松戸の残像

根本英数塾:松戸駅東口

昭和30-40年代は子供が多かった。小学校を増やしていく時代だった。同時にある人は受験の為、ある人は落ちこぼれない為、塾に通った。私が通ったのは、松戸駅東口から扇屋のあった道を北に歩いた所にあった根本英数塾だった。一中の生徒が多かった。
松戸の残像

松戸ニューオータニと回転レストラン、ホテルデザイン

宿泊施設はないけれど、ニューオータニ松戸が、松戸ビルヂングの上層階にあり、回転展望レストランは最上階にあった。若かりし頃、二回ほどお見合いをこのラウンジでした事があった。ここで食事をすると方向感覚を失い、自分の席が分からなくなったものだった
松戸の残像

松戸常磐館-松戸本町

小学生の頃、夏休み、冬休みに入ると怪獣映画は輝竜会館、漫j画まつりは常盤館に行った。ところが映画館は時代の需要に合わず、徐々にテレビやその他の娯楽にとって代わった。松戸市最古の映画館であった松戸常盤館について、資料と共に記録を残したい。
昔日の松戸

北松戸工業団地の緑地の今昔

昭和の頃は公害が大きな問題になり、工場は工場立地法という法律で緑地を作る事を求められた。ところが北松戸工業団地の緑化は理想通り進んでいない。そこで松戸市で昭和37年発行の工場適地案内書と共に、新坂川と共に北松戸工業団地の緑化を考えてみた。
昔日の松戸

山﨑努さんと松戸、日経新聞”私の履歴書”

日経新聞"私の履歴書"で令和四年八月一日から松戸市出身の俳優、山﨑努さんの連載が始まった。私の大好きな松戸の風景が描かれていて、非常に懐かしくなった。古い地図を引っ張り出し、ああだ、こうだ始め、豆腐屋さんの付近を歩いたりしてみた。
昔日の松戸

松脂(マツヤニ)と禁じられた遊び

昭和40年代通った小学校で松脂(まつやに)遊びが流行った、松脂を細かく砕いた松脂をズボンにつけて指でつまみ引っ張るとキュッキュッと音がする。そんな松脂について、どうして松脂があったのか、どういう背景があったのか、自分なりに過去を振り返った。
楽しみ

松戸とサブカルチャー

サブカルチャー、サブカルとは何か、単なるオタクの世界だろうか?盛り場の魅力とは何だろうか?料理?酒の種類?安さ?勿論それらも大切だとは思うが、もっと大切な部分は、暗闇であり、正体の見えない、怖さの向こうに存在する一種の性的なコノテーション。
つれづれなお話

私版”私の履歴書” 建築設計(いざ浜松へ)

四十数年間働いていた某設計事務所を定年退職した。思えば長い間お世話になったものだった。日本経済新聞に私の履歴書というコーナーがあるが、私も自分の半生の一部であった建築設計という業務について、書いていきたい。この話は、就職して浜松に常駐する頃
昭和の松戸を歩く

松戸のおもちゃ屋さん、模型屋さんについて

松戸駅付近にはいくつも独立系のおもちゃ屋さんがあった。現在は殆ど無くなっている。覚えているのは、東府屋さん、わらそうだろうか?私にとってはやはり春雨橋沿いにあった東府屋さんがもっとも印象が強い。スーパーボールが流行った頃、何度もお店に行った
つれづれなお話

人との繋がり:今自分の隣にいる人の正体の話し

知らない人とお話しする楽しみがある人とない人が世の中にいる。一人で初めてのお店に飛び込めるのは私の性格なのかもしれない。或いは自分の好奇心の為だろうか?それはそれで楽しい。何故なら、自分の業界では知りえない話もあるからだ。ある意味独身生活が