松戸と山﨑努さん
令和四年の八月、日経新聞”私の履歴書”で山﨑努さんの連載があった。当時、少々、文章を書いたが、少しずつ、補足して書いていきたい。
松戸生まれの山﨑努さん
日経新聞”私の履歴書”,令和四年八月は松戸市出身の俳優、山﨑努さんの連載が始まった事で、表の家の愛読者であり我が同級生から、お知らせがあった。とてもありがたい。8月2日版を読んでいくと松戸での生い立ちが記述され、自分自身の生活範囲に含まれているエリアが描かれていた。
山﨑さんは戦争を挟んで松戸と柏に住んでいたので、昭和30年代生まれの私とは見ていた松戸の風景も異なるかもしれないが、実は戦争前後から松戸駅西口が区画整理されるまでの間は、街並みに大きな変化がないと思われるのて、足跡を辿ることが出来そうな予感がある。
山﨑努さんの足跡調査
この投稿を始めた頃、まだ山﨑努さんの”私の履歴書”が連載中だったので、連載に水を差すような投稿は控えようと思っていた。かれこれあの連載が終わってから何か月も経つので、少し具体的な考えを述べて行こうと考えている。
大家さんである角の豆腐屋さんとは?
文脈を読んでいくと、おのずと山﨑さんの住んでいた場所は中通りから入った場所であろうと考えた。戦前の資料は無いので、昭和37年の商店街マップで調べると、中通りにあった豆腐屋さんは下記の三つである。
- 題目屋豆腐店(旧中部小学校前、現在のキテミテマツド前)
- 相模豆腐店(中通りと旧こんぴら通りの交差点付近、当時は香取豆腐店)、
- 浅野豆腐店(現在の相模屋菓子店の少し北側:現存せず)
家から父親の働く染色工場にお弁当を持っていく記述があった。思い当たる豆腐屋さんとして、先ずは題目屋さんに聞いてみる事にした。年代としては末裔の方だが、豆腐を買うついでにズバリ尋ねてみた。大家をしていたかどうかは定かではないとの事だった。又、山﨑努さんが近くに住んでいたというのは題目屋さんの先代から聞いているとの事。
住んでいた家は現在峰月さんの横が自転車置き場になっているが、その辺りだったとの事。つまり、現在の地図に当てはめると下記の位置である。
予想よりも少し北に歩いた所だったが、ほぼストライクゾーンに入った。
染色工場は何処?
実は思い当たる場所に染色工場は二つあった。これは長くなりそうなので次回に書きたい。
コンクリートの橋の下
文章の登場人物の中に、コンクリートの橋の下に住んでいた人物が描かれている。この人物に思い当たる人が居た。地元では有名人で昭和40年代生まれ以前の人で、あの界隈のみならず、北部小学校を中心に半径2-3kmの範囲内に住んでいた人であれば、多分誰でも知る人物なので、殊更に興味を引く。
松戸在住の私より上の年代の方も山﨑努さんの文章に刺激を受け足跡を調べ始めているらしいので、徐々に正確な足跡が分かるようになると期待している。
川のにおい
2011年の京成ラインに描かれていた山崎努さんの言葉に「僕が故郷として思い出すのは川のにおいなんですよ」と書かれていた。幼少期の坂川のにおいが、利根運河に行くと思い出すそうです。
度々、表の家のご意見箱に意見を残してくださる”うしとら”さんがメールで「川の匂い・・というのは坂川や六間川などで遊んだ経験のある松戸っ子には皆思い出があるような気がします。私も松戸では失いかけている川の匂いを求めて、手賀沼などの釣り場に出かけているような気がします」と書いていた。
これはとても分かる。
あのにおいをどうやって表現すればいいのか?あえて言葉にするとしたら、川の水、草、泥、雑草、昆虫、魚などの臭いが混然一体となってにおって来るあの感じかもしれない。草いきれというのか、夏、日光の強い日に坂川の川原の雑草から立ち上ってくる湿気のような感じ・・・たも網を肩に掛けながら歩くとより一層そういう臭いがしたように思う。
新坂川の思い出
子供の頃、新坂川はなだらかな土手になっていて、水辺まで降りていけた。父と延べ竿を持って新坂川に釣りにいった事もあった。竿を上げた拍子に針が頬に刺さり、えらく痛かったのをはっきり覚えている。私が釣りよりも魚捕りに夢中になったきっかけはあの出来事だったのかもしれない。
新坂川の川幅はそれほど広くなかった様な気がする。父と私はランニング姿で、陽の光がジリジリト焼き付き、胸や背中にじっとりと汗をかき釣りをしていた。回りには葦だったか、ジュズダマの草が生えていた。松戸で年配の人はジュズダマをジュズゴとかズズゴと云う人がいた。それが松戸の方言であったのか分からない。川原の草というのは不用意に歩くとスッと切り傷が出来た。
自分がどういう土地でどのように育ってきたのか
京成ラインの2011年で山﨑努氏はこの様に書いている「これまでの僕は、前ばっかり見てきて、後ろなんて興味なかった。でもここ最近、自分がどういう土地でどのように育ってきたのか、時々考えることがある」
この文章にも共感を覚えた。
私は建築設計の本業でさんざん地方や海外を走り回っていた。ある時松戸に帰り、あまりに商店が寂れてしまっている姿に驚き、急に我に返った。いわば、自分の根源、ルーツ、アイデンティティは何処にあったのか、知りたくなった。そして、自分が育った松戸の記憶を洗い出し、ホームページという媒体を使って、改めて見つめなおそうと思った。それが表の家を作ったきっかけだった。
その為、この表の家は備忘録の性格が強い。始めたのが40代だったが、以前の記事を読んでいるとすっかり忘れている内容もある。そういった意味で早めに初めて良かったと思っている。
続く
ただ、不明な点も多い。また、個人情報に関する事はここでは書けない。また、問い合わせされても、教えることが出来ない。差しさわりの無い部分で今後、かける範囲だと思ったら、記述していきたいと思います。もしかするとこれで終わりかもしれませんが・・・
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