松戸の釣り
昭和の頃
私が物心ついた頃は、松戸はすでに東京のためのベッドタウン化が進んでいた頃だった。子供の頃水戸街道沿いは宿場町として、商業としての街並みは残って居た。ただ、基本的に松戸の多くの場所は農業都市に占められている(いた)ので、用水路を中心に獲物は豊富だったと思う。
今は殆ど見かけなくなったが、とりあえず分かる範囲で、松戸に存在した釣り堀や釣具店のマークアップをしていきたい。
次に、獲物というほどではないが、下総台地の崖線沿いは湧水池の様な状態の所があり、小魚は捕まえることが出来た。そのスポットを一つ一つ書き記す事は、無理な話であるが、古い書籍や、人からの伝聞については、少し書いていこうと思う。
松戸の釣り堀・釣具屋さん
情報が多くなってしまうので、こちらは次回、公開します。
”松戸の釣り”関連話
大橋のたなご
これを読んでいて興味深いと感じた一つは、”松戸駅より林自動車店より出る八柱行に乗車”という部分。
この林自動車店が何処にあるのか調べてみたら、現在のサブウェイ松戸店(西口)の隣付近にあった。
と書かれていた。このタナゴのポイントが大橋のどの辺りなのか、詳しくは分からないが、現在のマップで検討をつけてみた。

大橋はベージュ色のハッチングで、戦前とは大橋のエリアは良く分からないが、ハッチングの西端に流れているのが国分川の支流で、多分この国分川でタナゴのポイントがあったんじゃないかと思う。
古ヶ崎五叉路付近
ここでの記述で合川という川名が出てくるが、この川は坂川に並行して流れていた川で、私が子供の頃に、埋め立てられ北松戸工業団地に向かう産業道路になってしまった。そのため合川という名称は、近くの合川幼児公園と合川橋という事になるかもしれない。
古ケ崎五叉路から産業道路に向かう時、すぐ渡る橋が古ヶ崎橋で、引き続き合川橋になるので、多分意識していないと渡った感覚にならないと思うけど、一度欄干表示を見ていただけると納得していただけると思う。
ここはこの伸び行く松戸の発行当時の風景からは見る影もないほど開発されてしまっていて、ここが水郷だったのかと言われてもピンとこない。水郷らしき時代の小僧弁天の絵葉書を見ていただけば、なるほど・・・という感じになるかもしれません。下の写真は昭和30年頃の小僧弁天の風景です。

松戸風景絵葉書
古ヶ崎小僧
福岡書店発行
ここがヤマベのポイントであったとは意外な感じはする。私の子供の頃はすでに生活排水等で、汚れていた頃で、川面にはメタンガスらしき泡とドジョウが水面に顔を出す姿が見られ、さらにこの界隈には河岸生活者が住んで居た。大きな四手網があった。下の写真はイメージのみです。

四手網Văn Long BùiによるPixabayからの画像
幼少期松戸に住んで居た山﨑努さんの私の履歴書でも若干記述があるが、この場所だと思う。ただ、昭和40年前後、このポイントで四手網を降ろせば、クチボソなどの小魚は捕れた。伸び行く松戸での記述のある名物古ヶ崎鮒の時代は、私の幼少期で、自分で魚とりに出かけた頃は、記述の様な内容からは離れていたと思う。
主水池(現:まこも池)のタナゴ
昭和42年~昭和45年の頃、この主水池には何度も行った。当時、池には裏返しになって沈んでいる”さっぱ船”があった。また背中に釣りの道具が入って居る大き目の行李を背負ったヘラブナ師が多く来ていた。背負子にまとめて背負った姿はかっこ良く、あこがれの的だった。
ただ、私は軟弱で、獲物はタナゴだったので、最初は浮見堂で買ったビンドウを使った。後に釣り竿でタナゴ釣りを試した。ハリスは平潟の浮見堂で買った”極細”、餌はアカムシだった。こんなに小さい針で釣るんだと思った。
話は戻るが、ビンドウは非常に便利な道具で、魚が一度入ると出られない構造になっている。メガネザル君(同級生)に教えてもらい使った。主水池だけでなく、水元公園の小合溜水産試験場の近くにもビンドウを持って行ってたくさんタナゴを捕った。
多分、あのタナゴはタイリクバラタナゴだったと思う。
排水堀(現在の樋古根川)
田中屋は赤圦樋門の近く、釣具・餌・駄菓子を売っていた店で貸船もやっていた(松戸市松戸1799の辺り)。つい12,13年前までその右隣に軽い唐破風屋根が特徴の元富士見湯(後に接骨院になったが、現在は更地になっている)があった。
鈴木釣具屋さんは、鈴木孝太郎元松戸町長の家。当時あった場所は、旧関宿屋さんに向かって右側に小倉耳鼻科があったがそこである(現在は本町エクセレントシティ松戸駅前のマンションが建っている 松戸市本町7-13の辺り)。
現在鈴木家の末裔の方は、松戸駅前通りの鈴木時計店さんです。
又、ここで言う排水堀とは、現在の樋古根川。

松戸観光絵葉書
排水川の釣り
松戸福岡書店発行
現在の樋古根川からは想像できないが、明治、大正の頃はこんな感じだったのだろうなあ・・・右岸に人が釣っているのが見える。
又、排水堀(樋古根川)は釣り人注目の場所であったらしく、下記の様な記述も見つかった。
排水堀ー2
高柳のタナゴ
大谷口又は伝兵衛新田?
はっきりと覚えていないのだけれど、小2,3の頃伝兵衛新田或いは曾祖母の実家の大谷口か?父と一緒に釣りに行った事があった。それは父の知り合い(大谷口であれば親戚)が居た事で訪問したと思う。
父は早々に釣りを止め、父の知り合いの家で食事をとっていたが、私は、釣りを続行していた。しかしながらヘラブナ用の浮木を眺めている内に妙に飽きたので、竿はそのままにして近くで遊んでいた。10分後戻ってきたら、浮木が浮いて倒れていた。
あれと思い、竿をあげると、マブナが掛かっていた。そのマブナを父の居る家に持っていき、どうやって釣ったのか父や父の友人に話すと、「お、息子の方が釣りがうまいな」と褒められた。
そして、「浮が浮いて倒れる状態は食い上げというんだよ」と言われ、妙に得意な気持ちになった。
あの家が何処だったのかついに父に聞かず仕舞だったが、時期を考えてみると曾祖母の葬式の後だったと思うので、葬儀に参列してくださった実家の方へのお礼参りで訪れたのかもしれない。聞いておけば良かった。悔やまれる。
雷魚(らいぎょ)の銀座

いらすとや
https://www.irasutoya.com/
正確な場所は覚えていないが、多分、県立松戸馬橋高等学校の辺りではなかろうか?馬橋高校は私が小さいころはまだ無かった。横六間川の北側、旭町だ。用水路の様な池の様な場所で、ヨシの様な、或いはセイバンモロコシの様な葉が長く背の高い雑草が繁茂していて、触れると小さな切り傷が出来る。
そこに四手網を置き、追い込むと雷魚が捕れた。四手網だけでは面白くないので、釣り竿で生きたクチボソを餌にして釣った事もあった。雷魚を捕獲し、家の水槽で飼っていたが、あまり面白い魚ではなかった。その内、痩せて最終的には死んでしまったが、可愛そうな事をしたと思い、後悔した。
あの場所の命名は同級生のメガネザル君(古ケ崎のわらや近く)だったと思う。
横六間川に流れ込む用水路

2021年撮影
県立馬橋高校の横の元用水路は横六間川に流れ込んでいる。
今は殆ど一体になっている様だけど、当時は流れ込む所が水門、堰の様になっていた。馬橋高校が出来る前は、鮒の生息に最適な場所だったらしい。
水門の所に四手網を構えていると、小鮒がピョンピョンと入ってきて、こんな夢の様な場所があるのかと思った。四十年後に同じ場所に行ってみたが、小鮒の生育には不敵な場所になってしまったらしく、魚の気配が無かったのが寂しい。
その他
こぼれ話は今後追加していきたいが、大変すぎるので今回はここまで!
関連ページ




コメント
ぺんぺん草さんが食い上げでマブナを釣った場所が気になりました。へら浮きを使うとなると六間川かなと思いましたが、小学校2,3年生であれば、お父さんと自転車二人乗りで行ったのかな。小学校2,3年生の子を置いておける場所なので、六間川や坂川ではなくて、ホソ(水路)だったのかな。と思いました。ただ、ぺんぺん草さんの曾祖母さんのご実家の近くの坂川には堰橋があったので、堰が閉まっていれば、上流は水深が確保できるので、へら浮きに適していたのではないかと思いました。私はマブナ釣りはシモリ仕掛けの浮きの動きが好きです。いまは発砲玉が主ですが、かつてはセル玉が主でした。発砲玉とセル玉だと浮力や摩擦が微妙に異なるので、本当にちょっとですが浮きの動きが異なるので、いまでもセル玉を愛好している人が居ます。人目が気にならなければ、いまぐらいの季節だと六間川の深い場所で今でもマブナが釣れますよ。
うしとら様、
コメントありがとうございます。
釣った場所については、正直あまり覚えていません。ただ、父は知り合いの家でお酒をいただいていた最中だったと思います。釣っていた場所のイメージですが、流れのある広めの川という感じではなく、淀んでいる沼の様な、或いは広めの用水路の様な記憶があります。そして、私一人で釣っていた訳では無く、父の知り合いの家の男の子(多分同年代に近い)が一緒でした。その彼が色々と指導してくれていたような記憶があります。あの人が誰だったのか、記憶もなく、名前も知りません。又、あの日は四手網も持っていき、どちらかというと四手網の方に夢中になっていました。四手網では大した獲物はありませんでしたが、途中で雨が降り始めてしまい、釣り竿を片付け、帰ろうとしたら食い上げになっていた・・・という感じだったと思います。確か練り餌を使っていた筈ですが、暫く置いていて食い上げという事は、練り餌じゃなくてキジだったのかな?
あの当時は、浮きの取捨選択など分からないで使っていました。ヘラブナはヘラ浮きで釣るものだと思っていましたが、場所や状況で使い分けた方が良いみたいですね!勉強になります。
昭和50年代、六間川でよくマブナ釣りをしました。当時、馬橋高校の隣に流れている部分は横六間、古ヶ崎の排水機場から北上している部分は縦六間と呼ばれていた様に記憶しています。隣家のおじさんが、初夏の季節は日が長いので、仕事が終わると夕方に少しだけ六間川に釣りに行くのに着いて行っていました。当時は、まだ護岸工事されていない場所が残っていて、橋の上から竿を出していました。そういう大人が六間川に結構いました。薄暮になると六間川の周りにはコウモリが沢山飛んでいました。六間川は江戸川と通じているので、潮位の影響を受け、時間帯によって流れと水位が異なり、川に水が満ちるときや、満水から水が引き始める時が釣り時であることを教わりました。満水でも水が動かないときはさっぱり釣れないという時もありました。六間川の周辺には水田が残っていて、春のお彼岸が過ぎた頃になると田植えのために水を引き込み、川の水位が上昇し、馬橋高校周辺のホソ(水路)にも水が満たされます。その頃になるとマブナの産卵期となり、マブナが浅場を求めて遡上します。これを「のっこみ」と呼び、この時期は六間川にも多くの釣り人が来ていました。浅場でバシャバシャと産卵をして賑やかになり、これを「ハタキ」と呼びますが、フナが産卵のために自分の身体を打ち付けるので、ボロボロになった魚が釣れたりします。回復できずに死んでしまう魚もいます。春先から初夏にかけて熱心に通いますが、夏至を過ぎたころになると突然川の水位が低下します。これは、田んぼを「中干し」のために水を抜くためで、横六間川は川底が露出するくらいまで水が無くなります。そうなると六間川で釣りができなくなるので主水池に行ったりしていました。護岸工事がされて釣り人が減っていったように思います。
うしとら様、
コメントありがとうございます。
昭和50年代となると私が、20代で学生だった頃と被り、その頃は松戸の歴史にも、釣りにも全く興味を失っていた頃かもしれません(もっとも私は、なんちゃって釣り人ですが・・・)。私が川遊びをしたのは、坂川と六間川の合流地点、横六間と”ほそ”の交点の所ですね。あの場所は、びっくりするくらい鮒の稚魚がたくさんいました。という事は、私の見た光景は夏至を過ぎた頃だったという頃なのかな?
うしとらさんの書いたコメントは当時の情景を表している様ですので、いずれ本文に引用させていただきますね。
それにしてもお詳しいですね。
春に生まれたマブナの新子がタナゴサイズに成長するのが稲刈りのころです。このサイズになるとタナゴを釣るような仕掛けで釣ることができます。良型が釣れる春と異なり、秋は小鮒の数釣りが楽しい季節で、最小サイズは「柿の種」と呼んだりします。ペンペン草さんが鮒の稚魚をたくさん見たということでしたら秋だったのかもしれません。