昭和の時代とゲーム
私が育った昭和はどんな時代だったのか?
私が育った昭和時代、子供の頃は食べ物にも遊びにも飢えていた時代だと思う。それを満たすために大人は働き、子供は工夫して遊んだ。お金がなくても遊ぶには十分だった。空き地さえあれば遊びのアイデアが浮かんだものだ。お金のかかるゲームはあまりやらなかったが、百貨店やスーパーの一角やゲームセンターで遊んだ事もあった。
でも、本当に面白いと思ったのは電子的なテレビゲームが市場に出回って以降だったかもしれない。
初めてゲームに出会った頃
まだ大学生だった私はゲームそのものにそれほど興味があったわけではなかったけれど、同級生が教えてくれるので、知ったゲームばかりで、積極的に遊ぶわけではなかった。それらはこんなゲームだった。
与作
1979年発売されたもので、面白いとは思ったが夢中にはならなかった。
平安京エイリアン
これも同級生に教えてもらったが、夢中になる訳ではなかった
インベーダーゲーム
1978年頃であったが、それほど夢中にはならなかった。むしろ面白くないと思っていた。ただ、電子ライターがどうとかこうとか、新聞紙上をにぎわせていた事があったなあ・・・
ペンペン草はどんなゲームで遊んでいたのか?
私がゲームセンターでよく遊んだのはメダルゲームだった。私のホームタウンは松戸で松戸駅西口駅前の「ゲームセンターインベーダー」にもメダルゲームがあったが、メダルゲームを本格的に遊ぶには東京に出る必要があった。そうそう毎日東京のメダルゲームを遊べない懐事情もあり、松戸でメダルゲームを遊び、その合間に所謂アーケードゲームであるテレビゲームはよく遊んだ。
有名なゲームはあれこれ色々有るが、案外インベーダーゲームは夢中にはならなかった。売れ筋のゲームではなく、目立たないゲームが好き。テレビドラマではないが、”バイプレーヤー(脇役)”的なアーケードゲームをよくやった。何故だろうか?もしかすると元々のんびり屋で、せかせかと追い立てられるようなゲームが不得意だったからかもしれない。私が遊んだアーケードゲームとはこんなゲームだった。
アーケードゲーム・マイベスト10一覧
- ニューヨークニューヨーク(シグマ商事)
- ラリーX(ナムコ)
- ファンタジー(SNK:新日本企画)
- ターピン(セガ社/コナミ工業)
- Qix(タイトー)
- クラッシュローラー(アルファ電子)
- ギャラガ(ナムコ)
- ジャンピューター(アルファ電子/三立技研)
- ディグダグ(ナムコ)
- ノーティーボーイ(ジャパンレジャー)
ニューヨークニューヨーク(シグマ商事)1980年
今はなきシグマが作ったアーケードゲーム、これの他にスパイダーというゲームもあった。私はアーケードゲームよりメダルゲームが好きで、シグマの代表取締役社長 真鍋勝紀さんには手紙を書いたことがあったっけ・・・ある時社長秘書の方からお返事があった。懐かしい思い出だわ。真鍋勝紀さんは2007年に他界されたのですでに2021年で14年目かな?
ラリーX(ナムコ):1980年
赤い車が追いかけてくるところを排気ガスで追い散らすところが面白くてよく遊んだ。松戸市竹ケ花の喫茶店ゲートにも置いてあった。まだ、小さかった妹を連れていき、このラリーXを遊んだ。その為か妹も何故かラリーXが好きになっていた。
ファンタジー(SNK:新日本企画)1981年
奪われた女の子を助けるゲームだけど、ゲームのBGMがリズミカルでつい、クリアーしたくなってしまう。松戸のメクマンが311の地震の影響で廃業したが、その廃業間際までこのファンタジーがあった。レトロゲームの名に恥じない面白いゲーム。
ターピン(セガ社/コナミ工業) 1981年
ゲームのBGMがリズミカルで面白いと思ったゲームだった。「♫親ガメの背中に、子ガメをのせて、子ガメの背中に、孫ガメのせて、孫ガメの背中に、曾孫ガメのせて、親ガメ、コケたらみなこけた♫」このゲームは松戸駅西口駅前の「ゲームセンターインベーダー」で、”根本のおにいさん”や黄色いジャパンに乗っていた”CPU”さんと一緒に遊んだものだ。
Qix(タイトー)1981年
小さいスペースに追い込めれば高得点だが、動きが早いのでなかなかうまくいかなかった。面白いゲームで、確か全国大会まで開催されて居た。妹を連れて松戸からわざわざ亀有のゲームセンターでこのQIXを遊んだ事があった。
クラッシュローラー(アルファ電子)1981年
比較的のんびりしたゲームだった。床掃除をしていくのだが、猫が邪魔して足跡をつけて汚していくのが面白かったね。これもよく松戸駅西口駅前の「ゲームセンターインベーダー」で遊んだ。良くゲーム仲間で「女の子に好まれそうだね」といいつつ遊んだ。スターティングのBGMも面白かった。
ギャラガ(ナムコ)1981年
スピーディーだったけれど、遊んだ。私の同級生がこれに夢中になっていた。夢中になりすぎて、シューティングボタンを押す手から血を流しながら遊んでいた。彼もある意味大変な時期だったのだろうなあ・・・
ジャンピューター(アルファ電子/三立技研)1981年
私もかなりこのゲームは遊んだが、松戸駅西口駅前の「ゲームセンターインベーダー」では、このゲームにハマって毎晩長時間に亘り遊んでいる人がいた。我々ゲーム仲間はこの人を”ジャンピューターさん”と密かに読んでいた。勤務先近くの喫茶店に入るとこのゲームを黙々と遊んでいる先輩がいた。
ディグダグ(ナムコ)1982年
穴掘りゲームは結構面白かった。ゴジラのようなモンスターに空気を送り込み破裂させるところが面白かった。
ノーティーボーイ(ジャパンレジャー)1982年
これはいたずらっこがモンスターを石を投げてやっつけるゲーム。ただ、バグがあって、中央のシェルターの中から石をモンスターに投げている限り、ゲームオーバーになる事が無かった。つまり朝から閉店までずっと100円で遊べたことになるけれど、そんなに閑じゃなかったしね。ある時このバグフィックスが行われ、出来なくなった。
ゲームセンターについて
オモロン Game in メクマン
こんな動画を作った人が居たんだね・・・311で建物の一部が崩れ、みのり台に移ったらしいけれど、今はありません。この動画は松戸の小根本にあった頃の動画ですね。
あとがき
これらマイベスト10を遊んだ時期
この様に並べてみると1980年~1982年に集中している事が分かる。就職して間もない頃で、今思えば、余程精神的に辛かったのかなあ・・・この後、1983年に浜松に常駐、その後スリランカ、台湾、イスタンブール、香港と常駐が続き、流石にアーケードゲームからの距離は離れた。お友達だったCPU君ともこれらを通してよく遊んだもんだ。会いたいなあ・・・
とは言うものの子供が居て、経済的に支えなければならないと考えるとそういうゲームには早々簡単には手を出せないよね!
コメント
シグマの『ニューヨークニューヨーク』をトップにご紹介いただき、ありがとうございます(*^^*)
後日談が色々あるのですが、何しろ数少ないシグマ製ビデオゲームですので、憶えていて下さいましてシグマ社員一同、心より感謝申し上げます。
フロックたかくら様、
シグマ社員の方からコメントがあるとは驚きです。ありがとうございます。
私は20代の頃からシグマ社のゲーム機にはかなりハマりまして、大きな声では言えませんが、消費した総額を計算しますと多分外車一台分は軽く買えたかもしれません。苦笑!