紅屋さんについて
2009年頃、国立国会図書館の資料検索をしていたら「商店界」という月刊雑誌を見つけた。出版は誠文堂新光社という会社で、同社のホームページを見ると、この「商店界」という雑誌は大正十一年に発刊された雑誌だそうである(平成5年5月に廃刊)。商店がどの様に工夫をして生き延びていけば良いのか、売上げを伸ばしたらいいのかという様な事がコンセプトらしい。
この「商店界」の1956(昭和三十一)年12月号に松戸の洋装洋品店の紅屋(ベニヤ)さんの事が書かれていたので興味をひいた。店主の松本忠男さんが商売熱心で、当時は月賦百貨店などは除いて、松戸の一般商店では頻繁に利用されなかった新聞折込みチラシを懸命に工夫している様が良く感じ取れ、この松本忠男さんの様な方が現在の松戸にもいて欲しいと感じた。
とても前向きな文章なので、是非表の家に掲載したくなってしまった。紅屋さんと云えば小さい頃母に連れられて行った記憶がある。松戸駅西口区画整理前の事だ。その後、私は外地に出ることが多くなり、松戸と距離を置く状況が長く続いた。
紅屋のあった場所
紅屋さんは子供の頃馴染みがあったものの、香港常駐を終えて2000年4月に帰国した私にとって、千葉銀の横で営業していた紅屋さんのイメージが強く残っていた。これを八嶋商店の八嶋さんに聞くと一軒は千葉銀の横で男性用洋装店、もう一軒は大多福さんのところで女性用の服地、洋装、洋品などを扱っていた店だったそうだ。
上は昭和37年に協信図工社が作成した松戸一丁目、二丁目の住宅地図である。この地図の中央上部にベニヤ洋品店が二軒並んでいて、関宿屋さん、小倉病院さんの直ぐ南に紅屋服地店さんがあったようだ。さらに駅前通りの反対側にクサカ帽子店さんがあるが、実はこのお店も紅屋チェーンの一つだったらしい。それが分かったのは下記の広告だ。
紅屋さんの広告とクサカさん
この広告によれば、多分、駅前通りに面した二店が本店:洋品・靴・鞄、第二支店:男子専科、という事になるかな?そしてクサカさんが帽子と洋傘になっている。クサカさんはその後、中通りに移り2007-8年まではお店があった。
傘の修理もやっていて、傘の骨の数が異なる傘は修理できないという趣旨の事が書いてあった。部品がないからやれないという様な事が書かれていた。
大多福さんの事
女性用洋装店の店舗はご子息の方が大多福さんを経営されていた。ところが、これも廃業してしまった。大多福さんは妻と結婚する前に昼食を食べたり、夜食事に行った場所だ。大多福さんのキムチ鍋は手頃な値段で食べられるので大好きだった。
私が妻と食べたメニューはイカシュウマイ、蓮根はさみ揚げ、穴子酢の物、お多福サラダ、キムチ鍋、アジタタキ、と飲み物といった感じだった。大多福さんはお勧めの店だったが、今は無きお店になってしまった。残念である。
掲載許可について
この商店界の記事に関し、誠文堂新光社様への掲載許可についての問い合わせをいたしました。そして、2021年10月21日に掲載についてご快諾をいただきました。又、八嶋商店の八嶋様には大多福のご主人に掲載のご承諾を取って頂きましたた。誠に感謝いたします。本当にありがとうございます。
「商店界」 著者:誠文堂新光社 出版社:誠文堂新光社 1956年12月発行
広告未開地に継続したチラシの効果:松戸市一丁目
紅屋(呉服洋装生地) 松本忠男
店の状態と土地柄
いまの店は昭和二十九年開業ですから、日が浅いのですが、親はここから奥に入った馬橋というところで呉服・用品などを扱っていたので、ズブの素人ではありません。
この馬橋の立地条件では、いま以上の発展を望むには相当の努力が必要だし、婦人の服装も洋装へと大きく変化しているので、これからは洋装生地でないと呉服店は伸びないと思い、まず松戸駅前の二坪の軒先を借り、洋装生地を主力に扱ってみました。
売行き打診で始めたお店が当たった
昭和二十六年でしたが、売行き打診の意味で始めたのが案外予想外の売行きを示し、お客はふえる一方だし、いろいろの品物をきかれます。あれやこれやで二坪の店ではどうにもなりません。こうしたとき、この二坪の店から二分ぐらい行ったところに間口四間半、奥行四間の空店が出たので、思い切って手に入れたのがいまの店です。
扱い品は婦人、子供服生地を主力に呉服、洋品ですが、開店当初は駅構内と浴場の出し広告による店名と扱い品の広告をしていました。しかしこれだけでは店も広くなったし、陳列商品も多くなったので、新しいお客を開拓しなければならない、と思うようになりました。
地元の同業者は当時保守的で、広告商売には消極的だった
千葉県松戸というところは乗換えなしで、東京に四十分ぐらいで行かれるためか(※1)、サラリーガール(※2)を始め若いお客は買い物というと東京にいってしまうのです。また戦災を受けなかった商店街故、同業店の殆どは保守的で、農家や地元のお客のくるのをまっているといったノンビリした商売をしているのです。
まあ旧いお得意にたよっているといった売り方です。したがって宣伝などというものは中元、年末の連合大売出しぐらいであまりやらないのです。毎日入ってくる新聞折込チラシも隣接地区の商店や銀行のものや東京のデパートからのものが殆どです。
年末など、大増築したデパートが、一週間おきにチラシ広告を新聞に折込んだり、駅前にアドバルーンをあげて派手に宣伝しているのを見ている状態です。地元の新聞折込チラシといえば金融機関か月賦販売店(※3)くらいのものです。
第一回目から成功したチラシ折込み
そこで私どもの店では昨年の十一月に開店一周年記念売出しと銘打って、始めてチラシ広告を新聞に折込んだ次第です。もちろん経費もかかるし、果たして効果があるものだろうかと、内心ビクビクだったのですが、これが案外アタったわけです。ということは木綿、人絹など裏地や端切れなど割合単価の低いものを奉仕品として選びこれをお客に買って頂こうとボーナス時をねらって行なったことがよかったのでしょう。
この第一回目のチラシ広告は、モゾウ五十斤一連で四千枚とれるものを八千枚、新聞に折込んだのです。二色刷で一枚一円六十銭と比較的高かったのですが、売り上げの四分献灯の経費で済んだのです。そこで、継続的に行えば東京や隣接地区に流れていたお客をとり戻すことができるのではないか、という見通しがついたのです。
連合会から派手な広告をしないように言われたけれど・・・
十二月は商店街の共同売出しにぶつかったので、共同広告にまかせ、一月に自店独特な広告の計画を立てました。ところが、商店街の同業二十五店で組織している連合会から役員がきて、土地柄あまり派手な広告をしないようにという申入れがありました。広告するなら共同で同一歩調をとろうではないかというのです。
しかし他地区からはドンドン広告がくるので、五月に連合会を脱退する腹で春物一掃大売出しの第一号広告をしました。期日は二十六~二十八日の三日間、純毛ジャージ、ヘヤーラインなどを特売品として、呉服もそろえ、記念振り出しのときにつかった同じ人形を広告面に入れ、
申し入れはあったものの、攻めの商売をした
更に、毎月一回ないし二回の割合で今後新聞折込みをします、第一号より第十二号までお集めくださった方には、本年末にプレゼントを差上げますということと、売出し期間中に正札の一割引をする旨の割引券を印刷しました。
この割引券には住所、氏名を記入させるようになっています。チラシ広告は記念売出しのときと同じ大きさのものを、記念売出しのときの倍、すなわち一万六千枚を一里四方の地区にまいたのです。これも予定した売上高をはるかにこし、ストックの一掃に役立ち、この時の経費は売上の三分で済んでいます。
六月は雨のサービスゲームをフロクにした売出し
六月に入ってからは、雨のサービスゲームをフロクにして、服地の祭典売出しをしたのです。期間は一日から十五日まで、この間に一滴でも雨が降れば、三角くじにより割引をする旨を広告に刷ったのです。これはお客が品物を買うと三角くじを渡し、黄色が出れば買上高の半値割引、赤は一割引、末等は黒で五分という仕組です。
梅雨期だったので、雨の日にわざわざ買いにくるお客のサービスのつもりでやったところがテリ入梅、どうも失敗におわりそうだと思って、八月に盛況御礼期間を二十日まで延期して、晴雨にかかわらず三角くじを差上げるという広告で追打ちをかけました。
三角くじ→夏物純毛服地サヨナラセール
これがお客に受けたのか十日すぎから毎日売上が伸び、三角くじはどうやらはけたわけです。結果は期待した程のものではなかったのですが、追打ちをしなければ全然の失敗に終るところを、どうやらギリギリ一杯のところで、儲けはなかったが、経費は浮いた次第です。
これに引続いて二十日から二十五日までの夏物純毛服地サヨナラセールとつづけて広告をしてきたのですが、この頃だったと思いますが、連合会より共同で売出しをやらないかと逆に申入れがあったのです。
連合会と共同で売出し
自分では連合会から除名を申渡しにきたのだと思っていたところが、一緒に広告しようとの話です。その内容も雨のサービスゲームと同じ方法の三角くじによる割引販売です。いままで連合会で派手な広告はよそう、といってきたものが、街の発展のために、少しでも他地区に流れていたお客を喰い止めようと連合会で話がまとまり、附合って一緒に広告しないかというので喜んで参加したわけです。
東京に買い物に行っていたお客さんが松戸に戻る?
七月の連合広告後、月遅れのお盆をねらって八月には一日から五日まで、美しい進物箱に包装しますという書出しの、夏物プリントの特売広告をしました。これで四号になったのですが、お客から、地元にこれだけ服地を揃えた店があるとはしらず、買物は東京にいっていたが、広告によってはじめて知った。
東京に行っても同じなら、地元の方が手数が省け便利だという言葉をもらってます。失敗を土台にして一段と進歩、かくしてますます広告をしなければならないと、矢つぎ早に追打ち広告を計画し、五号と六号を一緒に印刷して少しでも経費を下げようとしたのですが、これが見事に失敗してしまいました。
プリント記事の大暴落で広告失敗・・・
もちろん五号はよかったのですが、六号の方は八月一日から五日までの売残品処分をねらった値段入りのものでしたから二週間前の相場では通用しなかったのです。ちょうどこのチラシを新聞に折込んだときが、プリントの大暴落で、チラシに発表した値段ではお客にしてみれば別に特別奉仕の値段ではなかったのです。
少しでも広告費を下げて、その分だけお客にサービスしようと思ったことが逆効果になったのです。やはり広告はその都度作らないとダメであることを思い知ったわけです。一ぺんにたのめばそれは割安になりますが、移り変わりのはげしい衣料業界はそんなケチなことは通用しないということを経験したのです。
アベックセールや三角くじ
チラシ広告原稿で値段入りのものは特にこの点注意しないと、丸損になります。この不成績にこりて、再び売残品を一掃するためにアベックセール大売出しを行いました(※4)。これは売台を緑と赤とに布で色分けし、緑台の商品(市価)を買ったお客には、同じヤール数だけ赤の台の生地を一ヤール十円で売るという仕掛けです(※5)。
緑台の価格は最低一ヤール百五十円ですから、これとブロードプリントを併せて、一ヤール八十円平均になります。これと併行して秋物の毛織物がかなり動いたので、シーズン前の売出しと、在庫整理という面では目的を達したといえます。
新客と固定客二通りの宣伝方法が必要だった
新客と固定客二通りの宣伝方法このように足かけ一カ年、宣伝広告をしてみて思ったことは、多量に売れば、売るだけ広告費も下がりますから、店の経営について絶えず改善するようになります。アベックセールとか、三角くじ進呈といった催物をつけた売出しは平素よくきてくれるお客はあまり姿を見せず、殆どが新客です。
逆に広告に値段を入れない流行品の発表売出しとか、シーズンにさきがける新柄をしらせる売出しなどは固定客と思われる方が買物にみえるという傾向があるのです。そこで広告も新客をねらう場合は、いろいろな附録をつける一方、値段なども思いきった割引値段にすることです。
固定客の場合は
しかし固定客を対象にするときは、他店にない品質、柄行、色調、などの品物を主にしなければならないことを発見したのです。そのためにはデパートや東京から入ってくる有力小売店の広告はすべて自店の参考資料とし、一方日刊新聞や業界紙、メーカー、問屋などの機関紙に目を光らせます。
更に問屋などにできるだけ出向いて、自店に有利になるものを仕入れます。ついでにデパートや有力小売店でよく売れているものを調べたり、陳列方法、サービス振りを見学します。よく売れている品物、その柄、色調がわかったらこれを広告の中にすぐ様入れて、お客を引くようにしますから、広告をすることはそれだけ商売に対して真剣さを増すことになります。
広告と実際の商品の格差があると
広告によって、集まってきたお客に、広告通りの品物がなかったり悪かったらどうでしょう。お客は再びその店に買いにきません。つまり広告によって、新客が買物をした際、満足のいく品物でなかったら、広告をすることによって自店の悪いことをしらすことになります。こんな広告ならしない方がましなくらいです。
広告をする以上はお客に満足のいくように、店舗のサービス、品物のサービス、接客のサービスに留意して経営内容をハッキリつかんで、計画的に行わないと、自ら墓穴を掘ることになります。
「商店界」 著者:誠文堂新光社 出版社:誠文堂新光社 1956年12月発行
注釈
※1 : 昭和30年代、常磐線が有楽町発着だった事がありました。その後2015年に上野東京ラインが出来ましたので、当時と同じ様に東京に行けますね!下記のYoutube映像は昭和36年の東京駅で、常磐線平駅行きの汽車です。
※2 : サラリーガールという言葉が案外新鮮
※3 : 月賦販売店、当時は松戸にも京屋百貨店などの月賦販売店がありました。
※4 : アベックという言葉は以前日本で一般的に使われていた現在のカップルを指す言葉。フランス語の前置詞avecから来ているが、フランス語ではカップルの意味では使われない。単なる和製外国語らしい。東京オリンピックの前後くらいからだったと思うが、トニー谷が司会進行するアベック歌合戦というTV番組があった。
※5 : ヤールとは布地の長さの事で約91センチ。Yard(ヤード)を日本では布地に関してヤールと呼ぶらしい。
コメント