74 ヤマザキパン工場-南花島

竹ケ花踏切昔日の松戸
竹ケ花踏切

松戸市立北部小学校の周辺は田畑が広がっていた

1962年空中写真

1962年国土地理院空中写真より

写真は国土地理院空中写真1962年である。この当時は北部小周辺はかなり田園地帯が多かったことが分かる。ヤマザキパン工場も無かった。私が子供の頃見た北部小学校の北東方向(今のヤマザキパン工場方向)はかなり田園地帯の状態だった事が分かると思う。途中工場らしきが出来始めているところは見られる。

ヤマザキパンから先は南花島、上本郷、新作と続く。近所の大先輩N氏によれば、昭和三十年代北部小学校の周りは殆ど田畑で、北東の方向は松戸競輪場があるだけで、あとは延々と田畑だったと聞いた。まさにそんな風景であったと思う。

確かに、私の小さい頃北部小学校の北東の田畑(現竹ヶ花西町)には鷺類(コサギ、ダイサギ、アオサギなど)が舞ってきてはエサを啄んでいた。給食場の付近には肥だめもあって、ここに落ちた友達もいた(否、落としてあげた……)。

昭和40年代、ヤマザキパン工場が完成

昭和45年空中写真

昭和45年空中写真、国土地理院の空中写真より

昭和45年空中写真、国土地理院の空中写真より見ています。

昭和四十一年春、北部小学校の北東、竹ヶ花に接する南花島字五反田の土地にヤマザキパン工場が出来た。ヤマザキパン工場が出来てきた方面が良く見えなくなった。又、田畑だった竹ヶ花西町の宅地に建物が建ち始めていた。写真は1970(昭和45)年の空中写真(国土地理院より)。これによると北部小周辺、竹ケ花西町も含め、かなり住宅が建ち始めているのがよく分かると思う。この頃は新坂川は生活排水の為の開渠の様になって、自然を楽しむ川ではなくなっていた。

ビッグロール、バナナフリップを食べた

中学生の頃、六中の校舎の中に昼飯用パンの販売所(ヤマザキパン専門)があった。六中入学以来、もっぱら弁当派だったが、友人が売店で買ってくる菓子パンが実に美味しそうで、ある時から私もパン派に変わった。一番好きだったのが「ビックロール」。長さが三十五センチ以上、幅十二センチ、高さ七センチくらいのロールパンに溶かした砂糖が塗りたくってある。

次に「バナナフリップ」成長盛りだったので糖分が必要だったのかもしれない。これら菓子パンの影響によってパン食に目覚めた。食パンを何故食パンというのか知らない。他に比べようもなかった為、ヤマザキパンの食パンの味がパンの味だと思って育った。

冠番組(かんむりばんぐみ)という言葉がある。これは提供するスポンサー、主演の俳優名が番組名の一部になったものを指す。冠スポンサー番組の代表格は

「キューピーの3分クッキング」
「日清ちびっ子のど自慢」
「ミユキ野球教室」

冠俳優番組としては

「巨泉・前武のゲバゲバ90分!!」
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」

などがある。

冠番組に自分の名前が使われるようになると一流だそうだ

この冠番組に自分の名前が使われるようになると一流……だそうだ。ピンクレディーも冠番組を持ったことがある。「ザ・ヒット!ピンク百発百中」ヤマザキパン提供。多分、ヤマザキパンも関東地方だけでなく全国規模で拡大していた時期だと思う。ある頃から手作りパンが静かなブームになった。

食パン

Frank OschatzによるPixabayからの画像

十数年前、自然酵母で作った手作りパン屋の食パンとヤマザキパンの食パンを食べ比べたことがある。味は歴然と違っていて、これが同じパンなのか?と驚いた。どのように違っていたのか、どんな味がしたのかここでは問題にしない。ただ、それ以降パンだけでなくその他の食料品一般、飲料も含め、大量生産をするという事がどういう事なのか、遠隔地相手の商売とはどういう事なのか、しみじみ考えるようになった。

ページトップの線路の写真は昭和40年代前半、第二浜街道踏切、通称”竹ヶ花の踏切”の写真です。正面の職員常駐建物の遙か後方に見える高層建物はヤマザキパンの建物です。☆この写真はご近所にお住まいだった小倉様からいただいたものです。ありがとうございます。2013/03/30更新

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