155 東京湾行徳とゴカイとハゼ釣り

ハゼ昔日の松戸
いらすとやのイラスト

昭和30-40年代のハゼ釣りの時代

東京湾

パクタソさんのフリー素材、写真です

昭和30~40年代 松戸市民のみならず、その他多くの地域の人達は季節になれば浦安、行徳方面にハゼ釣りに行ったのではないか?勿論、松戸駅近辺の江戸川でも釣れるには釣れた。しかしながら釣果が全く異なる。浦安、行徳の海はそのメッカといった感じで、みんなが集中した。訪れれば浦安の護岸は釣り糸をたれる人でぎっしり埋まり、自分の場所を確保するのも一苦労だった。

釣果は皆少なくとも百尾、多い人は何百尾と釣り上げていた。ビクでは足りなくて、バケツに入れっぱなしにした。考えて見ればすごい時代だった。浦安、行徳方面の磯釣りの当たり前の風景だった。

昭和40年代の行徳、浦安

私が初めてハゼ釣りをしたのは船釣りで、父に連れて行って貰った。多分、小一前後だったと思う。深川か浅草橋辺りの船宿から出発したと思うが記憶が曖昧。今となっては子供が船釣りとは贅沢と思うが、当時は船釣りをするには私が幼すぎた。その後、小学4年生の頃父に連れられて浦安・行徳方面に行き浜で釣りをした。その時にやっとハゼ釣りの面白さが分かった。

上の写真は昭和38年の空中写真(国土地理院様より)のLeaflet Mapです。中央上部に宮内庁の御猟場(新浜鴨場)が見える。御猟場の左下には塩田跡が見えます。又、このLeaflet Mapを指でグリグリと動かすと(パソコンの場合はマウスのポインターで動かす)少し拡大するとこの一帯は広く田畑に囲まれていたのが分かります。さらに、このLeaflet Mapを拡大し、左の方に家が密集しているところが浦安の猫実の辺り。

お狩場の海岸沿い右上付近の千鳥町の埋立地はこの時点ではありません。2021年現在のこの付近の状況としては、御猟場の前は塩浜の埋立地で覆われ、湾岸線、京葉線が走っている。景色としては随分この頃とは異なっている。

釣り場の事だが、私の記憶では鴨場よりももっと浦安寄りの、浦安と行徳の間辺りに流れている川を海に向かって歩いた記憶がある。

釣り場は断然、行徳か浦安付近だった。それは東西線が開通する前で、街から海方面を見ても視界を遮る高架など無かった時代だった。当時の行き方としては、総武線の最寄りの駅からバスに乗り、目的の停留所に到着。その後、磯へ延々と歩いて海岸線まで到達する。かなりの距離を歩いた。途中で川にぶつかったら、左折して河口に向かう。周りの景色は殆ど田んぼだらけで、ガマの穂がたくさんあった。

東西線、湾岸道路、京葉線の開通時期と行徳、浦安の景色

我々が昭和30-40年代にハゼ釣りをした界隈や海岸線には以上の高架の鉄道線、高速道路が出来、景色は一変してしまった。


この写真は国土地理院の空中写真1990(平成2)年Leaflet版を貼り付けたものです。自由にクリックして拡大縮小してみてください。色々な様子が分かります。新浜鴨場が埋立地に囲まれ、湾岸線、京葉線が完成している状況が分かると思う。

行徳、浦安の地盤

蒲の穂

パクタソさんのフリー素材写真です

ガマの穂があるという事は根を深く伸ばすことが出来る土壌であるという事だ。多分土壌としてはかなり弱いのではないかと考えられる。また、昭和30年代以降、浦安は地盤沈下に悩まされていた。江東区の工場用水で地下水くみ上げと千葉県の天然ガスの採取が原因だったらしい。ひどいときには年間20センチ沈下だったというから驚く。(海と浦安、江戸から今へ 郷土史研究家・前田 智幸)

ハゼ竿

脈釣り

みゃく釣り

父が持っていた竿がミャク釣り用の竿。この為、私はハゼといえばミャク釣りになった。ミャク釣り用の竿とはせいぜい長さが三尺以内の短い竿で、銅が硬く穂先が若干柔らかい先調子のロッドで当たりを感じやすい。手元に糸巻きがあり、穂先に金筒が付いており、糸を中通しする。途中で糸が竿の中を通り穂先からでる。

竿穂先には金属のリングがついていて、当たりがあるとその金属の輪でブルブルと震え、手に当たりの感触が伝わる。このブルブルに魅せられて、ハゼ釣りに嵌る人も多いようだ。

ゴカイ

ゴカイ

いらすとやさんのイラストです

当時はハゼの餌としてゴカイを使っていた。イソメが輸入されるようになってからは、アオイソメを使う事も多いらしい。針にゴカイをかけるのも暴れて嫌がるので慣れないと手惑うこともある。また、ゴカイは同じ入れ物に大量に入れておくと絡み合って死んでしまうので、大抵は籾殻のような木の削りくずのようなものと一緒に入っていた。ゴカイは死ぬと臭かった。

餌は途中で調達してきたが、実は河口付近でゴカイが取れ、餌は買う必要がないのだが、松戸から来る我々は、釣る時間も限定されているので買ってくるしかない。ミャク釣りをしていた当時、ハゼはどうしても餌も針もそのまま飲み込んでしまうので、針外しが必需品だった。

針の外し方

針外し

針外し、2005年頃に浦安にハゼ釣りに行った頃の写真です

ハゼを掴むときはなるべく上の写真の様にエラのところに指を入れて固定させると取りやすい。そういえば8年前に松戸の吉泉の常連と浦安にハゼ釣りにいった。浮子釣りで、仕掛けが違っていて、何故かハゼがそうそうは飲み込まなかった。私は、昭和三十-四十年代の釣りのイメージで同行したが、あまりに釣れないのには驚いた。

小学校の頃の浦安は入れ食いで、極端に言えば餌が無くても食いついてくるのがハゼだったので、ハゼが釣れない”ハゼ釣り”は経験したことが無かった。どうやらハゼの餌場が減ったことが原因らしい。

吉泉の常連の皆さんとハゼ釣りに浦安に

皆さんとハゼ釣りに

2005年8月 吉泉の常連の方とハゼ釣りに

2005年8月、吉泉の常連の方々と浦安にハゼ釣りに行った。この日の餌はアオイソメだった。話を聞くとどうやらゴカイがとれなくて、輸入物のアオイソメなんだとか言っていたが・・・それにしてもよく似ている。青イソメはその名前の通り全体に青みがかっている。確かゴカイはもっと細くて赤っぽかった様に思う。

  • アオイソメ:イソメ目イソメ科
  • ゴカイ:ゴカイ亜目ゴカイ

ゴカイはウィキペディアによれば「・・・Hediste japonicaの和名であったが、近年の研究で近縁な複数の種の複合体であることが判明し、ヤマトカワゴカイHediste diadroma)、ヒメヤマトカワゴカイH. atoka)、アリアケカワゴカイH.japonica)の3種に分割されている。このため、ゴカイという単一種としての和名は分割後消滅した」と書かれている。要するにゴカイ類という言い方でよいらしい。

調べると色々と勉強になる。

結局あまり釣れず、カニが釣れてがっかり

蟹

私が釣り上げた蟹 2005年に浦安にハゼ釣りに行った時の写真

ハゼは釣れないのに蟹が捕れたのには辟易した。私が釣り上げた蟹、何だか蟹にからかわれている様な気になった。この日はカキの殻が釣れたり、オキシジミが取れたり散々だった。それにしても現在はこんなにもハゼが釣れないのだろうか?

リール

左がスピニング式のリール、右がタイコ式のリール。当時はそう何度も浦安、行徳にいける訳でもなかったので、友人達と度々江戸川でハゼ釣りをした。大抵は古ヶ崎のHA君、TK君、SYさんも居たと思う。江戸川では大抵リールによる投げ釣りか延べ竿で浮子を使って釣った。江戸川で釣れるハゼは大抵、ダボハゼだった記憶がある。

ダボハゼは小型のハゼの総称らしが、関東では実はチチブという別名を持つ魚らしい。ただ、当時はダボハゼという名称の魚がいるのだと思っていた。HA君から

古ヶ崎のHA君

古ヶ崎のHA君

それダボハゼですぜ

と言われがっかりする。ダボハゼが取れると大抵キャッチ&リリースで川に返した。ただ、HA君は一緒に釣りに行ってもやる気があるのか無いのか分からないところがあり、釣りを真剣にはやらなくて、遊んで邪魔をしにきたようなものだった。反面、道具への執着は強かった。私が持っていたリールはスピニング式のリールだったので

古ヶ崎のHA君

古ヶ崎のHA君

リールはやはりオリムピックのタイコリールが良いですぜ

みたいな事を何度も言われた。オーディオの話になると「テープデッキならカセットよりもオープンリールですぜ」と言われた。どうも彼は金の掛かる事ばかり考えていたような節がある。ただ、強引に押しつける様な事まではしないので、HA君はある意味安心な存在だった。そういえば、同級生のSYさん、HA君、TK君、ツルちゃんなどで自転車でツーリングしながら行徳まで遠征してハゼ釣りに行っていたらしい(私も一度同行したことがあった)。

SYさんによれば、HA君はリールを投げ込んでばかりで、全然やる気があるのか無いのか分からなかったと言っていた。どうやらHA君はいつもあのスタンスだったようだ。

昭和40年頃の浦安の冲にはまだ湾岸道路も京葉線も走っていなかった

エンゼルフィッシュ

いらすとやさんのイラスト

昭和40年代は浦安の海の中を見ると熱帯魚(エンジェルフィッシュの様な魚)が泳いでいて、非常に興味深かった。それを見て、川とは泳ぐ魚も随分と違う物だと思った。
当時はまだ湾岸線や京葉線存在していない頃で、埋め立て地も海に向けて空がすっきりと抜けていた。ただし、京葉工業地帯方面を眺めるとたくさんの煙突があったのは覚えている。

京葉工業地帯と隣合わせ

煙突からモクモク煙を出している京葉工業地帯の眺めを見るというのは、あまり気持ちの良いものではなかった。昭和四十年代は大気汚染・水質汚染による公害が深刻になってきた時代で、どちらかというと末期に近かったのじゃないかと思う。当時、ラルフ・ネーダーというアメリカの弁護士であり社会運動家が、読売新聞のコラムに毎日のように公害の実態を訴え、警鐘をならしていた頃だった。

我々にとって一番身近だったのは、新坂川や坂川の水質汚染だった。昭和45年前後には新坂川には魚の住めるような状態でなく、なによりも水が臭かった。当時は何もかも北松戸の工業地帯の排水が原因だと思っていたが、衛星都市化による人口増加と生活排水の直接放流での汚染がバカにならなかった様だ。

公害はもう散々だった

話がラルフ・ネーダーに戻るが、彼は光化学スモッグ、四日市喘息、田子の浦のヘドロ、水俣病など、ありとあらゆる公害について述べていた。問題だとは思うものの、経済の発展という大義名分の下、個人的には公害問題はただ、現実として受け入れるしか無いのだと思っていた。それが、たった20-30年後にはかなり海や川や空が綺麗になっていくなんて・・・当時は想像さえ出来なかった。

奇形ハゼが新聞で話題になった。調べるとすでに昭和三十年代から奇形ハゼは出ていたらしい。勿論それを深刻に受け止めていた人達も多くいたとは思うが、大きな社会問題として、私にまでは伝わったのは昭和44-45年頃だったと思う。あの奇形ハゼのニュース以降、ハゼを食べる事はやめた。そして、食用という意味でのハゼに関して、背を向け封印したまま何十年と経った。

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