新京成電鉄開通と平潟の土地開発との関連 松戸の土地を楽しむ

相模台方面松戸行脚
相模台方面 2001年頃撮影

高低差のある松戸の土地を楽しむ

松戸は特に昭和30年代以降良きにつけ悪しきにつけ、その表情を変え山の上は削られ平坦になり緑も失なわれてきた。その後に建物が建ち、見通せた所も見通せなくなり何処の地方都市に行ってもある個性のない街になったかのようだ。一見個性の無さそうなこの松戸の土地だが、実際は足で歩き回ると松戸の土地の高低差をイヤと言うほど感じるかもしれない。

相模台から見た谷津

相模台から見た谷津 2021年5月3日撮影

正面の緑に覆われた台地は千葉大園芸学部と戸定が丘です。素敵な風景でしょ?

松戸の土地は台、谷津、下谷の大きく三つの土地に分類

上の図は国土地理院の地理院地図に傾斜量図のレイヤーを3Dで見られるようにしたものです。マウス等でグリグリと動かしてみてください。

松戸の地形は独特で、元松戸郷土資料館長の大井さんによれば、「松戸の土地は台、谷津、下谷の大きく三つの土地に分類される」との事。その様子が上の傾斜量図から少し感じ取れるかもしれませんん。

江戸川の周りは平地で常磐線から東側は下総台地を構成し、新京成電鉄と北総線は下総台地を横断し、武蔵野線は縦断している状態が分かると思います。新京成電鉄は戦後10年目に開業しており、線路敷きの作り方も勾配なりに作ってありますが、北総線は第一 期の小室、北初富間は昭和54年開業ですが、その他の多くはバブルを跨いで開業している為か、線路敷きの工事が台m地の勾配なりでなくて、掘削を伴い地下の部分も少なくありません。これは工事費の増大につながった筈です。

 

標高

江戸川に比較的近い地域の標高

  • 江戸川河川敷(古ケ崎付近):標高約2.4m
  • 栄町:標高約2.5-3.0m
  • 主水新田:標高約2.3m
  • ダイエー新松戸店前:標高約3.3m
  • 平潟住宅街(せんだんや裏付近):標高約4.8m-4.9m
  • ホテル・センダン屋前:標高約3.8–3.9m

松戸駅と下総台地との標高比較

  • 松戸駅:標高約5.5m
  • イトーヨーカ堂前:標高約6.2m
  • 上本郷駅:標高約26.5m
  • 北国分駅:標高約20m
  • 千葉大園芸学部:標高約25.8m
  • 松戸中央公園:標高約25.5m
  • 旭ヶ丘第三公園(ヤマダ電機裏):標高約10.8m
  • 八柱霊園入口付近:標高約25.6m

下総台地の中の谷津が入り組んでいる箇所の標高

  • 小根本交番:標高約8.0m
  • 松戸税務署ゲート前道路付近:標高約8.4m
  • 小根本公園:標高約9.3m
  • オークフォーミズ前:標高約12.9m
  • 新京成電鉄線路沿い(オークフォーミズ先の谷)標高約9.1m
  • 吉井町:標高約12.2-15.8m

主に常磐線から東側は下総台地が控えているが、多くの谷津が入り組んでいる為に台の中にありながら、谷津として地盤が低く、同時に地盤が弱いところがある。上にあげた各々の場所の内、常磐線の東側にありながら、標高がえらく低いところはそういった谷津,つまり谷を為している場所であることが分かるだろう。

新京成電鉄とその周辺

金山神社と市役所の台との間の切通しの様子

金山神社と市役所の台との間の切通し

金山神社と市役所の台との間の切通し  2001年10月23日撮影

オーク・クリニック・フォーミズを背にして吉井町に至るまでの谷の部分

オークフォーミズを背にして吉井町に至るまでの谷の部分

オークフォーミズを背にして吉井町に至るまでの谷の部分 2001年8月13日撮影

吉井町の台地からオークフォーミズ方面を見る

吉井町から新京成踏切方面

吉井町から新京成踏切方面2021年5月8日撮影

吉井町の台地から見ると踏切の台との間の谷津を感じる

谷津の埋め立て箇所を通過する新京成電鉄線路の窪み

線路の落ち込み

線路の落ち込み

新京成電鉄で松戸駅から上本郷駅に向かう間の楽しさ

  1. 実際、松戸駅で新京成電鉄の電車に乗り、上本郷駅までどの様に電車が走るのか、よく観察すると面白い。先ず、松戸駅(標高5.5M)を発車し、竹ヶ花拾石台の踏切、シティテラス松戸付近(元土屋家具センター):標高10Mまで一気に高度を上げる。乗車していると思ったほど気になるスロープでは無いが、車内で車両の連結部から次の車両の床を眺めると電車が進行方向に台地を登る様子が分かる。
  2. 同時に微かではあるが力の法則、f=maにより体に力が掛かるのを感じる。次に踏切横のプラウド松戸(元フレール松戸)裏にお墓があり、その先に写真のオーバーブリッジがある。このオーバーブリッジの付近に上昇のくぎりがあり、一息つく。その先は地盤沈下の為か線路がわずかに下がっている。視覚的に見ると理解出来ると思うが、乗車中にはっきりと感じるものでもない。以前(2002~3年の頃)、地盤沈下が原因で敷設線路下の地盤改良をしていた。
  3. 後述する旧版地図を参照されたい。図中Bというポイントは谷で低地だった事が分かる。低地に盛土をし土手状にし線路を敷いた場所。この低地を過ぎると再び高台に入る。国道六号線のオーバーブリッジを過ぎる辺りから、すっかりなだらかな高台を慣性の法則によって特にスピードを上げず走るため体に感じていた力は消える。
  4. 気が付いた時には上本郷駅(標高26.5M)。上本郷からは先に述べた通り。松戸駅から上本郷駅まで歩くと、こんなに上り坂なの?と思うほど高台に上がることを実感するが、電車ではさほど感じるものではない。ただ、乗車中意識を集中させて乗ると成る程・・・と感じると思う。この事を次の項目では昭和30年前後嗚空中写真(国土地理院より)を使い話しを進める。

松戸の台地、谷津の間を走る新京成電鉄の歴史

1945年~1950年当時の空中写真(国土地理院-地理院地図vectorより)に現在の新京成電鉄線路、国道六号線他の状況をのせてみた

1945年~1950年の空中写真(国土地理院-地理院地図vectorより)に新京成電鉄(松戸上本郷間)と主要な道をのせてみたのが上の図です。

戦前には新京成は勿論の事、上図を縦に描かれた国道六号線は無かった。市役所は当時松戸駅西口にあり、上図の位置に建設されるのはもう少し後の事。また、竹ヶ花から縦に縦断しているAの道(松戸市道)もこの当時はまだ無い。赤い点線は新京成電鉄の敷設予定ライン。

新京成電鉄の敷設予定ライン(赤い点線)は山や谷を通っている事が分かる。松戸駅から岩山稲荷を越えた辺りから、山を切り崩し、金山神社と市役所の間をシティテラス松戸付近(元土屋家具センター)やオーク・フォーミズ(産婦人科)付近(A地点)まで山を切り通している。元々金山神社と市役所の山は一体だったと古老に聞いた事があったが、この地形図から十分感じらとれると思う。

この地形図から山や谷を通っているのが分かる。さて、これをルートを変えて、私の住む竹ヶ花のT字路(標高6.0M)から上本郷まで歩く。旧水戸街道を吉岡材木店のある竹ヶ花の交差点(標高6.0M)まで歩き右折しカジ坂の方向に向かう。

国道六号線にぶつかる南花島の交差点(標高8.0M)まで非常になだらかな坂であまり坂を感じないが、ここを過ぎてカジ坂を登り始めるとはっきりと坂道を感じ、市民センター前の交差点(標高20M)へ一気に登り、さらに上本郷駅まで5~6M上がるのが分かる。

平潟区画整理事業の範囲

 

上図はGoogle マイマップで描いた平潟区画整理事業の範囲。

先述した様に松戸-上本郷間は低地と山の切り通しで出来た場所。切り通せば必ず残土が出る。土工事は残土をうまく転用すると良い商売になるが、処理に困るとどうしようもない…という運不運な一面がある。

“新京成電鉄50年史(新京成電鉄著)”によれば、この松戸-上本郷区間の切り土ででた残土は55,000M3。このうち15,000M3は小根本の低地に使い残りの40,000M3が余ってしまう。さて、どうするか?

この残土量は大変な量で、仮に現在この土を処理しようとするとどのくらいの金額がかかるのだろうか?ざっと計算してみる。

残土量の計算

現在の残土処理単価目安
運搬費1000円/M3
積み込み前処理等1500円/M3
捨て場処理2500円/M3
合計5000円/M3

松戸―上本郷間の残土:40,000M3
40,000M3x5,000円/M3=2億円(平成19年に処理した場合)
つまり残土だけでも大変な金額が掛かってしまう。
単純に土を捨て、残土処分代金を支払うのか、或いは売って利益を得るか?これは事業上大きな違いになる。

当時、平潟の土地63,912M2の区画整理(昭和24年3月25日組合の認可)を、資金不足で事業が延び延びになっていた平潟土地区画整理組合があった。

県からは工事推進の勧告を受けていたが、なんだかんだと昭和28年になってしまった。ここに松戸-上本郷間の土工事の残土の処理をしたい新京成電鉄と平潟の区画整理の為の土と資金の必要だった平潟土地区画整理組合との間に、需要と供給の利益関係が一致してしまう。

新京成電鉄と工事契約

そこで昭和29年2月に新京成電鉄と工事契約を結ぶ。契約範囲は埋め立て、整地、宅地と道路の造成、排水溝、側溝の工事。この当時は下水道はない。請負業者は三菱電機。何故電気屋さんが請け負うのかと興味をひいたが、実は新京成の敷設工事も三菱電機で、これは車両と変電設備を三菱から調達するという条件の下に請け負ったのだそうだ。

この際、新京成電鉄は代物弁済として平潟の区画整理事業の土地を約4500M2程得て、これを一度京成開発に売却、昭和33年に京成電鉄不動産がこの土地を29区画の「松戸市平潟分譲地」として造成販売した(新京成電鉄50年史より抜粋)。

新京成が受けた平潟の造成請負工事費は当時約950万円の請負金額だったそうだ。

土地区画整理事業と減歩

つるはし

パクタソさんのフリー素材

この平潟の区画整理事業は松戸市における区画整理事業として二番目に古い開発にあたる。区画整理を実行する上で大切なポイントがある。第一に、地権者の同意及び工事資金の確保、第二に、道路などのインフラや公園など公共の部分を整備。特に道路幅は今までの畦道程度では法規上宅地として建築が建たない為、最低4メートル以上の幅員を確保する。

第一と第二の問題を解決する為、減歩という作業を行う必要が出てくる。
減歩とは土地の所有者にある一定の割合の土地を供出させ一部は保留地として、一部は道路や公園など公共の用途に使う。

減歩とは

例えば10%が保留地(=事業費)に17%が道路や公園といった具合に当てられる。この場合27%の減歩と言い、例えば10000M2の土地を持っていても区画整理後には7300M2の土地の権利だけが残るという計算になる。工事もしてもらって、道路も作ってもらって7300M2いただけるという意味であるが、ただ、農家の人々にとっては土地そのものが生活の糧という考え方が強く、”減歩によって土地が減る”と騙されたような気持ちになってしまったらしい。やはり耕地→宅地開発という流れはそうそうは簡単ではなかったのかもしれない。

故松本清市長による減歩の説明

「木だって削って四角にしなければ値打ちがない。丸太をただ立てておいても何の値打ちもない。減歩というのは丸太を削るのと同じなんだ。四角にして柾の通った柱にするから高く売れるんだよ」

新松戸の区画整理や常磐平団地の区画整理の際は減歩という考え方が「=損をする」という印象をもたれてしまい、反対運動が起きたとの事。従って、減歩する前に10割の状態で売ってしまえという地権者も現れ、組合側では売られた土地をどんどん買ってしまった。売ってしまえば反対派にいる必要は無い。徐々に、大勢いた反対派が一人、二人と居なくなり少数派になってしまう。

結果、反対派の勢力が衰えるわけで、結局全員同意してしまう。当時は区画整理前に10割の値段で売るよりも、実は減歩し7割に減った土地に替えた方が、結果として財産としては増えた…筈なのだが、土地神話という言葉も無かった頃、とかく人は未来の利益よりも、目前の現金に弱かったのかもしれない。実は我が家の土地も似たような減り方をしたのですが…

話しが逸れたが、その減歩により、平潟の土地は公共18.6%,事業費16.73%で合計35.33%の減歩になった様です。35.33%という減歩は当時としてはかなり大きな数字として感じられたかもしれません。その後の例として、市施工の松戸駅西口の再開発は保留地という考えはなく、公共用地分の減歩だけなのに意外に高く最終的に平均すると19.54%の減歩。
(ただし、この数字は“未来への遺産-松戸市土地区画整理組合連合会発行”より引用致したが、本町の古老よれば西口再開発は25%~30%減歩だったとのお話があった事も付け加える)。

開発造成された平潟地区は大ざっぱに言って一平橋から吉崎外科付近までは比較的大きな区画の家や商業施設があり、吉崎外科から江戸川よりは細かい住宅が多くなる。行き止まりの道があるのは、多分、平潟区画整理を始めた当時、地権者との折り合いが付かなかったのではないか?と想像される。

以下の図書を参考にした。

参考資料
“新京成電鉄50年史(新京成電鉄著)”
“未来への遺産(松戸市土地区画整理組合連合会発行)”
“新京成電鉄ガイド(崙書房編)”

 

この「新京成と平潟」は松戸行脚2007で作成発表した内容を再修正し2010年1月リメーク、さらに2021年にレイアウトの見直しをしたものである。

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