「夢を語り始めた経営者
令和6年4月1日の日経新聞朝刊トップに「夢を語り始めた経営者」と題した記事が掲載され、目を引いた。そして「企業は停滞の30年でまとった縮小均衡の経営を捨て、再び世界に打って出つつある」と書かれていた。心強い限りだ。
私は経営者になるような玉ではない。ただ、この表の家というホームページを通して、松戸市の経済の移り変わりを見てきた。そして心の琴線に触れる部分について、描いてきた。何故そういうページを書き始めたかと問われたら、当初はそれが郷愁の心から来るもの・・・と考えていたが、実はそうではないかもしれない・・・と考え始めている。
実は「つまらないから・・・」
表の家で描き始めた原動力は何か?ストレートに書くとするとそれは”つまらないから”に他ならないかもしれない。何がつまらないかと言えば、本来ある筈の街の活気が影を潜めていて、つまらないからだと考えている。
日本経済という大きく漠然としたものは別にして、もっと自分の身近な松戸の街について考えていた。松戸の街はバブル崩壊くらいまではまだ元気があった。根本の商店街も残っていた。ところが、この失われた30年の間にすっかり、元気がなくなり、多くの商店・飲食店は消えていった。
根本の商店街にしかり、同級生の住んでいる栄町にしかりだった。当初、その商店街の敵だと思っていた大型店も最近元気がなくなり、松戸駅西口近くの物販店も八月に撤退なのだとか・・・その原因が、ネットショッピングにあると考えていたが、どうやら、それだけではない様に感じてきている。皆さんはこの現状をどの様に考えますか?
私ははっきり言ってしまえば、夢が無いと考えていた。夢が無くて面白くないと感じていたのだ。それが表の家を書く原動力、私を突き動かす力になっていたのかもしれない。
変化が面白かった
私が子供の頃、就職した頃は、街が変化していくこと自体が楽しかった。「どんどん変われ!」と思っていたものだ。黒川紀章氏の設計したアーバンヒル松戸は、
- 「雨になったら傘をささないと隣の店に行けない」
- 「青山だったら分かるが、松戸には早すぎる」
- 「駅からの導線が悪い」
と色々な云われ方をされ、何かと批判の憂き目にあっていた。
しかしながら、個人的にはアーバンヒル松戸の様な建物が建つ事には大賛成で、松戸をガンガン変化させてほしい・・・と強く願っていたものだった。
ニューオータニ松戸の回転レストランも夜行くとバイキング形式で、料理は感心しない事もあったが、私は好きだった。戦艦大和の主砲のベアリング技術を利用した回転レストランはニューオータニ本店を皮切りに有楽町の交通会館、船橋のポートピア、柏そごう・・・当時あちこちに出来た。
回転レストランはあちこちにあり、月並みとはいえ、面白かった。ああいうワクワク感が、松戸にもっと欲しいと思っていたのだ。ところが所謂”失われた30年”と言われていた期間に、この回転レストランも無くなっていった。
アーバンヒル松戸
アーバンヒルはバブル崩壊頃までは店舗が入っていた様な気がするが、すでに空きスペースも目立ち、三越エレガンスのネームプレートの下で、朝市が催され野菜を売っていたりした。あれはちょっと情けなかった。最後の頃まであったのはモデルガンのターゲットや花屋のカネコであったか・・・
2000年を迎えるころはすでに廃墟と化して、ロックアウトされていた。開発主だった松久さんは、その後、京葉流通センターなどの不動産も手放す事になり、ディベロッパーとしての名前自体を聞かなくなってしまった。後に日本の超有名ホテルチェーンのホテル計画もあり、私が現地案内をした。
マスタープランを検討したら、あの場所ならではの、導線上の欠点もあり、実現しなかった。あの欠点は外環自動車道の三郷インターがある現在だったら、問題にならなかったかもしれない。結局、アーバンヒル松戸跡地の新ホテル計画はとん挫した。
数年後、気が付くと、いつの間にかマンションになってしまった。ニューオータニ松戸の回転レストランも2003年頃には無くなった。アーバンヒル松戸を設計した黒川紀章先生も2007年に他界した。
2003年頃はまだ希望もあった
しかしながら、2003年頃にはまだ希望もあった。そして、「その内良くなるんじゃない?」と思っていたし、香港のテーラーに頼んでスーツを誂えたり、残業で遅くなると自腹でタクシーで帰宅する事もあった。
ところが、そこからが長かった。2008年のリーマンショックも手伝い、社会全体にドヨ~んとした空気が流れ、あの頃から財布のひもが固くなった。香港のテーラーを呼ぶのはやめた。世界のファッションセンター”しまむら”はそれまで見向きもしない店だったのに、案外掘り出し物を探す楽しみを覚えるようになった。
また、チノパン、ジーンズなどの普段着はユニクロで買っていたが、通勤用のブレザーもユニクロで揃えるようになった。ダイソーには勿論行くようになり、必要な生活物資は先ず100円均一にあるかどうかを考えるようになり、かなり依存する生活になっていった。その生活感が蔓延化し、物価は安いが当たり前になっていった。
シンガポールで外食が減った
2011年の311の頃を境に外食も少なくなってきたのかもしれない。それでもまだ、ざらっぺな一面は無くなった訳ではない。ただ、2013年からシンガポールに赴任したら、物価が高くて、たまらない。日本であれば1000円程度で買えるイイチコが、3-4000円もしたので、高級な飲み物だと思い込みつつ大事に飲んだ。
住まいだったコンドミニアムの前にはCold Strageがあり、簡単な日本食材はそこで仕入れたが、やはり多くはリャンコートの明治屋に行く必要があった。たくさんの買い物になるので、帰りはどうしてもタクシーだった。とてもじゃないが、家族の週末外食はかなり店を限定する事になった。コンドミニアムから近かったSimpang Bedokのホーカーには何度か行った。
とはいえ、日本食も食べたい。そこでパークウェイ・パレード(カトン)のサクラヤさんは手ごろな価格で日本食が食べられた。サクラヤさんには簡単な日本食材もあった。2015年に帰国した頃は、すっかり、散財しなくなったと言ってよい。
松戸市役所の移転計画
当初、松戸市役所の移転計画は、現在廃墟になっている相模台の官舎跡地なんだと勝手に思っていた。ところが発表された内容を見ると、松戸検察審査会の建物のところだった。えらく狭い場所で、あの場所に市役所を作ったら、駐車場の導線や何やらで、地獄坂の閑静な雰囲気はなくなってしまうだろう。私は反対だ。
ただ、松戸市には実は収蔵美術品が案外多い。そのため、美術館は欲しいとは思う。美術館と市立図書館の建設であれば、私は再び夢を見ることが出来る。
ただ、出来ればアプローチの良い場所に欲しい。気持ちとしては官舎跡地に美術館と松戸市立博物館を建てて、市役所機能は現在の根本の台地の駐車場として使っているエリアを使い、段階的に建て替えるという方が経済的だと思う。合同庁舎との相性も良いのではないだろうか?
最後に
よく、X世代は夢が無いというが、実はバブル世代を経験してきた私も夢が無くなっていたのだ。X世代にとっても、我々の世代にとっても何か夢が欲しいものだ。
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