竹ケ花、松戸市道界隈
はじめに
2003年以降、竹ケ花にかつてあった商店、飲食店について、単発的に説明していましたが、どの辺りにあったのか、もう少し地区全体に分かるように2021年9月に装いも新たに竹ケ花踏切以東の地区として作成してみました。その中で、松戸市道については独立させ、作ることにしました。2021年12月26日、uMapを利用してマップを作り直し、発表する事にしました。
なお、竹ケ花の踏切以東に関しては下記です。
松戸市道の位置
松戸市道は上の国土地理院の空中写真(1961-1969年)の中央を縦に走る道で、松戸市役所が根本の地に建った時に作られた道です。昭和32-33年頃に作られた。この道筋には東葛土木事務所や衛生会館(元保健所)、中央保健福祉センター(元職業安定所)などもあり、官庁関連の建物がある道であるとも言えます。
また、オーククリニック・フォーミズ(産婦人科病院)もあります。
松戸市道の昔
これは松戸青年会議所発行の「松戸がよく分かる本」に掲載されていた松戸市道(竹ヶ花)の写真です。右の2階建ての建物は米穀倉庫の管理人の住んでいた建物、左端の建物は多分「牛久食堂」道路の正面にみえるのが、多分藤巻自動車工業所、その隣に見える大きめの建物が多分農協だと思います。道路に数台、自動車が停まっていますが、当時はこんな感じで駐車していた車が結構ありました。
松戸市道の工事中
道路工事のおじさんと私の写真です。まだ私は小さい頃、道路の地盤に割栗石が入っているのが分かります。
このおじさんはロードローラーの運転手の様です。同様に昭和32年頃の写真です。まだ、一歳半くらいかな?背景の左には木賃アパート、右に米穀倉庫が見えます。ただ、木賃アパートと言っても、道路側二階の一室だけで、一階は事務所、二階奥は倉庫の管理人の住まいでした。
松戸市道の商店・店舗・企業
竹ケ花の商店・飲食店をuMap(OpenStreetMapのマイマップ)にインプットしてみる
マップを拡大してみたい方はフルスクリーン表示をクリックしてください。
昭和37年以降の飲食店・店舗他についてuMap(OpenStreetMapのマイマップ)を作成してみました薄青いアイコンは、すでに存在していないお店です。赤いアイコンは現在稼働中のお店です。こうやって見ますと、この街道沿いにたくさんあった商店・飲食店の殆どが廃業し、今あるお店は比較的新しく誕生した店ですね。
松戸市道の商店・飲食店リスト
松戸市道西側(新京成電鉄踏切まで)
- 末広食堂
- 浅間鳥獣店→サチ美容室
- 自動販売機→ヤマザキショップ
- 牛久食堂
- 東葛土木事務所
- 竹山クリーニング
- 梅屋
- 飲食店
- 保健所
松戸市道東側(新京成電鉄踏切から)
- スポーツスクエア松戸→オーククリニック
- ワンダーマート
- 竹の湯
- 松戸商事
- 地曳会計事務所
- 大角凡徹書道教室
- サンドラッグ
- 浅間鳥獣店
- 長谷川鳶工業
松戸市道西側
末広食堂、浅間鳥獣店→サチ美容室
末広食堂も浅間鳥獣店も同じ経営者。街道沿いだったので、食堂は運転手の需要も多かったのではないか?末広食堂の前を通るとかき揚げの油の香り(主に玉ねぎだと思うが)がよく漂ってきていた。浅間鳥獣店では主に鳩を買ったり、鳩の餌を買った。中に入ると水槽がたくさん並んでいて、ピラニアも売っていた。
外側には人研テラゾーの流しを使った水槽があり、金魚を売っていた。ここの長女のKちゃんは今でも時々挨拶する。
サチ美容室
20年以上はここで営業されている。お客もリピーター・常連が多いようだ。看板は無い。
自動販売機→ヤマザキショップ
横尾商店のTちゃんが経営しているコンビニです。Tちゃんと言っても私よりも5-6歳年上です。以前はこの建物の場所は、土地が入り組んでいて、奥に紺屋さんが洗張をしていたり、地面は湿地帯の様で、古い井戸もありました。その当時道路側の皮一枚分がTちゃんの店舗で、暫く10-20年以上は状況として変っていませんでした。
1978-79年頃だと思いますが、松戸ベスト100のミスターTによれば、ここにゲーム機が何台かあったというお話を書かれていました。ただ、いたずらがあったのか、その後ゲーム機は無くなったとの事でした。いつか、Tちゃんに会う機会もありますので、聞いてみたいと思います。
続報
2021年8月1日にTちゃんではなくて、妹のMちゃんと話しました。
Mちゃんによれば、昭和50年前後に確かにゲーム機を置いていたらしい。4-5台だったかな?との事です。ゲーム業者が現れ、置かせてくれと言われたので、旧水戸街道沿いの母屋の新築工事をしていた間、約1年間ゲーム機をおいていたとの事。ただ、母屋の工事が終わった後は、ゲームは撤去して、自動販売機をおいたよ・・・との事でした。
牛久食堂と周辺
あれは昭和43-44年頃だろうか、おばさんが運営していた。いつの間にかやめてしまった。牛久さんの所にも井戸があったっけ・・・この牛久食堂の横にはミッチャンとタッチャンの家があって、後にタッチャンは市役所の職員になりました。ミッチャンは五香のラーメン屋さんを運営していたので一度行ったことがあったっけ・・・
ミッチャンの決り文句があって、「竹ケ花のこのエリアは魔のトライアングルなんだ。結婚が遅れるから早く出ていったほうが良いぞ・・・」だった。実際私は遅れた。結婚していない人も居るので、満更無視もできないんだなあ・・・
東葛土木事務所
私の切手コレクションを一日にして、一端のコレクター並みの品揃えにしてくれたFカズオさんが勤めていた。Fカズオさんは房州白浜ご出身のご兄弟で、私に特に近かった人はお兄さんのカズオさんだった。弟のヒトシさんも優しい人だった。弟のヒトシさんは、根本の千葉県酒販組合?に勤めていた。住んでいたのは金山神社の旧道沿いのアパートだった。
多分森谷耕平さんのアパートだったと思う。ヒトシさんのその後は分からないが、お兄さんのカズオさんは、県庁に長い間勤めて、ある時松戸の旅券事務所所長をやっておられた。私としてはお会いしたかったのだが、あの当時、私は香港か沖縄か、長い間松戸にいなかった頃じゃないかと思う。その後、旅券事務所所長を退任された後は、南房総市の校長先生をされて、今は地元の白浜にいらっしゃる。
東葛土木事務所は当時は平屋で、多分RC造或いは組積造で、屋根が陸屋根でシート防水の様な建物だった。全体にくの字を描いていて、暇さえあると敷地内に遊びに行っていた。2021年現在は、こういった官庁関係は車の出入りもあるし、子供が簡単に入りにくい雰囲気になっている。古ヶ崎浄水場も同じ。
我が、表の家では当時軽食堂をやっていたせいか、東葛土木事務所の方々もよく利用してくれた。その為、みんな私がどこの子なのかも知っていた。あの当時は人と人との結びつきが強かった・・・とつくづく思う。今は、大人が子供に話しかけると、場合によって、疑いの目で見られたりするものなあ・・・
竹山クリーニング
竹山クリーニングさんもとても古くからある。松井天山の松戸鳥瞰図では、旧水戸街道側に店舗があった。松戸市道が出来てから店舗を移したようだ。竹山クリーニングさんの付近には竹やぶがあった。道路側はアズマネザサが多く、奥の方にマダケだかモウソウダケがあった記憶がある。その裏、つまり、線路側は二メートルくらい低くなっていて、豊富な湧水があり、生き物の宝庫だった。
今はその竹やぶはなく、駐車場になっているが、湧水の存在を感じさせる水神の祠がある。
梅屋
この写真は松戸市の発行した松戸市勢要覧の中の写真です。画面中央に車が何台もとまっている場所がありますが、この空き地は私が小さい頃良く遊んだ場所であり、後にインペリアルマンションになる場所です。駐車場のブロック塀の右端に道路に面してベージュ色の二階建ての建物がありますが、これが梅屋です。
梅屋はパンやお菓子を売っていました。確か駄菓子も売っていたと思います。小学生だった私はお婆さんというイメージでしたが、実際は何歳くらいの女性だったのか分かりません。そんなに頻繁に行ったお店ではありませんでしたが、母が梅屋の店主と話したことがあったそうです。それによると金沢出身らしく、「金沢には甘海老というのがあって美味しいのよ・・・」と言っていたそうです。
回転寿司が普及した現在、甘海老はどこにでもある存在になってしまいまいましたが、あの当時は甘海老というエビを見たことがありませんでした。
飲食店
衛生会館の横に入った所に、飲食店がありました。今はありませんが、何回かお店が変わった記憶があります。なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイスお願いします。
保健所→衛生会館
元々保健所は南花島にあったが、この松戸市道が完成すると引っ越してきた。当時の写真が松戸市勢要覧にあったので、使わせていただく。この建物も東葛土木事務所と同様で、屋根がフラットで、シート防水の様な形になっている。学校でレントゲン検査の時に肺に影があると言われ、一度この保健所で再検査した事があった。正直何度も来たいと思う場所ではなかった。
また、保健所は犬刈りのイメージが強く、野犬を捕獲棒で連れて行かれたのを何度も見かけた。あまりいい気分のものではなかった。保健所は現在市役所近くの合同庁舎に入っている。
松戸市道東側
スポーツスクエア松戸→オーククリニック
鈴木大地が水泳を習っていたセントラルスポーツ系列のプール&ジムの施設があった、横の坂を通るといつも子供の元気な声が聞こえたっけ・・・近所の同級生も通っていたっけ・・・
ワンダーマート
ワンダーマートはセントラルスポーツ横にあったコンビニです。このコンビニは実はレンタルビデオもあって、重宝していました。写真は私のレンタル用のカードです。竹ケ花63-2と書いてありますね!
竹の湯
竹の湯に関しては別記事がありますのでそちらを参照お願いします。
松戸商事
松戸商事の社長さんは今でもよく覚えている。多分軍隊経験がおありだと思うのだが、手を大きくふりつつ、脚を大きくあげて行進といった感じで歩いていらっしゃった。お嬢さんが三人ほどいて、末娘の人が、私の一年先輩で確か六中ではバレーボール部に入っていたと思う。ピアノがお上手で、松戸商事の前を通ると華麗な演奏がよく聞こえてきたものだ。
地曳会計事務所
地曳さんは年配の方だったので、私はあまり馴染みがない。母はよく知っていると思う。1990年代だろうか、私の出勤時にインペリアルの裏の道(金山神社を通過していく道)を歩いていると、毎日のようにある人とすれ違うのが日課だった。その当時はその人が誰なのか分からなかった。髭が生えていて目がクリッとして、”昴”を歌っていた谷村新司にそっくりの人だった。
その後私は香港に常駐した。帰国後、2007-8年頃だったか、日暮商店の盃の会で同じテーブルに座った方が、その松戸の谷村新司さんだった。私は非常に驚き、金山神社でよくすれ違った話をすると、どうやらその人は地曳会計事務所に勤める人だったことが分かり仰天した。
大角凡徹書道教室
元々ここは長い間駐車場として使われていた。道路から見て左側は屋根のついた車庫。右側が”月極駐車場”と大きく書かれていた。後に、建物が建った。それが、このビルで、大角(おおすみ)さんという書道の先生が教室を開いていたが、現在は警備保障が入っている。
サンドラッグ
あの薬局が出来たのはいつ頃だろうか?多分、昭和40年代前半だと思う。竹ヶ花の米殻倉庫の端の小さな敷地に青色鉄板の外壁・屋根で安普請の建物が出来た。ここには先ず八百屋が入って営業をしていた。程なくして八百屋が無くなると建物はそのままに次は薬局になった。これがサンドラッグ。米穀倉庫の持ち主の借地だったと思う。
八百屋の店舗のまま、鉄板の屋根だっただけに、多分、雨が降ると中に居られない程うるさかったのではないか?また、鉄板を一枚剥がすと中に入れてしまう構造だったので泥棒にも一度入られたことがあった。サンドラッグのご家族の住まいは新京成電鉄の踏切先、デパート「奈良屋」上の住宅公団だった。
ハネダおじいちゃんが薬剤師
あの住宅公団が竣工した昭和40年代に越して来て、当初は奈良屋の中に店舗`サンドラッグ`があった。その後、竹ヶ花の八百屋が出てしまった事により、サンドラッグがこの建物に入った。近所ではご主人の事を通称`先生`と呼んでいた。元々先生(ご主人)は名古屋のカメラ屋さんだった。薬剤師のおじいちゃん(ハネダさん)が毎日お店に来ていた。
ハネダじいちゃんは北海道出身でとても面白い方で色々なお話をする方だった。ハネダじいちゃん曰く「北海道には元々ゴキブリが居なかったんだよ。でもね、青函トンネルが完成してからゴキブリが本土からやってきてはびこる事になったんだよ」と言ったお話だ。
ここにはキッコちゃんという私よりも二つ三つ下の可愛い女の子が居た。一度ご自宅の公団に遊びに行ったこともあった。彼女はその後、薬学部のある某大学を卒業され、立派な薬剤師になられたと聞いた。優秀な子は違うなあ・・・
最初はカメラも売っていた
先生(ご主人)は先述したように元々カメラ屋さんだったので、サンドラッグの店内に入ると直ぐ右側のショーケースにはカメラがたくさん陳列され、販売していた。先生は商売柄カメラ好きで色々な話しをされた。我が家の一番最初のカメラ(メーカーは忘れた)は所謂ハーフカメラでこれはサンドラッグで購入したものだ。
ただ、カメラ販売は中々商売が難しいらしく、サンドラッグは後にカメラ販売は止め、写真プリント業務だけ残った・・・私がまだ大学生だった頃、建築設計の課題として別荘設計があった。この課題の為建物のモンタージュ写真を作成した。その際、先生には技術的に色々なアドバイスをいただき、一緒になって楽しみながら作ってくれた。
ピョンチャンカード
サンドラッグで薬を買うとピョンちゃんカードをくれた。これをスタンプラリーに貼り一定数以上たまると景品に変えてくれる。随分色々な景品をいただいた。薬屋さんと言うと白衣というイメージが強いが、先生は大変おしゃれな方で、よくチェックのブレザーを着ていたのを覚えている。先生には度々試供品のドリンクをいただいたり、色々な意味で大変可愛がって頂いた。
いつもニコニコ商売人で固定客も多かったと思う。母も胃薬を買いに行きながら、先生に勧められるままに肝臓の薬も買ってしまったのだとか・・・分店として千駄堀店をもっていた時期もあって、先生は中々やり手だったのかもしれないなあ・・・千駄堀店の担当者が時々、竹ヶ花店に来ることがあった。
ある日サンドラッグ竹ヶ花店の土地を立ち退かなければならなくなり、行き先に色々な候補があったらしいが(私の家の店舗部分も候補になっていた)、結局上本郷駅付近に越した。上本郷に越してからはすっかり縁遠くなってしまったが、一度上本郷のお店に訪れた事もあった。こじんまりとした良い薬局だった。
母も越した当初は何度も訪れたらしい。先生の現在のお住まいは直ぐ近くのマンションで出勤時に度々お会いする。一度松戸駅まで車で送って頂いた事もあった。いまだに40年前と変わらないオシャレな先生のイメージだ。(追記:平成20年6月現在上本郷駅のお店は畳んでしまい今はない)
浅間鳥獣店
先述したのは西側の店舗の話で、これは東側(道路向こう)。東側の店舗は新たに作られた建物だった。西側の店舗がなくなるとこの東側の店舗だけで営業していたが、後にこの東側の店舗もペット屋は廃業したが、テナントで飲食店が入ったことがあった。二階は貸していたところで、我が妹の同級生のユウジ君はここに住んでいた。
長谷川鳶工業
我が実家の向かって左の増築部は実は長谷川鳶工業の血筋の方(Yさん)に設計していただき、建った建物です。おじいちゃんが生前の頃はいかにも怖い感じで、近寄りがたい光を放っていたっけ・・・そのおじいちゃんが他界された時は確か木遣でお悔やみの儀式が執り行われた記憶がある。ピアノを弾く可愛い孫娘さんもいたっけ・・・
すでに他所に引っ越されて、今は全く違う方がお住まいです。
おまけ
”焼きそばや○む○”
さて、ここからは我が実家の写真を公開します。上の地図のどこかにあったのです。でも記入はしませんでした。具体的な場所は伏せておきたい。ご存知の方だけ分かればよろしい。
”焼きそばや○む○”我が実家は軽食堂(甘味処?)だった
表の家は“やきそばや○む○”という店名で(ジュースは勿論のこと)冬はおでん、夏はかき氷他色々な甘味、あんみつ等を売り繁盛していた。当時は電気冷蔵庫自体がまだまだ高価で、表の家の“やきそばや○む○”は電気ではなく氷で冷やすタイプの冷蔵庫を使用していた。映画「三丁目の夕日」に登場したあの氷式冷蔵庫だ。木製で上下二つの扉があり、上の扉に氷を一貫目を入れて下の扉の食品を冷やす。
かき氷が売れるときは次から次へと売れるので、かき氷用の氷も保存する冷蔵庫が必要になる。そこで父がカキ氷用の氷保冷庫を自宅庭地面下に作った。土は自然の断熱材であることを利用した簡単なもの。お店の左後ろは紺屋さんの敷地です。
冬のおでん販売
現在`おでん`を食べたくなったら、コンビニにいけば用が足せる。スーパーに行けばレトルトパックのおでんもあるし、秋葉原名物おでん缶なんてのもある。おでんは冬というイメージはあるが、他にいくらでも魅力的な食べ物、お菓子がある昨今、子供がおでんに群がる光景はすでに過去の風景かもしれない。
老若男女たくさん来ていた
夏はかき氷がメイン、冬になると焼きそば、おでんを提供した。当時、おでんの顧客は大人だけでなく子供も大切な対象だった。子供が立ち寄るおでん屋さんで有名なのは、北部小学校旧正門付近の堀江食堂のおでん、そして根本の川光物産裏手川向こうにある谷口さんの食堂(昔日の松戸を読んでくださる読者の方から平潟の千壇家旅館付近にもおでん屋さんがあったとのお話を伺ったが、残念ながら私は行った事がなかった)。
このふたつは比較的味が似ていて、濃い口醤油で甘い味付けだった。子供には味噌田楽が人気だったと思う。母によれば小根本の栄久さんのご主人は出前の途中で、表の家のおでんのつゆをいただきに来ていたとの話しをきいたことがあったっけ!又、山長そば屋の親父さんは出前の途中で我が食堂に現れ、おでんのつゆをいただいていったのだとか・・・
“やきそばや○む○”のおでんの味は塩味でサッパリ系だった
甘いおでんが主流だった当時、表の家の軽食堂“やきそばや○む○”のおでんは今にしてみれば大人向けの味で昆布ベースの塩味でさっぱり系、べとべとしていない。当時は珍しい味だったのではないかと思う。実際、塩味のおでんを覚えたくて母は東京のおでん屋さんに何度も通って食べたそうだ。今では塩味おでんの方が一般的で珍しくなくなった。
塩味だから子供への人気は無かったかと言えば、そうでもなく小学校下校時間になるとたくさん児童が集まってきた。近所のHさんの次男さんは白ちくわが好きだったらしい。残念ながら私は白ちくわは駄目・・・
当時は人工着色した駄菓子屋の粉ジュースに夢中になったと同時に、塩味のおでんも好んで食べたと言うことは好奇心旺盛と同時に案外おませだったのかもしれない。或いは単なる食欲旺盛だったという事か・・・?
かき氷のお話 : ”焼きそばや○む○”
「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」
今現在、松戸を歩いていて喉が渇けば、どんな場所でも缶ジュースの自動販売機が一つや二つ必ずある。或いはコンビニだってある。好きな時に好きなように飲み物を手に入れて喉を潤す事が出来る。これは現在日常の当たり前の風景になっている。
缶ジュースの自動販売機は見かけなかった時代
昭和四十年代前半までは缶ジュースは存在したが、自動販売機はまず見かけなかった。缶ジュースとして明治製菓のオレンジジュースを覚えている(瓶ジュースでバヤリース、プラッシー、ミリンダなどもあった)。
現在のような便利なステイオンタブ式ではなく、付属の缶切り付きで売られていた。缶切りで二箇所穴を開けて飲む。片方が飲む穴、片方が空気が入り込む穴だ。しかも硬めのブリキ缶の様な感じであった。当時の商店には必ずしも冷蔵庫があったわけではないので、缶ジュースにしても瓶ジュースにしても、常温の状態で棚に並べられている事も珍しくなかった。
缶ジュースは自動販売機と出会い、冷やされ売られる事によって初めて普及したのではないかと思う。缶ジュースがまだまだマイナーだった時代、夏の清涼を取るためには軽食堂やそば屋のような場所に行くのが一般的。
冷たい飲み物は一般的に商店にはなかった
現在は冷たい飲み物を飲むという事は当然の事になっているが、当時冷たい飲み物を飲むという事はお金も掛かるし簡単ではなかった。
又、松戸駅の付近には松戸製氷そして小根本の交差点付近(モリヤ米店付近)には折原氷店があった(ある時期この店は栄久氷店と言われていた時期もあった)。夏休みの間なので、自転車で店から近い折原氷店に度々買いに行かされた。
氷を買うときの単位は貫目。当時一貫目は二十五円。確か一貫目で14~5杯くらいはとれた。これを一杯二十五円で売る。
「五十円を持って銭湯に行けば帰りにはおつりでかき氷が食べられる」
歩いて数十秒の所に竹の湯があり、大人料金が二十五円だった。「五十円を持って銭湯に行けば帰りにはおつりでかき氷が食べられる」という便利さから重宝されたようだ。ただ、当時は缶ジュース時代の到来は近いと見られていて、保健所から営業許可をとる際、担当官から「カキ氷はあと数年の命だよ」とアドバイスされた。
あれから数十年、すっかりかき氷は廃れ缶ジュース、缶コーヒーの時代になった。現在フラッペと称しかき氷が提供される店はある。然し、かき氷という食べ物は団扇や扇風機で涼を取り、汗かきながら食べるものであって、冷房のきっちり効いた店舗内で果たしてかき氷を食べたくなるだろうか……
冒頭に「かき氷は缶ジュースの出現ではなく、冷房設備と冷蔵庫の出現によって衰退した」と書いた。私はかき氷は缶ジュースにその座を取られたのではなく、クーラーという冷房設備と冷蔵庫にその存在価値を奪われたのではないか?と思っているからだ。
新橋駅近くの製氷屋さんで
10年前に東京新橋付近で製氷屋を見つけた。店外に作られた作業台で氷詰め作業をしていた。どうにも懐かしくなって話しかけてしまった。
「今、一貫目いくらぐらいですか?」
「六百円だよ」
「私の子供の頃は二十五円でした」
「あんた、いつの時代のこと言っているの?」
関連ページ
この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。
コメント
道路工事のおじさんとの写真、いい写真ですね。
未舗装時の写真も貴重ですね。米穀倉庫がなつかしいです。
インペリアルの前に梅屋さんというお店があったことは知りませんでした。
竹山クリーニング店さんのお婆さんと私の祖母が日暮時代に幼馴染で、お互いの嫁ぎ先が近かったので、よくお店にお邪魔していたようです。そんな関係もあってか、竹山クリーニング店さんの裏の竹林の開発工事を私の大叔父が施工させて頂いたそうです。湧水と傾斜の付いた広い竹林だったので大変な工事だったということは聞いています。
大叔父の会社で他の大叔父も働いていたのですが、その大叔父が北部小出身だったので、その大叔父が竹山クリーニング店さんの旦那さんと友達だったかもしれません。
大叔父は昨年他界してしまいましたが、生前に詳しく聞いていれば、湧き水の状況など面白い話が聞けたかもしれないと思うと残念です。
うしとら様、
コメントありがとうございます。
工事のおじさんと写真を撮るというのも考えてみると牧歌的な時代だったと思います。
私にとっては貴重な写真です。梅屋さんの横の広っぱが、当初凹凸があって、遊びにはもってこいの場所でした。もはや、竹やぶの清水の事になると、竹山クリーニングのおばさんや長男から聞くしかないかな?長男も顔見知りなので、会ったら話してみようかな・・・