地域の隙間史検証昔日の松戸

暫定版:松戸の釣り

タナゴ写真 昔日の松戸
フリー素材.comより https://free-materials.com/
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松戸の釣り

昭和の頃

私が物心ついた頃は、松戸はすでに東京のためのベッドタウン化が進んでいた頃だった。子供の頃水戸街道沿いは宿場町として、商業としての街並みは残って居た。ただ、基本的に松戸の多くの場所は農業都市に占められている(いた)ので、用水路を中心に獲物は豊富だったと思う。

今は殆ど見かけなくなったが、とりあえず分かる範囲で、松戸に存在した釣り堀や釣具店のマークアップをしていきたい。

次に、獲物というほどではないが、下総台地の崖線沿いは湧水池の様な状態の所があり、小魚は捕まえることが出来た。そのスポットを一つ一つ書き記す事は、無理な話であるが、古い書籍や、人からの伝聞については、少し書いていこうと思う。

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松戸の釣り堀・釣具屋さん

情報が多くなってしまうので、こちらは次回、公開します。

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”松戸の釣り”関連話

大橋のたなご

釣之研究1940年2月号、松戸大橋のタナゴ、深川 栗橋魚影氏によれば「昨二十二日曇り正午より松戸駅より林自動車店より出る八柱行に乗車、大橋まで片道十五銭、水少々にて釣にならず、午後三時まで「メダカ位」を十二三尾、此のところもタナゴにはもうダメな場所となりました「カイボリ」も月二三回位やる様です

これを読んでいて興味深いと感じた一つは、”松戸駅より林自動車店より出る八柱行に乗車”という部分。

この林自動車店が何処にあるのか調べてみたら、現在のサブウェイ松戸店(西口)の隣付近にあった。

渡邊幸三郎先生の昭和の松戸誌によれば「林自動車商会の車庫から出た八柱バスはいつまであったか。林家は岩瀬に転居

と書かれていた。このタナゴのポイントが大橋のどの辺りなのか、詳しくは分からないが、現在のマップで検討をつけてみた。

大橋のたなご釣り - Google マイマップ
大橋のたなご釣り

大橋はベージュ色のハッチングで、戦前とは大橋のエリアは良く分からないが、ハッチングの西端に流れているのが国分川の支流で、多分この国分川でタナゴのポイントがあったんじゃないかと思う。

古ヶ崎五叉路付近

 

伸び行く松戸(昭和11年発行)によれば「・・・又此の堀の堤を八丁程遡り県道を越ゆると此の邊は松戸町の水郷即ち合川坂川六間川の合流點で鮒「ヤマベ」抔の小物を狙ふによい三川の内何れを選ぶも甲乙はない。ここより上流は即ち古ヶ崎鮒の産地で至る所釣場ならざるはなしであるが、先づ此邊で半日程腰を下ろせば魚籠は相當重くなる

ここでの記述で合川という川名が出てくるが、この川は坂川に並行して流れていた川で、私が子供の頃に、埋め立てられ北松戸工業団地に向かう産業道路になってしまった。そのため合川という名称は、近くの合川幼児公園と合川橋という事になるかもしれない。

古ケ崎五叉路から産業道路に向かう時、すぐ渡る橋が古ヶ崎橋で、引き続き合川橋になるので、多分意識していないと渡った感覚にならないと思うけど、一度欄干表示を見ていただけると納得していただけると思う。

ここはこの伸び行く松戸の発行当時の風景からは見る影もないほど開発されてしまっていて、ここが水郷だったのかと言われてもピンとこない。水郷らしき時代の小僧弁天の絵葉書を見ていただけば、なるほど・・・という感じになるかもしれません。下の写真は昭和30年頃の小僧弁天の風景です。

古ヶ崎小僧

松戸風景絵葉書
古ヶ崎小僧
福岡書店発行

ここがヤマベのポイントであったとは意外な感じはする。私の子供の頃はすでに生活排水等で、汚れていた頃で、川面にはメタンガスらしき泡とドジョウが水面に顔を出す姿が見られ、さらにこの界隈には河岸生活者が住んで居た。大きな四手網があった。下の写真はイメージのみです。

四つ手網

四手網Văn Long BùiによるPixabayからの画像

幼少期松戸に住んで居た山﨑努さんの私の履歴書でも若干記述があるが、この場所だと思う。ただ、昭和40年前後、このポイントで四手網を降ろせば、クチボソなどの小魚は捕れた。伸び行く松戸での記述のある名物古ヶ崎鮒の時代は、私の幼少期で、自分で魚とりに出かけた頃は、記述の様な内容からは離れていたと思う。

主水池(現:まこも池)のタナゴ

昭和42年~昭和45年の頃、この主水池には何度も行った。当時、池には裏返しになって沈んでいる”さっぱ船”があった。また背中に釣りの道具が入って居る大き目の行李を背負ったヘラブナ師が多く来ていた。背負子にまとめて背負った姿はかっこ良く、あこがれの的だった。

ただ、私は軟弱で、獲物はタナゴだったので、最初は浮見堂で買ったビンドウを使った。後に釣り竿でタナゴ釣りを試した。ハリスは平潟の浮見堂で買った”極細”、餌はアカムシだった。こんなに小さい針で釣るんだと思った。

話は戻るが、ビンドウは非常に便利な道具で、魚が一度入ると出られない構造になっている。メガネザル君(同級生)に教えてもらい使った。主水池だけでなく、水元公園の小合溜水産試験場の近くにもビンドウを持って行ってたくさんタナゴを捕った。

多分、あのタナゴはタイリクバラタナゴだったと思う。

排水堀(現在の樋古根川)

釣之研究 釣之研究社刊 1938年12月号 ”松戸排水堀のフナ釣り”によれば「フナもタナゴもよく釣れます。小僧弁天のフナ釣り場は大きくても五六寸、コブナが多い様ですが本年は魚は濃いです。寒鮒も有望ですが、特に是れは気水にやらぬとダメです。餌はアカムシ、ボッタですが土地に田中屋、鈴木釣具店などで売っていますから、これらの店で釣場を尋ねると、よく教えてくれます。当地はなるべく浅場を狙うのがよく、やはり寒鮒も浅羽が有望です

田中屋は赤圦樋門の近く、釣具・餌・駄菓子を売っていた店で貸船もやっていた(松戸市松戸1799の辺り)。つい12,13年前までその右隣に軽い唐破風屋根が特徴の元富士見湯(後に接骨院になったが、現在は更地になっている)があった。

鈴木釣具屋さんは、鈴木孝太郎元松戸町長の家。当時あった場所は、旧関宿屋さんに向かって右側に小倉耳鼻科があったがそこである(現在は本町エクセレントシティ松戸駅前のマンションが建っている 松戸市本町7-13の辺り)。

現在鈴木家の末裔の方は、松戸駅前通りの鈴木時計店さんです。

又、ここで言う排水堀とは、現在の樋古根川。

排水川の釣り

松戸観光絵葉書
排水川の釣り
松戸福岡書店発行

現在の樋古根川からは想像できないが、明治、大正の頃はこんな感じだったのだろうなあ・・・右岸に人が釣っているのが見える。

又、排水堀(樋古根川)は釣り人注目の場所であったらしく、下記の様な記述も見つかった。

釣魚独案内 : 附・釣師の日記 大正8年 高橋鬼川 著によれば「松戸の排水堀や、又は神奈川県鶴見川の上流小机等を漁ると鮒の獲物が相応にあります。陸の方で小鱸(せいご)、小鰡(いな)の釣場は、此処と定った所はなく、中川筋や江戸川筋は其季節になると何処でも釣れます
釣之研究 釣之研究社1935年5月号 によれば「松戸駅下車のヤマベススキ釣り、常磐線上野発、松戸駅下車江戸川か坂川の排水堀坂川を釣る、葛飾橋付近の貸船は五〇銭、船頭付二円

排水堀ー2

釣之研究 釣之研究社1927年12月号 によれば「今年の松戸方面(行々子):めっきり漁獲の減った金町、松戸方面は、それでもまだ鮒場所としての聲価を保っている。これは東京に近く、殊に千住、浅草、本所辺鮒當が多い関係であろうが、休日以外でも相当に人手がある。僕は去る25日に余り天気が良いので釣意頻りに動き、午前十時というに松戸の排水堀めがけて出漁してみた。同地の遊郭を尋ねて行けば其の裏手に流るる小流が即ち釣場である、橋の袂に「一日でも一寸でも金拾銭」と云う立札がしてあって、一人の女が如才なく見張っているが多少釣堀的の感じを起さしめた。しかし場所もよく型の良いのも出るので既に二十人余りの釣手が両側の土手に居並んでいた。そしてたいがいはシモリ釣りて餌はボッタを使っている。僕はキジ餌を持って行った故か小さいの計り出て面白くないので、その土手の弁天橋付近を漁つたけれども水が澄んでいて、一向に釣れない。然るに此の小川と並行に流れて、同地小学校の横手に当たるところが以前よく出た事があるのを思いだして、三町許歩いて其処へ行って見たが、矢張り小さくて張り合いがなく、とうとう又元の拾銭の場所へ戻ってきた。
この文章が面白いのだが、この頃は排水堀(樋古根川)で釣りをするには十銭を徴収するおばさんが居たというのが、驚く。シモリは下記楽天のリンク参照。ボッタとはイトミミズの餌。キジ餌とはミミズ餌の事。

弁天橋に行ったという事は坂川、合川をたどっていった様だ。又、”此の小川と並行に流れて、同地小学校の横手に当たるところ”というのは旧合川と並行に流れていた用水路がかつて存在して、それが北部小の北側の通りにあたるところに繋がっていたので、そこを示しているのだと思う。
釣之研究 釣之研究社1927年12月号 によれば「松戸排水堀の鮒:いよいよ鮒の時世となった。松戸の排水堀ではシモリ釣で鮒のよいのが出る。此処へ行くには北千住から金町の次の松戸駅で下車し、町を真っ直ぐに川を目当として行き、遊廓の裏手に出れば判る。但し、村の者から金十銭を徴収されるけれども、それは付近の川筋には例の地獄網が一杯に張ってあるのに、この辺一帯は網を入れてないからだと云う。餌はキジでよし
これも同様な話であるが、地獄網とは下記のYouTubeを参照お願いします。

高柳のタナゴ

釣之研究 釣之研究社1927年1月号 高柳のタナゴによれば「常磐線で北千住を過ぎ、亀有、金町、松戸、馬橋等の鮒場所をを左に見ながら北小金の次の柏で下車し、それから北総鉄道に乗換へて南に向ひ、増尾の次の高柳で降りる。駅を出てから東南を指して行くとまもなく小川がある此処もたなごの場所で、穴にぶつかれば二束くらいは容易に釣れるし、鮒も好い型が出るので両天をかけて行く人がある。
高柳は柏に属するが、市境に当たる場所であるし、釣り場として松戸が出てくるので、記録する事にした。ここでいう北総鉄道とは、東武電鉄を指すと思う。それにしてもタナゴはあちこちでとれたのだと思った。

大谷口又は伝兵衛新田?

はっきりと覚えていないのだけれど、小2,3の頃伝兵衛新田或いは曾祖母の実家の大谷口か?父と一緒に釣りに行った事があった。それは父の知り合い(大谷口であれば親戚)が居た事で訪問したと思う。

父は早々に釣りを止め、父の知り合いの家で食事をとっていたが、私は、釣りを続行していた。しかしながらヘラブナ用の浮木を眺めている内に妙に飽きたので、竿はそのままにして近くで遊んでいた。10分後戻ってきたら、浮木が浮いて倒れていた。

あれと思い、竿をあげると、マブナが掛かっていた。そのマブナを父の居る家に持っていき、どうやって釣ったのか父や父の友人に話すと、「お、息子の方が釣りがうまいな」と褒められた。

そして、浮が浮いて倒れる状態は食い上げというんだよ」と言われ、妙に得意な気持ちになった。

あの家が何処だったのかついに父に聞かず仕舞だったが、時期を考えてみると曾祖母の葬式の後だったと思うので、葬儀に参列してくださった実家の方へのお礼参りで訪れたのかもしれない。聞いておけば良かった。悔やまれる。

雷魚(らいぎょ)の銀座

正確な場所は覚えていないが、多分、県立松戸馬橋高等学校の辺りではなかろうか?馬橋高校は私が小さいころはまだ無かった。横六間川の北側、旭町だ。用水路の様な池の様な場所で、ヨシが繁茂していて、触れると小さな切り傷が出来る。

そこに四手網を置き、追い込むと雷魚が捕れた。雷魚を捕獲し、家の水槽で飼っていたが、あまり面白い魚ではなかった。その内、痩せて最終的には死んでしまったが、可愛そうな事をしたと思い、後悔した。

あの場所の命名は同級生のメガネザル君(古ケ崎のわらや近く)だったと思う。

横六間川に流れ込む用水路

用水路と横六間

2021年撮影

県立馬橋高校の横の元用水路は横六間川に流れ込んでいる。
今は殆ど一体になっている様だけど、当時は流れ込む所が水門、堰の様になっていた。馬橋高校が出来る前は、鮒の生息に最適な場所だったらしい。

水門の所に四手網を構えていると、小鮒がピョンピョンと入ってきて、こんな夢の様な場所があるのかと思った。四十年後に同じ場所に行ってみたが、小鮒の生育には不敵な場所になってしまったらしく、魚の気配が無かったのが寂しい。

その他

こぼれ話は今後追加していきたいが、大変すぎるので今回はここまで!

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