最初に
この投稿は、2022年1月2日に投稿した松戸旧市役所通りは、主に官公庁関連の記述にしていましたが、これを改め、通り沿いの商店や飲食店も含め改訂版松戸旧市役所通りとして作り直すことにしました。マップも昭和39年当時の地形図を元にしています。
また、渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌では、この道を旧郡役所通りと書かれていて、「郡役所通りは浅井商店側の路地より広い道で、奥左に郡役所・税務署と公会堂があり、右に松戸町役場があった。また橋本屋の後方には東府屋の稲荷様と小松号シャツ製造所・田中そば屋が旧郡役所の手前にあった」と書かれている。
このページでは旧市役所通りとして作りましたので、そのままの名前を使って、改訂版と致します。
松戸旧市役所通りについて
2025年現在、松戸市役所は、松戸市根本387番地5の高台の上にある。また、移転にするか、或いは現地建替えにするか、パブリックコメントを募集し、松戸市としても敷地選びを巡るその方向性を再考している所です。
松戸市役所は現在の松戸市根本387番地5に移転する前は、松戸三丁目(現在のキテミテマツドの駐車場方面)にあった。我が母が、松戸にお嫁に来た頃は三丁目のまさにキテミテマツド用の駐車場ビルの場所に市役所があった。付近には松戸税務署もあり、所謂官庁街だった訳です。
この投稿ではこの旧市役所通りについて、所持している絵葉書他資料と共に調べ、当時の飲食店、店舗の位置関係も含めて、再構成してみた。
旧市役所通りの位置
これはuMapです。現在の地図の上に、松戸町案内図(大正期)や昭和35年の住宅地図の情報を重ねて、表現してみました。また、旧市役所通りとは、現在のキテミテマツドとキテミテマツドの駐車場ビルとの間の道の事です。今では信じられませんが、ここは松戸の官庁街でした。
大正期の松戸町案内図

松戸町案内図大正期 旧市役所通り
大正期の松戸町案内図は西が上になっていたので、なるべく上に北の方位が来るように回転させてみた。この地図見て分かる事、感じる事は下記の通り:
- 松戸町役場:松戸町役場が川沿いにあった事を明確に表している
- 松戸工区:松戸市史年表 明治以降によれば、「1900(明治33)年4月千葉県松戸工区をおく。本郡内の県土木工事調査設計施行監督」とあり、この場所は明治33年以降に東葛飾郡の土木関連を取仕切るお役所になった様だ。
- 小松号シャツ製造所:小松号シャツは後に蝶矢シャツのOEMもやっていたのか?関係が良く分からない。
- 原写真館:松戸町役場の川向うにある。原写真館は工兵学校に出入りが多かったのか、度々、古いアルバムにその名前が刻まれている。
二つの松井天山図から
松井天山図(昭和5年)

松井天山図昭和5年版
松井天山による松戸鳥瞰図昭和5年版です。昭和5年版では松戸町役場は松戸三丁目1315番地にあり、小松号のシャツ製造所も見えます。田中屋そば屋さんも杉浦写真館も見えますね。
松井天山図(昭和12年版)

松井天山図昭和12年
松井天山による松戸鳥瞰図昭和12年版です。この松井天山昭和12年版を見ると昭和5年の時には川沿いにあった松戸町役場が、すぐ付近ではあるが、線路寄りの土地に写っています。これは松戸三丁目1315番地から松戸三丁目1415番地に移転したのを表しています。
旧松戸郡役所通り、旧松戸市役所通りの商業施設
旧水戸街道から東方向(省線→国鉄→JR)に書いていく。
橋本屋雑貨
昭和12年に発行された”大日本職業別明細図”(東京交通社発行)によれば、”縄莚荒物商橋本屋 曾宮”と書かれている。縄莚(なわむしろ)などを扱った荒物屋さんだったようだ。

縄莚荒物店 大日本職業別明細図 昭和12年版

縄莚荒物店 大日本職業別明細図 昭和12年版
渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌によれば、「橋本屋は当時荒物雑貨店。今は民芸品店として健在。どちらも曾宮姓」と書かれている。
魚春
魚春は昭和37年の商店街マップに掲載されていたが、その他のマップでは見つからない。今のところ、情報はありませんが、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、情報をいただけましたらありがたいです。
野崎理容
今のところ情報はありません。
高橋靴店
今のところ情報はありません。
平川自転車店
松戸市松戸1917
昭和35年に発行された松戸市住宅明細図(東京興業社発行)には、平川自転車店は松戸1917にある。昭和37年発行の商店街マップでは松戸1817。昭和44年の住宅地図には平川商会と書かれている。
私が小3の頃、母が自転車を探しに松戸駅周辺を回ってくれたことがあった。現在は子供用自転車は買えない値段ではないかと思うが、当時は子供用自転車は高額で、そうそうは買えなかった。イタリア映画の「自転車泥棒」という映画ほどではないものの、やはり高額で、母は探して何軒も自転車屋を回ってくれた。
最終的には小根本の山田自転車さんで購入したらしいが、いくつか回ったお店の一つが春雨橋の所の自転車屋さんと言っていたので、多分平川自転車だったらしい。
輪界興信名鑑 昭和4年度 東部日本によれば、松戸署管内輪業組合の筆頭に平川次郎という方が記録されていて、昭和32年に発行された全国小型自動車関係業者名簿 第1分冊 (関東・甲信越・東北・北海道篇)によれば、平川自転車店 松戸市役所通りと書かれている。
という訳で、平川自転車店は大正時代の松戸案内図では見つけられなかったが、少なくとも昭和4年の情報には存在していたので、かなり古くからあった店だったんだろう。
野口写真
松戸市松戸1917
今のところ情報はありません。この旧市役所通り(旧郡役所通り)は多分、お役所がいくつもあった場所なので、写真を撮影する必要性のある人も多く集まったのではないだろうか?ただ、杉浦写真館、目黒写真館なども付近にあるので、商売としてどうだったのかは分からない。
好中華
松戸市松戸1917
今のところ情報はありません。
小松号シャツ(蝶矢シャツ)
この地は、大正時代の松戸町案内図を見ると”小松号シャツ製造所“である。松戸市史年表明治以降を参照すると 明治33年「小松号シャツ製造場開業。鈴木貢、古家豊」とあり、尚且つ、上記の小松号という会社のページを見ると、明治33年に松戸のこの地で創業した事になっている。
しかしながら、昭和35年の住宅地図では蝶矢シャツとなっている。また、現在の小松号の本社もこの地になっている。小松号の一ブランド名が蝶矢シャツなのか、いや、蝶矢は大阪の衣料メーカーの筈だ。或いは、蝶矢シャツのOEMとして作っていた時期があったという事なのだろうか?
蝶矢シャツは戦時中会社を統合したらしい記述もあるので、その時に小松号の名前は残っているものの、蝶矢の傘下に入ったという事なのか、謎である。

小松号広告
東葛飾郡案内大正八年より
米国シンガーミシンの代理店もやっていた。

小松号広告 日本全国商工人名録 5版s
大正5年の広告で、小松号襯衣製造所と書かれている。襯衣とはシャツの事。又、小松号は1914年(大正3年)開催の東京大正博覧会にも製品を出品した会社である事が記録されている。

小松号広告 房総紳士録 大正11年版
大正11年の房総紳士録に掲載されていた広告。建物の写真があるが、現在の建物と非常に似ている。
田中家蕎麦
田中家さんは手ごろな価格で上質の蕎麦が食べられたので、よく通ったお店です。ただ、私が通ったのは旧市役所通りにあった時代ではなく、キテミテマツドに面している松戸ヤマモモ通りに移った後です。田中家さんに食べに行くと、旧店舗の写真があって、今思えば、あの写真を撮らせていただけばよかったと後悔しています。
2022年に閉店され、非常に残念です。閉店の時の挨拶文には大正期から100年以上営業と書かれていました。大正期に作成された松戸町案内には田中家蕎麦店は同場所に無くて、田中弁護士と書かれていましたので、多分大正期までは弁護士をされていた家で、その後、末裔の方が大正末期に開店したのではないかと思っています。

田中蕎麦家 松戸町案内図 大正期
昭和16年に発行された”現行千葉県令集 : 加除自在 第5版”には蕎麦店田中家、田中與助とある。この田中與助さんが、田中家蕎麦さんの初代という事でしょうか?

喜久寿し
喜久寿しさんの情報が今のところありません。何かご存じの方がいらっしゃいましたら、教えていただけますか?
藤枝燃料店
藤枝燃料店さんの情報は今のところ見つかりません。何かご存じの方がいらっしゃいましたら、教えていただけますか?
シャルム洋裁店
シャルム洋裁店がこの場所にあったのは知らなかったのだが、松戸1789に看板だけはしっかり立っていたので、多分後年引っ越しをされたのだろうと思っています。
中山小児科医院
大正12年生の中村暢夫先生が昭和21年千葉医大を卒業され、卒業後は千葉医大で小児科教室に入局、昭和30年に木更津君津業院副院長、翌年の昭和31年に中山小児科医院を開業された。松戸市の市医理事をされ、趣味はスポーツだったそうだ。
その後、ご子息の中山徹先生が引き継ぎ、平成10年に中山こどもクリニックと改名され開業された。地域に根ざしたお医者さんですね。
植田歯科医院
東京神田区→松戸町1424→松戸1406→松戸1347?
大正15年発行の日本医籍録:附・医学博士録・法規(2分冊)2版によれば、明治二十二年五月生まれの植田仁平先生、大正8年に東洋歯科医学校卒業され、後東京神田区にて開業、大正12年に松戸町の現地で植田歯科医院を開業となっています。
大正12年は関東大震災のあった年で、想像に過ぎませんが、東京で被災した事で、松戸で開業されたのではないか?と考えています。昭和30年発行の日本歯科医籍録 第3版を見ると公職として松戸築歯医会副会長をされ趣味は書道となっています。ただ、住所は松戸1406で旧裁判所横です。これは東口側の今で言えば市民会館の横あたりです。

植田歯科 昭和37年住宅地図
多分何らかの理由があって、市役所前から東口に引っ越した様ですね。
又同年発行同書には植田耕平さんが登場します。昭和3年生まれ日本大学卒業卒業後日大の附属病院で研究、昭和26年5月に松戸1406で開業となっている。つまり植田仁平先生は、ご子息の植田耕平さんが開業する事になって、昭和26年松戸駅東口側の松戸1406に移転し新たな歯科医院としたのかな?と思っています。

植田歯科広告 広報まつど昭和33年
広報まつどに掲載された広告ですが、院長が仁平先生、副院長が耕平先生となっています。松戸市三丁目踏切前が住所になっていますが東口の現在の市民会館横ですね。
大正13年発行の埼玉県立浦和高等女学校同窓会発行の同窓会誌第9号によれば、植田浅先生は千葉県東葛飾郡松戸郡役所前植田歯科医院が住所になっている。多分、この植田浅先生は植田仁平先生の奥様だったのかな?と思っています。
実は1978年(昭和53年)発行の新建築に松戸市松戸1347の植田歯科医院の建物が取り上げられている。この建物は2025年現在はすでになく、ストリートビューで形状は確認できるが、果たして植田耕平先生或いはその末裔の方が院長なのかどうかはよく分からない。
”松戸に根をおろした白馬会の画家 田中寅三”のP94に田中寅三さんの娘さんである中原千代子さんによるエピソードがあり、
「父(=田中寅三さん)は観世流の謡曲を好み、よく家で当時三丁目の歯科医の植田仁平先生や宮前町の経師屋さんと謡って居り、又、親交のあった戸田子爵の演能には必ず出掛けて居りました。私も能楽堂で足のしびれるのを我慢しながら、終了後の御馳走を楽しみに毎回お供をして居りました。
母は洋楽でして関屋敏子さんのシューベルトの子守歌のレコード”シュラーフェ、シュラーフェ・・・・”を私の6歳の頃よくかけて居り、未だに父の謡曲と共に耳に残って居ります。祖母は浄瑠璃でして”沢市さん、たとえ火の中、水の底・・・・”と唸って居りました」
とあり、植田仁平先生は、謡曲を好み松戸に根差した画家の田中寅三画伯の家で謡っていたようです。
渡辺電機水道

渡邊電機水道店 広告 広報まつど昭和33年
昭和21年設立なので、大正期の松戸町案内図には出てこない。その後の住宅地図などを見るとこの渡辺電機水道工業所が確認できる。電設工業年鑑 1961によれば、(有)渡辺電機水道工業所は設立昭和21年10月で、営業種目は電気配線工事で、代表が渡辺芳松さんとなっている。
この1961年当時は技術者4名、事務1名となっている。ただ、これは電設工業年鑑なので、電気配線工事となっている。ただ、社名にもあるように給排水衛生工事は当時からやっていたであろうし、また、現在のこの会社は、小根本53-4と小根本89-1の両方が見つかる。
いずれにしても、市役所や税務署の移転があった時に最寄りに一緒に移転されたのではないだろうか?現在の会社紹介を見ると空調設備、浄化槽もやっていらっしゃるし、電気・給排水・空調工事の設計施工管理もやっているようだ。
又、昭和37年に発行されたゴルフ紳士録(1962年版)によれば、渡辺芳松さんは江戸川ラインゴルフ倶楽部の平日会員だったらしい。この時点の住所としては松戸3-1315。江戸川ラインゴルフ倶楽部はあの林 由郎さんがコース設計した事で有名なコース。我が同級生のお父さんも会員だった。
私の前職は建築設計なので、どこかで担当したプロジェクトで案外、社員の方とお会いしている可能性もゼロとは言えない。
旧松戸郡役所通り、旧松戸市役所通りの役所関連施設
旧市役所(町役場、戸長役場)
東葛飾郡案内(大正八年)によれば、
松戸町役場
松戸町三丁目に在り、一ケ年の町経済は二万八千圓内外にして町會議員の定数は十八人、町長鈴木孝太郎氏は町民の信頼篤し
とある。この町長鈴木孝太郎さんという方は松戸駅前通りの鈴木時計屋さんのご先祖です。信頼されるべき、とても立派な方だった様子が感じられます。

松戸市役所
松戸市産業振興調査より

松戸市役所全景
松戸市勢要覧昭和28年より
現在の松戸市役所は、松戸市根本387番地5の高台の上にあるが、実は明治以降転々としている。
- 1878(明治11)年:旧本陣に戸長役場(松戸駅:駅となっているが、後の松戸町)が置かれる。
- 1884(明治17)年:松戸三丁目1315番地に戸長役場が移る。
- 1932(昭和7)年:松戸三丁目1415番地に町役場が竣工する。
- 1943(昭和18)年:松戸市となり、町役場が松戸市役所となる。
- 1959(昭和34)年:根本の松戸市役所新庁舎が竣工し、移転。
松戸三丁目1315番地とはキテミテマツド南西方向の川沿いに現在、舎輪(自転車屋さん)、中山こどもクリニックがあるが、その界隈。松戸三丁目1415番地はキテミテマツドの駐車場ビルが建っている場所。旧市役所の住所については千葉薬局の千葉則夫さん著の「松戸町1315番地物語」を参考にさせていただきました。
勉強になりました。ありがとうございます。
旧市役所封筒

旧市役所封筒
我が母所有

旧市役所封筒
我が母所有
この封筒は母が所有していたもので、まだ松戸三丁目に市役所があった頃使われた封筒です。貴重な資料でしょ?この封筒でも松戸市大字松戸1415番地ですね!
松戸税務署
東葛飾郡案内大正八年によれば
松戸税務署
大正二年元松戸区裁判所廃庁となり、同構内に置かれしが、大正七年七月十五日松戸区裁判所の復活とともに、同庁二丁目に移転す
とあります。どうやら、大正七年までは東口にあったが、同7年7月15日に現在のキテミテマツドの地に移転したという事らしい。

松戸税務署
松戸市勢要覧
昭和28年版より
これは松戸市勢要覧に掲載されていた写真を転載させていただきました。かっこいい建物だと思います。

松戸税務署絵葉書
外観(松戸税務署新庁舎正面)
多分坂入書店発行ではなかろうか?

松戸税務署絵葉書
”松戸税務署 事務室”
多分坂入書店発行ではなかろうか?
この写真絵葉書は多分、昭和8年頃発行されたもので、坂入書店発行ではなかろうか?と思っている。まだ、現在のキテミテマツド付近にあった頃の松戸税務署の写真である。
松戸裁判所と弁護士事務所
東葛飾郡案内大正八年によれば
松戸区裁判所
市街裏の耕地中にあり、明治四十三年の建築にして、大正二年の制度変成と同時に廃庁となりしが、後大正七年七月復活さる
裁判所は一度制度変更で無くなり、五年後の大正七年に復活したらしい。

松戸地方裁判所
松戸市勢要覧
昭和28年版より
これは松戸市勢要覧に掲載されていた写真を転載させていただきました。
この旧市役所通りの東口側には松戸地方裁判所があった。これは現在の松戸市民会館の場所である。その為か、松戸裁判所付近には弁護士事務所がいくつもある。その名残なのか、付近の東風園ビルにも弁護士事務所がある。以前はそのビルの一階にふぐ料理の”東山”があった。よく通った。階上の弁護士事務所の方々も良く東山を利用していた様だ。
松戸検察庁

検察庁松戸支部
松戸市勢要覧より
現在の相模台にある千葉地方法務局松戸支部、松戸簡易裁判所付近にあった。
その他の施設(二つの松井天山図から)
村田古物店と松戸公益質店

松戸公益質屋
広報まつどより
そして、元の川沿いの土地(松戸三丁目1315番地)付近には松戸公益質店と村田古物店が出来ている(ただし、鳥瞰図では松戸公益七店と表記)。この村田古物店とは隣の松戸公益質店で質流れになった品物を売っていた店であろうか?下記より公益質屋について説明がある。

職業紹介所
東葛飾農会という表示の左側に職業紹介所が書かれている。これも昭和5年には無かった。役場内にある職業紹介所とは、今で言う職業安定所を指すのだろうか?とすると、昭和4年の世界恐慌に続く、昭和5,6年の昭和恐慌で影響を受けた人々が駆け込んだ場所という事であろうか?
安田紀念碑

昭和12年版には松先稲荷様の入り口付近に”安田紀念碑”が記されている。これは昭和5年には無い。当初、現地でその有無を確認しようと思っていた。
令和4年4月8日”安田紀念碑”とは別件で、戸定邸敷地内にある戸定歴史館のS名誉館長とNさんを表敬訪問し情報交換をした。研究員・学芸員の方々が現れ、我が表の家を皆さんが見ているとの事でそれだけでも嬉しかった。
さて、戸定歴史観の研究員であり学芸員のKさんが現れ、我が表の家のペンディング項目になっていた、“安田紀念碑”について、マップと共に資料を下さった。マップの位置をさして「ここにありますよ」との事だった。Kさん、ありがとうございます。助かります。
一旦帰宅後、居てもたっても居られないので、この資料をたよりに、実際に現地に行ってみた。他人様の庭内にあるので、写真掲載は遠慮しておくが、その”安田紀念碑”はそこにあった。それは戦争で亡くなられた方への慰霊碑/鎮魂碑であった。高さは2Mはあろうかと思われる大きなもので、道路側に向いていた。敷地内なので入ってみる事まではしなかった。
Kさんからいただいた資料は大正六年発行の松戸町誌で、こんな事が書かれていた。
第四節 戦死病者及廃兵
A 戦死病者の部
—–途中略—–
安田弥太郎(芳松長男 明治十四年三月十一日生)
(1)就役 明治三十四年十二月一日近衛歩兵第四連隊へ入隊
(2)本籍 東葛飾郡松戸町松戸・・・・(地番は割愛しました)
(3)兵科等級 歩兵伍長
(4)充員召集 明治三十七年二月八日近衛歩兵第四連隊へ充員召集ニ応ズ、明治三十七年十月三十日清国奉天省高力匂ニ於テ戦死。
(5)明治三十八年四月三十日 特別賜金額 公債六五〇円 現金二五円 父安田芳松
明治三十八年七月二十日 給助金七拾円、明治三十八年七月二十五日扶助料年額金七十円、明治三十九年二月三日勲八等ニ叙シ、白色桐葉章並ニ金鵄勲章功七級年額金百円下賜。
奉天とはすでに無い都市名だが、かつての清国の都で、後に北京に都が移って、奉天は陪都(皇帝の居ない都)となり清国の時代は都が複数あった事になる。中華民国になってからは、瀋陽市に改名されたが、満州国成立から、1945年まで奉天市となった。ここは、現在の遼寧省の省都の瀋陽にあたる。高力匂という場所は分からず。
それにしても、松井天山の鳥瞰図に描かれているとは・・・いずれこの当時の時代背景も考えてみたい。
気になっている事
戸長役場は当初本陣跡に出来た旨書いた。以降その周辺に松戸警察、そして現在は郵便局の本局になっている。この事実を過去の地図に当てていくと若干であるが意外な事があった。それはいずれ発表したいと思う。
参考にした資料
- 松井天山図 昭和5年版及び昭和12年版
- 松戸町案内(大正期)
- 住宅地図(昭和35年)
- 松戸市勢要覧 昭和28年版等
- 松戸市産業振興調査
- 東葛飾郡案内大正八年
- 松戸町1315番地物語(千葉薬局 千葉則夫様著)
- 大日本職業別明細図”(東京交通社発行)
- 昭和の松戸誌
- 松戸市住宅明細図(東京興業社発行)
- 昭和37年発行の商店街マップ
- 輪界興信名鑑 昭和4年度 東部日本
- 東葛飾郡案内大正八年
- 房総紳士録 大正11年版
- 現行千葉県令集 : 加除自在 第5版(昭和16年発行)
- 日本医籍録:附・医学博士録・法規(2分冊)2版(大正15年発行)
- 日本歯科医籍録 第3版(昭和30年発行)
- 埼玉県立浦和高等女学校同窓会発行の同窓会誌第9号(大正13年発行)
- 新建築1978年(昭和53年)発行
- 電設工業年鑑 1961
- ゴルフ紳士録(1962年版)
関連投稿
この投稿は、昭和の松戸を歩くシリーズの関連投稿です。ご参考の為下記も御覧ください。








最後に
2006年頃松戸税務署の絵葉書の写真についての投稿でしたが、旧市役所通りとして、内容を発展させ再投稿し、さらに改訂版として2025年11月30日に発表しました。お楽しみいただけましたら幸いです。


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