水が豊富だった竹ケ花、根本地区
私が生まれ育った松戸市竹ケ花、よく遊んだその周辺の根本、南花島、小根本、古ヶ崎など、子供の頃を振り返りながら考察してみたい。
我が家の近くは地下水が豊富だった
我が家の周りは水が豊富でした。土を三十センチも掘るとコンコンと水が溢れてきた。庭の土質はジメジメとして、ミミズが多く土が肥えていた。明らかに小動物の住みやすい土壌で小さい頃は土カエルが住み、又、雨の日はどこからともなく雨蛙が現れアオキの影に潜んでいた。
付近にはいくつもの井戸があった。松戸米穀倉庫、竹山クリーニングさん、牛久さん、紺屋(こうや)さんのところをはじめ他にもたくさんあった。父によれば昭和三十年に家を建て替えるまでは我が家にも井戸があったらしい。紺屋さんの井戸は付近にドクダミのたくさん生え、そして雑木に囲まれた谷津のような場所にあり、私の遊び場でもあった。ただし、この井戸は使われず朽ち木の蓋がしてあった。
古井戸に落ちた
ある日妹を連れてこの井戸付近で遊んでいた時の事だった。私が井戸の蓋になっている朽ち木の上にのって跳びはねて遊んでいたら、突然視野が変わり……うわぁぁぁ!
妹によれば跳びはねた次の瞬間私が`ふっ`と忽然として消えたそうだ。まるで怪獣映画の一シーンの様に・・・
そして「ドボ~ン!」私は井戸の底にぃ~!
然し、ご安心!実はこの井戸、深さが1.5メートル程度しかなかった。浅くて良かった。もしもこれが深さ二十メートル以上もある深井戸だったらと考えると今でも恐ろしくなる。又、この古井戸に関してはこの近所だけにまつわる逸話がある。ただ、この古井戸にまつわる祟りがあった。お稲荷さんに関わる祟りだが、今はまだ書く勇気がない。
昭和30-40年代の遊び場
私の遊び場マップ(地理院地図Vectorより)
上の画像は国土地理院の地理院地図Vectorを使用しています。1945-50年頃に撮影された空中写真に川などの水路、私が遊んだ水場、そして竹ケ花雷電湧水の位置を書いています。当時の用水路の位置も入れようとしています。中々大変ですが、作業中です。もし間違いやここにはこういう池、用水路、湧水地があったよ・・・というご意見歓迎いたします。
”ジメジメとした湿地”
下総台地に降り注いだ雨が浸透した結果として、私が住んでいた竹ケ花は地下の水脈が案外地表から浅いところにありました。その為、”ジメジメとした湿地”という場所は年がら年中地面が沼地のようなぐちゃぐちゃした場所で、ドクダミが繁茂し、古井戸もあり、イチジクの木があり、カエルが好んで住むような状況の場所でした。
この付近にはこの数年後松戸市道が完成する場所です。又、市役所も高台に無く、松戸土木事務所も松戸米穀倉庫も竹ケ花には無かった。道が途中でクランクしている所が竹ケ花の踏切でそこから南東(上写真で言えば踏切の右下)は緑と空き地ばかりだった。
”竹藪下の湧水池”
東葛土木事務所の南側に現在大きな屋外の駐車場とマンションがありますが、ここにはかつて竹藪がありました。この竹藪の線路側は1.5-2.0mほど低くなっていますが、この付近にも湧水池がありました。ここではザリガニ、クチボソ、メダカなどが居ました。今は完全に埋め立てられ、東葛土木事務所の駐車場に使われています。
”竹ケ花雷電湧水”
この湧水はページ後半で説明します。
“蓮畑(魚採れた)”
北部小学校の南側に”蓮畑(魚採 れた)”という場所がありますが、ここは今グリーンマンションの建っている場所ですが、私が小さい頃は蓮が生えていて、小魚などが採れた場所でした。あの界隈は全くかわってしまいました。
”魚を採ったポイント”
北部小の西側方面に”魚を採ったポイント”という場所がありますが、ここは坂川、六間川、樋古根川の合流場所で魚が採れるポイントでした。この界隈は、古ケ崎五差路の付近の場所で、現在は川に降りられなくなっていますが、私が子供の頃は水辺で遊べ、大きな四手網を常時置いている人もいました。すっかり変わりました。
上の写真の中央に見えるのが樋古根川、手前から左奥に流れるのが坂川、右側は雑木で覆われて見えないが雑木の向こう側に右方向に流れる川があって、それが六間川。
“魚採りした水田”
中央下辺りに、”魚採りした水田”という場所がありますが、これは現在の税務署の東側付近です。パルファンなどがある場所かな?ここは小根本の谷津の端に当たる場所で、水田が広がっていました。子供の私には池に見えました。小魚も採れましたね。
“小根本の山下の湧水池”
地図をグリグリししますと、地図が広範囲で見られるようになりますが、上の”魚採りした水田”の下方面に”小根本の山下の湧水池”という場所があります。ここは小根本の山に浸透した水が湧き水となって出来た場所だと思われます。ここは冬になりますと、氷が張って、にわかアイススケートが出来ました。勿論スケートシューズなんてありませんから、ズックで遊びました。ここではザリガニが良く採れたっけ・・・現在はクイーンシティ松戸というマンションが建っている場所です。
このマップにはその他私が遊んだ場所や元用水路などが描かれていますので、お時間のある時にご覧ください
竹ケ花雷電湧水の説明
「竹ヶ花雷電湧水」について
さて、前置きが長くなりましたが、昭和三十年代までは、町のあちこちに用水路があり、湿地帯があり、魚取りのポイントがありました。竹ケ花雷電湧水もその一つだったという事になります。ここに行きますと下記のような看板があります。
説明板にはこのように書かれている。
「かつて、松戸市には多くの湧水があり、生活用水や農業用水などとして身近に利用されて、その水は市内の河川に清らかな流れをもたらしていました。しかし、都市化の進展により雨水が地下にしみ込みにくい状態になり、湧水は減少・枯渇しています。このように市街地に現在でも残っている湧水は、うるおいとやすらぎのある水辺空間であるとともに、市内の河川の水源としても大きな役割を果たしています。これからも、このような貴重な湧水を守り、身近な自然を大切にしましょう。この湧水池は松戸市農業協同組合が整備し松戸市に寄贈されたものです。* あぶないですので中に入らないでください。平成9年3月 松戸市河川課」
竹ヶ花雷電湧水植物マップ
このページを読んで竹ヶ花雷電湧水に興味を持った方の為、竹ヶ花雷電湧水植物マップを作った。下のリンクをクリックすれば印刷用のファイル(PDF)をダウンロードすることが出来る。
ご興味がございましたら是非竹ヶ花にお立ち寄りください。ただ、本当に小さい湧水で、わざわざ遠方からこの竹ヶ花雷電湧水だけを見にいらっしゃるのは心苦しい。何かのついでという事で。このマップは湧水の見学目的でしたら、自由にプリントして頂いても構いません。ただ、それ以外の用途、他のサイトへの引用、転用、商用などの目的の場合はご連絡お願いします。また、著作権は放棄してませんのでよろしくお願い致します。又、植物が違うぞ……等ご意見は大歓迎です。再調査させていただきます。遠慮無くお知らせください。
竹ケ花雷電湧水のスナップ
トクサ:トクサ科トクサ属
手前にはトクサが見える。Wikipediaによれば「北半球の亜寒帯南部から温帯北部にかけての広範囲、日本では北海道から本州中部にかけての山間の湿地に自生するが、観賞用などの目的で栽培されることも多い」とある。確かに、ビルの地面と接するあたりに植えてあるところが多い。松戸でも散歩をしているとよく見かける。
また、「小話に、明治の郵便夫が、草鞋があまりに擦り減るのを嘆き、擦り減らなさそうな材料としてトクサを使う話がある。その結果、足先から擦り減って頭だけになった郵便夫は、頭を鞄に片づけて帰ったという落ちである」と書かれている。
ヤブソテツ:オシダ科ヤブソテツ属
Wikipediaによれば、オシダ科ヤブソテツ属の植物で、「日本では身近なシダ類のひとつであり、特にオニヤブソテツは道端や畑などの石垣等にも出現する普通種である。ときに庭園などでも利用されることもある。しかし欧米ではヤブソテツとオニヤブソテツ、特に後者は観葉植物としてシダ類ではポピュラーなものである。大柄で緑が濃くて常緑のシダは鑑賞的に評価が高い。英名はholly fermである」とある。
ただ、これは身近過ぎて、私の住む家の近くの排水溝の中でも生えている。ただ、これオニヤブソテツなのかヤブソテツなのか見分けは付かない。
ボックスウッド:ツゲ科ツゲ属
スドウツゲ或いはセイヨウツゲとも呼ばれるツゲ科ツゲ属でツゲの仲間。日本のツゲは見た目として色が濃いが、海外から輸入したボックスウッドは色が薄い若葉色をしている。園芸で箱型に剪定するから名前がついたのかと思うとどうやら違っているらしく、Wikipediaのツゲの欄を見ると、もともとコリント人がこうした木材を使ってピュクシス(木箱)を作ったのがこの語源らしい。
ホウライシダ:ホウライシダ科ホウライシダ属の植物(流通名として”アジアンタム”と呼ばれる事もある)
Wikipediaによれば、「温帯から熱帯にかけて広く分布する。日本では四国や九州、伊豆半島などに分布するが、栽培されていたものが野生化していることもある。園芸用に室内や温室などで栽培もされている」とされており、確かに多くの水辺において、雑草のごとく繁殖しているのを見ることがある。特別に珍しい植物とも言えない。香港に住んでいた頃も見たことがあった。
モッコク:モッコク科モッコク属の常緑高木
Wikipediaによれば「江戸五木の一つ。モチノキやマツと並び「庭木の王」と称される」との事で、葉柄の部分が少し赤いので、すぐに見分けられる。我が竹ケ花の実家にも大きなモッコクがある。
その他
あとがき
注:このマップ及びページの写真に関して、Pirarin様、Peco様、近所の大先輩N氏の貴重なご意見をいただいた。誠にありがとうございます。
この「竹ヶ花雷電湧水」は松戸行脚2005において作成、2008年10月リメーク、2021年2月、7月に大幅なレイアウトの編集と共に内容を殆ど全部書き直しをした。
コメント
雷電神社下の池も、私が小学生のことはまだフェンスも無く、
「くにき」でイカを買って、ザリガニ釣りをしていました。
閉鎖されている小さな池なので、誰かが放流したんでしょうね。
谷津の農村では斜面を背に家が建てられることが多いですが、
日暮の方の親戚は「山を背負う」という言っていました。
山を背負っている家は大体湧き水が確保できたそうです。
私の実家の本家は南花島四丁目にありました。(今は無いです。)
場所はイエローハットのちょっと西側でしたが、
湧き水が豊富に出る家で、屋号が「清水」でした。
「清水」の家は湧き水を池に溜めて、鯉を飼っていました。
因みに分家の我が家の屋号は「街道(けーど)」でした。
我が家は湧き水はなく井戸でした。
我が家の井戸は浅く、大雨が降ると濁ったりして、
あまり良い井戸では無かったので、
隣の井戸が深い井戸で、水が透明でおいしいかったので、
飲み水は隣の水を貰っていたそうです。こういう井戸を本井戸と呼ぶそうです。
数年前に建て替えをした折、地盤調査をしてわかったのですが、
我が家が大きな岩(岩盤)の上に載っているので、
深い井戸が掘れず、岩盤の上に溜まった水を使うしかなかったということが分かりました。こういう浅い井戸を宙井戸と呼ぶそうです。
我が家が胃がんで亡くなっている先祖が多く、これは井戸の水質が悪いのでピロリ菌で胃がんになってしまったに違いないと我々家族は考えています。
うしとら様、
くにき商店ありましたね!懐かしいです。
多分、よっちゃんイカの様な駄菓子系の酸っぱいイカで釣ったのでは?
雷神様の池の事:
雷神様を始め高台は連峰的に繋がっていたと思われます。そして、雨が降って浸水した山の裾野には湧水という形でどうしても水の出場所が必要になる。
農協のくみあいビルの処には、象徴的な意味で竹ヶ花雷電湧水として、作られていますね。あれが現在本当の湧水かどうかは謎です。
我が曾祖母がお嫁に来た頃、雷神様から金山神社方面まで、連峰の様に連なって見えたと聞きました。
竹山クリーニングの竹藪の線路側は湧水池があって、そこは獲物のたまり場で私の遊び場でした(今でも竹山さんの駐車場側に野ざらしの水神の祠があります)。金山神社の跨線橋があるその下あたりもこんこんと湧水があったと私よりも一回り上の方から聞きました。
そういった意味では、明治の頃の雷電神社の裾野は湧水でジメジメ湿地帯みたいになっていたんじゃなかしら?と考えています。
ただ、そういう状態だと公園も住宅も建てられないので、埋め立てたり整地した際に池を一部残したんじゃないか?と思っています。
屋号が街道、清水と呼ばれていた件、非常に興味深いです。
うしとら様の家から少し街道沿いに進んだところに、押堀(おっぽり)という字名がありますが、おっぽりとは川の水などが氾濫した時に出来た池、或いは湿地帯を表します。
これは昭和22年の空中写真ですが、その名残を感じます。
https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/map/lmap.html?ll=35.79432,139.908121&z=17&data=history&t=gsiortusa10
以前、本福寺の佐藤住職とおっぽりに関して話をした事がありましたが、佐藤住職もあの辺りに行くと、水がピューピュー噴き出している場所があったと語っていたのを思い出します。
実際、風早神社の下には宮ノ下湧水、本福寺の下にはカンスケ井戸があるように、水が豊富な場所だったんだろう・・・という事が想像できます。
地盤調査:
うしとら様の家の地盤調査、とても興味あります。
松戸は概ね縄文海進の頃は海の中にあった部分が多く、地層は砂とシルトが多いと聞きました。ただ、砂と一口に言っても2千年3千年という長い間押し固まった砂地層なので、ものすごく固く、N値で30-40くらいにはなる様です。同様に同じ砂でも浦安の砂層はN値はその三分の一以下のようです。
ただ、その性質上横揺れには弱いので、液状化現象は起きやすい。松戸でも液状化現象の報告がありましたが、やはり押し固まっていない浦安の方が被害が大きかった。
水戸街道沿いは自然堤防の微高地で、うしとら様の家も、その上に乗っている様ですね。私が現在住んでいる根本の家もこの自然堤防の微高地に建設されています。
うしとら様のところに岩盤があったとしたら、松戸としては例外的な場所になるので、興味があります。
ただ、礫層の岩盤があったとしても、それは多分砂礫が押し固まった層である可能性もありますね。
私が勤務していた北松戸工業団地の工場の住所は上本郷押堀でした。
数年前に住居表示で押堀が消えてしまいました。残念です。
小字が押堀の場所は、他よりも地盤が低く、
湿地帯の様だったと父が言っていました。
区画整理の時に客土でかなり宅盤を上げているようです。
押堀エリアは電柱が派手に傾いているものが多いです。
地盤調査の件ですが、
ぺんぺん草先輩のお見立て通りかと思います。
工事のときに地盤調査の作業者と話したら、
たまたま巨大な岩が敷地の下にあるイメージだそうです。
ですので、我が家だけ他の家よりも宅盤が30cmくらい高く、
昔洪水が起きたとき、
我が家だけセーフだったことが何度もあったと伝わっています。
初代の仁助が明治時代に分家したとき、
近所のH家から家付きで土地を購入したそうです。
H家は表の家のご分家の目前です。
その時代、近所にはH家しかなく、
H家は田んぼの中の一軒家ということで、屋号は田中です。
こんもりしている場所を選んで家を建てた感じだったみたいです。
巨大な岩の上だったのでそこだけ小高くなっていたのだと思います。
その家は昭和30年くらいに建て替えたのですが、
その時天井裏から日本刀と位牌が出てきて、
位牌には2名の男性の名前が刻まれており、
仁助がこの家に入る前、
この家には没落士族が二人で暮らしていたのかもしれません。
刀は栄松寺に納めて、位牌を守り神として、先祖の位牌とい一緒に仏壇に上げて供養しています。
昭和50年代に南花島三丁目(春日神社の下)にあった祖母の畑を宅地に農転した時、
その畑の前にはU字溝の隙間からコンコンと水が湧いていて、
野菜や汚れた道具などを洗っていたのですが、
そこに建物を建てるときは、これでもかというくらい松杭を打ち込んでいました。
建坪40坪くらいで80本くらい打っていたと思います。(子供の頃の記憶)
栄松寺の近くの親戚の家も湧き水が豊富で、
屋号は紙屋です。やはり紙すきをしていたそうです。
寺前なので、需要があったのかもしれません。
紙屋は表の家の前の鳶の家(いまは無い)の分家だそうです。
紙屋は仁助と同じ時代にH鳶から分家して、
仁助の妹が紙屋の初代に嫁いでいます。
また、私の大叔母が紙屋の先代に嫁いでいます。
うしとら様、
> 区画整理の時に客土でかなり宅盤を上げているようです
ああ、やっぱり・・・実は押堀の標高を調べてみたら,
思ったほど低くなかったので,おそらく一メートルくらいあげたんじゃないか ?と感じてました。
>押堀エリアは電柱が派手に傾いている
これは全く気が付かなかった。こんど注意深く見るようにします。普通は、割栗石などを下に入れて土を被せ転圧していきますが、割栗石が十分入っていないか、転圧が十分じゃないのかもしれない。
H家はなんとなく、分かります。竹ヶ花、南花島でかなり土地を持っていた家は、Y家とH家ですから・・・
刀が出てきたというのは非常に興味深いお話ですね!武士の脇差と同じ長刀でしょうか?
確か名字帯刀を許された人たちの中でも、17世紀には確か武士以外の人の長刀は見分けがつかないという理由で、長刀の帯刀が禁じられたと聞いています。
南花島の家の松杭のお話も非常に興味深い。江戸城築城の際は相当数の松杭が打たれていたと聞いていますし、旧丸ビルの建て替え時にも松杭が出てきたそうですね。
お堀の松杭は一定して水に使た状態なので、長期間強い強度のまま保っています。
一方、今現在南花島3丁目地区も開発が進み、雨水の浸透も少ないでしょうし、もし湿ったところと、乾燥した所があるとすると、杭としての寿命が短くなる可能性はありますね。
紙屋さんが栄松寺付近にあったというお話は初めて知りました。興味深いですね。
H鳶さんは元々根本から越してきた一家でしたね。
先代の棟梁が他界された時は、盛大な葬儀で、木遣りも行われました。
ただ、棟梁の他界後色々とあったようで、現在は上本郷駅付近(南花島三丁目だったか)に静かにお住まいだと伺っています。金八寿司に時々行かれるというお話も聞いたことがあります。