農業と共にあった松戸の市場と小山の丸松市場を考える

オート三輪松戸行脚
オート三輪、昭和の杜博物館より

松戸の農業とそれを支える市場

 

松戸は学校では歴史上水戸街道の宿場町であり、鮮魚などの物流の拠点でありました。同時に街道から外れる所は殆どが山であり、田畑だった。つまり松戸は戦後昭和30年代までは農業用地が大半だったと言える。実際私が子供の頃は古ヶ崎にはまだまだ水田が広がっていたが、高度成長期、バブル景気の時代を経て、2021年現在は随分変わったものだと思う。

あれだけたくさんあった市場が南部市場だけになってしまったのだから・・・

松戸の農地

昭和38年頃の古ケ崎、伝兵衛新田の田畑の多さを見る

上の写真は1963(昭和38))年頃の古ケ崎、伝兵衛新田付近を撮影した空中写真(国土地理院より)。左端に上下に蛇行している太いラインが江戸川。中央を縦に走るラインが坂川。中央下端付近の白い四角が見えるが、これが松戸市立北部小学校の校庭。その左上に古ケ崎浄水場が見える。写真右端中央に見える楕円形の建造物は北松戸のレース場ですね。これを見ただけでもいかにこの地区には田畑が多かったのか分かると思う。

松戸を代表する農産物

矢切のネギはブランド品、でも樋野口の小株、小金の三つ葉などまだまだあった

矢切のネギはブランド品として高級料理屋で重宝されるらしい。しかし、松戸の農作物はそれだけではない。樋野口のこかぶ、小金の三つ葉などたくさんあった。まだまだ農業は健在とは言うものの、昭和三十年代から比較すると相当農地面積は減っている。石橋市長の時代からの悲願であった松戸の発展、工業化、東京のベッドタウン化を進める事によってその農地は減っていった。

他の土地から転校してきた私の多くの同級生は新しく開発された古ヶ崎、栄町に住んだ。あの一帯は住宅開発化以前、殆どが田畑だったわけです。小学生の頃、古ヶ崎二丁目在住の友人宅に行くとまだまだ区画整理が完璧に終わっていなかった為か、田んぼの中に建つ新興住宅というイメージだった。今同じ場所に立ってみても農地であった面影は殆ど感じない。

ただし、流山街道を境にして江戸川側(古ヶ崎一丁目)、栄町の坂川を境にして流山街道側に向かうと今でも充分農地がある。栄町在住の同級生SYさんによれば転校してきた小学生の頃は自宅周辺の側溝はまだ綺麗な水が流れていて、畦道の水路のように魚も採れ面白かったという話を聞いた。ある時期から生活排水で汚れ、U字溝化され単なるどぶ川に変わったらしい。

松戸の市場

大正四年発行「松戸案内」で記述されている青物市場

松戸案内

松戸案内 大正四年発行

大正時代の記録となっている松戸案内にはこのように書かれている。多分これは丸松市場の事を指していると思われる。

「青物市場:青物商有志の合資組織で出来ていて、場所は松戸神社の南にある。毎朝地方の商人は未明より群集して青物商人と共に茲(ここ)に市場を開くので、その喧々騒々たる糶買(ちょうばい、つまり競りの事)の有様は実に耳を聾する許りである。由来本町附近は野菜蔬菜果物の名産地として有名なもので、東都二百万市民の口にする青物類の大半は本件殊に本町地方より供給するもので、其輸出額も蓋し尠少(せんしょう、つまり極めて少ないこと)ではないのである。故にこれら仲買商も甚だ多いので、就中吉野屋、中田屋等の如きは甘藷、らつきやう、切干等を遠く信越東北地方に迄盛に取引されるのである」

出荷手段と出荷先

オート三輪

オート三輪、昭和の杜博物館より

集荷物の市場への搬入は初期的にはリヤカーで運んでいたものの、昭和30年代の初期にはすでにオート三輪や小型四輪車を所有する農家が激増し、その日の相場によっては東京都内の市場に出荷していたようだ。戦後昭和二十四年くらいまでは農作物の不足で作れば飛ぶように売れた野菜だったが、蔬菜、芋類、食肉の統制が撤廃、雑穀類の統制が解除、麦が間接統制と次々に変わっていき状況が変わった。

農地改革によってGHQのバックアップもあり小作農家に土地が安く与えられた事も手伝い、生産性が飛躍的に伸びた。昭和二十年代までは出荷はリヤカーの時代で、昭和三十年代の前半から徐々にオート三輪による出荷が増えていった。移動手段の自由度が増した事から出荷場所も、相場によって松戸でなく東京に出荷する人も現れてきた。

松戸市東部地区の農家五十六戸を対象とした昭和三十四年の調査があって、これによれば東京都内市場へは実に68%が出荷されているのに対し、地元市場へは29%と言うように変わってきます。しかしながら出荷の方法には個人で行うとどうしても売りたたかれるのは止むを得ないので共同出荷という方法で農作物の価格安定を目指そうとしたわけだ。
(以上、松戸市史からの抜粋)

`ゆうす`と`なげし`:岩瀬在住MKさんのお話

岩瀬にお住まいのMKさんに興味深いお話をお伺いした。MKさんは古く先祖代々岩瀬にお住いで昭和三十年代までは農業を経営、出荷されていた。現在は全く違う職業をされていらっしゃる。

「(松戸駅近くの)丸新市場には小さい頃、親父の手伝いで何度も行ったものです。夕方に市が立ちます。これを`ゆうす`と言いました。何故夕方の市なのか?と申しますと、丸新は地元の野菜を扱っている小規模の市場でした。農家が朝収穫をして、午前中野菜を洗い、午後にワラ縄をよって野菜を縛るわけです。例えば、ほうれん草の場合、まずワラを引きます。その上にほうれん草を二段に重ねます。ほうれん草の端でワラをひね固定する。正面ではほうれん草が傷んでしまうからです。そしてリヤカーで最寄りの市場に行きます。到着する頃には午後3時頃になる。そして午後3時半くらいから市場が開かれます。これが`ゆうす`です」
「神田の青果市場のように大きな市場では全国的に荷物が集まりますのでどうしても翌朝の市場になりますが、そういう理由で丸新のような地元産野菜中心の市場は夕方がメインなわけです。丸新市場(松戸駅近く)に集まる農家は岩瀬、胡録台、古ヶ崎の農家が多かったようです。丸果市場(金山神社近く)に集まる農家は伝兵衛新田などからが多かったのじゃないでしょうか?夏になると日塩道路(日光と塩原を結ぶ道路)の方面から「松貫」という(屋号)の`なげし`が高原野菜などを売りに来ていることもありました。`なげし`というのは農家から直接安く買った野菜をトラックなどで遠方の市場に運び差益を得る人の事です。多分、松戸の市場で買った物を神田青果市場に卸している`なげし`も居たと思います。丸新(松戸駅近く)は案外広く、場内には食堂もありました」

MKさんありがとうございます。

市場のあった場所

昭和三十年代以降に松戸にあった青果市場

上図は、松戸市史が発行された昭和三十五年頃に存在した市場、そしてその後出来た北部市場、南部市場を加えてある。凡例は下記の通りです。アイコンはICOON MONOさんから使用しています。

凡例

現在営業している :現在営業しているいち

すでに廃業している市場 :記載した住所等ではすでに営業していない市場

場所、存在共に未明 :住所が不明で特定できない市場

お願い:場所が不明な所はまだ調査不足の箇所です。もし何かご存じの方がいらっしゃいましたら、是非アドバイスお願いします。

「松戸市史」上巻によれば松戸には昭和三十年代青果市場が本分場合わせて十五あった。その内のいくつかを下記にしめす。

丸松青果市場(小山、馬橋、日暮、六実)この4箇所の内、小山が最後まで残っていたが、現在はすでに無い。
丸新青果市場(松戸一丁目及び竹ヶ花) これは松戸大宝前の踏切から斜めに水戸街道方面に入った場所(現在のダイエー松戸店前の西口公園辺り)、そして南花島の吉岡材木店から上本郷まで至る道沿い、吉野燃料店の少し先
丸果市場 根本の金山神社前の踏切付近にあった
農協馬橋市場
東印青果市場(五香、初富)、高塚新田市場、小金青果市場、六実市場、紙敷市場、秋山市場

ただし、松戸市史が発刊されて、8年後の1968(昭和43)年に松戸市役所から発刊された「松戸市に於ける農業の現況と今後の振興方策に関する調査」を読むと、1964(昭和39)年頃には14市場、そして、1968(昭和43)年に至っては7市場に減ったと記載されていた。

中規模以上の丸松、丸果、丸新について

丸新松戸青果株式会社(松戸一丁目、竹ケ花)

丸新松戸青果株式会社(松戸一丁目、竹ケ花)
開業:昭和24年
株主:8名(昭和43年時点)
資本金:80万円(昭和43年)
年間取引額時点:2億円
扱い比率:野菜80%、果物20%
野菜入荷量の70%は仲買人によって東京市場へ転送、残り30%は地場消費
果物入荷量は少なく、ほぼ100%は地場消費
野菜入荷比率:野菜全体の30%が茨城など地場以外から入荷(白菜、キュウリ、茄子、トマト、ほうれん草、里芋などは茨城から)
昭和43年の需要の特徴:地場の集荷が減っている事から、市場に三台のトラックを稼働させ、市場側が集荷のサービスをしている)
セリ開始時間:午後3時より
生産者と市場との取引:現金取引の為、歩戻しは無し(歩戻しとは生産者が継続取引してくれる買入人に対して、行う割引サービス)
買参人と市場との取引:5日目清算、手数料は売上額の8.5%
産地市場・消費地市場:いまだ産地市場を脱していない

丸松松戸市青果市場(小山、馬橋、日暮、六実))

丸松松戸市青果市場(小山、馬橋、日暮、六実))
開業:昭和2年
年間取引額時点:2億9千万円
扱い比率:野菜70%、果物30%
需要の特徴:地場の集荷が減っている事から、市場に三台のトラックを稼働させ、市場側が集荷のサービスをしている)
野菜入荷元:市内の地場野菜が減っている事から埼玉や茨城県境の隣接産地など地場以外から入荷
仲買人は入荷した野菜の約20%(主にネギ、大根、コカブなど)を東京市場特に多摩方面に転送している。
果実入荷:東京市場からも積極的に入荷している
規模:産地直送をするほど大きい規模ではない。
産地市場・消費地市場:消費地市場の性格を帯びつつあるが、いまだ産地市場を脱していない

丸果(東京築地丸果松戸支店):根本、金山神社付近

丸果(東京築地丸果松戸支店):根本、金山神社付近
開設:不明(ただし、松戸支店になったのは昭和23年)
年間取引額時点:3億円
扱い比率:野菜80%、果物20%
果物入荷比率:約45%が産地から、約55%が本社からの転送
野菜入荷元:市内の地場野菜が減っている事から千葉、埼玉などの隣接産地から入荷
産地からの信用度:野菜は銚子からはかんらん、八街からは西瓜、白菜など、果物はりんごみかんなど産地から直送されている。先述した丸松と同規模の取引額でありながら、産地直送が多いのは、東京の支店という事で産地からの信用度が高い為と思われる。
産地市場・消費地市場:消費地市場の性格を強めているが、消費市場としては買参人がこの市場だけで仕入れられる規模、段階までには至っていない。

(資料参考:松戸市に於ける農業の現況と今後の振興方策に関する調査 松戸市役所 1968(昭和43)年)

さて、これらの市場の中で2006(平成18)年にまだ存在していた小山の丸松市場を訪れてみた。下はその時の写真である。

松戸の市場 小山・丸松市場

さて、現在小山にはすでに丸松市場自体が無いが、まだあった2006年当時撮影した写真をご紹介したいと思う。松戸角町の交差点を市川方面に左折し直ぐの場所にあった青果市場である。市が立つ時間ではないが訪れてみた。

線路側から見た外観

常磐線線路側の景色:一見廃墟と思える建物。常磐線乗車内から見ても不思議な建物といった感じ。
丸松市場 建物内部 2006年撮影

内観 丸松市場

中はガラーンとして、業務用車があり市場は開かれているようだ。 丸松市場 2006年撮影

入口側から見た外観

入口側から見た外観 丸松市場  2006年撮影

 

丸松市場市場事務所

丸松市場市場事務所  2006年撮影

消費地市場を目指した松戸市の市場

産地市場に近かった中小の市場が北部、南部市場が出来る事で、消費地市場に変わる事を目指した

松戸市公設地方卸売市場南部市場(通称松戸南部市場)及び、松戸市公設地方卸売市場北部市場(通称松戸北部市場)が目指したのは、今までの産地市場に近い存在だったそれぞれ中小の市場から脱却し、鮮魚も取り入れ規模の大きい消費地市場に変身させる事を望んだのだと思う。

現在松戸にある市場は、松戸新田の南部市場だけを残す。南部市場はアーバンヒル松戸の建設などをした松久総合開発の神谷社長が経営していたが現在は別の会社が経営。神谷社長は週刊誌や書籍などで今をときめく経営者として、知られていた。

北部市場は素敵なショッピングセンター”テラスモール松戸”に変身した

又、八ヶ崎方面に北部市場があったが2017年3月末に営業終了し、その後再開発されテラスモール松戸という大型ショッピングセンターになった。

            上は北部市場の頃、

        下は再開発されたテラスモール松戸

あとがき

この「松戸の市場」は松戸行脚2005において作成、2008年10月リメーク、さらに2021年に大幅なレイアウトの変更をした。あらためて、編集してみるとここ十数年で松戸の市場のあり方も随分変化したのだと感じる。松戸市の発展も望むが松戸市のアイデンティティ大切にしたいと思う。

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