昔日の松戸

昭和の松戸を歩く

昭和30-40年代の松戸駅西口商店街、高砂通りは活気があった

現在の松戸駅付近はありふれた駅前風景でしかない。大手のスーパー、銀行、コンビニ、空虚なぺデストリアンデッキがあるだけ、ところが西口都市区画整理前の松戸駅西口商店街は全くイメージが異なっていた。細くくねった道、物陰のある道、界隈性のある場所な
昭和の松戸を歩く

消えた踏切:常磐線松戸駅付近

戦後東京を中心に衛星都市計画が策定され、常磐線沿線のそれぞれの地区に人口が集中し、常磐線の混雑を緩和させる為、常磐線の複々線化が進められた。それまで開かずの踏切と言われた箇所もあり、複々線になることにより、踏切を閉鎖せざるを得なくなった。
昔日の松戸

新京成電鉄開通と松戸・平潟の土地開発との関連 松戸の土地を楽しむ

西は江戸川に沿って低地である下谷、東は下総台地である台、その台の間に出来た谷津、松戸はその三つの要素で形成される。戦後、松戸市は衛星都市化を目指し、人口増加、インフラ整備が行われた。新京成電鉄沿線や松戸の土地状況を分析し、その美しさを研究する
昔日の松戸

松戸市根本に雪印種苗工場があった頃

子供の頃遊んだ、根本の大道下付近に北部幼稚園と富永商店がある。その間の道を南西に少し進んだ場所に雪印種苗の工場があった。この付近を歩くと家畜用飼料のなんとも言えない香りが辺り一面に漂っていた。その後、同地はシャルマンコーポに替わった。
昔日の松戸

農業と共にあった松戸市の市場を考える

子供の頃、松戸市には農地がとても多かった。ただ、戦後の農地改革、衛星都市政策の影響で非常に激減していったようです。また、同時にその農業と共に支えあった市場も分本場合わせて15ほどあった昭和30年代から減少し、現在は後に出来た南部市場だけです
昔日の松戸

松戸の新坂川って何?どんな川なの?

馬橋と新松戸の間、新坂川沿いの桜並木の新坂川桜並木周辺案内板には「松戸市の市街地を流れる新坂川は、水田地帯の洪水被害の軽減と昭和大恐慌の失業対策、農民救済を目的として昭和8年から昭和12年頃に掘られた川」とあり、その意味と効果を検証する。
昔日の松戸

松戸市立第六中学校の今昔:昭和の頃上本郷駅近くにあった六中について現況と共に調べる

現在千駄堀の運動公園付近にある松戸市立第六中学校はかつて、新京成電鉄上本郷駅近くにあった。現在の松戸市立上本郷第二小学校の位置である。我々が中学生だった頃とは校舎の位置も様子も異なっていた。その当時の様子についての思い出と記録として残したい
昔日の松戸

一度は行きたかった!松戸市民の保養施設”ブーゲンビリア(八丈島)”

昭和47年から昭和51年まで八丈島に存在していた松戸市民の為の保養所、アイデア市長で有名だった故松本清市長が個人資金で作ったと聞いた八丈島市民保養所”ブーゲンビリア”について振り返る。今更ではあるが行ってみたかったと思っている市民保養施設。
レジャー

スロットカーの流行した時代:根本、松戸駅近のスロットカーレーシング場の事

昭和40年代の頃、スロットカーと呼ばれる自動車のプラモデルをレース場で走らせる遊びが流行ったことがあった。これはコースにスロットと呼ばれる溝があり、ここから通電することによって車のプラモデルを走らせる。今は新橋のタミヤでミニ四駆の時代です。
松戸行脚

旧川崎銀行と松戸公産建物研究

すでに取り壊され新しいビルに変ったが、松戸市の旧水戸街道沿いにあった歴史的建造物であった松戸公産ビル(旧川崎銀行、旧三菱銀行ビル)の各歴史的書物における記述を見直し、歴史的価値の再認識、他明治時代の銀行のファサードと共に記録として残したい。