒屋せいじと書かれているお店の店舗に2008年くらいまであっただろうか?エジプト人の経営するエジプト料理のお店で、非定期的にベリーダンスが見られた。

ベリーダンス

まつど祭りにおけるベリーダンス
2007年

フランス料理・ビストロアンシャンテ:テーブルマジック

card magic

Rob SlavenによるPixabayからの画像

食事は何度かしたことがあるんだけれど、実はこのお店のテーブルマジックは見に行っていない。どうやら松戸奇術会の面々が出演するらしいが、比較的若手のNさんがご要望に応じてテーブルマジックをやっているらしい。これは松戸奇術会の岩田さんが中心だった。一度伊勢丹の文化ホールで催しが行われた時に娘を連れて見に行ったことがあった。

細面のUさんだけを覚えていて、根本の某ビル1階店舗が昼間の収入源だったらしい。近所に住んでいるので、度々出入りしているのを見たことがあった。つい数ヶ月前その店舗がきれいになってしまった。心配だ。

随分前だが、1996年頃に香港赴任した際、シャングリラホテル関連の血筋の方にアイランドシャングリラのサマーパレスに誘われ美味しい中華料理をいただいたことがあった。その際、常駐してテーブルマジックをする人が居て、自分の席のすぐ近くでスポンジボールを減らしたり、増やしたり、コインマジックをしたり、とても楽しかったのを覚えている。

盃の会と落語:日暮商店

三遊亭落花生

三遊亭落花生
2006年12月19日撮影
@日暮商店

最近の日暮商店の試飲会は店頭か松戸商工会議所での大試飲会がメインになったが、平成20数年くらいまでは、日暮ビルの三階?四階で月一or二程度で、試飲会が催され、酒蔵の製品アピールの場でもあった。同時に店主のタケちゃんは落語好きで、落語の企画もあった。何度か来たのは三遊亭楽生で、彼がまだ二つ目で三遊亭落花生だった頃だ。

楽生真打ち昇進

楽生真打ち昇進
2008年撮影

三遊亭楽生は三遊亭圓楽一門で、令和4年9月30日に他界した六代目圓楽さん(元楽太郎さん)の一番弟子。二つ目落花生が、真打ち楽生になる真打ち披露宴が日比谷の東京会館で2008年に開催され日暮商店の常連達とこぞって会場に向かったのを昨日の事のように覚えている。写真は五人立っている内、中央右が五代目三遊亭円楽師匠、中央左が六代目三遊亭円楽師匠、中央が三遊亭楽生。

円楽師匠は五代目、六代目共に他界されましたね。

アマチュア映画

三宅裕司のえびぞり巨匠天国(通称エビ天)

1991年頃、TBS系の深夜番組で三宅裕司のえびぞり巨匠天国(通称エビ天)を放映していた。私はちょうどイスタンブールから帰国した5月頃初めてこの番組を帰国後視聴した。非常に才能ある若き映画監督が色々な作品を発表していて楽しかった。審査員には故大林宣彦さんが出ていて、大林先生は優しい人柄がよく出ていて、楽しいと思うと○が多くなり、どちらかというと点数は甘めだった。葛飾区出身の高城剛さんも楽しむタイプの方で,点数は厳しい時もあったが講評は比較的優しい物言いだった。

発表された中で印象的な作品は私は二つあって、一つは保田克史さんの「PULSAR(パルサー)」で、えらくシュールだった。この人はその後、NHKの『プチプチ・アニメ』で『ロボットパルタ』のアニメーションを担当した。パルサーがパルタになった訳だ。是非見てほしい。

もう一つは、現在のイチローの奥様である福島弓子アナに涙をこぼさせた前川衛さんの「仮面ライダーV3〜華麗なるSay Good bye〜」であろうか?見ていたら切なくなって私も涙してしまった。

松戸ウオーズ

松戸ウオーズ

松戸ウオーズより
映画製作 Kちゃん

これは松戸のBar Creamに行っていた頃視た。マスターの友人のKさんが若かりし頃に撮影したアマチュア映画でスターウオーズの松戸版と言っても、円盤が出てくる訳ではないが、昭和50年代の伊勢丹付近、まだペデストリアンデッキの無かった頃の松戸駅西口、東口の大宝などの風景が出てくる。これは、ある意味松戸のサブカルチャーに属するアマチュア映画じゃないか?と確信している。

下は、松戸駅西口でまだデッキが無かった頃の姿。

松戸ウオーズ

松戸ウオーズより、デッキが無かった頃の松戸駅西口ロータリー
映画製作 Kちゃん

シアターレストラン

ショー&ビアレストラン「ロックン・ロック」:閉業

欽ちゃん劇団|株式会社 萩本企画
欽ちゃん劇団の公式ホームページです。

1994年12月~1998年11月の間、浅草の六区で欽ちゃん劇団のメンバーが運営していたレストランで、一度行ったことがあった。欽ちゃん劇団の若手コメディアンが一日2回公演をし、食事をしながらお笑いを楽しむお店。長続きしてほしかった。

POMP DUCK AND CIRCUMSTANCE

Pomp Duck and Circumstance
Die Künstler der weltberühmten Dinner-Show konzipieren, organisieren und realisieren Veranstaltungen aller Art

これはニューヨークに研修旅行に行った際に、夜の食事はどうしようかと考え、コンシェルジェに相談したら、こんなのがあるよと言われたのが、Pomp Duck and Circumstanceで、サーカスとディナーが一緒になって、しかもコメディタッチで面白いショー。当時一人150ドルくらいで予約し、飲み物は別途注文した。

かなり質の高いショーで見に行って良かった。

前衛芸術

[1960s-70s 日本の前衛美術家の記録] 万歳党 | ToMuCo - Tokyo Museum Collection
東京都立博物館・美術館収蔵品検索

1970年代は理解に苦しむ前衛芸術もあり、それがサブカルチャーという位置づけになるのかどうかなんとも言えないが、記録として残しておこうと思う。

当時の週刊読売1971年4月23日号にこんな記事があった。

”既成概念なんかぶっとばしちゃえ” ”ヤングに人気急上昇中!サブカルチャー”

“ナンセンス””ドッチラケ”が結婚したら「サブカルチャー」という名前のへんな子供が生まれた。この「サブ」ちゃん、体制文化への反逆児として、いまやヤングの間で絶大な人気を得ているらしい。

1971年3月16日の11PM万○党が出演した。これは藤本義一さんが司会する火曜日だった。ところが突然服を脱ぎ始めてバンザイ!を始めたらしい。バンザイが屈折した反抗の形で、バンザイをする事で権威をしらけさせるという事らしい。

某劇団が街頭劇と称してみんなでデパートで買い物をする。それでおしまい。

同じ某劇団が銀座通りにペンキをまきちらし、車が通って縞模様が出来ると、芸術作品一丁上がり

 

ゴーゴー文化

 

小学生だった1965(昭和40)年頃、松戸輝龍会館に映画モスラ対ゴジラを見に行ったら、二本立てで、もう一本はエレキの若大将だった。エレキの若大将は全く興味が無かったが、見ている内にのめりこんだ。加山雄三の演奏も上手だったが、この映画には寺内たけしが出ていて、やはり一流の演奏だった。下の予告編を見ると最初の方で星百合子がゴーゴーを踊っている場面がある。

何故か飯田蝶子さんもご老体で踊っている。

この映画によって、エレキギターのリズムが頭に刻み込まれた。そして、1966年ビートルズが来日する。松戸市立北部小学校でも話題になり、髪の毛を両手で前後に滑らせながら「ビートルズ!」と言って遊んだ。子供に認知されたぐらいだから、私より上の年代の人たちはもっと影響されたらしい。

そういえば、70過ぎの団塊の世代の人とビートルズの話をした事があった。彼らが言うにはラジオを聞いているとビートルズの曲ばかりが流れていたと言っていたっけ・・・ビートルズの曲はそれまでの歌謡曲とは全く異なる新しい音楽だった。来日した1966年当時はすでにビートルズは若者に認知されており、それをコピーしたり独自にサウンドを作って歌っていた所謂グループが出現していた。

ビートルズが来日した時、スパイダーズのかまやつひろしは、前座のオファーがあったらしい。しかしかまやつひろしは断ったという。何かの番組で「だって、ビートルズに憧れていて、ビートルズのコピーバンドが前座なんか出来ない」というような事を語っていた。ただ、著書「ムッシュ!」で云って居るのは少し異なる。下記のリンクをお読みください。

ビートルズの武道館公演を客席で観ていた次世代のスターとシンガー・ソングライター
京都のバンドだったザ・タイガースは地元のファンが手に入れてくれたチケットをプレゼントされて、ビートルズ来日公演を東京の日本武道館まで沢田研二、岸部一徳、森本タロー、加橋かつみ、瞳みのるの全員で観に行った。 そしてその直後に渡辺プロダクション...

その後、私は中学、高校と進み、大学に入学して暫くした頃、ジョントラボルタサタデーナイトフィーバーが流行った。この頃はすでにゴーゴー喫茶とか、ゴーゴークラブという言葉は聞かなくなり、いつの間にかディスコという言葉がそれにとって代わっていた。私が初めてディスコという場所に行ったのは、歌舞伎町のカンタベリーハウスだった。

GIZA(ギゼ)六本木スクエアビル人気ディスコ コレクション
特徴は日本初の寿司バーと、お立ち台で盛り上げてくれる黒人ダンサー!お立ち台という名称の所以は、GIZA(ギゼ)が最初か?MAHARAJAが先か?というプチ口論もありましたね。

その後銀座の名前が思い出せないが店、そして六本木スクエアビルにあったGIZAだった。スクエアビルは映画“バブルへGO!! タイムマシンはドラム式”でも登場する。主演の広末涼子がアルバイトをしている8階のキャバクラにエレベーターで行く際に、3階にGIZAという名前がちらっとあったような気がするが、再確認したい。

そういえば、オーストラリアのケアンズ或いはゴールドコーストにホテルの見学研修旅行に行った際、みんなで地元のディスコに行ってみたことがあった。日本は入場料を取り、飲み食べ放題の所が多かったと思うが、オーストラリアのディスコは入場料は無し、自由に入れる。飲み物はキャッシュで支払い飲むシステムだった。

現在はディスコクラブという名前にとって代わっているらしい。

浜野康弘先生のMUGEN

MUGEN

浜野康弘先生は1968年に(通説で)日本で初めてのディスコ「MUGEN」をプロデュースしたとされている。ただし、当時はゴーゴークラブ、ゴーゴー喫茶としてはすでにいくつもあった頃で、初めてというのが、ディスコという言葉を使った事が初めてなのか、或いは高級ゴーゴークラブとして他の店とは一線を画すという意味で初めてと言われているのか、それはよくわからない。

星飛雄馬とゴーゴー

「巨人の星」で星飛雄馬が、ゴーゴーを踊る場面がある。これはテレビの企画でボーリングに出演した星、花形、左門の他にアイドルグループ「オーロラ娘」の橘ルミが居た。この出会いによって、星飛雄馬は橘ルミの誘われてゴーゴークラブに行くことになる。ここで星は初めてのゴーゴーダンスを踊る・・・というシーンがある。

この当時はディスコという言葉は聞いたことが無かった。ただ、知らなかっただけなのかもしれないが、よく耳にしたのはゴーゴークラブ、ゴーゴー喫茶だったと思う。。

浜野康弘先生について

浜野安宏 - Wikipedia

サブカルチャーを考えるうえで根幹に値する人物の様に感じているので、浜野さんによるサブカルチャーの解釈から書きたい。

「新しい価値が生まれてくると、それをサブと呼ぶことで、なんとか固定化し腐敗してきた古くさい価値を維持しようとする既成体制によって名付けられた新しい文化の名称が”サブカルチャー”である」美術手帳1970年325号”もうひとつなにかある-サブカルチャーの状況、狂信をこえて-自我解放の時代 浜野康弘

実に力強く言い得ていると思う。

横尾忠則先生について

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

横尾忠則先生と言えば何といっても、”腰巻お仙”の様なサイケデリックなポップアートを思い出す。これこそサブカルチャーという感じがする。しかし、実は横尾先生の1950年代の作品はご出身の兵庫県西脇市にゆかりのある作品が良い感じである。1970年代後半の山口百恵さんのアルバム「COSMOS MOMOE」はコラージュ的な宇宙空間の絵だ。えらく幅が広い感じがする。

1950年代の西脇市を中心のアート

例えば、西脇汽缶協会の1954年のポスター謹賀新年 一九五五年”

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

西脇市商店連合会の1955年のポスター”西脇の大せいもん払”も好き

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

やはり関西圏が多くて、1955年の作品の”コケシテープ ”のポスターも大好き。

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

「COSMOS MOMOE」

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

横尾忠則先生に関するページ

横尾忠則先生と糸井重里さんの会話

ほぼ日刊イトイ新聞 -横尾さんのインターネット。

その他

横尾忠則 POP UP SHOP -Art Fair TOBU2021- | 株式会社T&Tギャラリー
日程 2021年 4月1日(木)~13日(火) 営業時間 10:30~19:00 ※最終日は17時まで※都合に
MoMAデザインストアで横尾忠則のデザインプロダクトを期間限定販売、サイン入り『大仏猫』など
右)《大仏猫》¥126,000(税込) ※各色(赤、黒、白、金)50点限定東京・表参道のMoMA デザインストアでは、2012年8月24日(金)~9月19日(水)の期間、トランクショー(期間限定販売...
サブカルチャー | thisismedia
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松本清のすぐやる課を真似た横尾忠則先生

横尾忠則の「仕事のストレス」なくす方法 マネしたのは「すぐやる課」 | AERA dot. (アエラドット)
芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、仕事のストレスについて。

松戸市にすぐやる課が出来た頃の話しなので、昭和40年代の話しである。しかし、仕事の依頼を受けた時のストレスをすぐやる事で、すっきりするという発想は横尾先生はすごいね。

レディースKAWAI 松戸店

横尾忠則のスカーフ!!の画像

北部市場跡地に建ったシティテラス松戸からほど近い、北小金の”レディースかわい”で、以前横尾忠則先生のデザインをシルクのスカーフに仕立てたものを売っていた様だ。9年前なので、さすがに品物は売り切れているかもしれない。

松戸市北小金4丁目36-11

最後に

以上、駆け足で私の捉えているサブカルチャーについて、ざっとなめてみた。実はまだ書き足りない。当初は、浜野先生や横尾先生の格調高い業績から入ろうと思ったが、私も追いつけない事もあり、挫折し、もっと身近なサブカルチャーやサブカルについて、述べてみた。今後付け加える所はまだまだあるので、折を見て加えて生きたい。

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