建築デザイン松戸の残像

松戸ニューオータニと回転レストラン、ホテルデザイン

ブルースカイラウンジ 松戸の残像
ブルースカイラウンジ 1974年頃
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中部小→松戸ビルヂング/伊勢丹→キテミテマツド

松戸旧市役所通りについて
松戸市役所は元々は松戸三丁目にあった。現在のキテミテマツドの駐車場。母が松戸にお嫁に来た頃は三丁目のキテミテマツド用の駐車場ビルの場所に市役所があった。松戸税務署もあり、所謂官庁街だった。昭和の松戸の元官庁街にあった建物について調べてみた。

現在のキテミテマツドは元々松戸市立中部小学校、中部小学校付属幼稚園のあった場所で、加えてこの周辺は元々松戸市役所や税務署など官庁関係の集まっていた場所でもあり、川沿いは市役所通りと呼ばれた場所だった。小学生の頃、中部堂文具の並びにあったモンダ書店に付録付きの月刊冒険王が平置きに並べられて、欲しいと思ったものだ。

松戸駅西口、昭和の頃の中通り商店街の風景
松戸駅西口に中通り商店街があり、これは現在のふれあい通りに当たるが、昭和の頃都市区画整理で幅員拡張され、道路位置もかなり調整された。中通りには様々な種類の商店が集まっていた。焼鳥の開進、映画館の松竹館、カメラのイマイ、室内釣堀の太公望、モンダ書店

ただ当時は漫画一冊買うほど財力があった訳ではないので、物欲だけで終わったのだけれど・・・また、すでに閉業してしまったが蕎麦屋の田中屋さんも中部小付近にあり、さらに隣にはヒカリ文庫というお店があり、当初貸本屋だったものが、スロットカーのお店になったり、かなり後年まであった。

中部小校舎

中部小校舎
松戸市勢要覧より

中部小学校付属幼稚園

中部小学校付属幼稚園
松戸市勢要覧より

私が通っていた松戸市立北部小学校に比べ、松戸市立中部小学校は、主に松戸町の商店などのご子息が多かった為か、何となくだが、身なりの良い子供たちが多かったような印象がある。その姿を見ただけで、何となく優秀そうだわ・・・と感じてしまった事があった(実際はどうなのかは分かりませんが・・・)

昭和40年代は松戸駅周辺が大きく変わった頃で、常磐線の複々線化による土地買収、区画整理、騒音、遅れている大型商業店の誘致の必要性など色々な理由もあり、中部小、中部幼稚園は新坂川の川向うの現在の中央図書館の位置に移動する事になった。市役所は金山神社付近に、税務署は小根本に移った。

そういう区画整理の中で、大きな中部小の区画を中心に三菱地所がこの土地の開発権を得て、伊勢丹出店の同意を経て、土地の購入、開発をして出来たのが松戸ビルヂングであり、キーテナントの伊勢丹だった。

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松戸ビルヂングとニューオータニ

松戸ビルヂング

松戸ビルヂング 2015年
google Street Viewより

概要
名称 松戸ビルヂング
所在地 千葉県松戸市松戸1307-1
敷地面積 8,839 m2
延床面積 70,018㎡
構造 SRC造
階数 事務所棟 地下3階、地上20階(高さ90m)
店舗棟 地下2階、地上11階
着工 1972(昭和47)年4月24日
竣工 1974(昭和49)年1月30日
建築主 三菱地所
建築設計 三菱地所
施工 大成建設、清水建設

この松戸ビルヂングの建設中は、ちょうど私が高校生だった頃で、我が同級生もここの建設現場でアルバイトをした事があると聞いた。松戸にあった大型商業施設は、長崎屋、小根本の奈良屋、扇屋くらいだったので、とても楽しみだった。柏駅前にはすでにそごう柏がオープンしていて、しかもペデストリアンデッキで駅に繋がっていて、近代的な雰囲気を感じた。

長崎屋

長崎屋は昭和45年に開業した。伊勢丹の隣地ですでに営業していた・・・まだ、伊勢丹がオープンする前この長崎屋のレコード屋さんでビートルズのヘイジュードのレコードを買った。

その後、営業不振やその他の理由で、長崎屋は昭和63年12月に撤退した。撤退当時、長崎屋跡の敷地は三井生命が所有していた。ここに新館として十階建てビルとして建て直し、伊勢丹に貸していた(筈)である。ただし、キテミテマツドになった現在は、長崎屋跡地の土地の所有がどうなっているのかはよく分からない。

ホテルニューオータニ

紀尾井町のニューオータニは創業者大谷米太郎さんによって、オリンピックのあった1964(昭和39)年に突貫工事で完成したホテル。突貫と言っても、大手の建設会社が請け負っていたので、しっかりとした技術的裏付けがあった工事だった。ただあまりに工期が無かった事もあり、世界で初めてユニットバスの考え方を取り入れたのがこのホテルだった。

前職の会社社長が若かりし頃に基本設計をしたホテルである。また、私自身は、学生時代に紀尾井町のニューオータニのサンローゼという高島屋の支店内にあった果物売り場でアルバイトをしたことがあった。

果物売り場

Mircea – See my collectionsによるPixabayからの画像

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ニューオータニ松戸

さて、ここから本題で1974年開業当時の写真を見つけたので、掲載します。間違えている所などありましたら、遠慮なく申しつけくださいませ。

ニューオータニ松戸:階構成

1974年の階構成は分かりませんが、2001年頃の階構成は下記のとおり

19階 ブルースカイラウンジ (←この階が回転レストラン)
18階 ロビー サテライトルーム、ブライダルパーティ受付
17階 レストランリバービュー スペースシャトルラウンジルーム
16階 宴会場 くじゃくの間、うんかいの間、あけぼのの間
15階 宴会場 エグゼクティブ、プレジデンシャル、きりの間、

モンレーブコスチューム(貸衣装、着付け、美容室)

14階 結婚式関連 神式式場(極楽殿)、チャペル、リージェント(個室)、

ニューオータニフォトスタジオ(写真室)

19階 ブルースカイラウンジ

ブルースカイラウンジ

ブルースカイラウンジ
1974年頃

上の写真は完成当時(1974年頃の写真)です。窓上部にロールスクリーンがある事。ラウンジチェアーの様ですね。床は何となくニードルパンチカーペット或いはタフテッドの一色物。2000年頃改装をした後の写真が下です。窓上部のロールスクリーンは無くなり、窓際のカーペットや家具の色がブルーに変わった。又、床が光っているので、パーケットフロアーの様な感じ、手前の椅子を見るとなんとなくスタッキングチェアかな?良く分かりません。

ブルースカイラウンジ

ブルースカイラウンジ
2001年頃、ニューオータニ松戸のホームぺージより

結婚式関連

宴会関連

1974年開業当時の写真なので、どの部屋にどれが当たるのか分からない。申し訳ない。

多分 1974年当時のレストランリバービュー

これも後のレストランリバービューとはかなり違っているが、1974年開業当時の写真です。

ホテルデザインについて

インテリアデザインの変化

guestroom-3

L.L. BartlettによるPixabayからの画像

開業当時の写真をご覧になって何か感じませんか?私は令和5年現在の目で見ると随分と大人しいデザインだったなあと感じます。ただ、ニューオータニホテルの気品さはしっかりと漂っていると思うのです。我々が感じていた当時のホテルへ対して持っていたイメージではないかと感じます。

多分このデザイン感覚から脱皮した内装デザインの流行や変化は1980年代後半ころから始まったような気がします。ちょうどバブルとバブル崩壊を境に海外のインテリアデザイナーの多くがアジアで活躍し始めていたころじゃないでしょうか?。

ジョン・グラハムデザイン事務所

interior design Archives - Graham John

私がコロンボに居た頃、つまり1985-87年頃は、例えばグラハム・ソラノ事務所のジョン・グラハムと仕事をしていました。ジョン・グラハムのデザインはとても勉強になりましたし、面白い人で、評価に値する手煉を感じましたが、それほど際立っていたとは感じなかった。ソラノさんは一緒に現場を回ると冗談ばかり言って楽しかった。

Dennis Reedy DRDC

また、台北常駐時1987-90年の頃にLAのイントラデザインと仕事をしましたが、大人のデザインで落ち着いたホテルらしいデザインだと思っていました。あの事務所からプレゼに来ていたのはDennis Reedy さんという人で、赤ら顔の面白い人で、黒いコンパクトなボストンバッグで来ていた。ネット上に何かあるかと思ったが見つからなかった。

LRFデザインオフィス

https://www.lrfdesign.com/

LRFとは色々なシャングリラホテルで共同してデザインした事務所で、香港のアバディーンのマリーナセンターに事務所があって、打ち合わせに行ったこともあった。優秀なデザイン事務所でお友達も居ました。25年後に全く別プロジェクトで会ったハイアット社のデザインを仕切っていた人が、90年当時LRFでペーペーをして居た事で「会った事あるかもね」と話したっけ・・・

HBA

HBA | The World’s No. 1 Hospitality Design Firm
HBA | Hirsch Bedner Associates is an award winning interdisciplinary hospitality design firm with 24 locations across As...

1990年頃だったか、HBAがグランドハイアット台北をデザインした時、強い印象を受けたのを覚えています。今現在ネット検索した画像で見てもそれほどすごいとは思いませんが、あの時はどう表現したら良いのでしょうか、キラキラしていたと表現すれば良いのでしょうか?ロビーの濃い色の丸柱が印象的でした。

多分、エンペラドールの様な石だったと思いますが、正確ではありません。ただ、分かりやすくて、強いキャラクターを感じたのは確かでした。一方、”今まで思考してきたデザインが陳腐化し、何らかの警鐘を鳴らされた”様な危機感を感じたのは確かでした。当時、クリスチャン・ディオールからプワゾン(ボワゾン?)という香水が発売され流行りました。

当時右を向いても左を向いてもあの香りが漂ってきた事がありました。あの意味は毒薬との事。20世紀後半から21世紀前半にかけ、アジアに完成したホテルの内装デザインは、こんなキラキラに影響された頃だったような気がします。言い換えれば”一度見たら忘れない”という感じでしょうか?あのデザインはまさに惹かれるけど毒のあるデザインではなかったか?私は今でもそう思っています。

スーパーポテトと杉本貴志さん

株式会社 スーパーポテト
杉本貴志が設立した東京の建築設計事務所SUPER POTATOのオフィシャルホームページです。

ただ、違う方向性のホテルデザイナーも居ました。杉本貴志さんでしょうか?バーのバックカウンターに自然石を持ってきて、言わばグロットバーで飲んでいる感じになるデザインなど、以前もの派と言われた人たちが居ましたが、あのもの派のインテリアデザイナー版が現れたと思いました。私の前勤務先から、スーパーポテトに移籍した社員とよく話をする機会があったんですが、興味深いものでした。杉本貴志さんは鬼籍に入られてしまった。

橋本夕紀夫さん

https://www.hydesign.jp/jp/index.html

そういえば、広州のプロジェクトの件で、スーパーポテトご出身の橋本夕紀夫さんがインテリアデザインとして入った事があった。橋本夕紀夫さんが別プロジェクトで前職場に来たことがあり、私のプロジェクトとは関係ありませんでしたが、ご挨拶にいらっしゃいましたが、何となくTRFのサムみたいなカッコいい人だった。

広州のホテルでは、橋本夕紀夫さんの下のLocal ID事務所が、室内だけに留まらず、外部にも構築物を作ろうとするので、かなり喧々囂々になって戦ったのを覚えています。彼らは憤懣やるかたない人達だったけれど、考えてみればあの直後に橋本夕紀夫さんが挨拶に来たので、気にされたのかと思ったっけ・・・あの橋本夕紀夫さんも鬼籍に入られてしまった。

ライフスタイルホテル

昨今では、ホテルも方向性が多様になってきました。この多様性の延長線上にあるのがライフスタイルホテルかもしれません。これは説明が難しいのですが、その土地に根差した、若干土着的な事も取り入れて、ホテルだけでなくその場所、土地、風土等全体を感じながら宿泊できるようなホテルだと思います。

まとめ

あの松戸ニューオータニが出来て30年で閉業し、さらにそれから20年以上が経過しました。あらためて、松戸ニューオータニを考えてみましたが、ホテル、レストランの類は商業デザインの一つですので、時代時代の流行、ニーズに左右され、どうしても改装をするという状況が必要になってきます。そして何度も衣替えを繰り返します。

従って、50年前にオープンした頃の写真を見て、どう感じるかについて少し述べてみましたが、皆さんはどう感じますか?

話しが横道に逸れてしまいました。そろそろこの投稿も終わりにしたいと思います。

最後に

これらの1974年開業当時の写真の場所や、改装の変遷に関して何かわかる事がありましたら、教えてください。自分なりに調べなおしてみます。分からない時はごめんなさい。

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