かつて活気のあった松戸市竹ケ花界隈
はじめに
2003年以降、竹ケ花にかつてあった商店、飲食店について、単発的に説明していましたが、どの辺りにあったのか、もう少し地区全体に分かるように2021年9月に装いも新たに竹ケ花踏切以東の地区として作成してみました。位置情報はグーグルのマイマップで作成していました。
ところが、WordPressのあるサーバーのPHPのバージョンとグーグルマイマップのPHPのバージョンが合わなかったらしく、スマホやパッドでは地図が表示されない欠点がありました。サーバー側のPHPのバージョンを下げるという手もあったのですが、セキュリティの問題もあり、それは止め、2021年12月18日、uMapを利用してマップを作り直し、発表する事にしました。
また、竹ケ花の松戸市道も含んでいたのですが、ページの内容が広くなりすぎる為、松戸市道は別途分ける事にしました。
国道6号線と陸前浜街道と水戸街道
現在我々が自動車で走っている国道6号線は、時代時代で呼び名が違っていて、鎌倉時代は浜街道、浜海道とも呼ばれ、江戸時代には藩を中心としたそれぞれの呼び名があった。明治以降は陸前浜街道と呼ばれる。陸前とは東京から陸前国(仙台方面)を結ぶ浜沿いの街道だった為だ。水戸街道は陸前浜街道の一区間の愛称である。
江戸時代、この街道について、水戸藩は水戸以南江戸までを水戸街道と呼んだが、水戸以北は磐城街道或いは磐城相馬街道と呼んだ。仙台藩では江戸浜街道と呼び、相馬中村藩(福島県相馬市を中心とした藩)では中村以北を仙台通、中村以南を水戸路と呼び、磐城平藩(福島県いわき市を中心とした藩)では磐城平以北を相馬路、磐城平以南を水戸路と呼んだようです(Wikipedia 陸前浜街道参照)
踏切の名前にも浜街道の名前が継承されていた部分があって、例えば松戸市竹ケ花にあった踏切は国鉄の呼び名では有るが、第二浜街道踏切と呼ばれていた。この踏切について下記に書いてありますので、踏切に興味の有る方はどうぞクリックして進んで下さい。
松戸市竹ケ花は住宅街だが、かつては旧水戸街道の街道筋だった
国道6号線は急増する交通量の緩和の為、1961(昭和36)年松戸バイパスが出来た。金町から上本郷で旧水戸街道と合流するまでである。松戸駅の西を走る旧水戸街道は後に国道ではなく県道となった。旧水戸街道は松戸バイパスが出来た後も主要な幹線道路として維持していたので、常磐線複々線化くらいまでは、それなりの交通量があり、竹ケ花はその旧水戸街道沿いの通過点ではあるものの街道沿いの商店も活気があった。
竹ケ花踏切から竹ケ花交差点付近までの商店街
竹ケ花踏切以東の商店・飲食店をuMap(OpenStreetMapのマイマップ)にインプットしてみる
マップを拡大してみたい方はフルスクリーン表示をクリックしてください。
昭和37年以降の飲食店・店舗他についてuMap(OpenStreetMapのマイマップ)を作成してみました薄青いアイコンは、すでに存在していないお店です。赤いアイコンは現在稼働中のお店です。こうやって見ますと、この街道沿いにたくさんあった商店・飲食店の殆どが廃業し、今あるお店は比較的新しく誕生した店ですね。
昭和37年頃の竹ケ花商店街
これは松戸商工会議所が昭和37年3月に発行した”松戸市商店街診断報告書”に掲載されていた竹ケ花と松戸市道(竹ヶ花)の交差点付近の写真です。右手前の建物は靴屋さん。左手の先に見える大きな屋根の建物は多分農協だと思います。
踏切以東の商店・飲食店リスト
旧水戸街道の北西側
- つぼ焼き
- 関口下駄屋
- 貸本屋
- 藤巻モータース
- 藤倉運動具店
- 農協
- 千寿学園
- 鈴荘材木店
- 喫茶ゲート
- 木下理容
- 蝦夷サカバー タッテューヤ
- (鈴木駄菓子屋)
- いさみ寿司
- 笹屋酒店
- そば屋
- 河合肉店
旧水戸街道の南東側
- 楢原建設
- 食料品明治屋
- 大衆食堂明治屋
- 三橋屋(紺屋)
- 横尾商店
- 理容ヒデ
松戸市道
- 三笠屋靴店
- 島根自動車
- 額賀さん(竹串製造)
- 天野松風さん(象牙細工工芸家)
- 石井米店
- 松戸タイヤ
- 小川モータース
- (ラーメン屋)
- 善味屋
旧水戸街道北西側
お茶、つぼ焼き
ここはHさん宅だったが、色々な商売をしていた記憶がある。一つはガソリンスタンド、一つはお茶屋、一つはつぼ焼き。ここの次男さんはよく我が実家のおでん屋さんにおでんを食べに来てくれた。白ちくわが好きな人だった。竹の湯でお会いした時は「カメラマンになるんだ」と聞きましたっけ・・・お兄さんのお顔も覚えていますが、どちらにいらっしゃるのかは分かりません。
暫く家も残っていましたが2010年前後に解体されなくなった。現存せず。
関口下駄屋(関口履物店)
おばあちゃんが健在だった頃のお店だったと思う。現在は横浜方面にお住まいだと聞いた。お盆の時に墓参りでやってきた時にお会いする事がある。現存せず。
貸本屋
漫画といえば貸本屋か床屋だったかな?
小学生の頃、漫画を読みたいと思えば貸本屋か床屋に行くか友達に借りるしかなかった。当時の私のお小遣いが20円、週刊少年マガジンが確か50円くらい。やはり割高感がある。しかし単行本漫画は数百円もしてとても買えない。そこで貸本屋で借りる。これを一冊10円で借りる。10円だったら何とかなる。
貸本屋さんが住宅街にあった
近所に何軒か貸本屋があった。一つは竹ヶ花の踏切を渡り、現在の「しぐれ」の向かい付近(元神田餃子屋あたり)にあった貸本屋、もう一つはすぐ近所の「関口履物店」(通称関口ゲタ屋)付近にあった貸本屋。「関口履物店」の隣が私が最も立ち寄った古本屋さん。多分昭和40年頃までだと思う。
もう一つ、岩瀬の中華料理「末広」の裏付近で「埼玉屋豆腐店」の前に「住吉文庫」という貸本屋が一軒あった。記憶では昭和43年頃に借りに行った記憶がある。これらの貸本屋さんには勿論少年マガジンやサンデーもあったが、何と言っても多かったのは単行本サイズの漫画だった。所謂貸本漫画家の描いた漫画だった。
消えていった貸本屋
需要がなくたってきたのか何年かすると貸本屋は徐々にその姿を消していった。詳しい理由は知らない。高度成長の波にのり国民全体の所得が上がり、同時に本が安くなったからかもしれない。或いは図書館が出来て貸本屋にいく必要がなくなったのかもしれない。やはり前者かな?貸本屋で借りるのは漫画が中心だったけど図書館に漫画はなかったもの……
藤巻モーター
この竹ケ花踏切以東には車の修理工場が3つ混在していた。その一つは藤巻モータースだった。浜松に常駐していた頃購入したジェミニの中古車はこの藤巻モータースで車検をお願いしていた。廃車もここで頼んだ。鬼籍に入られた綱ちゃんの同級生が社長だった。現存せず。また、度々コメントを書いてくださるうしとら様によれば、ここの藤巻さんは河合肉屋のご主人と釣り仲間で、うしとらさんも一緒に釣りにいったことがあるとの事でした。
藤倉運動具店
4.藤巻モータースの写真の右の5階建ての建物が藤倉運動具店。1946年創業のお店、現在はお孫さんに代替わりしていて、Fujikura Sportsという横文字店名を使い、新しいイメージで営業されている。建物右壁には、大きな壁画が描かれていて、MAHARO氏(GROUNDRIDDIM所属)によるものなのだそうだ。週末にはライブなどのイベントもやられているようだ。頑張ってほしい。
農協
昭和30年代までは北部小横の竹ケ花、南花島界隈にも水田が広がっていたので、街道沿いという事で農協があったようだ。我が実家でお店を営業していた頃は母に頼まれ、お札を硬貨に替える為、農協に行かされた事もあった。今は移転して北松戸にある。下はまだ竹ケ花に農協があった頃の広告で、日本商工業別明細図(松戸市)昭和32年より使用。
千寿学園
パークハウスが建設される前に、プレハブ小屋の「千寿学園」という珠算教室があったようです。ここには多くの子供達が通っていたらしい。東京都の東側にある区から、自動車で通うかっこいい先生だったらしく、近所のお母様にも人気だったらしい。ただ、パークハウスが建設される前に、移転を余儀なくされ、その後越した先でも長くは続かずやめてしまったらしい。
私も珠算塾には通っていましたが、今は珠算の時代ではないですものね!でも私は珠算塾に通っていたことで、暗算は普通にできるようにはなりましたね。
鈴荘材木店
一年先輩のソウちゃんの実家。ソウちゃんはスポーツ万能で活発な人だった。小さい頃、鈴荘材木店に遊びに行ったことが何度もあった。おじいちゃんの部屋の広縁前だったか盆栽がたくさん置いてあって、蹴飛ばして怒られたこともあった。昭和40年代だったか、材木店は廃業され、等価交換方式で東急リバブルマンションになった。
喫茶ゲート
実質、鈴荘さんが営業していた喫茶店。ゲームが置いてあり、妹を連れてよく行った。焼きサンドも美味しかった。1988年頃だったか廃業され、その後不動産会社が入っていた。
木下理容
実は木下理容ではない理容店に私は行っていたので詳しいことは実は分からない。分かり次第、加筆しようと考えている。
大竹青果→中華料理香蘭→蝦夷サカバー タッテューヤ→松戸食堂
竹ケ花の雷電神社参道真向かい付近で2018年頃からつい最近まで、蝦夷サカバータッチューヤさんが営業されていた。一度家族で入ったことがあった。北海道料理のお店で店頭には駄菓子のコーナーもあり、娘には好評だったが、多分コロナ禍が故であろうか、残念ながら閉店してしまった。その後、松戸食堂という食堂が2023年8月から出来ている。
どうやら、岩瀬の坂下付近(元栄久そば屋)にある松戸もんじゃと姉妹店らしく、Webの作者が同じと思われるホームページがある。頑張ってほしいものだ。
松戸食堂と聞くと私は六号線沿いの現在のアサクマの隣にあったドライブインの様なお店を思い出す。魚処吉泉さんの同級生だったか知り合いがやっていた店だったと思う。そちらはすでに閉業されている。
佐藤電機
佐藤電機は昭和30年代に存在していたお店です。詳しいことがお分かりの方は情報をお願いします。
ブリキ屋
このブリキ屋さんも昭和30年代に存在していたお店です。詳しいことがお分かりの方は情報をお願いします。
鈴木菓子店
記憶として、鈴木材木店ソウちゃん(ご子息、長男)と同級生のシロちゃんという人が居た(と言っても私の一年先輩、ヒロちゃんかもしれないが・・・)。シロちゃんのお母さんが営んでいたと思う。ソウちゃんもこのお店の常連だった記憶がある。ただ、昭和40年代後半にはこのお店はなかったと思う。
このシロちゃんのお母さんは、リーダーシップのある方で、竹ケ花の役員の一人だったと思うけれど、人をうまく使って作業が出来る方だったようだ。ソウちゃんと、シロちゃんで思い出したが、そのお二人と同年代の方で、カズオちゃんという人が居た。スポーツが得意な感じの良い方だった印象がある。
カズオちゃんは吉野屋さんだったか、加野屋だったか、或いはその近くにお住まいだったか忘れたが、確かあの界隈だったと思う。思い出せないなあ・・・
松乃寿司→いさみ寿司
昭和30年代中頃のマップを見ますと、松乃(の)寿司となっています。経営者が同じで名前だけ変わったのか、或いは経営者も全く違うのかは分かりません。後にいさみ寿司という名前になります。
うしとら様からの情報(2021年12月18日)によりますと、現在この地は一般住宅になっていますが、いさみ寿司は竹ケ花の旦那衆が集まるような寿司屋さんだったとの事です。ここには元気の良い女将さんが居たそうです。このお店の道路の反対側の善味屋商店と小川モータースとの中間付近にラーメン屋があって、そこはこのいさみ寿司さんのお嬢様が営業されていたそうです。
それにしてもこの交差点付近は、現在クリーニング屋さんや吉野燃料屋さんはあるものの、笹屋さんも無くなってしまいましたし、河合肉屋さんも無くなったし、中華そば屋、床屋さんも無くなってしまい、寂しいですね!
三上電機工業所
昭和30年代に存在していたお店です。詳しいことがお分かりの方は情報をお願いします。
笹屋酒店(石橋商店)
お店界隈の地主的存在だったが、色々とあったらしく、ある時廃業されてしまった。我が家では、二葉屋さんからも買っていたが、笹屋さんからの配達もあった。父の酒が増えた時期があって、笹屋さんが「お酒の量が少し増えていますが大丈夫ですか?」と心配されていた。
桝屋そば
地図によって柳屋だったり、桝屋だったりするが、桝屋とした。このそば屋は中華そばも提供していたし、店頭でソフトクリームも提供していた。まだ陸橋の出来る前の時代だった。
河合肉店
この河合肉店は南花島商店街になるかもしれないが、北部小の同級生が住んでいたお店なので、掲載します。上の写真は、ご幼少の頃南花島に住んでいたエイムさんが1977年に撮影した竹ケ花交差点の風景です。陸橋の橋脚の先に見えるグレーの平屋が河合肉屋さんだと思います。私の北部小同級生の矢一君(通称ヤイちゃん)が住んでいたところです。
彼は現在、京成中山で焼肉店(牛徳)を営んでいらっしゃり、御健在な様です。お近くに行かれたら是非、来店してくださいね!私もいつか食事に行くつもりです。下記のブログで紹介されています。
旧水戸街道南東側
楢原建設
実家の近所にあった建設会社。高校受験の時だったか大学受験の時だったか忘れたけど、楢原建設の社長の住んでいる階から私の勉強部屋の明かりが遅い時間まで点灯しているのが見えた為、「あの家には受験生がいるのか?」と家族に聞いたことがあったとの頃でした。その家族も我が家の事を知っていたので社長に説明したそうです。
明治屋(食料品、食堂)
この店は乾物屋の記憶のほうが大きいが昭和37年頃は飲食店も営業していたようだ。ここの末裔の方が現在北部小横の一休を営業されている。樋野口に山崎という飲食店があるが、その付近にクリーニング屋さんがある。このクリーニング屋は元々明治屋というお店で食料品などを売っていた店らしい。この竹ケ花のお店と関連があるらしい。
2024年現在一休さんは閉業され、焼肉ゴーゴーというというお店が出来ている。どうやら北部小のO先生が好きなお店らしい。
三橋屋(紺屋)
”こうやさん”と呼んでいた。私の記憶では看板を出して商売をしていた訳ではなくて、敷地内の建物で洗張をしていた記憶が強い。この竹ケ花界隈は地下水が豊富で、30センチも掘るとコンコンと溢れ出す事があったので、紺屋も成り立ったのかもしれない。
横尾商店
写真の右側の赤いテントの場所が横尾商店です。パン・煎餅、菓子類、飲料水などを売っていた。この長女のMちゃんは実家に行くたびに声をかける。Kちゃんは市川に住んでいる。長男のTちゃんは松戸市道側でヤマザキショップを運営している。何かとよく通ったお店。お世話になった。横尾商店はいくら書いても書ききれないくらい思い出がある。機会がある時に記事を増やそうと思います。
理容ヒデ→松戸の床屋さん
「理容ヒデ」は何となくモダンな感じがした
「理容ヒデ」は若夫婦が懸命に頑張って仕事に精を出していたし、近所でも評判は良かったと思う。お店に入るとイタリアの画家アメデオ・モディリアーニの「黒ネクタイの女」の複製画が額に飾ってあり洒落ていた。ここには貸本漫画の単行本がたくさんあり読んだ。カット無しで漫画だけを読ませてもらったこともある。
マネキンをテーマにした怪談漫画
多くの漫画のうち、一つだけ内容を覚えている漫画がある。それは確か「マネキン」を題材にした奇妙な漫画で、舞台がデパートの怪談物だ。
マネキンが夜になるとそわそわし始め動き出す。それは朝方まで続き翌朝何もなかったように元のマネキンに戻る。それが毎晩お祭りの如く繰り返される。ある夜このデパートに泥棒が入る。ところがこの泥棒は心臓麻痺で謎の死を遂げ翌朝発見される。警察が調べても原因不明。実はマネキンの仕業だったという様な筋書きだった。怖い漫画だった。
そういえば「マネキン」という映画もあったなあ・・・
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(松戸市道)
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三笠屋靴店
これは松戸商工会議所が昭和37年に発行した松戸市商店街診断報告の中の挿絵である。右端に写っている日本家屋が三笠屋さんである。背景の樹木は雷神様。
三笠屋さんは竹の花界隈でもいち早く電話を入れた家で、我が実家に電話がなかった頃、クリスマスプレゼントの為、母がサンタに電話すると言って三笠屋さんに行って電話をしていたっけ・・・当時は本当にサンタに電話しているんだと思っていた。現存せず。
島根自動車(自動車修理工場)
写真の左側の白い建物、屋根の下に山小屋の様な梁の模様が描かれている建物が島根自動車。ここには話しやすいおじさんが二人いた。TさんにMさんだった。Tさんはいつのまにかいなくなったが、その後Mさんが跡を継いで、運営していた。すでに現存せず。
額賀さん(竹串製造)
額賀さんは焼き鳥などに刺す竹串の製造をしていた家だった。身近な所では、松戸駅西口にあった開進(やきとり屋さん、すでに廃業)にも卸していた。今はいない。
天野松風さん(象牙細工、伝統工芸家)
気位の高かった鈴荘材木店の奥様に「竹ケ花唯一の文化人」と言わせせしめた方で、竹ケ花の連合会長や民生委員もやられていた立派な方。その後、小金に引っ越された。日本橋高島屋での天野先生の展示会も見に行った。私の結婚式の時には私と妻用に象牙の根付を作っていただいた。天野松風先生が2014年7月29日に享年96歳で他界された。ご冥福をお祈りします。
天野さんについてはすでに過去書かせていただいたが、いずれ、復活させたいと思う。乞うご期待。
石井米店
竹ケ花唯一のお米屋さん。
松戸タイヤ
タイヤ修理のYさん
竹ヶ花の雷電神社付近にタイヤの修理をしていたYさんというおじいちゃんが居た。このYさんは交通指導員の制服を着て、毎朝北部小へ登校する少年少女達の道路横断を誘導していた。しかも優しそうな笑顔で!つまり「緑のおじさん」だったわけだ。立っていたのは旧水戸街道と松戸市道の交差点付近で、実はこの界隈事故が多かった。というのはまだ竹ケ花の踏切があった頃で、交通量が馬鹿にならないくらい多かった。
そんな交差点と踏切を渡って北部小学校に通学する児童たちを何とか守りたいというのが、Yさんの献身的な行為だったのだ。今となっては懐かしい光景だ。
火の見櫓の人
このYさんは同時に地元の消防団に入っていた。竹ヶ花倶楽部の敷地内に、火の見櫓(ひのみやぐら)があった。Yさんは何処かで火事があれば半鐘(はんしょう)を鳴らす役目だった。半鐘は住民に知らせると同時に避難や消火の出動を促す役目も担っていた。半鐘とは火の見櫓に吊されている釣り鐘の事で、この叩き方によって火災のあった地点の距離を次のように表現している。
……半鐘の鳴らし方……
二つ半(二つ半鐘)-ジャーンジャーンと二度叩くのを繰り返す。一番遠い火災。
三つ半(三つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンと三度叩くのを繰り返す。もう少し近い距離
四つ半(四つ半鐘)-ジャーンジャーンジャーンジャーンと四度叩くのを繰り返す。さらに近い。
擦り半(擦り半鐘)-連続して間断なく叩く。これは直ぐ近くであるという合図。
四つ半は殆ど聴いたことが無った。二つ半或いは三つ半と擦り半(すりばん)が多かったと思う。ただ、Yさんの場合、最初二つ半を叩いていても、暫くすると何故か三つ半になってしまう。こちらとしては「間違えたかな?でも三つ半だから遠いのかな?」と思っていると、いつの間にか擦り半に変わってしまいためらった。
小川モータース
上は日本商工業別明細図(松戸市)昭和32年より抜粋した広告です。
上記の小川勇次さんという方は、先代の社長さんで明治生まれ。陸軍士官学校を卒業後は陸軍工兵学校の教官もされていた方で、復員時は少佐の地位だった。戦後、竹ヶ花で自動車修理工場を立ち上げ、その後松戸市交通安全協会会長の要職を務める傍ら、六中にオート三輪者を寄付(下図添付参照)するなど、公私共に立派な方だったようだ。
又、すでに表の家で取り上げた国際射撃倶楽部の理事もしていたらしく、もっと早く接していれば色々な話も聞けたものだと後悔している。
なお、上記松戸市報昭和30年4月15日号には
六中自動車クラブへ
三輪車を送る
-竹ヶ花、小川勇次氏の美挙-
市立第六中学校(校長田村稔氏)自動車クラブに竹ヶ花小川勇次氏から三輪車が贈られることになり、今学区父兄や学校で感謝の的になっております。
六中自動車クラブは、四年前に生徒会のクラブ活動として発足、松戸自動車教習所の教官と同校森田、横山両顧問教師の指導のもとに主として夏休機関を利用、毎年三十名以上のクラブ員をもち、今年卒業生でこの方面に進出して行くものがめだっています。
この事実を知った竹ヶ花小川勇次氏はクラブを発展させ、学校内で練習できるようにとおの程自家用の三輪車を贈ることを学校に申出ました。
今新学期から使用できるようにと車体その他の整備を急いでいますが、同校自動車クラブでは毎週倶楽部活動の日にミッチリ練習できると一同大いに張切っております。
これを読んで、中学生で自動三輪の練習というのはどういう事?と思って読んでいたのだが、どうやら自動車の免許制度を読んでいくと、この頃は自動三輪が対応する小型免許であれば16歳以上でOKだったようだ。想像ではあるが、松戸自動車教習所の教官がきているくらいだから、ここでミッチリ練習すれば、試験免除となり16歳になると小型免許が手に入ったのではないだろうか?あくまで想像であるが・・・
ここが竹ケ花の踏切近くで3つ目の自動車修理工場。ここには昭和40年頃だったか、工員の大和田さんという人がいた。この大和田さんは我が実家のかき氷やおでんを食べに来てくれれていたし、私にとても優しくしてくれたお兄さん。大和田さんは確か住み込みだったと思う。私が「家を出て大和田さんの所に一緒に住む」と言い出し、周りを困らせた事があった。
先日、我が家の自動車のバッテリーが上がってしまったので、小川モータースさんに助けていただいた。その時、工員の大和田さんの話をしたら、懐かしそうに「北小金に住んでいたけどいつだったか他界したねえ・・・」との事だった。寂しい。現在の社長は小川勇次のご子息の小川伸武氏である。繋ぎ姿で若々しい方だ。
(ラーメン屋)
貴重な情報をコメントをしてくださる”うしとら”様によると、このラーメン屋さんは、いさみ寿司のお嬢様が営んでいたお店だそうです。ただ、私は行ったことが無かった。
善味屋食料品店
実はあまり記憶ないが、交番の隣で野菜や乾物などを売っていた記憶がある。流行っていた店だったが、いつしかなくなってしまった。度々コメントを下さるうしとら様によれば、ホーローの”塩”と書かれた看板があり、近所の人は塩というとここで買っていたそうです。専売の時代ですね!
榎本治療院・交番
榎本さんには掛かったことが無い。ここは鍼灸院かな?
吉野屋商店と加野屋さん
この店は燃料屋さんで、この先の加野屋さん(瀬戸物がたくさんあった)はとても対照的で、特に加野屋さんは大きなたぬきの置物が野ざらしで置いてあったのを覚えている。
関連ページ
この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。
コメント
善味屋さんは塩の専売店でしたので、あの辺のお母ちゃん方が塩を買いに行くお店でした。「塩」のホーロー看板が出ていました。以前、あの辺を夏の夜に通るとカエルの鳴き声が聞こえる時があり、どこかの家の庭に池でもあるのかと思っていたのですが、あの辺の斜面の下は通りから見えませんが昔湿地だったようです。
石橋酒店の前には郵便ポストがあり、切手やハガキも石橋酒店で売っていました。石橋酒店が閉店してしまって、郵便ポストは小川モータースの前に移りましたが、小川モータースで切手やハガキが買えるのか分かりません。
吉岡材木店で働いていたお婆さんが仕事が終わって家に帰る途中に石橋酒店でコップ酒を飲んでいたことを思い出します。
うしとら様、
ありがとうございます。
なるほど・・・塩でしたか!
そういえば塩の専売は案外最近まで続いていましたね!
行徳の昔の地図を調べていたら、明治の迅速測図だったと思いますが、御猟場付近に塩田の表示があり、興味深かった。
私が小さかった頃、我が表の家の庭の北にヤツデやアオキが生えていたんですが、そこにツチガエル(かな?)が生息していたっけ・・・主だったのかなあ・・・イボイボで気持ち悪かったので、そのままにしていた。
あの当時は、旧水戸街道の竹ケ花踏切辺りは舗装がイマイチで、凸凹が多かったせいか、雨が降ると、そこにアメンボがスイスイして居たり、踏切近くのクリの枕木で出来たフェンスの所に、アオガエルが居たり、なんだかんだと、生き物に囲まれていました。
小川モータースのところに郵便ポスト、確かにありますね。