昭和の松戸を歩く

1988年、松戸駅東口の商店街、飲食店の思い出-東口線路沿い

kikunoya 昭和の松戸を歩く
ニコニコ
スポンサーリンク
スポンサーリンク

松戸駅東口商店街

竹ケ花から松戸駅まで歩くルート

私の実家が竹ケ花で、常磐線の線路の東側にある。まだ竹ケ花の常磐線踏切(第二浜街道踏切)があった頃、松戸駅に行くには、踏切を西側に渡り、旧水戸街道を歩いて根本付近からどぶ板通りを経由して高砂通りに入り、波場パン屋さんの所で駅前通りに出て、駅方面に歩いていく事が多かった。

常磐線が複々線になり、線路が快速電車の上り下り、各駅停車の上り下りの二対になる事で、線路敷が拡張され、踏切が無くなり跨線橋で東口から西口側に渡るようになってからは、登り降りが大変なので主に東側を歩いて松戸駅に行くようになった。東側を通って東口に到達する方法もいくつかあって、

  1. 楢原工務店付近から常磐線線路沿いの道なき道を歩き、金山神社に出て、岩山稲荷のところで東口商店街に出る方法。
  2. 竹山クリーニング先から金山神社に入っていく方法、
  3. 奈良屋付近の住人が通る方法として、新京成電鉄の線路敷の中を歩いて駅まで行く方法(これは危ない)

などいくつかの選択肢があった

スポンサーリンク

1988年頃の松戸駅東口の商店街ジャスコ前の道

下のマップはuMap(OpenStreetMapのマイマップ機能)を使用して、1988年前後に存在した店舗を再現したものです。

このマップを画面いっぱいにご覧になりたい方はフルスクリーン表示をクリックして見てください。

線路側の商店・飲食店(1988年頃)リスト

  1. 弁天会館
  2. 呑兵衛
  3. ニコニコ堂喜久乃家
  4. 根本英数塾
  5. 喫茶バンビ
  6. 将軍寿司
  7. アルデンテ
  8. ノーブル
  9. 大川ダンススクール
  10. 国際(遊技場)
  11. 純喫茶憩
  12. 純喫茶ホープ
  13. 伊藤楽器
  14. 庄や
  15. ニュートーキョー

ジャスコ側の商店・飲食店(1988年頃)リスト

  1. くる美
  2. テーラー三浦
  3. ママ
  4. 櫻井電気
  5. 広い青空駐車
  6. ジャスコ(扇屋)
  7. 長谷川不動産
  8. 味華
  9. モスバーガー
スポンサーリンク

松戸駅東口の線路側の商店・飲食店(1988年頃)の記憶

当時の住宅地図よりピックアップして商店・飲食店についてピックアップしている。入ったことの無い商店・飲食店も多いが、分かる範囲で抜粋して、若干の説明を入れていきたい。もし、詳しい情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご指導お願いいたします。

1.弁天会館

ここは中に映画館もあったし、とにかく色々な飲食店が入っていて、外の呼び込みも多かった。この1988年当時は良くわからない。

2.呑兵衛

入ったことがない。

3.ニコニコ堂喜久乃家

kikunoya

手前からニコニコ、バンビ、アルデンテが見える 2001年10月14日撮影

和菓子屋さんで、店内で食事も出来る。とにかく背の高い店主の愛想が良かった。商売人の鏡のような人だったと思う。我が妹が伊藤楽器の音楽教室に母と一緒に通っていた頃、このお店で和菓子を買っていたので、店主も我が妹の実名を知っていて「○○ちゃんは大きくなりました?お元気ですか?」と声をかけられる。

ここの和菓子は保存剤などの添加物を使っていないらしく、大福などは時間が経つと固くなるが、それだけ本物の商品を売っている訳で、大好きなお店の一つだった。

1980(昭和51)年イトーヨーカ堂が完成前は、聖徳短大の女学生もよく食べに来ていて、相席で食事したこともあった。いやあ・・・当時は照れくさかった。ここで食事をすると女将さんが、手作りの惣菜を一品出してくれて、得をした気分になる。いい店だったのだが、2020年に閉店してしまった。閉店前に色々と昔話をしたかった。非常に残念である。

4 根本英数塾

昭和40年代に通って勉強した場所に根本英数塾がある。詳しくは下の投稿をご覧ください。

根本英数塾:松戸駅東口
昭和30-40年代は子供が多かった。小学校を増やしていく時代だった。同時にある人は受験の為、ある人は落ちこぼれない為、塾に通った。私が通ったのは、松戸駅東口から扇屋のあった道を北に歩いた所にあった根本英数塾だった。一中の生徒が多かった。

5. 喫茶バンビ

banbi

喫茶バンビ 2001年10月14日撮影

写真中央の青いテントで白文字で店名が書かれている店がバンビ。バンビは実は入ったことがないが、いつか入りたいとは思っていたが、入ろうと思った時には閉店していた。透明茶色のガラスなので、中が少し見えた。道路に対して平行にカウンターがあり、そこでお客さんはコーヒーを飲んでいた。何となくタクシーの運転手さんのたまり場だったような印象がある。店主は小太り丸顔の人だったと思うが、記憶があいまいである。

6.将軍寿司

この寿司屋さんには当時入ったことがなく、情報はありません。何方か御存知でしょうか?

7.アルデンテ

al-dente

アルデンテ 2001年10月14日撮影

1976(昭和51)年松戸に開店したレストラン”アルデンテ”。このお店は私がまだ学生の頃に出来た。この年はすでに松戸駅は完成していたし、西口再開発もある程度進んで出来ていたが、根本の一部がまだだった。ダイエーは翌年1977(昭和52)年にオープンした事で、西口再開発が現在の形に近くなった。その後、イトーヨーカ堂とアーバンヒル松戸は1980(昭和55)年開業。この当時は松戸が街づくりというよりは大きな波で揺られていた頃だったと思う。

店主Iさんのお話によるとアルデンテも開店当初は聖徳短大の学生さんたちが店の前を通るので、特に難しい事を考えなくても商売になったらしい。ところが、1980(昭和55)年イトーヨーカ堂が出来た事で人の流れがイトーヨーカ堂経由で直接松戸駅東口に向かう事になり、店の前に人が通らなくなり売り上げは半減。店主Iさんはこれを何とかしようと知恵を絞ったそうだ。

メニューに工夫を凝らしたレストラン”アルデンテ”

店主Iさんにしてみれば「それ以前は、それほど努力しなくても、商売としてはやり易かった。店として積極的に頑張り始めたのはその時から」だと話している。スパゲティとピザという大きな柱はそのままで、メニューのバラエティを増やしたそうだ。スパゲティはトータルで56アイテム。

トマトソース、ホワイトソースのオーソドックスなメニューと、店主Iさんのアイデアを生かしたオリジナルのメニュー。コーンスープ風味とブイヤベース風味のなべ焼スパゲティやオーブン焼スパゲティ8品など。また、茹で上げると提供までに12分ほどかかってしまうので、冷凍麺を使うなど色々と工夫をしたそうだ。実は私は結局この店には入っていない。

金額的に高そうだったからだが、聖徳短大の大学生が行っていたくらいだから私も行けたのかもしれないが、それは後の祭り。ただ、山小屋風の外観が面白いなとは思っていた。

8.ノーブル

クリームの店主が若い頃ここで働いていた事があったと聞いたが、それ以外のことは分からない。何か情報があったら、是非教えて下さい。

9.大川ダンススクール/月見里

benten-kaikan

1988年08月26日撮影 弁天会館

ダンスを習いにいった事は無かったのだが、東口のこんなに手頃な場所にあったのだなあ・・・と思っている。

月見里

yamanashi

松戸市商工会議所広告より

やまなしには入ったことは無い。母が入ったことがあると言っていた。魚のあら煮が美味しく、その煮方について質問して教えていただいたと言っていたっけ・・・もし今あれば行きたいなあ・・・松戸ベスト100のミスターT(2006年8月のご意見箱)によれば

「ヤマナシ 東口線路沿い、扇屋前レストラン、私の最古の思い出は扇屋に行く時に通るレストランの池で飼われていた鳥(白鳥かフラミンゴだと思う)を見ることが楽しみだった。いつのまにかレストランは無くなってしまった」

ミスターTさん、掲載させていただきました。ありがとうございます。

10.国際(遊技場)

現在は薬局になっている。

11.純喫茶憩

モミジバフウが街路樹になっている道のお店では入ったことが有る。確かまつど祭りで、東口のロータリーではコンサートが開かれるが、その時の司会進行をこの憩の店主がやっていたのを記憶している。もし間違っていたらごめんなさい。情報いただけますか?

12.純喫茶ホープ

ホープは西口だけだと思っていたが、1988年頃、東口と西口の両方に店舗があったらしい。私が何度か行ったのは西口の稲垣ビルの一階にあった頃だった。稲垣ビルには現在吉野家が入っているところだ。東口のホープも多分同じ経営だと思うが、入ったことはなかった。

13.伊藤楽器

ito-gakki

伊藤楽器2001年10月14日撮影

はずかしながら、20歳の頃ピアノを習いにこの伊藤楽器に通っていた事があった。後に教室が西口の安藤豆腐店横に移った。この伊藤楽器はわらそうと提携していて売り場を2つに分けて、半分をおもちゃ半分を音楽関係にしていたユニークなお店だった。現在わらそうは無くなってしまった。今現在試しに弾いてみろと言われても弾けませんのであしからず!

伊藤楽器 - 伊藤楽器

1975-1977年頃だと思いますが、片平なぎさがデビューしたての頃、この伊藤楽器の店頭でプロモーションの為来店していた事がありました。キレイな方でしたね!片平なぎささんはスター誕生!出身で、最初の頃はアイドル歌手として売出しの為、年に4枚ほど新曲レコードを出されてました。後に、ドラマなどで女優業がメインになりましたね。

片平なぎさ - Wikipedia
スター誕生! - Wikipedia

14.庄や

庄やさんにはランチ定食の時に食事をし、何度もお世話になっている

庄や 松戸店|大庄グループ本部 大庄ホームページ

15.ニュートーキョー

New-Tokiyo

ニュートーキョー 2001年10月14日撮影

ニュートーキョーは以前はレストランをしていたと思うが、後にケータリングサービス付きの貸しスペース業に変ったのではないだろうか?東葛出版懇話会という出版関係者、作家、郷土史の本屋さんがあつまって意見交換をする会合があるが、その東葛出版懇話会がこのニュートーキョーの二階で行われ、私も何度か出席した。

松戸駅東口のジャスコ側の商店・飲食店(1988年頃)の記憶

1.くる美 2.テーラー三浦 3.ママ

tailor miura

テーラー三浦他 2021年10月14日撮影

テーラー三浦は根本英数塾の塾長と同じ名字のようだが、やはり血筋なのだろうか?よくわからないが、テーラの両側の店舗はそれは数を数え切れないくらいお店が変ったと思う。そういえば、市役所坂を降りきった所にあった築地さんが、櫻井電気さんとテーラー三浦さんの間の店舗に10年くらい前?に移り数年営業していたが、最近見たら看板が無くなっていた。

4.櫻井電気

個人営業の電気屋さんでいまだに健在で、お店を運営しているのは注目に値する。ヤマダ電機のグループ下に入って、在庫はヤマダ電機としており、フットワークの軽い商売をやられている。現在同じ場所で、夜は”おでん気屋”というおでん屋さんも経営されており、非常に頑張っているお店で、興味深いと思う。

2024年5月現在、ホームページだったsakurai-hk.com/wp/が現在アクセスできないようなので、別のグルメサイトのページを書いておきます。

おでん気家(松戸/おでん) - Retty
こちらは『おでん気家(松戸/おでん)』のお店ページです。実名でのオススメが1件集まっています。Rettyで食が好きなグルメな人たちからお店を探そう!

5.広い青空駐車

ジャスコがあった頃はここの青空駐車場にとめていたようだ。この空き地のような場所にはおでんの屋台も来ていた時期があった。あれは1980-81年の頃の事だと思う。

6.ジャスコ(扇屋)

扇屋は元々千葉県千葉市で昭和8年に創業した扇屋モスリン店が始まりで、衣服に強い百貨店で、千葉奈良屋と売上を二分していた会社だった。松戸では1969-70年頃だったと思うが、東口のバスのりば付近で扇屋をオープン、店舗面積の関係で、もう少し売り場面積を増やした第二号店舗として出来たのがこの桜井電気近くの扇屋だった。扇屋は後にM&Aで扇屋ジャスコ→ジャスコと名称がかわった。

後にこの場所でのジャスコ自体の営業がなくなり、暫く大塚家具センターが入っていた時期があった。また、扇屋営業時1969年から入っていた青果店は1997年頃まで、道路際店頭で果物野菜を売る商売をしていた。店頭の売り子の男性が非常に良い感じで、青果業関連の我が父は、あの店頭に立ってしっかり商売している人をスカウトしたいと常日頃言っていた。

その青果店は1976年にハローマートという会社を起こし、次々に店舗を増やした。現在は株式会社大黒流通チェーンの傘下になっている。

ハローマート - Wikipedia

7.長谷川不動産

hasegawa hudosan

長谷川不動産2001年10月14日撮影

私自身はあまり取引がないので詳しくは分かりません。最近は大手のチェーンが多い中、ここは古くからある街の不動産屋さんです。

8.味華

ajihana

味華2006年10月14日撮影

味華は昭和50年以降営業していた手頃な値段の中華屋さんで私もよく通った中華屋さん、2010年前後に廃業された。味華は思い入れがある。この記事は以前昔日の松戸で書いたものだが、復活させることにした。

最初はアクセサリーのお店、寿屋?

大学を卒業し就職する際、両親がお祝いという事でネクタイを一本買ってくれた。東口の伊藤楽器の並び若しくはもう少し扇屋寄りに小さなネクタイ屋があり(確か’寿屋’?)そこでネクタイを買ってくれた。狭い店内で、ネクタイ選びに悩んでいる母に店員がこんな事を言ったそうです。「最初のネクタイは地味な方が良い。最初から派手にすると、その後センスが悪くなる」だそうです。

本当に派手なネクタイから始めるとセンスが悪くなるのかどうか私は分かりませんが・・・

味華誕生

このネクタイ屋はいつしかなくなった。そして、1975年(昭和50)松戸駅東口伊藤楽器付近に‘味華’が開店した。社長は飯田さん。ラーメンの常識を破るような価格設定と独特のニンニク抜きのジャンボ餃子が人気だった。ニンニク臭くない理由から市役所の女性職員にも好まれたと聞いた。母によればネクタイ屋(寿屋)でネクタイ選びのアドバイスをくれた人が、この味華に転職し調理人として働いていたとのことだった(味華が閉店する寸前までこの人は働いていた)。

ネクタイ屋がうまくいかなくなって転職したのか?或いはネクタイ屋も味華も同系列だったのか(元々社長は味華を開店する前、アクセサリー屋を営業していた)いまとなっては分かりません。味華は華々しくデビューし、数年後長谷川不動産の右隣に移動し新装開店してその場所で何十年と続いた。

学生ラーメン250円を始め`華`ラーメン280円等とにかく安かったのが印象的。妹も度々ジャンボ餃子を買ってきた。食事をするとサービス券をくれ、何枚か集めるとジャンボ餃子?と交換出来た(と思う)。

ラーメン`無`

1996年頃だったか松戸駅西口のラーメン激戦区に味華系列のラーメン`無`が出来た。出来た当初は系列店とは知らず、餃子がジャンボ餃子だった事と、壁に貼ってあった保健所の営業許可証が味華と書かれていた事からそれと知った。中央の調理場を囲みU字型のカウンター席になっていて20席あった。

店長は上野さんで洋食レストランのシェフの様な出で立ちで、背が高く、ダンディでラーメン屋の店長には見えなかった。いつもテーブルの上に置いてあった生ニンニク、ニンニクつぶし、ニラの辛子味噌和え等があって、好きなだけ入れる事が出来た。私はニラの辛子味噌和えはたくさん入れたけれど、ニンニクはあまり入れなかった。

ここのチャーシュー麺の大盛りにジャンボ餃子を注文すると、とても最後まで食べきれないほどお腹がいっぱいになった。めん組と競り合っている当時、とても混雑していたが、付近にラーメン二郎(や確か、花月嵐も・・)が出来ると徐々に混雑しなくなり、店内から遠目にラーメン二郎の行列を見ている店長の姿が印象的だった。

ラーメン`無`のラーメンスープは、トンコツ、醤油、味噌の3種類。うまかラーメン(博多ラーメン風味)550円、うまいラーメン(醤油味)550円、味噌ラーメン550円、特製味噌ラーメン600円、無ラーメン280円、支那そば480円なんてメニュー構成だった。ただし、8年間続いたこのラーメン`無`は健康上の理由で2004年7月31日閉店した。

味華の小火

松戸駅東口の味華が小火(ぼや)を出したという噂を2CHで目にしたので、朝通勤時味華の前を通るとシャッターが閉まったままで、何日経ってもその状態がずっと続いた。その後、改装が始まったかと思うと結局味華ではなく日高屋が開店する事になった。店舗改装時、鉄骨の耐火被覆が剥き出しで、果たしてどこまでアスベスト処理したのか非常に気がかりで見ていた。

ダイエー新松戸の味華も閉店

飯田社長!味華どうしちゃったの?

関連ページ

この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。

松戸駅西口、昭和の頃の中通り商店街の風景
松戸駅西口に中通り商店街があり、これは現在のふれあい通りに当たるが、昭和の頃都市区画整理で幅員拡張され、道路位置もかなり調整された。中通りには様々な種類の商店が集まっていた。焼鳥の開進、映画館の松竹館、カメラのイマイ、室内釣堀の太公望、モンダ書店
昭和30-40年代の松戸駅西口商店街、高砂通りは活気があった
現在の松戸駅付近はありふれた駅前風景でしかない。大手のスーパー、銀行、コンビニ、空虚なぺデストリアンデッキがあるだけ、ところが西口都市区画整理前の松戸駅西口商店街は全くイメージが異なっていた。細くくねった道、物陰のある道、界隈性のある場所な
1981年頃の松戸駅東口商店街について-旧金ケ作陣屋道
昭和の頃は開かずの踏切と言われた根本の踏切から岩瀬の坂までの道。金ケ作陣屋道周りに色々なお店が軒を並べ商店街が成立していた。今でも頑張って商売をされているお店もある。昭和の頃の商店街を現在のマップに再現させ、知る所、思う所を書き留めておきたい
松戸市竹ヶ花&根本の商店街(竹ケ花踏切以西、金山神社参道まで)を歩く
旧水戸街道を松戸駅方面から、竹ケ花方面に向かうと途中に国鉄常磐線の踏切があった。これは一般には竹ケ花の踏切と言っていたが、正式な名称としては陸前浜街道第二踏切と言ったそうだ。この陸前浜街道第二踏切の西側にあった松戸市根本、竹ケ花商店街を記録
かつて竹ケ花踏切以東にあった松戸市竹ケ花商店街(旧水戸街道)
常磐線複々線化によって閉鎖された竹ケ花の踏切以東には松戸市竹ケ花商店街があった。そのお店を一つ一つ思い出していきたい。我が実家はかき氷販売から始まった。かき氷は缶ジュースの出現で衰退したという人が居たが冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した
松戸市道の商店・飲食店・会社
昭和30年代前半に、市役所が根本に本館を建てた事で、竹ケ花には松戸市道が開通する事になった。旧水戸街道から胡録台まで。この松戸市道が出来たことで、市役所に行くことや竹ケ花のお墓にいくことが便利になりましたし、小規模ですが、飲食店や商店が出来た
根本の商店街 アーバンヒル松戸周辺
アーバンヒル松戸が出来た1980年前後の頃、松戸駅に近いこともあって、根本のアーバンヒル松戸の周りの商店・飲食店のいくつかに通った。記憶が消える前に記録していきたい。商店としては、思い出すようだったら、1970年代の商店も書いていく。
松戸旧市役所通りについて
松戸市役所は元々は松戸三丁目にあった。現在のキテミテマツドの駐車場。母が松戸にお嫁に来た頃は三丁目のキテミテマツド用の駐車場ビルの場所に市役所があった。松戸税務署もあり、所謂官庁街だった。昭和の松戸の元官庁街にあった建物について調べてみた。
昭和の頃の松戸根本商店街(金山神社参道から根本交差点まで)を歩く
昭和40年代に松戸の商店街は激変した。そこで今回は昭和37年以降の旧水戸街道沿い、金山神社参道付近から根本の交差点付近までの、たくさん軒を並べていた時代根本の商店街を、調べ調査してみた。まだ、調べたり無い部分もあり、それは今後調査していく。

コメント

  1. うしとら より:

    わたしが子供のころは、楢原ビルから金山神社の間に、線路側に片持ちになった一人幅の鋼製足場が付いていましたが、平成に入ったくらいから通行不可になったような気がします。それからはインペリアルの横を通って駅に出ていました。
    小学校の友達が金山神社の先に居たのでよく使っていましたが、中学校が千駄堀だったので使う機会が激減し、高校生になって駅を使うようになったときには通行不可だったように思います。
    東口の飲食店ですが、桜井電気商会の裏側にうなぎ屋さんがあったことを覚えています。いつも水がジャブジャブ流れているお店だったように思います。私が成人するくらいまでは営業されていたように思います。店名は覚えていないのですが、こちらの支店が南花島のカジ坂にあり、栄松寺で法事をされた家がよく使っていました。こちらの店は「鰻家」という名前だったことを覚えています。最初に南花島のお店が閉店して、その後しばらくして駅前のお店が閉店しました。

    • うしとら様もあの楢原ビル横から金山神社へ抜ける道を通っていましたか!
      私は就職して暫くはあの道を通って通勤していました。ただ、1983年から浜松常駐→スリランカ常駐と続いてしまって、帰国して気がついたらあの道は通れなくなってしまっていました。
      鋼製足場があったのは知りませんでした(私の記憶が無いだけ?)。ただ、道は生け垣のマサキの葉っぱをかき分けていくような道だったのは覚えています。何故あの道を通ったのかは、直線距離で近かったのもありますが、やはり金山神社まで高低差が無かったからでしょうね!
      インペリアルまで行くと、それなりに標高もあがり、インペリアルの裏から徐々に金山神社まで下り坂でした。途中に毎朝家の前を掃除をしているおばあさん、Kさん宅がありましたっけ・・・毎朝ご挨拶して通っていましたが、10年くらい前からは全く見かけませんね。

      今は東葛土木事務所の駐車場になっている所が、まだ竹やぶと湿地帯と文化住宅が何軒か建っていた頃で、私の好きな場所でもありました。
      松戸駅東口のうなぎ屋さんは私は入ったことが無いのですが、1987年の住宅地図を見ますと、東口のお店も鰻家という名前で同じ様ですね!
      ところで、現在は鰻が高すぎて、庶民の食べ物ではなくなってしまったのが残念です。スーパーに行くと中国産のパックになっている蒲焼き売っていますが、あんまり美味しく食べられなくて・・・そういえば、しぐれさんも生簀にうなぎを飼って、注文があるとさばいて出していましたが、値上がってからはやめちゃった・・・

      • うしとら より:

        金山神社から土木事務所の間はカオス状態だったですからね。
        父から池があったとか肥溜めがあったとか聞いたことあります。
        子供には最高の遊び場でしたね。
        インペリアルの側道もそうですが、
        竹ヶ花周辺は里道(赤道、青道)が奇跡的に残っている結構所がありますね。
        表の家の墓地から吉井町に抜けるところとか、
        吉井町から南花島に抜けるところとか。
        住宅地も2項道路ばっかりですもんね。

        南花島の鰻家さんのことを書かれている方がいました。
        https://unagi-daisuki.com/post-652

        そういえば、富吉が年内いっぱいの営業で建て替えになるみたいです。
        コロナ禍を利用して2年間休業しての建て替えはクレバーかもしれませんね。
        https://matsudo-tsushin.com/20633.html
        富吉は会社の接待でたまに利用していました。

        • > 表の家の墓地から吉井町に抜けるところ

          戦災がなく、区画整理事業から外れちゃった所はどうしても、二項道路になりやすいですね!現在の墓地から吉井町に抜ける道は私の大好きな道の一つで、娘を連れて、解説しながら歩きます。それに高低差が少なくなるので、墓参りはあの道を通ることが多いです。あの旧道の入り口付近に子供の頃ですがクヌギの木があって、カブトムシが取れました。

          >吉井町から南花島に抜けるところ

          これは、雷神様近くにある吉岡材木店の作業場横の道ですね!?
          以前、あの界隈に同級生が住んでいたのでよく行きましたっけ・・・最初同級生は南花島側(市場横付近)に住んでいたんですが、吉岡材木店作業場の横に曳家をしてよっこらしょって感じで高台に上がったんです。

          そうそう、竹ケ花のお墓の前、線路沿いにセキネハイツ、小根本コンド、上本郷駅方面に向かう道がありますが、そこはかつて雑木林になっていて、道無き道で、亡き父が連れて歩いて案内してくれました。途中でヤマグリの木があって、その場でイガを取って食べさせてくれた。懐かしい思い出です。下の航空写真は1963年撮影で、市道が出来て居ますが、まだ、小根本の区画整理前なので、あのヤマグリが取れた雑木林がこんもり見えますね。

          https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap4.html?ll=35.788457,139.905487&z=18&data=history&t=gsiortold10

          南花島の鰻家さんには入ったことが無かったんですが、これを読むと床に鯉が泳いでいたりして、面白い店だったんですね。

          富吉さんは建て替えでしたか・・・我が母と父は竹ケ花の家で結婚式(多分、人前結婚式?)だったそうですが、富吉さんで仕出しを頼んだ時の領収証が残っていたっけ・・・
          私はランチを2回ほど食べに行きました。

タイトルとURLをコピーしました